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死への勝利

大いなる逆転(2016.3.27)

宣教題  「大いなる逆転」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1コリント15章50~58節

キリストの十字架と復活の出来事は、過去の歴史ではなく最新のニュースであり、今も生きて働いている福音です。従って、死者の復活は揺るぐことのない希望です。
そこでパウロは、復活されたキリストによってもたらされる勝利の叫びを上げています(57節)。さらに、生き方が変えられたことを明らかにしています。

  1. 死に勝利して生きる 50~56節
    ここには、死の力の前に無力を知らされるばかりの私たちに、決して死がすべての終わりではないことを告げています。地上の有り様は過ぎ去り、朽ちていきます。しかし、終わりの日すなわちキリストが再臨されるときには、「この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」との神の御業がなされるからです(52~53節)。このことを信仰の目でしっかりと見るようにと告げています(51節)。
    そして、死に対する勝利が宣言されています(54節b~56節)。死は罪の結果であり、その罪に対するさばきが死です。しかし、キリストの十字架と復活によって、罪と死は完全に滅ぼされ、「死は勝利にのみ込まれた」のです。この世の命に望みをおかず、復活信仰に生きるところに勝利があります。

2. 主の業に溢れて生きる  57~58節
さて、復活信仰に生きる者は、死に勝利させてくださった神に感謝する生涯へと変えられます(57節)。そして、「主の業」に常に励む歩みに繋がっていきます。それは、いかなる時も、いかなる状況にあっても、キリストの十字架と復活によって成し遂げられた福音をこの世に証しすることに溢れる生き方です。信仰によってキリストに結ばれている者には、その主の業がどれほどの苦労であったとしても、決して「無駄」にはならないのです。
キリストの復活のゆえに、私たちの信仰も宣教も「無駄」にはなりません(15章14節)。また、そのキリストの恵みに徹して生きる者は、神の恵みを「無駄」にはしません(15章10節)。復活信仰がもたらす大逆転に生きる群で在り続けたいものです。

キリストを見る(2010.2.28)

宣教題  : 「キリストを見る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 7章54節~60節

キリストの福音に敵対する人々の罪を指摘したステファノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしています。そのような時でもステファノは、死からよみがえって、いつも生きておられるキリストを仰ぎ見て生きていました(55~56節)。

1.キリストによって勝利者とされる
「天を見つめ」ているとは、いかなる時も主なる神を信じ仰いでいるということです。その結果、ステファノは父なる神の右に立っておられる復活のキリストを見たのでした。聖霊に満たされるならば、人の憎悪や問題の中にあっても、見なければならないキリストが見えてくるのです。
その時ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、キリストを信頼して祈っています。彼は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)と叫ばれ、十字架上で救いを成し遂げて勝利されたキリストを見ていたのです。十字架のキリストを見る時、私たちの罪は赦されて滅びることはありません。復活されたキリストを見る時、死が私たちの終わりとなることはありません。キリストによる罪と死に対する勝利者とならせていただけるのです。

2.キリストに似る証人とされる
さらにステファノは、自分が見たものについて人々にも呼びかけ、証しをしています(56節)。それに
対して、人々は聞く耳をもたず、それを否定しようとしました(57~58節)。
そんな中でステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)と執り成しの祈りをささげました。これは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と相通じる祈りです。赦すということには、実に大きな力がいります(コロサイ3章13節)。今も生きておられるキリストを見つづける者は、キリストの十字架によって赦していただいたゆえに、赦すことにおいてキリストのようにならせていただけるのです。