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礼拝メッセージ

信仰の前進(2008.1.6)

題   : 「信仰の前進」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節
今日は、教会の標語である「信仰の前進」から語らせていただきます。パウロは、わたしたちから見れば完成された信仰者で、だれも近づくことの出来ないほど偉大な聖徒だと思われます。
しかしパウロは「わたしは、既に完全な者になっているわけでもありません。」と告白しています。ここに信仰の成長の秘訣があります。つまり、「自分は既に完成された者である。」というところには成長は望めないのです。
パウロはここで、完成を目指すクリスチャンを競技場でゴールを目指して走るスポーツ選手にたとえています。

1.後ろのものを忘れて走る
かつての経験、かつては熱心であったことはあまり重要ではありません。神様は今あなたがどのような信仰生活を送っているかに興味をもたれます。
かつての栄光にしがみついていては前に進みません。かつての罪や弱さを引きずっていては走れません。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)。

2.目標を目指して走る
マラソンのような長距離走でも、短距離走でも選手の目標はゴールです。ここでパウロの示すゴールは、キリストの復活の力と喜びに与ることです。さらに賞を得るために走るのです。ここでいう賞とはパウロの言う「義の栄冠」(2テモテ4:8)です。
ひたすら目標を目指しましょう。先日ベラカで学んだロトの妻のように、後ろを振り返ることなく走るのです。

3.完全な者として走る
完全な者になっているわけではありませんと言いながら、ここでは「完全な者は」と言っておられます。
わたしたちは完全な救い、すなわち、イエスキリストの完全なあがないの十字架と復活という救いに与った者です。そうであれば、完全な救いに与った者らしく信仰生活を走り抜きましょうと言うのです。

涙の種まき、喜びの収穫(2008.1.1)

題   : 「涙の種まき、喜びの収穫」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : 詩編126編1節~6節
本編は「バビロン捕囚から帰国した時の歌である」とする学者が多くおられます。確かに、長い間外国に捕囚の民となっていた人々が解放されて祖国に帰ってきたとしたら、どんなに大きな喜びであったかを想像することが出来ます。

1.大きな業
70年間バビロンに捕囚となっていたユダの人々は、前538年ペルシャ王キュロスによって解放されました(エズラ1:1~4)。エズラは「「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシャの王キュロスの心を動かされた」(エズラ1:1)と明記しています。
異邦の王の心をも動かして神はユダの人々を解放されました。イエス・キリストのご降誕、十字架、復活もすべて神のご愛のゆえに行なわれた、人間すべてに提供された奇跡でもあります。

2.ネゲブの川の流れの回復
ネゲブは、年間雨量の少ない地域で、よく旱魃(かんばつ)がありました。詩編の記者は、このような涸れ果てた川を見ながら、今も尚バビロンから解放されないで残っている仲間を、川の流れのように帰らせてくださいと言っているのです。
雨が降ると一気に川の中に水が流れ込んで、汚れた物を洗い流します。さらに、流れが戻ると草や花の芽が一斉に吹き出します。これは神様の救いに与かった者の心の姿です。

3.種まく人
種をまく作業は、後の豊かな収穫を期待します。わたしたちは、神によって救われ、新しい命に生かされた者です。この新しい年、わたしたちがいただいた恵みを一人でも多くの方々に宣べ伝える者でありたいと思います。これこそ種蒔くことです。
時には恐れも感じるかも分かりません。今までの経験が、あまりにも収穫が少なかったために蒔く前から失望している人もおられるかも知れません。
しかし、パウロは言います「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには全てが可能です」(フィリピ4:13)と、ただ主にのみ期待して新しい一年間、種を蒔き、収穫の喜びを味わわせてもらう年としていただきましょう。

聖霊による洗い(2007.1.28)

題 : 「聖霊による洗い」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : テトスへの手紙  3章 1節~ 7節
  この世は、無分別、不従順、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎みあっています。しかし、これらのことはわたしたちがクリスチャンとしていただく前に持っていたものに他なりません。
 そのために、これらの結果から生まれる罪のために悩み苦しんでいました。しかし、御子イエス・キリストの十字架と復活という、神の最高最善のご愛があらわされたことによって、信じる者が救われ、この大きな悩み苦しみから解放されるという、すばらしい恵みに与らせていただいたのです。

