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真実

目指す地へ(2022.3.20)

聖 書

そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。(ヨハネ6章21節)

礼拝音源(28.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編124編8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編4編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ6章16〜21節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「目指す地へ」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 462 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ここでは、「あなたはどこに行くのか」、そして「どなたと一緒に行くのか」と問いかけています。そうした中から、「目指す地に」向かう主の弟子たちが自らの真相を知らされ、主イエス御自身の真実を知るように導かれています。

1.自らの真相を知る  16~19節
弟子たちは、主イエスによって「強いて」舟に乗せられました(マタイ14章22節)。主イエスは、深い意図をもって成されたのです。ところが弟子たちは、逆風に悩まされるという試練に遭い(同14章24節)、どうにもならない状態に置かれました。
このように主イエスは、私たちの信仰の旅路や教会の歩みにおいて試みることを通して、私たちの罪深さや弱さや足らなさといった真相を知らせ、信仰の深みへと導かれます。それはまた、神の御前にも、人の前にも、真の謙遜を学ばせるために通される恵みの経験でもあります。

2.主イエスの真実を知る  19~21節
主イエスは、恐れろうばいする弟子たちに、「私だ。恐れることはない」と声を掛けられました。弟子たちは、恐れゆえに主イエスを見失っていたのです。そして、「私だ」との声が聞こえなくなっていたのです。
私たちも同様です。恐れを抱くような危機に遭遇したとき、そのただ中におられる主イエスの声を聞けるかどうか、そこに信仰生活の勝敗はかかっています。こうした危機のただ中に真実な主イエスの臨在を覚え、「私だ、恐れることはない」との御声を聞きつつ、主イエスに導かれて「目指す地に」向かって歩むのです(申命記33~34章)。

心の友(2014.3.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ 15章11~17節

あなたは、何でも打明けることができ、本気で怒ってくれ、それでいていつでも一緒にいたくなるような友がおられますか(箴言27章9節b)。主イエスは、私たちに対して「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節C)と語りかけておられます。

1.愛の心をお持ちの友イエス  13節
「わたしがあなたがたを愛した」(12節a)と言われる主イエスの愛は、「友のために自分の命を捨てること」によって明らかになりました。主イエスは、 創造主である神を無視し、愛の限りを尽くしていてくださる神に背を向け、主イエスを信じようとしないで神を悲しませている罪人の友となってくださったので す。
主イエスは、神であられたにもかかわらず、自ら進んで十字架に死んでくださいました。そうすることによって、私たち罪人の身代わりとなって、神に捨てら れるという死を受け取ってくださったのです。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節c)と十字架上で叫 ばれた御言葉に表れています。

2.真実な心をお持ちの友イエス  15節
主イエスは、十字架の死から三日目に復活され、私たちのために御自身の御心を知らせ、愛と恵みの御性質のみか全てをお与えくださることによって、真実な 友となってくださいます。その真実は、主イエスを裏切ろうとしたイスカリオテのユダを見捨てないで、「友よ」と呼びかけられたことに表れています(マタイ 26章50節a)。
主イエスは、いかなる時にも、いかなる状況下にあっても、私たちを捨てなさらない真実な友なのです(ヨハネ14章18節a)。
友となってくださる主イエスに対して、私たちも友となるように信仰の応答をさせていただきましょう(14節、16節c、12節、17節)。

真実であれ(2010.3.7)

宣教題   : 「真実であれ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 11章12節~19節
受難の道を歩まれるキリストは、エルサレム入城の翌日に理解しがたい行動をとられました。それは、実のないいちじくの木を呪い、荒々しく神殿をきよめられた出来事です。そこには、キリストご自身の失望と怒りが現わされているのですが、その根底にはキリストの真実が秘められていました。

1.真実を見抜かれるキリスト
キリストは、葉だけを茂らせて実のならないいちじくの木を枯らせてしまわれました。それは、神の民が過越祭という神への熱心な礼拝をささげているにもかかわらず、神の民としてふさわしい実を結んでいないことを教えようとされた行動であり、そこに潜む偽善を明らかにされたのです。続いてキリストは、神殿におけるささげ物の売買や両替がなされていることの中に、「それを強盗の巣にしてしまった」と偽善の罪が横行していることをあばかれました。キリストは、そのような偽善がご自身を十字架につけてしまうことを見抜いておられたのです。
さて、キリストが十字架において命を投げ出してくださった事実には、偽りのない愛が現わされています(ロ-マ12章9節、1ヨハネ3章16節)。このキリストの真実な愛が私たちを真実な者に変えるのです。
2.真実を求められるキリスト
真実を見抜かれるキリストは、私たちに真実を求められます。
まず「わたしの家」とは、今日の教会です。そこはキリストと交わり、神を礼拝する「祈りの家」です。このことを忘れてしまうと、私たちは自分の考えや感情を満足させるために神を引き合いに出して利用するようになってしまいます。このことに関しては、絶えず信仰の目覚めをいただいていることが大切です。
また私たちは、キリストの十字架の贖いによって「聖霊が宿ってくださる神殿」とされました(1コリント6章19~20節)。ですから私たちは、日々にキリストの愛と真実に支配されて、神のものとして生きることが求められているのです。そのようにして、真実な信仰の歩みが造られていくのです。