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神による生き方

神の前に生きる(2020.1.26)

宣教題 「神の前に生きる」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章45~21章4節 2コリント8章9節

 主イエスは、見える事実だけで物事を判断なさらず、その背後にある真実を見る目をお持ちです。何よりも、人がイエス・キリストを「主」と告白して(20章44節)、真に神の前に生きる生き方を見られるお方です。

1.人の目を気にする生き方  20章45~47節
 宗教的指導者で、目に見えない神を信じていた律法学者たちは、人の目を気にして生きていました。人々から敬虔な信仰を持っていると思われたいと、見栄のために生きるようになっていました。主イエスは、彼らの内実のない行動を忌み嫌われ、彼らにくだされる裁きを予告されています。
 主イエスに対する信仰がないと、この世のことだけに気を取られて、終わりを迎える時に何も残らない人生となります。しかし、主イエスに対する信仰の土台がはっきりするなら、希望が生まれ、愛のある成熟した歩みとなります。

2.神を目の前に置く生き方  21章1~4節
 ここに、有り余る中から献金した金持ちたちと、乏しい中から生活費を全部ささげた貧しいやもめの物語があります。彼女は、神の愛を一心に受けて、溢れる感謝を献金という形であらわしたのです。そこに、彼女の信仰姿勢があらわれています。
 これは、献金だけの話をしているのではなく、見えない神を目の前において生きる人の生き方を証ししているのです。それは、主イエスの十字架の犠牲にあらわされた「貧しさ」のゆえに、罪が赦され、神のものとされ、神に生かされている恵みの「豊かさ」に与った人が、その恵みに応答する生き方です(2コリント8章9節)。「主イエス・キリストの恵みを知っています」と告白し続ける生き方をしていきましょう。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11MB)

神のものだから(2019.11.10)

宣教題 「神のものだから」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章19~26節

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25節)と語られたことは、神のものを自分のものにしてしまっている者の姿とつながっています(20章9~18節)。それでは「神のもの」になるとは、どういう生き方なのでしょうか。

1.すべてを神にお返しする 
 ここでも、主イエスを陥れようと企てる者たちの問答です。そこで主イエスは、この世にあるさまざまなものの中で、これは神のもの、これは皇帝のもの、これは私(たち)のものというように分別できるものではない、みな「神のもの」と言われたのです(25節)。
 私たちは、税を納めることなどにより国を支えその恩恵に与っています。「神のものは神に返しなさい」とありますが、礼拝を神にお返ししているか、十分の一をもって神にお返ししているかと問いかけつつ、それに応答して歩むことが祝福の人生です。

2.キリストに一切の主導権をお渡しする 
 ところで私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、神のものとしていただきました(1コリント6章19~20節)。そうすることによって、私たちを神の栄光のために用いられ、互いに神のものとして用いられるようになりました。
 そのために私たちは、自らを自分のものとするのではなく、キリストを主としてお迎えし、人生の主導権を主にお渡ししていくのです。そして、家族の一人ひとりまたお互い一人ひとりの主導権をお持ちなのはキリストであり、神のものであることを証ししていくのです。それは、自らが死んで神に生きていただく生き方です。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(8MB)

人間になる(2008.5.18)

題   : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 2章1節~25節
ここでは、「神にかたどって創造された」(1章27節)人間について、別の視点から描いています。主なる神の方からの愛と真実をもっての語りかけや働きかけに対して、人間の側からは信頼と服従をもって応答していくことが強調されています。
単に人間であること以上に、本来の人間になることの大切さを教えているのです。

1.主なる神に向かって生きるようになる  4~17節
人間は、もともと顔を上に向けて生きるように造られました。すなわち、神に向かって生きる者なのです。
主なる神は、朽ちていく土の塵で形づくられた人間を、神の霊を吹き入れていのちある尊いものとされました。そして、楽しみと喜びに溢れた「エデンの園」を備えてくださり、そこを正しく治めるように人間に託され、その祝福が世界中に及ぶようにされたのです。ただし、何が善で何が悪かとの基準を決めることができるのは神のみであり、それに人間が従って生きることが永遠の祝福となるのです。
私たちは、この神に向かって生きる人間になるように、主なる神から招かれているのです。

2.愛が分かち合えるようになる  18~25節
人間が人間らしくなるのは、人と人の間を大切にして生きることです。そこで主なる神は、お互いに神に向かい合い、お互いが向かい合い、お互いが同じ方向に向かって使命に生きることのできる「彼に合う」ふさわしい者を造られました。
そこには、主なる神の愛の配慮がありました。一つには、神の被造物に人が名をつけるという作業を通して、人を助ける者を見い出すことができるようにしておられます。もう一つには、神は人を助ける者を造られるのに、愛の源である人の「あばら骨」を取り出して造られました。互いに愛を分かち合うことができるためでした。こうして、父母を離れて男女が結ばれるのは、互いに自立した者として、互いに自分自身を相手に与えていくことにあったのです。
愛が分かち合える人間になれるように、その原点に立ち返らせてくださるのがイエス・キリストであり、その救いのみわざです。