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礼拝メッセージ

聖霊の働き(2008.5.4)

題   : 「聖霊の働き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章22節~36節
使徒言行録」で語られていることは、「聖霊言行録」と呼ぶほうがふさわしい内容です。私たちがキリストの証人となり、教会の働きが生き生きと前進していくために、聖霊はどのように働かれるのでしょうか。

1.聖霊は降られるお方である  1章8節
永遠から永遠までおられる聖霊は、五旬節の日になって、人々の上に特別に臨まれました。主イエスが十字架で死なれ、その死から復活され、昇天されて神の右の座にお着きになった結果として、聖霊が注がれました。
聖霊が私たちに働かれるときに、私たちはキリストについて目が開かれます。そして、私たちを力強いキリストの証人にしてくださいます。また聖霊は、私たち自身の本当の姿を気づかせてくださいます。さらに、私たちの慰め主として、絶えず共にいてくださいます。

2.聖霊は見聞きできるお方である  2章33節
聖霊が見聞きできるとは、私たちが真に聖霊に満たされるならば、私たちを通して聖霊が働いておられることを他の人が認めることができるということです。
一人の人が造り変えられて、主の惠みを持ち運んで他の人を生かすことができるのは、聖霊によらなければできません。人が集まり組織を作っても、聖霊によって神のいのちが注がれなければ、生き生きとして神の栄光を現す教会とはなりえません。
私たちの家族が、友人が、同僚が、聖霊を見聞きできるキリスト者また教会とさせていただきたいものです。

3.聖霊は従う者に与えられる  5章32節
神は、ご自分に従う者に聖霊を与えてくださいます。そのためには、神に従おうと願うことです。人は神に従えないというよりも、従いたいと思っていないところに問題があります。さらに、条件をつけないで、一切において神に従うことを告白し、自分を主なる神に明け渡すことです。そして、具体的に神に従うことです。
私たち一人ひとり、このような意味でペンテコステを経験しているか吟味しましょう。

心が躍る経験(2008.5.4)

題   : 「心が躍る経験」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章14節~20節
情報時代に生きる私たちは、実に多くのことを知っています。しかし大切なことは、どれだけのことを知っているかよりも、何を知っているかです。
私たちは、キリストのすばらしさを知るという、心が躍る経験をしたいものです。

1.心が躍るキリストの福音  14~15節
旧約聖書の預言者たちを通して神が約束されていた「神の福音」が、イエス・キリストの到来によってもたらされました。それは「神の国」と言われる神の恵みのご支配が近づいたことを意味しています。今や私たちは、その神の国に入り込むだけなのです。そのためには、これまでの生き方を変えて、イエス・キリストの方に向きを変えて信じることが大切です。
このように、私たちが悔い改めて福音を信じるなら、新しい人生が始まります。しかし、この福音への招きは、キリスト者の全生涯が絶えず十字架と復活の主の方を向いているかを吟味させてくれるものです。私たちには、日ごとの悔い改めを通して、心躍る福音経験であるよう求められています。

2.心が躍るキリストの召し  16~20節
イエス・キリストは、神の福音を人々に届けるのに、祭司や学者たちでなく、ガリラヤ湖畔の漁師たちを弟子として用いられました。主イエスは、漁師たちを見極めるかのように深い愛のまなざしを注がれ、ご自身の方から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召しておられます。彼らは、このキリストの召しを最優先して、神の国に導かれていない人々を見いだし、そこに導くための働き人になりました。
主の弟子たちは、欠点もあり、失敗もあり、失言もあったりしましたが、主イエスの後について行く中で、整えられ、造られていきました。キリストの召しには、このような力があるのです。
教会は、弟子たちと同じように、キリストの召しを聴く場所です。そして、キリストの後について従っていく新しい出発をする場所です。この心躍るキリストの召しを、心ふるえる思いで受けとめていきましょう。

神による人生(2008.4.27)

題   : 「神による人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章9節~13節
イエス・キリストの公生涯の始まりは、山頂の歓喜の経験から谷底の試みの経験に至るものでした。そのキリストと結び合わされた者の歩みは、歓喜のときであれ、試みのときであれ、いつも「神による人生」となっていくのです。

