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礼拝メッセージ

これで充分です(2008.8.24)

題   : 「これで充分です」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 5章21節~24節、ヘブライ11章5~6節
「アダムの系図」は、神によって創造され、罪を犯して堕落したアダムとその子孫がどのようになっていったかを示す記録です。そして、罪のゆえの死の現実に直面しつつも、神の祝福を受けながら、神と共に歩むことで充分であることを証しているのが「エノク」です。

1.空しさを克服されているゆえに
アダムから始まる系図は、アダムの生涯のパタ-ンである「もうけた、生き、死んだ」を繰り返しています。アダムが神のことばに背いた結果、死が人類を支配するようになりました。死とは、もともと分離を意味しており、それには神との交わりからの分離(霊的死)、人間の交わりからの分離(肉体の死)、神の国からの分離(永遠の)があります。
しかし、エノクは、「神がとられたのでいなくなった」(創世記5章24節)、「死を経験しないように、天に移されました」(ヘブライ11章5節)という、死という空しさを克服していただいた充足ある歩みをしました。
これは、キリストの救いのゆえに、神のものとされた者の充分さでもあります。

2.主の臨在を自覚しているゆえに
なぜ、エノクは、65歳になったときに「神と共に歩み」だしたのでしょうか。その時から、彼には、来るべき神の裁きが見えていたからです(ユダの手紙14~15節)。
「こうして彼の目は不朽の国に向かい、彼の歩みは地を離れて引き上げられ、地にあって天の生活を営む三百年、神と共に歩む生涯に入れられた」(澤村五郎)のです。何かと言えば、口実を設けて神から遠ざかるのが人間の常である中で、いかなる時も神の臨在の中を歩むことが、人間の積極的な生き方です。
このように「信仰によって」生きたエノクを、神はどれほど「喜ばれ」たことでしょう(ヘブライ11章5~6節)。この先将来、どのように導かれるか分からなくても、どなたがご一緒であるかを知る信仰者は、それだけで充分です。
「共にいるのは、わたしだ」と言われる主は、「それを自分のものにするのは、あなただ」と招いておられます。

引きつける魅力(2008.8.17)

題   : 「引きつける魅力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 3章7節~19節
主イエスの魅力は、いかなる時にも毅然としておられ、定められた時と自らの進退をわきまえておられたところから溢れる品性にあり、それが人を引きつけました。
主イエスは、しばしば寂しい所に退いて、弟子たちとの親密な交わりを持ち、ご自身のお心を明らかにされました。

1.人を生かす御わざをなされた  7~12節
ガリラヤ人だけでなく、彼らを軽蔑していた人々や異邦人たちを含むおびただしい群衆が主イエスに従ってきました。それによって、主イエスは押しつぶされるほどの迫りを受けられました。これは、主イエスご自身の愛と恵みと力に満ちた引きつける魅力があったからです(ヨハネ12章32節参照)。
病気に悩む人とは、罪という病と死の力に悩み続ける人間の姿を表しています。また、真の神を失って汚れた霊のとりこになっている人とは、イエスが神の子であるという事実は知っていても、イエスを信じ、愛し、従うことをしない人間の姿が表されています。主イエスは、こうした一人ひとりを大切にし、愛し抜き、生かそうとしておられます。そこに、主イエスの引きつける魅力があるのです。
ここに、主イエス・キリストをかしらとする教会の本来の姿があります。

2.人を生かす器を備えられた  13~19節
主イエスは、一人ひとりの必要に応じつつ導くことが、どれだけ骨の折れるわざであるかを知っておられました。そのためには、どうしても主イエスの御わざにたずさわる器が必要でした。そこで、12人を選び、使徒として任命し、遣わしなさったのです。
そのために、主イエスは器造りをされます。引き寄せられる主イエスのそばに集まってきた12人は、主イエスのご意志による選択でした。それは、人間の合理的説明を超えた不思議な選択です。まず、ご自身のみそばに置いて交わりをされ、それから福音宣教のために遣わされました。
私たちの任命書は、主イエスの十字架の血潮で記されています(ヨハネ15章16節)。主に選ばれ、信仰に生きることは、遣わされて生きることなのです。

憩いの日(2008.8.10)

題   : 「憩いの日」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章23節~3章6節
主イエスの復活を覚えて礼拝をささげる「主の日」こそ(ヨハネの黙示録1章10節)、私たちの安息の日であり、また憩いの日です。
主イエスは、「安息日の主」となられたお方です(2章28節)。

