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永遠の命

命あふれて(2022.6.12)

聖 書

これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。(ヨハネ6章58節

礼拝音源(30.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ16章13節a 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編33編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ6章52〜59節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「命あふれて」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 56 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスを個人的な救い主また主として信じ受け入れるまでは、永遠の命に生きることができません。それは、一度限りのものではなく、繰り返し信じ受け入れ続けていくことによって、永遠の命にあふれる歩みとなるのです。

1.主イエスと一体となって生き続ける  55~56節
主イエスを食べるとは、主イエスを信じて一体となることであり、その血を飲むとは、主イエスの命にあずかることです(53~54節)。主イエスに一人ひとりが「とどまる」すなわち一体となるとは、主イエスと人との区別がなくなることではなく、主イエスにある命と恵みの祝福が、その人のものになることです(56節)。
主の聖餐によって明らかにされたように(1コリント11章26節)、私たちは主イエスを信じる信仰によって、いつも主イエスと結ばれ続け、豊かな祝福に与り続けるのです(ヨハネ15章5節)。

2.キリストのために生き続ける  57~58節
主イエスが父なる神から遣わされ、父なる神のために御生涯を生きられたように、私たちが命の源である主イエスによって、主イエスのために充実した歩みをすることが、「永遠に生きる」ことです(57~58節)。
ところで、「食べる」(54~58節)とは、むさぼり食うという意味があります。それは、その人に代わって他の人が食べるのではありません。そのように私たちは、主体的な信仰の貪欲をもって、主イエスと一体とされ、主イエスのために「永遠に生きる」という視点で生き続ける一人ひとりであり、群れであるように招かれているのです。

 

 

永遠の命を生きる(2022.5.29)

聖 書

よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(ヨハネ6章47節)

礼拝音源(37.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編32編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ6章41〜51節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「永遠の命を生きる」 川原﨑晃主管牧師
聖 餐 式 新49
祈  祷
賛  美 120 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、「私は命のパンである」(48節、ヨハネ14章6節)と語られる主イエスに招かれています。主イエスは、その招きに一人ひとりが応答することにより、永遠の命を生きるようにされるのです。

1.永遠の愛に引き寄せられて  41~46節
「私は天から降って来たパンである」(41節)との主イエスの発言が、ユダヤ人にとってはつぶやきの種となり躓きともなりました。主イエス御自身が神であることを明らかにされたからです。それは、主イエスが十字架に架かられたことに対して、自分たちとは関係のないこととした人たちの躓きと相通じます(1コリント1章18節)。
このように神との関係がズレてしまった罪人を、神は永遠の愛をもって「引き寄せ」てくださいます(44節、エレミヤ31章3節)。そして、主イエスのもとに来て、神が語られることを聞いて従うように招いておられます(44~45節)。

2.永遠の命を得て  47~51節
私たちが「永遠の命を得て」生きるために、十字架と復活を通して御自分の命を「与え」てくださった主イエスを「信じ」受け入れることが必要です(47節)。「私は命のパンである」(48節)と言われる主イエスは、私たちのこの世における日々の生活を新たに造り生かされるだけでなく、死にも勝利して「永遠に生きる」ようにされるからです(50~51節)。
永遠の命を生きる人生は、常に望みに満ちた新しさ、前進する力、死への勝利をいただいたねばり強さがみなぎっています。永遠の命を生きるのは「あなた」自身です。

 

やり直しのきく人生(2021.8.22)

聖 書

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)

礼拝音源(31.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マルコ1章15節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編98編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ3章9~16節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「やり直しのきく人生」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 303 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

神は、私たちを愛しておられます。その神の愛によって「永遠の命」に与ることを疑ったり、否定したりしているところがないでしょうか。私たちを新しく生まれ変わらせ、やり直す人生へと変えてくださるのは、イエス・キリストです。