1.山頂の歓喜の経験において  9~11節
主イエスは罪のないお方であり、本来ならば授けるべき立場であるにもかかわらず、ヨハネからバプテスマを受けられました。その理由は、主イエスが罪人と一緒になられて、その中にご自分の身を置くためでした。このように私たちと一体となってくださったところに、私たち自身の拠り所を見いだすことができるのです(ガラテヤ3章26~27節)。
この時主イエスは、ご自分に聖霊が注がれ、父なる神のみ声を聞かれました。主イエスこそ、父なる神の愛の交わりの中にあって、罪人の救いのみわざを成し遂げることを明らかにしておられるのです。キリストと結び合わされた私たちは、神に愛されて、神に対して生きる者とされていることを聖霊によって確認し続けていくことが大切です。
「神による人生」は、このような歓喜の経験から出発するのです。

2.谷底の試みの経験において  12~13節
続いて主イエスは、聖霊によって荒れ野に追いやられ、サタンの試みを受けられました。そんな中にも、神のみ子に仕えるみ使いによる確かな支えと助けがありました。マルコは、そのことを強調しています。
さて、私たちの信仰の歩みの中で、死の陰の谷のような試みや押しつぶされそうな重荷と戦わなければならないことがあります。そのような時にも、キリストに結び合わされているゆえに、私たちは支え助けられるのです。そこに、敵前の前の信仰者のゆとりがあります(詩編23編4~5節)。
自分の行き先が分からなくなるとき、孤独に思われるとき、無駄な労苦の日々と思えるとき、自信を失うとき、病むときに、キリストに結び合わされた「神による人生」が開かれていることを確認し続けたいものです。

初めに神が(2008.4.20)

題   : 「初めに神が」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 1章1節~31節
神のことばである聖書は、壮大な創造の記事が最初に記され、その創造は『初めに、神は』という力強いことばをもって始まっています。そこには、「どなたが」創造されたかを宣言し、「どのように」創造がなされたかについては多くを語っていません。

1.愛によって創造された  1~26節
『神は創造された』『神は言われた』『神は良しとされた』『神は呼ばれた』『神は造られた』とあるように、全ての存在と出来事の源は、創造主である神ご自身です。そして、神が言われたとおりに事がドラマの展開を見るように成し遂げられています。そこでは、神の霊が闇に光を与え、形のないところに命を与えています。
神の創造のみわざは、秩序正しく神の愛によってなされ、最後に創造の冠である人間を創造されました。ここから私たちの一日を、一週を、人生の様々な事柄をスタ―トさせるなら、私たちは神中心の在り方や生き方をすることができるのです。そして、私たちが神の意志にもとづいて生きることによってのみ、自らの人生の意味を見いだすことができるのです。

2.愛の交わりに生きるように創造された  26~31節
神は威厳と無限の力をお持ちで、私たちが畏れかしこむべきお方です。私たちは、この神との愛の交わりがもてる人格あるものとして、さらに責任をもって神に正しく応答できるものとして造られました。同時に、神は私たちを祝福して、この世界を正しく管理し指導する権限を私たちに委託されました。
そして、全ての創造が終ったとき、神は『見よ、それは極めて良かった』と、造られた私たち一人ひとりに名指しで語っておられます。どんなに憂い、つまずき、痛み、ほころび、罪と汚れがあっても、救い主イエス・キリストによる救いの道が開かれているゆえに、私たちを根底から支えていてくださるのです。
創造主である神は、愛ゆえに造り変え、愛の交わりの中に生かし続けてくださいます。それに対して、私たちが心からの感謝を言い表すことを、神は最高の喜びとされるのです。

まず福音を(2008.4.13)

題   : 「まず福音を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章1節~8節
暗く悲しいニュ-スが多い世界にあって、私たちはイエス・キリストの福音を聴き、受け取り、生かされ、伝えることが大切です。
マルコは、主イエスの目撃証人であったペトロの通訳者として用いられ、福音に生きることを切々と書き進めています。その福音は、どのようにもたらされるのでしょうか。

1.イエス・キリストによって  1~7節
神の子イエス・キリストの福音は、神の救いのご計画の最初からありました。そのことを実現させるために、先駆者ヨハネは『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』のでした。そして、イエス・キリストを指し示したのです。
私たちが悔い改めるとは、神に背を向けているところから、神に向きを変えて、神に立ち返ることです。そして、私たちがイエス・キリストを受け入れて、私たちの生活と行動のすべてをキリストに支配していただくのです。