1.主と共に憩う日  2章23~28節
人間の本来の安息は、神が創造のわざを終えられた時の安息の中に身を置いて(創世記2章2節)、神を神として仰ぎ、神と共に憩うところにあります。そこでこそ、神を賛美し、神のみことばに聴従することを喜ぶことができるのです。
そのために、安息日をどのように過ごすかとの掟が定められました。ファリサイ派の人々は、主イエスがその掟に抵触すると非難したのです。それに対して、主イエスは、「安息日は、人のために定められた」のであり、ご自分こそ「安息日の主でもある」と宣言されました。
人間が人間らしく生きるために定められた安息日こそ、神の懐で憩うために備えられたものです。その真の回復は、救い主イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられたのです。

2.隣人と共に憩う日  3章1~6節
ファリサイ派の人々は、安息日に会堂で礼拝を守られた主イエスに対しても訴える罠をしかけてきました。彼らの心を鋭く見抜かれた主イエスは、その卑劣さとかたくなな心に対して怒りを表されました。そして、主イエスは、手の萎えた人を癒すことにより、善を行われ、命を救うことをされたのです。
安息日は、「命を救う」という神の祝福を受ける日です。その祝福が自分だけのものではなく、その祝福に与っていない人が同じ祝福に共に与れることを願い求める日です。今、私たちの礼拝を神がご覧になられたら、どう判断されるでしょうか。隣人の魂の救いに動かされているか、それともその魂を殺そうとしているか、どちらでしょう。
聖日は、「主の日」として聖別され、祝福され、安息をもたらす憩いの日です。この日を支配しておられるのは、主イエス・キリストです。

生きざまは死にざま(2008.8.3)

題   : 「生きざまは死にざま」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章20節~30節
キリスト者の死生観の中心には、いつもキリストがおられます。
パウロが、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と告白したように、その生は復活のキリストによって支配され、死もまた復活のキリストの恵みによって支配されているのです。

1.生きる意義
「生きるとはキリスト」とは、生きること即キリストということです。このように告白するキリスト者は、喜びの時であれ、また苦しみの時であれ、絶えずキリストの人格とみこころに完全にとらえられているのです。
ですから、イエス・キリストの十字架の死によって贖い買い取られて神のものとされた者は、パウロと同じように「この身によって」キリストが拡大されていくことを願うのです(20節)。
そして、パウロとフィリピの信徒が一つにされて、福音の信仰のために共に戦ったように、「キリストのために苦しむ」という恵みに生きるのです(27~30節)。互いが、このように生きることを通して、「実り多い働き」をさせていただきたいものです(22節、24~26節)。

2.死ぬ価値
一般に、死はマイナスであり、人を虚無にし、一切が終わりで受け入れられないものと考えられています。キリスト者でさえ、「死ぬことは利益なのです」とか「はるかに望ましい」(21節、23節)とは受け入れられないと言う人もいます。
しかし、人間の最後の敵とも言える「死」が価値あるものと告白できるのは、キリストの十字架と復活の事実のゆえに、肉体的束縛と永遠の死から解き放たれてキリストと共に永遠に生きる望みがあるからです。「あなたは死と墓を見つめるな、復活されたキリストを仰げ」との勧めに耳を傾けたいものです。
キリスト者の生き方は、限りある肉体だけの人生に関わって生きるのではありません。永遠の命を与えられていることを覚えて、生きている時も死ぬ時も、永遠の命に生きることを具体的に現させていただくのです。

礼拝の回復(2008.7.27)

題   : 「礼拝の回復」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記4章1~16節
聖書全体は、礼拝をささげる願望で貫かれています。したがって、今日の私たちにとっては、礼拝を中心とした信仰者生活の確立こそが急務です。
ただし、本日の聖書箇所にあるように、問題は礼拝の破れにあり、真の礼拝の再建こそが神の民の根本課題です。

1.礼拝の破れはどこから  1~8節
カインもアベルも共に神を知り、神に礼拝をささげる生活をしていました。両者のささげ物の種類に問題があったのではなくて、「信仰によって」ささげられているかを神は見ておられます(ヘブライ11章4節)。
目を留められたアベルに対して、目を留められなかったカインは妬み、それが原因で神に反発して怒りを起こしています。それは罪の支配に服従することとなり、兄が弟を殺すという悲劇を生んだのです。
人々が主イエスを十字架に引き渡したのは、妬みからでした(マタイ27章18節)。妬みは、人間の罪の核心部分にあり、共に祈り合い、愛し合い、助け合い、建て上げ合うことをさせません。それが、共に神の前に礼拝をささげることを妨げるものなのです(ガラテヤ5章26節)。