1.キリストの十字架を仰ぎ続ける  10~14節
主イエスは、「新たに生まれなければならない」(3節、5節、7節)と「地上のこと」を語られ(12節)、「人の子も上げられなければならない」(14節)と「天上のこと」を語られました(12節)。主イエスは、そのことを具体的に分からせるために「民数記21章4~9節」を引用して説き明かされました。
人が自らの罪を解決できないまま、その罪責を訴えられるままに苦しみ、死の恐れの虜のままにいるところから解き放たれるのは、主イエスの十字架と復活の事実にあることを知って、ただ主イエスを信じ仰ぎ見続けることです。

2.キリストの命にあずかり続ける  15~16節
このように、主イエスによって現された神の愛を受け止めて歩んでいくためには、信仰が必要です。信仰とは、主イエスご自身を「信じる」(ヨハネ1章12節)ことであり、食するように「受け入れる」(同6章51節)ことであり、ぶどうの木とその枝のように「つながって」(同15章5節、7節、9節)いることです。それは、一時的なことでなく、継続し続けていることが大切です。
それによって「永遠の命を得」続け、「神の国」に入れられて永遠の限りない命を与えられ続け、神と共に生きるのです。全ての救いの主導権は、神ご自身です。

 

永遠の命に生きる道(2019.5.5)

宣教題 「永遠の命に生きる道」    宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章18~23節

ここに、金持ちの議員と主イエスとの出会いが語られています。そこでは、突っ込んだ話し合いがなされたのですが、結果この人は「悲しみながら立ち去った」のでした。ここから、「永遠の命を受け継」いで永遠の命に生きるとは、どういう信仰の歩みなのかを教えられます。

1.何をすれば 
 金持ちの議員は、神の掟を守っているということに満足し、この世の冨に依存していました。そんな彼が、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができる」のかと主イエスに尋ねました。
彼は、永遠の命を受け継いで、神の国に入ることができるとの確信がなかったのです(18章17節)。そのために、不安がありました。さらに、正しい生活を生きているという自負を抱いていましたが、死に打ち勝つ確信を持つことができなかったのです。

2.何であれば 
 金持ちの議員が「何をすれば」と尋ねたことに対して、主イエスは、永遠の命を受け継いでいないのは、何かが足りないからであると切り込まれました(22節)。それに対して彼は、主イエスのところに来たにもかかわらず、主イエスに背を向けてしまったのです(23節)。

 この話しに先立って、主イエスと出会った子供がいます(15~17節)。そこには、神の恵みの力に全てを明け渡している者の姿があります。ここでは、永遠の命に生きる道は、「何をしたら」ではなく、「何であれば」よいのかを明らかにされたのです。永遠の命を受け継ぐには、ただ主イエスを受け入れるのみです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(11.2MB)

渇くことのない水とは(2012.10.4)

宣教題  : 「渇くことのない水とは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 4章7~19節
肉体の渇きや心の渇きのいやしは、繰り返しなされます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とは、繰り返すことがないものです。これは、イエス・キリストとの関わりを通して受け取らせていただくのです。

1.キリストに出会う
キリストは、サマリアの女が水を汲みに来た際に声をかけられ、一杯の水を所望されました。「水を飲ませてください」と、水を受け取ることから始まる出会いを求められています。そこでキリストは、水を飲む器を共有することを何の妨げとも思われないで、彼女との人格と人格の交わりを求められたのです。このことをきっかけとして、キリストは、渇くことのない「永遠の命」を与えることに全力を注がれました。
キリストは、私たちにもご自身の方から出会いを求められるお方です。

2.キリストの救いに招かれている
サマリアの女は、肉体は生きていても、その魂は罪と過ちのために死んでいる状態でした。彼女が、そのままの状態を続けるとしたら、永遠の死を味わうことになります。
しかし、キリストの目には、彼女はかけがえのない存在であり、「わたしが与える水」は永遠の滅びから永遠の栄光に招き入れる救いであることを明らかにされました。
それは、キリストが十字架の身代わりの死をもって罪を全く赦し、復活されて死に勝利された救いで、人が再び神の愛のふところに帰れる道をつけてくださったのです。
これこそ、神が私たちのために打つべき手を打ち尽くしてくださった愛の御業です。

