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信じて待つ

恵みにふさわしい生活(2015.3.1)

宣教題  「恵みにふさわしい生活」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章13~16節
 
これまで主の恵みを力説してきたペトロは、それを深く味わい(詩編34編9節参照)、その上にしっかりと立ち、それにふさわしい歩みをするようにと勧めています。主の恵みをひたすら待ち望むことと、聖なる者となることとは、私たちの立ち位置です。

1.ひたすら待ち望みなさい  13節
 信仰者は、終わりの時の大いなる救いの完成を(5~9節)、いささかも疑わずにひたすら待ち望んでいます。その望みの根拠は、キリストの十字架と復活に現された過去にあります(21節)。
 この望みが、日々の信仰の歩みにおいて生き生きと現されるために、「いつでも心を引き締め、身を慎んで」いることが求められます。このように語るペトロは、自分を制することのできなかった苦い経験を思い起こしたことでしょう(ルカ22章54~62節)。私たちは、望みの根拠であるキリストの救いを疑わせたり、曖昧にさせたり、またその恵みの豊さを見失わせたり、その恵みに正しく応答することを鈍らせたりすることのないように、ひたすらに恵みの主キリストに望みを置き続けることが大切なのです。

2.聖なる者となりなさい  14~16節
 信仰者は、救いの恵みに与って「聖なる者」とされたのですから、これまでの自分勝手な思いや生き方でなく、「聖なる者」であり続けることが求められます。聖なる者とは、恵みによって神のものとされたことであり、その在り方や生き方の「生活のすべての面で」神のものとして生きる者なのです。
 そのためには、恵みに対し「無知であったころの欲望」に支配されるのではなく、聖なるキリストに倣って「従順な子」として形づくられていくことが大切です。その従順さは、神の御心が最上、最善、最高のものとして受け入れる在り方また生き方となって現れます。私たちは、従順な子として御言葉に聴き従い続けることによって、聖なる者とされたことを軽んじない歩みをしていくのです。

待つ力(2008.11.30)

題   : 「待つ力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカ 1章5節~25節
人は、待つことにおいて試されます。待つことは、一つの偉大な力です。主イエスの降誕の記録は、神の御ことばの約束を信じ、待ち続け、忍耐し続けた人々の証し集です。
ルカは、そのような待つことにおいて試され、待つ力を経験した人として、最初に「ザカリア」を登場させています。

1.主の前に黙して待つ 5~18節
ザカリア夫婦は、子どもに恵まれませんでしたが、その晩年は神によって恵みに変えられました。ザカリアは、これまで通りの手順で聖所で仕えていたのですが、神の不意打ちとも言える干渉を受けました。そのとき主が語られたことは、予想外の、考えも及ばない内容でしたので、それを受け入れることは出来ませんでした(18節)。
「あなたの願いは聞き入れられた」(13節)とは、子どもがさずかるというよりも、神の民イスラエルが救われることを言っています。祈りは答えられました。子どもが与えられるのみか、その子こそが救いに結びつく道備えをする使命を託されたのです(16~17節)。
神は、私たちが忘れてしまっているような祈りをも覚えていてくださり、それのみか祈った以上のことを成し遂げてくださいます。そのことを私たちは、主の前に黙して待つのです。

2.主の支配に服して待つ 19~23節
さて、ザカリアは神の前に歩む者でしたが、神の御こころを信じ受け入れることができなかったために、神は彼を沈黙させました(20~22節)。神がザカリアを見捨てられたのではありません。この時、神がザカリアに著しく働きかけられ、彼が神に真正面から向かうことになったのです。そして、ザカリアが不信仰を正直に悔い改め、神への信頼を回復する時となったのです。
私たちは、日常の具体的な事柄において、主なる神とその御ことばの支配に服することが大切です。
私たちは、信じて待つことを通して、自分の弱さ、貧しさ、小ささを覚えつつ、主の御力、豊かさ、大きさに信頼することが大切です。