2.礼拝の再建は誰によって  9~16節
主なる神は、カインを見捨てることなく、なおも彼が悔い改めに至り、自分から罪を告白するように促しておられます。それに応答しないカインに対し審きを語られる神は、それでもカインを顧み、どこまでも立ち返る道備えをしておられます。それはまるで、裏切ったイスカリオテのユダに悔い改めと神の救いに招かれる主イエスが、「友よ」と呼びかけておられることに通じます(マタイ26章50節)。
私たちは、主なる神の「どこにいるのか」との問いかけに応答する礼拝者とされ(3章8節)、さらに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」との問いかけに応答して、隣人を顧みる礼拝者となるよう招かれています。主イエス・キリストの十字架による神との関係の回復が与えられ、あわせて人との関係の回復が与えられる礼拝者となりましょう。

新しい喜び(2008.7.20)

題   : 「新しい喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章18節~22節
日本イエス・キリスト教団の信仰告白文の特徴は、私たちが新しく造り変えられることについて詳しく語られていることです。それは、イエス・キリストによって成し遂げられた大いなる救いであり、そこには新しい喜びで満ちています。

1.全存在の中に
誰でも「新しく造り変えられたい」と思っても、古い自分との葛藤があって、願い通りにはいきません。そこで、新しく造り変えられることをあきらめたりします。しかし、このままの生き方でよいのかという問いかけが絶えずつきまといます。
また、ファリサイ派の人々のように、断食をするという掟を守ったり、善行したりすることによって、古い自分を繕おうとします。しかし、それでは、新しい布切れを古い服に継ぎ当てて裂けさせたり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れて張り裂けさせたりしてしまうようなものです。
新しい布切れと新しいぶどう酒は、イエス・キリストご自身です。このお方と結び合わされ、そのご支配の中に生きるためには、このお方を私たちの全存在に受け入れることが大切です。その時、新しく造り変えられた喜びが溢れてくるのです。

2.日々の生活の中に
聖書の時代は、悲しみの経験をしたり、罪を悲しんだりする時に断食をしました。ところが、花婿であるキリストが共におられたので、断食をする悲しみの時はありませんでした。この後主の弟子たちは、主イエスが十字架で死を遂げられるという悲しみを経験しましたが、その死からよみがえられた時に喜びは回復されました。以来、主イエスがいつも私たちと共にいてくださる日々は、喜びの連続です。
新しいぶどう酒にふさわしい、弾力ある新しい革袋であるキリスト者生活が求められます。そのためにはまず、私たちと共にいてくださる主イエスとの交わりを大切にすることです。不断の意識的な交わりを通して、私たちの人格と生活が変貌され続けていくからです。
「主のかたちに変えられていきます」との信仰告白を受け継ぎ、それに生きる一人ひとりであり、教会であらせていだたきましょう。

あなたが召されている(2008.7.13)

題   : 「あなたが召されている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章13節~17節
主イエスが、最も大切にされ、情熱を傾けられたことは、「わたしが来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである」(17節)と呼びよせ召しておられることに尽きます。

1.召された罪人とは誰なのか
当時の徴税人は罪人と同じように数えられていました(15節)。彼らは、神に選ばれたユダヤ人でありながら、神のことばに背いて生きているという理由で、社会から疎外され、交わりを持つことを敬遠されていたのです。律法学者たちは、そういう罪人を退けて、自らは正しい者とした人々でした(16節)。
ところが主イエスは、全く違った視線で徴税人を見ておられます。そして、「わたしに従いなさい」と召しておられます(14節)。主イエスは、自分を正しい者として他者と区別して自己満足している偽善者ではなく、神の前に出ることもできないこころ貧しい者と自覚している罪人を大切にし、情熱を傾けて招いておられるのです。この召しは、主イエスの十字架に直結しています。
自分らしさを求め、自分らしく生きたいと願っても、自分の視点で見ていては解決はありません。主イエスの召しに応えて、主イエスが見られる視点で自らが罪人であることを分からせていただき、十字架による救いにあずかることが大切です。

2.召された罪人はどのように生きるのか
すでに主イエスの召しに応じた人々のように(1章16~20節)、徴税人レビも「立ち上がってイエスに従った」と、召しに応答しています(14節)。彼は、これまでの取り立てる生き方から、分かち合う生き方に変えられ、主イエスに招き入れられたことの喜びを経験しました。そして、レビ自身そのことを忘れることなく、自らも罪人を招く者と変えられ、「イエスのために」生きる者とされたのです(ルカ5章27~29節)。
私たちが神のものとされ、聖別され続けるという恵みは、それを受けたときと同じ「イエスに従った」という信仰と服従を持ち続けることによって持続されます。キリストに召されているという恵みを失わないようにしたいものです。

