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イエスの愛

主イエスの喜び(2018.7.8)

宣教題  「主イエスの喜び」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ15章1~10節

 譬え話を用いて語られる主イエスは、人々と一緒に喜びを分かち合おうとしておられます(6節、9節)。そこには、失われたひとりの魂を一所懸命に捜し回り、見いだされた主イエスの愛と喜びが溢れています。

1.深く悲しまれる主イエスの愛 
 主イエスは、「徴税人や罪人」たちに、熱い関心をお持ちでした。それは、見失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し回る羊飼い、また銀貨一枚を無くした女性が全身で捜している姿に譬えられています。
 さて、ひとりの人が失われることは、主イエスの深い悲しみでした。それは、利用価値があるからとか将来価値があるからではなく、かけがえのない大切な存在価値があるからです。ひとりの人が失われることに対する主イエスの深い悲しみの理由は、主イエスの愛から出ています。

2.喜びに溢れる主イエスの愛 
 羊を見つけた羊飼いと銀貨を見つけた女性の譬えに、主イエスの救いを見ます。それは、悔い改めたひとりの人が、十字架の主イエスのもとで赦され、見いだされ、神のものとされることで明らかにされました。この回復の喜びの理由もまた、主イエスの愛にほかなりません。
 さて、この福音の喜びは、主イエスの喜びです(7節、10節)。主イエスによって見いだされ、主のものとされたひとり一人は、主イエスの喜びを生むほどに大切な存在なのです。一喜一憂する心に振り回されないで、主イエスの喜びを知ることによって、ひとり一人の喜びが確かなものになるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(9MB)

主イエスの癒しと救い(2017.9.24)

宣教題 「主イエスの癒しと救い」        宣教  今田好一牧師
聖 書 マルコ1章29~34節

わたしたちは、神の守りの中で歩んでいます。しかし、わたしたちは弱く小さな者です。ですから、イエス様に助けを求めなければならないのです。

1.主イエスのいやしと救い
イエス様はシモンの家に行きしゅうとめの病気をいやされます。このことは、今日教会に集ったわたしたちとわたしたちの家族にもイエス様の救いがなされるということを意味しています。『家族伝道は難しい』と言われていますが、それは、神の愛を言葉で伝えようとするからです。愛は、その人を愛することによってしか伝わらないのです。愛は、一緒に生活する中で伝えていくものです。今日わたしたちがイエス様の愛をしっかりと受け止めて、わたしたちも家族を愛し、家族に仕え、心を交わすことのできる者とならせていただきましょう。

2.主イエスの愛に応えて
安息日にはいやすことが禁じられていたため人々は日が沈み、安息日が終ってからイエス様の所に来ました。イエス様のいやしは今もわたしたちのうちに続けられています。イエス様はわたしたちに聖霊を与えてくださり、わたしたちの中にある神の御心に適わないあらゆる熱を冷まし、何が神の御心に適うことなのか、何のためにわたしたちが生かされているのかということをきちんと受け止めることができる者にしてくださるのです。
わたしたち一人ひとりが、主に愛され、罪赦された者として、その愛に応える者とならせていただき、ただ主を崇め、主に仕え、主に頼り、いやし主なるお方、救い主イエス・キリストと共に歩ませていただきましょう。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

大いなる肯定(2011.4.10)

宣教題  : 「大いなる肯定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  14章43節~52節

私たちは、主イエスの救いに招き入れられ、このお方に導かれて歩む者ですが、いったいどこまで主に従っていけるのでしょうか。主の弟子たちは、主の十字架の死に至る最後まで従い切ることができず、ついには主を否んで逃げ、また捨ててしまいました。

1.恐れを抱く主の弟子
イスカリオテのユダはイエスを裏切り、人々を用いて捕えさせ、十字架に追いやってしまうという罪を犯しました。そこには、主を裏切ることに対する恐れがありました(43~45節)。その裏切りは、主の選びを拒否したことから生まれたのです(ヨハネ6章70~71節)。
そして、ペトロを含む「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった」(50節)のでした。彼らは人を恐れたのです。
さらに、「一人の若者が・・・裸で逃げてしまった」(51~52節)とあるのも、人に対する恐れからです。この若者は、マルコではなかったでしょうか。
主イエスを見捨てて死に追いやったのは、主の弟子たちだけのことではありません。私たちもまた同じではないでしょうか。

2.愛で包み込まれる主イエス
主イエスは、神の御子を裏切り、見捨て、否定してやまない人々の罪を引き受けて、それを赦し、新しく造り変えるという大いなる肯定へと逆転され、愛で包み込まれました(ヨハネ18章9節)。
主の弟子たちがそうであったように、私たちは主イエスに対して当てがはずれた、との思いを持つことがあります。そのような時、私たちの信仰は試され、ふるわれ、純粋なものにされます。そうなるためには、私たちは主に召されて、その愛に捕えられている者であることを知って、主の御足の跡を踏み従っていくことが大切です(1ペトロ2章21節)。それは、卒業のない、生涯のテ-マです。