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死後

今という時の間に(2018.9.23)

宣教題  「今という時の間に」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ16章19~31節

 主イエスが死後のことでリアルに話しておられるたとえ話は、この箇所以外にはありません。ただし、主イエスがここで問いかけておられることは、今と言う時に一人ひとりが神の前にどうあればよいか、ということです。

1.主の憐れみに支えられていることです  19~26節
 ここに、二人の人が登場します。一人は「金持ち」で、お祭り騒ぎの日々を陶酔するように過ごしていました。これは、自分の豊かさを喜び楽しみ、神の言葉を聞き過ごし忘れてしまっている人の姿です。彼は、死後に陰府に行って、もだえ苦しんでいます。一方「ラザロ」という「貧しい人」は、「アブラハムのすぐそばに」すなわち一番安心できるその膝に連れて行かれました。
 この二人の違いは、ラザロはその名の通り、神の憐れみよって生きていましたが、金持ちはそのことを忘れていたのです。私たち一人ひとりは、神の憐れみに支えられている「ラザロ」であることを心底知る必要があります。

2.主の御言葉に支えられていることです  27~31節
 陰府で苦しむ金持ちは、自分の兄弟が同じ苦しみに遭うことがないようにしてほしいと、アブラハムに嘆願しています。それに対してアブラハムは、神がモーセや預言者を通して語られた御言葉を信じることが大切であると言います。納得できない金持ちは、死んだ者の中から生き返った証人が兄弟たちの所に訪れてくれなければ難しいと語っています。
大切なことは、本気で御言葉を信じているかということです。御言葉に支えられ続けてこそ、私たちの人生の生き方と永遠をどこで過ごすかが決まるのです。

聖書朗読(1.3MB)

メッセージ(9.6MB)