キリストのすばらしさ(2008.7.6)

題   : 「キリストのすばらしさ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章12節~20節
イエス・キリストの救いをいただき、いつも感謝をもって喜び満ちていたことを証しするのが「フィリピの信徒への手紙」です。
ここでパウロは、自分の身によってキリストのすばらしさが現され、さらに拡大されることを絶えず願っています(20節)。それは、どのようにして成されたのでしょうか。

1.生きざまを通して  12~18節
まずパウロは、監禁という自分の身に起こった生きざまを通して、キリストのすばらしさが拡大されていったことを語っています。それが、福音が新しい展開に切り開かれていくという、福音の前進に役立ったというのです。
すなわち、監禁されるという苦しみを通してでしか伝えることのできない人々に、福音が届けられたのでした(4章22節)。その結果、他のキリスト者の信仰に確信を与え、信仰を深め、彼らを福音の証し人としました(12~14節)。
ところが、純粋な愛の動機で福音を語るだけでなく、自分を誇示するという自分中心の動機で福音を語る者もいました。
それでもパウロは、一貫して、キリストが告げ知らされていることのみを喜びとしました。キリストのすばらしさが現されることのみを喜んだからです(15~18節)。そこに行き詰まりはなく、前進あるのみです。

2.祈りと聖霊の十分な供給によって  19節
以上のような一連の試みは、パウロに霊的成熟をもたらし、キリストに似たものにされていく救いの道となりました。彼は、監禁されている中で、つぶやかず、いらだたずに、常に喜び、絶えず祈り、事ごとに感謝するという聖別にあずかることを体験的に知ることとなったのです。
そのように確信させてくださったのは、聖徒の祈りと聖霊の十分なまでの供給によるのでした。それはちょうど、聖霊が指揮者のようになって、聖徒たちが祈りを合わせて一つとなっていく時に、どんな行き詰まりや困難の中にあっても、キリストのすばらしさは拡大し、福音は前進していったのです(マタイ18章18~19節)。
私たちは、自分が何者であるかを現すのではなく、いかなる時も、キリストのすばらしさを現させていただきたいものです。

突き進む愛(2008.6.29)

題   : 「突き進む愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章1節~12節
主イエスは、いつものように御言葉を語り伝えておられました(2節)。そうした中で主イエスがなされた御わざは、人々が普段の自分を忘れるほどに神を崇め賛美せずにはおれない驚くべきものでした(12節)。
さて、そこには、突進するというにふさわしい人の愛と神の愛がありました。

1.キリストのもとに突進する人の愛  1節~5節前
主イエスが帰ってこられたことを聞きつけた人々は、みことばを熱心に、熱中して、集中して聴いていました。その中に、我を忘れた愛の行動をとった四人の男がいました。中風の人を主イエスのもとに連れてくるために、屋根を破って吊り下ろしたのです。そこには、吊り下ろされる者と吊り下ろす人たちとが一体となって、主イエスのもとに飛び込んで行ったのです。
それに対して、主イエスは、愛によって働く信仰を見られました。吊り下ろされる人の願いを知られ、この人の願いを自分の重荷として背負っている四人の男の信仰を見ておられたのです。
今日の私たちにも、一人を四人でといった、何とかしてキリストのもとにお連れするという一体感と一致が必要です。

2.十字架に突進された神の愛  5節後~12節
さて、主イエスは、「よく来た」とか「立派な信仰だ」と言っておられません。病のいやしよりも、誰もが背負い込んでいる罪の赦しを宣言されました。私たちは、罪が指摘されてうなだれるしかない時に、一緒に反論してくれる人ではない、言い訳をしてくれる人でもない、援護射撃をしてくれる人でもない、罪人と一つになってくださるお方、罪を担い切って赦してくださるお方が必要なのです。
イエス・キリストは、そのことのために全てを注がれたのでした。十字架へ突進するように飛び込んでくださったのです。ここに、神の愛が現れています。だからこそ私たちは、罪の赦しという救いに突き進む以外に、神の前に生きる道はないのです。
今、私たちも、横になっていた罪の床を払い、立って歩みだし、また歩み続ける「驚き」を経験し続けたいものです。