2.聖霊によって  8節
イエス・キリストの救いは、イエスが地上におられたときだけで終りません。聖霊によって受け継がれていくのであり、今も続いています。
誰でも、聖霊によらなければ、罪について分かりませんし、悔い改めることもできません。そして、イエスを主と告白することもできず、罪が赦されたという信仰を持つこともできません。さらに、主イエス・キリストに全く任せきる歩みができません。そのような福音に生きることができるように、主イエス・キリストは『聖霊で洗礼をお授け』くださるのです。

マルコは、信仰の歩みの途上において、挫折し、失敗し、燃え尽きました(マルコ14章51~52節)。しかし、最後の最後に「マルコによる福音書」を書き、これが世界に広がり、今日まで祝福の源になってきました。彼は、聖霊の助けと導きにより、立ち返り、神に用いられたのでした。

教会は、私たち一人ひとりがイエス・キリストの福音に堅く立ち、聖霊によってキリストの惠みに浴することによって成り立つのです。

力に溢れて(2008.4.6)

題   : 「力に溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章10~14節  2コリント 12章9~10節
私たちが、『わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたいのです』と言い表すことができるのは、『わたしの惠みはあなたに十分である』と宣言してくださるキリストによって出来るのです。私たちは、満ち足りた中でも渇き求めて生きるのです。

1.キリストの「愛の力」に満ちている
ここで言われている満足は、悟りとか精神修養の類ではなく、また特別な信仰者が身につけているというものでもありません。全てのキリスト者に与えられています。それは、『わたしを強めてくださる方』が私たちの全てをご支配してくださるとき、すなわちダイナマイトのように力ある『キリストの力がわたしたちの内に宿る』ことによって可能となるのです。
このキリストの力は、愛の力です。私たちが、この愛の力によって満ち足りていないと、他の人や環境に責任転嫁をしたり、トラブル・メ-カ-となったりしかねません。キリストの愛の力によって、真に実力あるキリスト者また教会とさせていただきましょう。

2.キリストの「惠みの力」で十分である
私たちがキリストの惠みの力で十分であれば、どんな境遇にあっても満足することができます。その惠みの力は、『弱さの中でこそ十分に発揮される』のです。
だれもが持っている弱さは、罪と死に自分で打ち勝つことが出来ないということです。その罪を担われたキリストの十字架と、罪の結果である死に完全に勝利されたキリストの復活において、キリストの惠みの力が最大に発揮されました。

私たちがこの惠みにあずかり続けるなら、自分の人生を肯定して受け入れることができます。また、生きる力が湧いてきます。
そして、ゆるす力、愛する力、祈る力、伝道する力、献げる力、奉仕する力が生まれてきます。『わたしを強めてくださる方』に主役になっていただき、私たちが脇役に徹していくことが、一切の力に溢れる歩みの秘訣です。

わたし自身が一緒に行く(2008.3.30)

題   : 「わたし自身が一緒に行く」   宣教:   川原崎 晃  牧師
聖書  : 出エジプト記 33章12節~16節
神のものとされた聖徒たちの神に対する積極的な求めであり、人間の魂の最深の要求を満たすものは、主なる神が私たちと共におられて同行されるということです。『わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう』(14節)とは、一人ひとりにとっても、教会にとっても、絶えず立ち続ける信仰の原点です。

1.一緒に行ってくださるお方
この時モ-セは、担い切れない重荷を背負って苦しんでいました。そして、信仰が浅薄で不誠実であった神の民と、その民を審こうとされる神との破れの狭間に立って執り成しています(32章31~32節)。不安と心配で心が押しつぶされそうなモ-セに対して、神が語られたご自身の臨在の約束は、この後控えている荒野での内外の課題や問題に対して、「どなたがご一緒であるか」を確かにしてくださる時でした。
いつも神の御声の聴こえるところ、いつも神の御顔を拝することのできるところ、いつも神の御導きを確信できるところに居り続けたいものです。