1.新生の洗い
 神はわたしたちを新しく造りかえるために、イエス・キリストを十字架にかけて下さいました。そのところで惜しげもなく流された血潮によって、わたしたちの罪が洗われたのです。
 また「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリ12:3)とあるように、この十字架の血潮による救いも聖霊の洗いであるということができます。

2.心の内側の洗い
 神は、わたしたちを罪からの救いの洗いをなしてくださったのみならず、洗いの聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださったというのです。なんという喜び、何という祝福でしょう。わたしたちの魂の内側までもきよめてくださるのです。
 父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神を信じる者のうちに実現される聖潔(きよめ)と言う魂の洗いをわたしたちは実体験させていただいているでしょうか。
すでに完成された、神の憐れみによる救いを信じ受け止めましょう。

3.洗いの結果
 聖霊の洗いを受けた者は、永遠の命の保証をいただくことができるのです。なぜなら、自分の行いや、善行によってではなく、ただキリストの十字架と、聖霊の洗いによって義とされたからです。したがって、死に直面する時も恐れを持つことなく、喜びと平安をもって、天国を望むことができるのです。

雪のように白く(2007.1.21)

題  : 「雪のように白く」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : イザヤ書 1章16節~20節
  今年は「臨在信仰に立つ」が教会のテーマになっています。そこで、旧約聖書の預言者を代表するイザヤ書を通して、神様のご臨在を実感し、この信仰にしっかり立つことを学びたいと思います。
 さて、イザヤという預言者は、一般によく言われる予言者(予め未来のことを語る人)というよりも、神様からお言葉を預かって人々に伝える、福音の伝道者であったとも言えるでしょう。イザヤが活躍した年代としては、当時の王様の名前から紀元前700年代半ばと推測できます。

1.背きの民
 当時のイスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダに二分され、しかも両国共に神に背き、偶像礼拝に走り、敵国シリヤによって苦しめられていました。しかし彼らは悔い改めることもしないで、罪の道を進んでいました。
 神に創られ、神に愛されているはずの選民イスラエルが、神に背いていたのです。その有様は、家畜にも劣るものだと言っています。

2.偽善の民
 神にそむくイスラエルの民ですが、形だけは宗教儀式を行っていました。いけにえをささげ、香をたき、手を広げて祈りの姿勢をしていました。ちょうどルカ18章のファリサイ派の人と徴税人のたとえにあるように、神はその心を見られていることが教えられます。
神は偽善を退けられます。北イスラエルも南ユダもこの偽善のために神に裁かれることになったのです。

3.神の本心
 しかし神に背き、偽善的宗教儀式を繰り返すイスラエルに、神はなお赦しの道、憐れみの道を開いてくださるというのです。イザヤの「お前たちが進んで従うなら」の言葉があることで、この段落は神の赦しの希望を示してくれているところだと言うことができます。この赦しの道を残してくださることこそ神の本心なのです。
 こんな真っ黒い罪そのものが、雪のように白くしていただけるのです。そして新約のわたしたちは、キリストの十字架の血潮で、白く清めていただけるのです。

キリストがあがめられますように(2007.1.14)

題  :「キリストがあがめられますように」  
宣教 :仁科 共子師
聖書 :ルカによる福音書 5章1節~11節
  MSIの中国での働きのため、私のMSIでの働きのためお祈りいただきご支援いただいておりますことを感謝いたします。どのような働きも聖徒たちの祈りと献げものによって支えられ,また神様がその全てを用いておられることを覚え感謝いたします。

1.全てのことはキリストのため
パウロは彼の身におこる全てのことは神様の御手の中にあり,福音が前進するためであるという理解をしていました。ここに神様に対する信仰の目で全ての出来事をうけとめる姿勢があります。監禁されていることすらもキリストのためであり,このことが用いられているのを体験していました。
私も日々の生活と働きのなかで“ 神様がいつも共に働いておられる ”ということをたびたび教えられました。

2.キリストを告げ知らせている
福音を伝えるとはキリストを告げ知らせることです。それは言葉を通してだけではなく,クリスチャンを通して伝えられて行きます。

3.わたしの身によってキリストがあがめられるように
キリストのものとされたクリスチャンによってキリストが証しされ、あがめられていきます。わたしと共におられ,わたしのうちに生きておられるキリストがわたしの身によってあがめられますように。福音にふさわしい生活を送らせていただけますように。

