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キリストの愛

愛の大きさが分かる場所(2019.1.1)

宣教題 「愛の大きさが分かる場所」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章17~19節

パウロは、私たちが「キリストの愛を知る」聖徒であり、その群れであることを切に祈り願っています(新改訳2017、聖書協会共同訳を参照)。この祈りの背後には、キリストの愛が分かり、それを計れる場所はどこにあるのかを明らかにしています。

1.キリストの愛に包まれて
まず、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」(17節b)ことです。キリストの愛を知るに際して、自分自身とその生活の根拠と土台をキリストの愛に置くことは、当然のことです(ヨハネ15章5節、7節、9節参照)。それには、キリストの愛に包まれ、その中に招き入れられていることを体験的に知っていることが大切です。
キリストの愛は、すでに完全に現されています(エフェソ2章4~5節)。必要なことは、キリストの愛が増し加えられることではなく、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるかを理解」(18節)することができるように祈ることです。

2.すべての聖徒たちと共に
キリストの愛に包まれて生活する者たちは、聖徒の交わり、すなわち教会に生きる者です。「すべての聖なる者たちと共に」キリストの愛を知る体験を共有し総合してこそ、初めて「人の知識をはるかに超える」キリストの愛の豊かさをうかがい知ることができるからです(19節)。それは、キリストの愛を知る経験が健全となるためにも大切なことだからです。
キリストの愛を知り続けるために、互いに祈り合いましょう。そして、この愛の中に、なお多くの人々が招かれるように祈りましょう。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(6.5MB)

キリストの愛を知って(2015.1.1)

宣教題  「キリストの愛を知って」   宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ヨハネ3章16節

私たちの神は、一つの所にその愛を集中させ、独り子をお与えくださいました(ヨハネ3章16節)。一所懸命に神が私たちを愛してくださったのです。今年の教会標語である「福音にあずかる」とは、キリストの愛の現れである救いを体験的に知ることです(1ヨハネ3章16節)。

1.キリストの捨て身の愛の中にいる 
キリストの捨て身の愛は、夫婦の愛、親子の愛、教友の愛、友人の愛といった互いの愛とは比べることはできないほどの犠牲を伴うものでした。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」とあるように、そのご降誕から地上の生涯の全てにわたって命を投げ出し、十字架の死にまで至ってくださいました。
私たちは、キリストの愛の中に安んじて生きることに、不安になることがあります。自分の救いを実際の神の御業よりも小さく考えてしまうからです。私たちは、自分が知っているよりも、もっと大きく救われているというキリストの愛を体験的に知って、その愛の中に生きる者とさせていただきましょう(1ヨハネ3章19~20節)。

2.聖霊によって神の愛が注がれている 
神の愛は、キリストの十字架と復活という救いの御業によって実現され、聖霊によって私たち一人ひとりに具体的に注がれています(ローマ5章5節)。
この聖霊によって神の愛が注がれ続けているなら、愛が愛を生む力となって言動に表れてきます。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」との豊かな永遠の命に生きる者とされるのです。このことが、互いに愛し合い(1ヨハネ3章11節)、兄弟を愛する(同14節)という教会の交わりの中で培われているかと問われています。さらに、教会の枠を越えて、家庭における夫が、妻が、子どもが、両親が兄弟となってキリストの愛の対象となっているかと問われています。
私たちは、その日常の日々の生活の中において、キリストの愛を体験的に知ることが大切なのです。

美しい人生(2011.1.16)

宣教題  : 「美しい人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章1節~9節
主イエスは、一人の女がナルドの香油を自分の頭に注ぎかけたことを称賛して、「わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました(6節)。後にペトロは、この出来事を思い起こして、人々の心を引きつける美しい「立派な行い」と語っています(1ペトロ2章12節)。何が、美しい良いことだったのでしょうか 。

1.キリストの愛に捕えられている
この出来事の背景には、出エジプトという神の救いの御業を祝っている最中に、神の御子を殺害する人間の罪が現れています(1~2節、10~11節)。
この時になされた一人の女の行為は、主イエスの十字架と復活の「福音」と結びついています(9節)。これは、彼女が主イエスの十字架に現わされる愛に捕えられていることを証しするものでした。
今日の私たちは、主イエスの十字架によって現わされた神の憐れみによって、すべて赦され、受け入れられ、神のものとされ、礼拝者とされています(ロ-マ12章1節)。この神の愛に捕えられ、神にすべてを任せて、神に身を投げかける人生は、素晴らしいのです。

2.キリストの愛に応えている
ナルドの香油は、死体の葬りや礼拝における任職の油として用いられました。一人の女は、その高価な香油を一気に「イエスの頭に注ぎかけた」のでした。主イエスは、その行為に憤慨した人々に、彼女がこの時にしかできない、しかも彼女のできる限りのことをしたと弁護されました(4~8節)。
彼女のした良いことを無駄と言うのであれば、主イエスが十字架上で最後の一滴までも流された贖いの血は、世界最大の偉大な無駄と言わざるをえません。私たちは、主イエスに対してへりくだる時に、キリストの御姿と御業が見えてくるのです。
私たちは、いかなるものを、ナルドの香油として主イエスに注ぐことができるのでしょうか。一筋に、キリストの愛に捕えられ、その愛に応える者の心と存在は美しいのです。

重んじる(2008.11.16)

題   : 「重んじる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章1節~20節
激しい突風の後の静かなガリラヤ湖風景、そしてゲラサ人の地方での激しい響きの後の突然の静けさは、今日の私たちが経験する日々の喧騒と聖日の静けさを思わせます。私たちは、この静けさに身を置くことによって、何を重んじるのかを気づかせていただきましょう。

1.ひとりの魂を重んじる 1~17節
汚れた霊にとりつかれた人は、正常な人間社会を好まないで墓場を住まいとし、足枷や鎖でも制することのできないほど狂暴で、石で自分を打ちたたくほど自虐的で、主イエスに反抗する霊に振り回されていました。そして、彼は「・・・かまわないでくれ・・・苦しめないでほしい」と、主イエスを救い主と認めていませんでした。これは、神との交わりを失い、その結果自らをコントロ-ルできない悲惨な状態です。
ところで、この人の姿は、救い主イエス・キリスト抜きで生きていけると思い込み、自分を愛することができず、他者との健全な交わりを持つことのできない罪人を表しています。
しかし、主イエスは、多数の豚を犠牲にするほどに、ひとりの人の生涯を悪魔の支配からキリストの愛のご支配に生きるように招かれるのです。私たちは、一人ひとりを愛し重んじておられるキリストのご支配を、拒むことのないようにしたいものです。

2.家族を重んじる 18~20節
悪霊にとりつかれた人が、主イエスと一緒に行きたいと願ったのは、ごく自然なことでした。しかし、主イエスは、この人が自分の家に帰り、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられました。彼の家族が、これまで心を痛め、また苦しんだことに対して報いる責任があったからです。また、彼が、神の恵みと主イエスの救いを家族に伝えることが大切だったからです。
その結果、彼の遣わされた地で「イエスが自分にしてくださったことを」伝えたので、家族のみか、置かれた地域に多大な感化を与えることになったのです(6章53節以下)。
私たちは、身近な家族に対して、「主が・・・あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」との証しをすることを大切にしたいものです。