2.一緒に行ってくださるなら
『あなたに安息を与えよう』と約束していてくださいます。この安息は、単に心身の疲れをいやすというものではありません。戦いの嵐や悲しみや問題の真っただ中にあっても持ち続けている安息です。
それはちょうど、十字架を前にしたキリストが持っておられた平安です(ヨハネ14章25~31節)。このキリストの平安が与えられることが、キリスト者にとってのかけがえのない遺産です。安息のない臨在信仰はないのです。

3.一緒に行ってくださるために
この主なる神の臨在に対して、私たちの側に一つの条件を求めておられます。『もし、あなたご自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください』(15節)と、神が主権をもって導かれることを第一とすることです。
どんなにすばらしい神からの祝福、成果、幸せをいただいたとしても、私たちの人生に神ご自身がご一緒であり続けてくださることを優先させることです。主の臨在こそ、私たちの人生にとって最も尊いことなのです。

主を見て喜んだ(2008.3.23)

題   : 「主を見て喜んだ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : ヨハネによる福音書 20章19節~23節
イエス様が墓に葬られて三日目の朝、マグダラのマリアはイエス様がよみがえられて空っぽになったお墓を見て、ペトロともう一人の弟子に伝えました。彼らもお墓を見て、不思議に思いながら家に帰って行きました。しかし、マグダラのマリアは墓に留まっていました。このようなマリアにイエスはご自身を現して下さったのです。

1.心にかかる鍵
マリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えました。しかし弟子たちは人を恐れて、家の鍵をかけて中に隠れていました。しかし、そんな家の中に復活のイエス様が入ってこられたのです。そして「あなた方に平和があるように(シャローム)」と言われました。
ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様を見捨てて逃げ出した弟子たちに、なんと優しく語りかけられたことでしょう。わたしたちがどんな困難や問題の中にあっても、心を固く閉ざしていても、心に来てくださるお方です。

2.主を見て喜んだ
イエス様は、弟子たちに手とわき腹を見せられました。そこには釘穴があり、わき腹には槍で突き刺された大きな傷がありました。紛れも無くイエス様です。
弟子たちは、この時初めて喜んだのです。この「喜んだ」には歓喜した、大喜びをしたという意味があります。わたしたちもどのような状態にあっても、死に勝利された復活のイエス様が共に居てくださるなら、神からの平和が与えられるのです。

3.使命に生かされる
主を見て喜んだ弟子たちに、もう一度「平和があるように」と語られました。そして続いて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
イエス様は弟子たちに最高に崇高な使命を与えられたのです。弟子たちにはこの使命を果たす力はありません。ましてわたしたちにはそのような力はありません。
しかし、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちがその使命を達成するために必要なことをしてくださったのです。

不信仰で無力なわたしたちを用いるために、聖霊が今日も与えられています。復活のイエス様を喜び、愛し、愛する人々に福音を伝えさせて頂きましょう。

イエスの受けた傷(2008.3.16)

題   : 「イエスの受けた傷」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 53章1節~12節
今日はパームサンデーと呼ばれる日です。イエス・キリストが子ロバの背中に乗って、エルサレムの町に入場してこられたとき、エルサレムの人々は「ホサナ、ホサナ」と言って、パームツリー(棕櫚の木)の枝を振り、パームツリーの枝や着ていた上着を脱いで道に敷いてイエスを迎えました。
ところが、今週の木曜日、金曜日になると人々は手のひらを返すようにしてイエスを苦しめはじめ、ついには十字架につけることになるのです 。

1.軽蔑された神の子  1~4
大工の子として育てられ、貧しい寒村に住まわれたイエスは神の独り子であるとわたしたちは知っています。しかし、当時の人々からは無視され、軽蔑されました。
当時の人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い伝えられていたほどに、軽蔑のまなざしで見られるような中に育たれたのです。

2.苦しみの神の子  5~10
人となってくださった神の子は、弱さを知り、経験し、人々の苦しみを理解し、ついに囚われの身となって肉体において極限の苦しみを負ってくださいました。
さらに、ご自分が愛して止まない弟子たちに裏切られるという苦しみを味わい、さらに、父なる神にまで捨てられてくださったのです。
イエス様にとって、父なる神様に顔を背けられ、捨てられることほど大きな苦しみはありませんでした。しかしこの苦しみは全てわたしが救われるためのものでした。