沖に漕ぎ出せ(2007.1.7)

題 : 「沖に漕ぎ出せ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書: ルカによる福音書 5章1節~11節
  元旦礼拝にお会いできなかった方もおられますので、改めて「明けましておめでとうございます。本年も神様がみなさまを祝福くださいますようにお祈りします」
 ルカによる福音書5章4節には、今年の神戸中央教会の目標と重なり合う部分が多くあります。この記事によれば、後に驚くほどの大漁を見たのです。しかしここで、わたしはイエスの奇跡の中にわたしたちに与えられる大きな教訓を見ます。

1.教え始められた
 この時イエスはシモン・ペトロの船に乗り込まれました。わたしたちの領域にイエスはおられますか?あなたの家庭に、あなたの職場に、あなたの心の中にイエスは乗り込んでおられますか?わたしたちは主のお働きに与るためには、主のみ教えを聞く必要があります。主のみ言葉を聞かないで事を始めても何も得ることはできません。

2.沖へ漕ぎ出せ
 イエスのみ教えを聞いたら次にイエスのご命令に耳を傾けましょう。イエスは「沖へ漕ぎ出せ」と言われます、今年、あなたは今の浅瀬で満足していてはいけません。沖へ漕ぎ出すのです。もっと信仰生活に本気になるのです。
 今まで自分勝手に網を降ろしていませんでしたか?沖へ出て、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスが言われる通りに従って行動をすると、主の不思議な奇跡を見せていただくことができます。

3.人間をとる漁師
 思いがけない大量を見せられた時、シモン・ペトロは自分の弱さに気付くと共に、罪深さにも気付きました。それでイエスの前にひれ伏したのです。
 あなたは、何かに成功した時、思い通りになった時自分の力を誇りますか、それともイエスのみ業のすばらしさを認め自分のちっぽけさを認めますか?
 自分の弱さと足りなさ、汚れを認める時、イエスは十字架の血潮でゆるし、永遠の命を与え、さらに神に喜ばれる清い心を与えてくださるのです。
 そしてわたしたちは、滅びに向かっている人々に福音を述べ伝え、イエスのもとに人々をお連れする者にしていただくのです。

臨在信仰に立つ(2007.1.1)

題  : 「臨在信仰に立つ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : 出エジプト記  33章12節~17節

  主の年の2007年1月1日を迎えました。天地創造以来歴史は積み重ねられ、継承されてきました。しかし2007年という年はまだだれも歩いたものはいません。
 あなたはこの年、この2007年という真っ白なキャンバスにどのような絵、あるいはどのような文字を書こうとしておられますか?
1890年、日本に来られたB・Fバックストン先生が提唱され、1951年7月この神戸中央教会を会場にして開催された日本イエス・キリスト教団創立総会において、初代教団委員長となられた小島伊助先生が引用された「我親ら汝らと偕に往くべし」(出エジプト33:14文語訳)が今年の教会標語として与えられています。
 新しい年、この臨在信仰を確認し、確立させていただきたいと願わされています。

1.道を示される
 モーセは神に、この民を導き上るために道を示してください、と祈りました。わたしたちも信仰生活をするために道を明らかにしてほしいと願います。
 その道とは、イエス・キリストご自身です。今年もまず、わたしたちのために十字架にかかり、罪をゆるし、三日目によみがえって永遠の命を与えてくださったお方様をしっかりと見上げましょう。

2.最高の同行者
 神はモーセに、「わたし自ら同行する」と約束して下さいました。この年、わたしたちは神戸中央教会と共に歩んでくださるお方、また、わたし自身と共に歩んでくださるお方、つまり、いつでも、どこでも共にいてくださる臨在の主を見上げて従いつつ歩ませていただきましょう。

3.選んでくださったお方
 モーセが選ばれたように、わたしたちも神様によって選ばれました。しかもここでは名指しで選んだといっておられます。
 そして臨在してくださるお方が、わたしたちを特別な者としてくださるのです。なんという恵み、なんという感謝ではありませんか。個人において、家庭において、教会のすべての集いにおいて臨在信仰に立ち、臨在信仰で進む一年でありましょう。