3.キリストを信じ受け入れる
キリストを信じ受け入れるとは、ちょうど人が自分で水を飲むことが必要であるように、一人ひとりが極めて個人的にすることなのです。このように、愛の神のところに身を委ねる素直さが、私たちに真の幸いをもたらすのです。
キリストを信じ受け入れて歩み出す人生は、日々に望みに満ちた新しさがあり、困難にもめげず前進する力があり、死への勝利の保証を与えられた強さがあります。キリストは、私たちに永遠の命の泉となってくださり、わき出る豊さに導いてくださいます。

喜びが満ち溢れて(2011.12.4)

宣教題  : 「喜びが満ち溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一  1章1節~4節
神が人に近づかれ、その人生に介入される時、人は不安や恐れを覚えることがあります。とともに、それが大きな喜びに変わり、新たな出発となる経験をします。それは、最初のクリスマスの出来事においても見られました(ルカ2章8~11節)。本日の聖書箇所には、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と証言しています。

1.永遠の命に与かる喜び  1~2節
イエス・キリストは、天地が創造された時すでに存在しておられた永遠の神であり、永遠の命そのものであり、私たちに永遠の命を与えるために現れてくださったのです。そして、人の言葉をもってご自分の意志・考え・計画を私たちが分かるように語りかけてくださいました。
使徒たちが経験したように、私たちは、信仰の耳をもってキリストの言葉を聞き、信仰の目を開いていただいてキリストを見、信仰の手を差しのべてキリストに触れることができるのです。そうすることによって、私たちは永遠の命に与かり、魂の深みにおいてキリストによって慰めを受けるのです。そして、最初のクリスマスの出来事に出会った人々と同じように、私たちは恐れではなくて喜びに溢れるようになるのです。

2.交わりを持つ喜び
永遠の命であるイエス・キリストを証しし、伝えることが教会の使命です。そうするのは、人々が「わたしたちとの交わりを持つようになるため」なのです。罪と死は、人と人を引き離し、交わりを削ぎます。しかし、命は人と人をつなぎ、交わりをもたらします。わたしたちの人と人の交わりを支え、守るのが、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」なのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰と、それによって与えられる永遠の命を共有する交わりです。このような神との交わりに生きる人々の交わりが拡大され、強められていくのが生きた教会です。
私たちは、永遠の命に与かる者たちの交わりに加えられていることを喜びましょう。さらに私たちは、喜びが満ち溢れる交わりを与えてくださるイエス・キリストを喜びをもって証しし、伝えていきましょう。

永遠の命に生きる(2009.11.22)

題   : 「永遠の命に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章17節~31節
私たちの地上の生涯は、永遠という観点から見れば、一時のことです。この時に、私たちは、「永遠の命を受け継ぐ」こと、すなわち永遠の命を受け取って、それに生きることが何よりも大切です。

1.キリストに愛されているから  17~27節
「ある人」とは、富も地位もある青年でしたが、自分の中に何か足りないものがあることを自覚していました。彼は、誠実に、熱心に、真剣に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねています。それに対して、主イエスは、彼が神の御言葉である戒めに完全に生きていないことを指摘され、人の努力や信心や善い行いで永遠の命を受け継ぐことができないことを教えようとされました。
私たちが「神の国に入る」との救いに与かるには、人の努力では不可能であり、全能の神による以外にありません(23~27節)。ですから、「何をすればよいのでしょうか」と問うのではなくて、何であればよいのでしょうか、と問いかけることが大切なのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで」と、鈍い私たちを愛し抜いておられます。この主イエスの愛の招きに応答して、その愛の懐に陥る者であることが大切なのです。

2.キリストを愛するから  28~31節
私たちが、キリストに愛されていることを体験的に知るなら、その愛に応えたいと自発的に願うようになり、永遠の命に生きる者の新しい生き方が生まれてきます。  主イエスは、「わたしのためまた福音のために・・・捨てた者はだれでも・・・百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られました。このように、永遠の命に生きる者には、今この時に神が備えてくださる祝福があり、さらに永遠につながる祝福があるのです。
私たちは、今も注がれているキリストのまなざしを覚えながら(21節、27節)、これほどまでにキリストに愛されていることを知って、キリストを愛する者にならせていただきましょう。