3.執り成して下さった神の子  11~12
イザヤは、イエスの苦しみはわたしたち罪人の裁きの身代わりであり、贖いであり、執り成しの結果であると言います。
このお方を信じるわたしたちは、このお方の負ってくださった苦しみによってつみ許され、このお方の戦利品として数えていただくことができるのです。
そしてこのお方は、十字架で贖い主として死なれただけでなく、三日目によみがえって、信じ、罪赦された者に永遠の命を与えてくださるのです。

受難週であるこの一週間、神様の前に十字架を偲びつつ過ごしましょう。

高価で貴い人(2008.3.9)

題   : 「高価で貴い人」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 43章1節~7節
今年も2週間後にイースターを迎えようとしています。この時期にもう一度神様の御愛とその現れである十字架を深く思う時としましょう 。

1.神の栄光のために創られた私たち  1~7
イザヤはわたしたちが神によって創造された者であると言っています。ところが、直後に「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と言っておられます。
神に創られ、神のものであった私たちでありながら、罪を犯し神から離れ、サタンの手の中に捕われている私たちでした。
この、愚かな私たちのために、神はかけがえのない神の独り子を十字架にかけるという代価を払って私たちを買い戻してくださったのです。これこそ、史上最大の贖い金でしょう。神様は、わたしたちをそこまで高価で貴いものと見ていてくださるのです。しかも、わたしたちが生かされている理由は「神の栄光のために」とイザヤは言います。

2.神に選ばれた証人  8~15
イザヤは「わたしの証人はあなたたち」と言います。わたしたちは、神様とは唯一のお方であり、この世界にただひとりのお方であることを証しするために選ばれたお互いです。
そして、このお方こそ、聖なるお方であり、全世界の創造者であり、わたしたちのすべてを知っておられるお方であることを教え、最終的に神に逆らう全ての者は裁かれることを語っておられことの証人でもあるのです。

3.新しいことをなさるお方 16~28
イスラエルを救われ、わたしたちを罪の滅びの中から救い出してくださったお方は、ただ救い出しただけでなく新しいことをしてくださるのです。砂漠のような人生を歩んでいた者も、神の恵みによって潤されます。すなわち救われた者は、聖霊の豊かな注ぎと流れの中に導いていただいて、新しい道を歩み、荒野から湧き出る水、砂漠に流れる川から水を飲むことができるのです。
神は、ご自身の口でわたしたちに「あなたは価高く、貴く」と言ってくださいます。このお方がわたしたちに、最大の恵みである聖霊なる神様をわたしたちの内に住ませて、潤して、すばらしい神の証し人に仕立ててくださるのです。

草は枯れ、花はしぼむ(2008.3.2)

題   : 「草は枯れ、花はしぼむ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 40章6節~9節
イザヤは、神のさばきを語ってきました。もちろん、神様の恵みの預言、救い主の預言も語っています。
しかし、ここからは将来に向かっての神の救いの預言が語られます。しかも、神様の回復と慰めは限定された民族だけではなく全世界に対するメッセージなのです。

1.慰めのメッセージ  1~11
本章は「慰めよ」から始まっています。この慰めの内容は「苦役の時は今や満ち」「咎は償われた」「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」と語られています。
これは、バビロン捕囚からの解放だけではなく全人類に対する、神のさばきからの解放、永遠の救いのメッセージであり慰めのメッセージなのです。

2.偉大なる創造の主  12~26
神は、全能の英知をもって計画を立て、偉大な計量器(手のひら、手の幅、枡、秤、天秤)をもって天地を計り、天地創造をされたのです。神はさらに創造された世界を、偉大な知恵をもって支配しておられます。

3.新しく与えられる命  27~31
この偉大な神は、わたしたちのような小さく、疲れた者に力を与え、守ってくださいます。これらの力をいただくことのできる人は、「主に望みをおく人」と言っていますが、口語訳聖書では「主を待ち望む者は」と訳しています。新しい力を得るためにはまず「主を待つ」のです。この「待つ」とは「忍耐する」との意味もあります。しかも望むのです。「望み」とは信頼することでもあります。
神に絶対信頼をして待ち望む時、神はすばらしい祝福を与えてくださいます。昔のイスラエルの民がメシアの到来を待ち望んで、イエス・キリストが来られ、その十字架と復活によってわたしたちの罪がゆるされ、このキリストの復活の命によって、永遠の新しい命が与えられたようにです。
そしてさらに、わたしたちは永遠の救いである、新天新地を待ち望んでいます。主を信頼して待つのです。その保証は、神の言葉以外にありません。草は枯れ、花はしぼみます。しかし神の言葉は永遠に残るのです。丸ごと神の言葉を信じましょう。

