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罪からの解放

解き放たれて(2022.10.16)

聖 書

女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」(ヨハネ8章11節)

礼拝音源(25MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 マタイ16章24節b 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編99編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ8章1~11節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「解き放たれて」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 481 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

この聖書箇所は、主イエスらしいことを語られ、主イエスらしいやり方で導いておられます。人が、その主イエスに向き合っていたか、また立ち留まっていたかによって、その後の歩みは大きく変わっていきました。

1.主イエスから離れる  1~9節
「律法学者やファリサイ派の人々」が裁こうとした対象は、「姦淫の現場で捉えられた女」に対してよりも、主イエスに対するものでした。主イエスを訴えることができるよう、巧妙に罠をしかけてきたのです(4~6節a)。それに対して主イエスは、彼らの罪を気づかせようとして、徹底して沈黙されました(6節b)。やがて主イエスが口を開いて言われたことは、彼らの偽善と悪意に満ちた心を鋭く指摘される言葉でした(7節)。
それを聞いた人々は、自分の良心に向き合ったままの状態で、主イエスから離れて行ったのです(9節)。主イエスの赦しに与るために、踏み留まることがなかったのです。

2.主イエスのもとに立ち留まる  9~11節
最期には、「イエス独りと、真ん中にいた女が残」りました。彼女は、主イエスと向き合って語り合っています(9~11節a)。主イエスは、「私もあなたを罪に定めない」と語られたように、真に罪を裁くお方であるからこそ、真に罪を赦すことができるお方なのです(11節b)。主イエスが、十字架上で叫び祈られた御声が聞こえてきます(ルカ23章34節、マルコ15章34節)。
私たちは、主イエスに立ち留まった女のように、罪から解き放たれ、「これからは、もう罪を犯してはいけない」(11節d)との御声を聞き、立ち上がらせていただくのです。

解放される道(2017.11.19)

宣教題 「解放される道」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ13章10~17節

 ここに、ただ主イエスの憐れみにすがっている女性がいます。彼女は、十八年の間体がかがんだまま伸ばすことができない病気でしたが、主イエスによってそこから解放されたのでした(10~13節)。

1.主イエスは安息日の意味を回復された 
 会堂長は、主イエスが安息日に癒しの業をなされたことを非難しました(14節)。本来安息日は、神が世界の王であることを覚え、すべてのものが休み、すべての人
が神の前に公平とされ、神の約束を覚える日でした。ところが当時、そのことが歪曲
されていたため、主イエスは元に戻して神の愛を知る日とされたのです。主イエス
は、この時解放のメッセージを語られていたと思われます(ルカ4章16~20節)。
主イエスは「捕らわれている人に解放を」告げ知らせ(ルカ4章18節)、解放の御
業をなされるお方です。

2.主イエスは解放の御業をなされた 
 主イエスは、病気から解放された女性が大事な「アブラハムの娘」であるので、「サタンに縛られていた」ところから本来の姿に解放されたのでした(16節)。パウロも同様のことを証ししています(2コリント12章7~10節)。
 主イエスは、「罪と死との法則から」解放されることから始まって(ローマ8章1~2節)、人がもっている深い劣等感などの弱さから解放される道を開いてくださるお方です。ですから、私たちは主イエスを信頼し、主イエスに支えられて、真っ直ぐに立ち続けるのです。この主イエスに出会い、その憐れみに与るのが、私たちの安息日であるこの礼拝の時なのです。

支配から解き放たれる(2017.1.22)

宣教題  「支配から解き放たれる」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マルコ10章35~45節
1.だれかを支配し、なにかに支配されている人間
私たちはさまざまなものの影響を受け、それに支配されている。それは、イエスの弟子たちも同じであった。政治を司る多くの人たちは、他の人を支配する立場に立とうと懸命な努力をしてきた。イエスの弟子であったヤコブとヨハネも、イエスが王となった時に他の人たちを支配したいと願い、それを実現しようと一生懸命であった。他の弟子たちは、彼らの抜け駆けに腹を立てたが、それは彼らと同じことを願っていたからだ。皮肉なことであるが、イエスの弟子たちはみな、「だれかを支配する者になりたいという願いに支配されていた」。そして、当時の多くの政治家たちがそうであったように、そのような彼らに待っているのは、権力闘争という、地獄のような歩みであった。
このようにして、だれかを支配している人、そしてだれかを支配したいという欲求に支配されている人は、最終的には罪という借金に支配され、やがて自分から壊れて行くのだ。他人事ではない。

2.人を自由にする、自由なイエス
イエスは全く自由な方であった。だから、「仕えられるためではなく仕えるため」(45節)に来られ、仕えることによって、だれかに従属することを選ぶことができた。自由だからこそ、自ら進んで、十字架にかけられたのだ。すべての人間の罪という借金を帳消しにするため(「贖いの代価」)にそのことを選ばれた。その結果、私たちの罪の借金はイエスの十字架によって帳消しにされたのだ。
借金の棒引き宣言、つまり罪からの解放宣言がイエスから出されている。これを受け入れるならば、私たちはだれかを支配しようとする罪からも、だれかに支配されている奴隷状態からも自由となる。罪がゆるされるのだ。そのために必要なのは、このことばを語られたイエスを信頼すれことだけ。この信仰によって「すべてのものの上に立つ自由な主人」となることができる。だからこそ、「すべてのものに仕えることのできる僕」となって、自由に生きることができる。地上で天国を味わう人生へと変わるのである。