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派遣と主の使命

神に遣わされる民(2012.8.12)

宣教題  : 「神に遣わされる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 6章1~13節  マルコ 3章14~15節

キリスト教会を「使徒的教会」と呼ぶことがあります。イエスが十二人の使徒を遣わされたように、教会もキリストによって遣わされているからです(マルコ3:14−15)。

1.謙遜な民
イザヤはその幻の中で、エルサレムの神殿をその足台としている主を見ました(イザヤ6:1)。この方は、「主の栄光は、すべての地を覆う」(6:3)とあるように、全世界をその活動の舞台としています。この聖なる方を見た時、自分がこれまで叱責してきた汚れた民と何ら変わらないことに気がつきます(6:5)。それは、彼が王である主を見たからです。神を見ることなしに遣わされることはありません。しかし、神を見るとは自分の本当の姿を見ます。だから、謙遜にそれを認めることこそ大切です。

2.罪赦された民
イザヤの罪を主は赦されます(6:6)。しかし、主が直接に赦しを宣告するのではなく、主が遣わしたセラフィムによってそのことが宣告されます。私たちが遣わされるために、他の人をまず私たちのために主が遣わして下さいます。そして、主が遣わされた者を通してなされる主のわざを経験させてくださるのです。神の恵みを受けずして、神の恵みの宣教者として遣わされることはできません。

3.神を中心とする民
イザヤは神の声を聞きます(6:8)。「わたしがここにおります」は「どうぞ用いてください」、招きに対するイザヤの自発的応答を表しています。主は強いてことをなさいません。しかし、遣わされる者にご自身のメッセージを語るように命じます(6:9-10)。遣わす方がなせと命じることに服従するのが遣わされた者の働きです。遣わされる者は、もはや自分が世界の中心ではありません。遣わす主こそがその人の中心なのです。
イザヤも使徒たちも、圧倒的な神のわざを体験し、神のわざのために遣わされていきました。私たちはもうすでに遣わされるべきところに遣わされています。しかし、「私をどうぞ用いてください」と主の前に出ているでしょうか。自発的に主の前に出てはじめて、主のわざに参加する神に遣わされた民としてその使命に生きることができます。