キリストに倣って(2008.2.24)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:  鎌野 善三 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節
キリスト教の中心は、キリストご自身です。クリスチャンは、常にキリストご自身を意識し、このお方の生き方に倣って歩む必要があります。パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、そのような歩みがどういうものかを次のように解き明かします。

1.同じ思いとなる
私たちは、そんなに熱心なクリスチャンでないかもしれません。けれど「幾らかでも、キリストによる励まし」があるのなら、「同じ思い」となるように努めましょう。主が私たちのために命を捨ててくださったことを思うとき、私たちも他の人々のために、幾らかでも犠牲を払う生き方ができるのです。フィリピ教会にも意見の対立があったと思われますが(4:2参照)、どの教会もそんな問題を抱えています。しかし、主イエスに倣うなら必ず一致でき、みんなの「喜びが満たされる」のです。

2.へりくだる
一致の妨げとなるのは、利己心と虚栄心です。逆に一致をもたらすのは「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることです。自分ができないことを他の人がやってくれていると考えるとき、教会は生きた「キリストのからだ」となります。へりくだるとは、「自分は何もできない」と言うのではなく、積極的に「他人のことにも注意を払う」ことです。もし何かをして「ありがた迷惑だ」と言われたときに、「ごめんなさい」と言えることこそ、本当のへりくだりです。

3.神に従う
主ご自身がへりくだりの最高の模範を示して下さいました。神の身分でありながら、自分を無にして、人間と同じ者になられました。さらに主は、父なる神の御心に従って、十字架の死に至るまで従順であられたのです。神の子であるお方さえ従われたのですから、私たちも当然そうすべきです。聖書を通して、悔い改めるべきことを示されたなら、奉仕の姿が問われたなら、献身の招きがあったなら、従順にその声に聞き従いましょう。従う者に、神は豊かな報いを用意しておられます。

キリストのことを思う機会が多ければ多いほど、私たちはこのお方に似たものとされます。本来私たちは、神の姿に似せて創造されたのですから。

生きることはキリスト(2008.2.24)

題   : 「生きることはキリスト」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  1章12節~26節
パウロ先生は、自分が獄中にとらわれている時にも、神様によって愛され、神の愛のふところに捕われている実感をもっているために、いつも周囲の人たちを愛の心をもって励ますことができたのです。

1.福音の前進
パウロは、自分が捕われて牢獄にいることも前向きに捕らえています。それは彼が捕われの身でありながら、看守や牢獄の中にいる犯罪者たちにもイエス・キリストについて語り続けたために、福音が兵隊たちの間にも知られ、救われる者が起こされるほどでした。
わたしたちは小さな困難も愚痴やひがみの原因にすることが多い者です。しかし、困難も福音の前進に役立つように求めるべきです。

2.愛の動機
わたしたちが福音を伝えるのはどこに動機があるでしょう。パウロの時代も現代も同じような動機があります。
ある人たちは、伝道をすることさえ自分の利益のために、つまり自分が人からほめられたいためにしています。
このような人々は、伝道や主のための奉仕でさえ自分の見栄のためにしています。このような人は、ほめられると奉仕をしますが、人に認められなかったらしなかったり、不満をおぼえたりします。

3.生きるとはキリスト
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とパウロは言います。わたしたちの生きている意味はどこにあるでしょう。
わたしたちは、神のご愛のゆえに、キリストの十字架によって罪ゆるされ、復活によって新しい命に生かされ、神に導かれ、神と共に歩むお互いです。
つまりわたしたちは、キリストから離れては一瞬たりとも生きることはできないはずです。キリストを信じるということは、キリストと共に生きるということです。
本気でキリストと共に生きましょう。

祝福の庭(2008.2.17)

