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主の戦い

すべての約束の実現(2015.10.11)

宣教題  「すべての約束の実現」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア23章1~16節 エフェソ6章10~12節

クリスチャンの戦いは、究極的には神の武具によって悪魔の策略に立ち向かうものである(エフェソ6章11~12)。しかし、人間が戦えそうもない相手、そして目の見えない相手とどのように戦うのだろうか。

1. すべての戦いは主の戦い
約束の地の征服のための戦いを終え、年老いたヨシュアは、その生涯を振り返りつつ、これまでの戦いは、すべてイスラエルの神である主が戦われたものであると述べた。イスラエル自身もそのことを見てきた(ヨシュア23章3節)。イスラエルは戦ってきたが、それはあくまでも主の戦いであった。わたしたちの悪魔の策略との戦いも、主の戦いである。

2. 過去の戦いから将来の戦いへ
約束の地での戦いはまだ続く。くじによって各部族に分け与えられた土地を獲得する戦いに向かう必要がある(4節)。主は、過去もそうであったように、これからも戦われると約束してくださっている(5節)。これまでヨシュア記で起こってきたことがこれからも続くからこそ、一人で千人を追い払うことができる(10節)。ところが、主の戦いであっても、イスラエルには、モーセの教えの書に従い、他の神に仕えず、主ののみ信頼することが求められている(6~8節)。彼らがこのようには歩まないとき(12節)、この土地から彼ら自身が滅び失せる危険性があるである(13節)。事実、士師記を見ると、約束の地でイスラエルは危機に瀕していた。

3. すべての約束は守られる
なぜ主はイスラエルの行動に基づいてご自身の戦いを戦われるのだろうか。それは、主がイスラエルを、そして私たちをこの世界におけるご自身のパートナーと見なしておられるからである。そして、パートナーである者たちと共に戦うために主が用意されたのが、主の約束である。主が約束された通り、すべてのよいことはこれまで行われてきたし(15節)、契約を破るならば約束通り、パートナーには滅びがおとずれる(16節)。すべての約束を守られる主だから、パートナーである私たちがどのように応答するかに応じて、主はご自身の戦いを進められる。
だから、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くされ、主に忠実でありつづけるように招かれている(エフェソ6章10節)。主は約束のすべてを守ってくださる方であるからこそ、主の約束を知り、それに忠実に生きていこうではないか。

主の戦い方(2015.5.17)

宣教題  「主の戦い方」             宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア6章1~21節 マタイ5章16節

エリコを攻略しようとするイスラエルの民にとっての正しい戦い方とはどのようなものだろうか。

1.ヨシュアの命令に民が従う(6章1節, 6~21節)
城門を閉ざしていたエリコとの戦い方について、ヨシュアは民に命令を下した。一日目、祭司たちには契約の箱を担ぐ者と、角笛を吹き鳴らす先導者を備えることを、民にはその後を進んで町の周りを回るのとともに、主の箱の前を武装した兵士たちが進むように命じた(6~7節)。さらに、鬨の声を上げるように命じるまではことばを発しないようにとも命じた(10節)。彼らは忠実にその命を六日目まで守った(12~14節)。七日目には、七度同じように町を回った後、祭司が角笛を吹く際に、鬨の声を上げ、町のものをことごとく滅ぼし尽くすように命じた(15~19節)。民はヨシュアの命令に従った(20~25節)。契約の箱を担いで、城壁の周りを回るという奇妙な行動を求める命令に、民は最後まで従った。

2.ヨシュアを介して伝えられた主の命令に民が従う(6章3~5節)
ところが、ヨシュアの命令は、彼自身のものではない。主から受けた命令を民に伝えたに過ぎない(3~5節)。ヨシュア自身も、主の命令に従うひとりの人である。つまり、エリコでイスラエルが行ったのは、主の命令を一言たがわずに守る、上意下達という戦争の基本的な戦い方であった。

3. すでに勝利をとられている主の戦い方(6章2節)
主の命令に完璧に従ったから、イスラエルはエリコを攻略することができたか。そうではない。なぜならば、これは主の戦いであるからだ。まず、祭司たちが担いだ契約の箱は、主ご自身の臨在そのものである。この箱が町の周りを回ることを通して、主はエリコを着々と攻略された。さらに、主は「わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」(2節、新改訳)と語っている。主は戦いの前にすでに勝利をとっておられる。民は、主の勝利を目に見えるかたちにしたにすぎない。不完全で、失敗の可能性のあるイスラエルを通して、主はご自身の戦いを戦われる。これこそが、主が選ばれた戦い方である。
主の戦い方は、ヨシュアの時代も、今も、変わらない。主はすでに勝利をとっておられる。すでにご自身の光を輝かしておられる。そして、弟子たちという弱く、だめな人間を通して、主の光をこの世界で輝かそうと願っておられる(マタイ5章16節)。私たちも主の戦い方に加わらせていただこうではないか。

理不尽な戦闘準備(2015.4.12)

宣教題  「理不尽な戦闘準備」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア5章1~12節 エフェソ6章10~13節

 約束の地に入ったイスラエルの民たちはどのようにして来たるべき戦闘の準備をしたのか。

1. 理不尽な戦闘準備
 エジプトを脱出し、四十年の荒野の放浪の中で死に絶えた者たちは戦士であったが、カナンの地で戦おうとしている彼らの息子たちは、荒野で生まれた者であり、戦士ではなかった(4-6)。彼らは、戦いの備えをすることなく、むしろ、主の言葉に従い、自らに割礼を施した(2-3)。さらに、彼らは過越祭を祝い、酵母を入れないパンの祭を守った(10-11)。彼らの行動は、戦闘の準備としては明らかに理不尽である。彼らは勝つことを放棄したのだろうか。

2. 割礼と過越
 割礼は、創世記において主がイスラエルの先祖であるアブラハムに命じられたものである(創世記17章)。主は、アブラハムに数多くの子孫を与え、さらにはカナンの地を与えると約束をされた。自分たちは荒野で生まれた新しい世代の民だが、父たち同様に主の約束を継承していることを、民は割礼を通して確認した。次に、過越は、エジプトに奴隷となっているイスラエルの民を主が解放したことを思い起こす祭儀である(出エジプト12章)。これまでと同じように、主はこれからも救い出し続けてくださり、すべての必要を与えて、養って下さることがこの祭儀を通して思い起こされる。主がなしてくださったわざによって、これまでも、そしてこれからもイスラエルは存在することを、割礼と過越を通してイスラエルは確認した。

3. 理に適った戦闘準備
 だから、割礼も過越も、実は理に適った戦闘準備である。主がイスラエルの真ん中を歩まれているから、彼らはヨルダンを渡ることができた。カナンの王たちが恐れていたのは、イスラエルではなく、彼らのために戦われる主であった(1)。つまり、主が戦われるならば、イスラエルの勝利は確定している。これからの戦いも主の戦いであると確認することこそ、彼らにとっての最善の戦闘準備であったのだ。
 キリスト者の生涯は、「暗やみの世界の支配者」との戦いの日々である(エフェソ6:12)。この戦いに必要なのは、「神の武具」(11)、すなわち「神が戦われる」武具を身に付けること。礼拝は、これが私たちの戦いではなく、主の戦いであることを思い起こさせ、この武具を身に付けさせてくれる。主に戦っていただく、つまり、「主の依り頼む」(10)ならば、勝利は確定している。