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キリストの憐れみ

汚れの清め(2020.2.16)

宣教題 「汚れの清め」          宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章40~45節

イエスの宣教には、奇跡(しるし)が伴った。霊を追い出し、病人をいやした。そのみわざは発展し、汚れを清め、罪を赦す(2章)ようになって行く。今日の汚れの清めと、次回の罪の赦しは、神の子ならではの奇跡である。

1.汚れ
汚れているものは、聖なる神に用いられる事ができない。
重い皮膚病は、単なる病気の一つではない。その病を患っている人は、汚れていると見なされた(レビ13章)。汚れているものに触れたものは、汚れていると見なされ、汚れは伝染する。汚れを清めるには、定められた手続きを行う。しかし、思い皮膚病による汚れは自然に治癒することを待つしかない。他の人へ感染させないように接触を禁じられ、隔離されたところに住むように命じられていた(レビ13:45-46)。

2.イエスの思い
 イエスは、感染と汚れを恐れることなく、重い皮膚病を患っている人に触れ、病をいやされた。そして同時に、汚れを清めた(41,42)。この病がいやされたことが、イエスに清める力があることのしるしである。イエスが触れると、汚れが伝わるのと逆の事が起こり、汚れたものが清められる。神の子であるイエスは決して汚れない。
 いやされた人は、定められた手続き(44)をして、誰にも話さないように言われたが、イエスの声に耳を傾けず、宣教の妨げとなった。人の心を知っておられるイエスは、そうなる事が分かっていても、憐れんでその人を清めずにはいられなかった。そして、放蕩息子の父のように、その人が戻って来るのを待っておられた。イエスは今日も、そのような私たちを憐れみ、弱いところに触れて下さる。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10MB)

何をしてほしいのか(2010.1.24)

宣教題  : 「何をしてほしいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章46節~52節
主イエスが、「エリコの町に着いた。・・・エリコを出て行こうとされたとき」でした(ルカ18章35節~19章1節を参照)。道端で物乞いをしていた盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と繰り返し叫んだのです。私たちは、このように叫び求める方を知っているでしょうか。

1.キリストの憐みを求める  46~51節
バルティマイが「ダビデの子イエス」と呼びかけているのは、イエスこそ主であることを知っていたからです。彼は、イエスの憐みにすがることを妨害するものがあってもめげないで、また疑い迷わないで執拗に叫び続けました(詩編50編15節)。
この叫びを無視なさらない主イエスは、「安心しなさい。立ちなさい」とバルティマイを呼びよせられました。憐みの主に信頼していたバルティマイは、踊り上がるほど喜び、安心してイエスのところに来たのです。
そこで主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられると、「見えるようになることです」と即座に答えるバルティマイでした。彼の目は見えるようになり、新しい歩みへと導かれて行きます。イエス・キリストは、人が抱えている悩みなどに答えてくださることを通して、最も大事な人の心と魂の目を開いてくださるお方です。

2.キリストの憐みを信じる  51~52節
主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねてくださったのは、愛以外の何の理由もありませんでした。この主の愛と憐みに対する信仰のあるところに、救いの御業がなされるのです。
バルティマイは、肉眼が見えるようになったことだけで終わらないで、「なお道を進まれるイエスに従」いました。それは、受難の道を進まれる後に従うことであり、十字架上のイエスを仰ぎ見ることだったのです。
私たちは十字架上での神の叫びを聴いて、それが自分のためであったと信じる時に(15章34節)、心と魂の目が開かれます。そしてイエス・キリストに従って行く時に、主の使命に生きる歩みがつくられていきます。