題   : 「祝福の庭」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 35章1節~10節
預言者イザヤは、前章で神に従わない者に対する徹底した神のさばきを語っていますが、一転本章では、神に従う者に対する祝福のすばらしさを語っています。
先の章では、悲しみと苦しみうめきが聞こえるような悲惨さが描かれていますが、ここでは、はじめから美しい花が咲き乱れる祝福一杯の庭を見せられるようです。

1.砂漠に花が咲く
神から離れ、潤いのない砂漠のような心にも神様の恵みと哀れみが戻ってくる時、まるで砂漠に花が咲くように、乾いた土地に雨が降り植物が一斉に芽を出し花を咲かせるように神様を喜びたたえるのです。
ここにある「野ばらの花」とは、口語訳聖書ではサフランとなっています。別名「秋咲きのクロッカス」とも呼ばれ、一般的にクロッカスは春に咲き、白、黄色、ピンク、青など様々な色を持ちますが、サフランは秋に咲く花で、青紫が多いようです。この花からすばらしい香料も採取でき、多くの人々に愛されていました。
砂漠のような荒れた土地から、葉より先に花を咲かせるサフランは神様の恵みをあらわすようです。

2.雄々しくあれ
様々な困難が次々と襲い、不安や恐れをもっていた人々に、人間の常識や力ではなく神様の祝福が働かれると、病のいやしも起こり、神様の奇跡的な働きが展開されます。
日本の歴史の中でも、ながい、ながい鎖国の時代にはクリスチャンはものすごい迫害がありました。しかし、江戸時代が終わり、自由な国家が誕生した時、冬が終わると、一番に咲くクロッカス(春サフラン)のように見事に花が咲いたのです。

3.祝福の庭に帰る
神様の裁きの業が終了すると、そこには大きな道が設けられます。この道は神の都に通じていて、主に贖われ、聖なる者とされた人だけが通ることができるので「聖なる道」と呼ばれています。
わたしたちは本来そこに入ることのできない者でしたが、イエス様の十字架と復活の贖いによって神の子供として、帰って来ることを許されているのです。

聖書に聞け(2008.2.10)

題   : 「聖書に聞け」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  34章16節~17節
わたしたちは神様を信じて救いを受け、恵みに満たされていることを感謝します。メッセージもできるだけ神様の恵みと愛について聞きたいと思います。さばきや滅びには向き合いたくないものです。しかし、聖書の現実は神の愛と共に神の厳しい裁きも語られている事実は避けることはできません。本日の34章は正に裁きの書です。

1.世界の審判  1~4
天地創造の神が、全世界の全被造物まで支配される主権者であることを前提にしたさばきの語られている壮大な宣言です。
神に創造され、守られ、恵みの支配を受けながら、神に反逆し、無視し、高慢に振舞う者は必ずさばかれるのです。そしてこのさばきは宇宙的な規模で行なわれます。このさばきの様子は、2ペトロ3:8~13に記されている通りです。

2.エドムの審判  5~15
エドムという国は、元々エサウ(エドム)とヤコブ(イスラエル)の兄弟の子孫からの分かれですから、いわば親戚筋にあたるわけです。しかし、先祖からこの両者の間には常に戦いがありました。イザヤの活躍したアハズ王の時代にも、ユダの国がエドムに侵略されたことがありました。神の民にエドム人が行ったことが、終わりの日に取り上げられ、主が正しい報いを与えられます。イザヤは、終末の時代に全世界に実際に行なわれる神の徹底した裁きの恐ろしさを語っています。わたしたちは、この預言に向き合い、悔い改め、主を知らない方々にこの事実を伝えましょう。

3.聖書に聞け  16~17
あまりに現実離れしたようなさばきの内容に、多くの人はこの言葉を単なる比喩的なこととして見てしまいます。しかし、聖書の預言は今日まで確実に実現していることを見なければいけません。
わたしたちが、旧約聖書、新約聖書を通して語られる主の救いと恵みを読んで恵まれ、感謝を捧げると共に、さばきの記事から目をそらさず、公平にこの現実も受け止めるべきなのです。
御子イエス・キリストの十字架と復活の奇跡によってわたしたちが救いの恵みに与ったように、最後の審判は必ずやってきます。