「なぜ」を大切に

題   : 「なぜ」を大切に               宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 3章1節~15節
人間は、「なぜ、人は死を恐れるのか」とか「どうして人は、こうも残酷になれるのか」と、様々に「なぜ」を問い続けることにより成長します。
そうした中で、誰もが神の前に、真剣に「なぜ」と問いかけなければならないものがあり、それは人類の最初からの問いかけでした。

1.なぜ、人間は罪人なのか  1~7節
神によって造られた人間は、神が命じられたことに従う中に本当の自由があり、祝福があることをすでに知っていました(2章16~17節)。
ところが、狡猾なサタンは、神のことばを歪めて疑わせ(1節)、神のことばを全面的に否定しました(4節)。そのようにして、神の愛と真実を疑わせて、自分の奴隷・罪の奴隷にしようとしたのです(5節)。それに対して人間は、神のことばを曖昧にし、付け加え、割り引きして誘惑に陥ったのでした(3、6節)。
その結果、人間は、自分中心の見方をするようになり、自分をそのまま受け入れることができないものとなり、神に対しても、人に対しても、自分自身に対しても取り繕い、罪を隠そうとして、自分で正当化するようになったのです(7節)。
人間は、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。

2.なぜ、神は罪人を招かれるのか  8~15節
神は、そんな人間に対して、「何をしたか」ではなく「どこにいるか」と語りかけられました(9節)。その招きに対して、人間はどこまでも身を隠し、さばきを恐れて逃げようとしました(10節)。悔い改めを促される神に対して(11節)、男は女に責任転嫁し、あげくは神に責任転嫁しています(12節)。そして、女はサタンに責任転嫁をする始末でした(13節)。
神は、人類が神に背いた直後から、救いの道を備えられました(15節)。その救いの極みとして、主イエスが十字架上で叫ばれた祈りがあります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)であり、ここに、本来捨てられて当然の私たちに代わって、本来捨てられる必要のない主イエスが捨てられてくださったという救いがあります。この招きに真実に応答するのみです。

主のあわれみ(2008.6.15)

題   : 「主のあわれみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章40節~45節
聖書が語る「憐れみ」は、主なる神の言動の根幹をなしているご性質で、はらわたが痛むほどに心動く同情であり、激しい愛そのものです。「イエスが深く憐れんで」くださったことにより、何がもたらされたでしょうか。

1.主イエスの謙(へりくだ)りのみわざがもたらされた
「重い皮膚病」は、潜伏している病で、それを覆い隠そうとするものでした。肉体をむしばむだけでなく、社会から隔離され、いやしめられていました(レビ13章45~46節)。その病を宣言するのも、また清められたと宣言するのも祭司でした。
この病を患う人が、主イエスの憐れみにすがって、近づきました。それに対して主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」、ご自身の心として清めるみわざをなされ、回復させ、本来おるべきところにお返しになられたのです。
人間は自分自身の真相を覆い隠そうとする罪深さがあります。そんな罪人に触れて罪そのものになってくださった主イエスこそ、十字架の血潮によって、その罪を赦し、きよめてくださるお方です。このようにして、憐れみの主が謙ってくださったのです。

2.私たちに謙(へりくだ)る祈りがもたらされる
重い皮膚病を患っていた人には、最初から明確な信仰の姿勢がありました。謙ってひざまずき、「御心ならば」と祈り願うのでした。それに対して、主イエスは「よろしい」と、彼の真実な信仰の姿勢を見られて、きよめるわざをなされました。
このような謙る信仰の姿勢は、世々の信仰者たちが貫いてきたことです(1テモテ1章12~17節参照)。
果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どれ位真剣に受け止めているでしょうか。また、自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれだけ神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であると自覚しているでしょうか。信仰とは、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。主イエスの十字架でこそ、神の憐れみに触れさせていただくことができるのです。私たちは、どこまでも憐れみの主の後に従って行くことが大切です。

喜びの連続(2008.6.8)

題   : 「喜びの連続」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章29節~39節

主イエスは、シモンの姑をいやされ、人々に対しても数々のみわざをなされ、さらに宣教を展開していかれました。シモン・ペトロは、そうした一連の出来事を喜びをもって語り、人々も喜びをもって聴いてきました。
私たちは、自らが体験する様々の出来事を主イエスとの生きた関わりの中で捉え直すとき、喜びが連続して溢れてきます。

1.家族と共に主に仕える喜び  29~31節
シモンの姑は、彼らの家に来られた主イエスによってその病がいやされました。彼女は、それ以来喜びに溢れて、主イエスに仕えるようになりました。この出来事は、シモン・ペトロにとっても終生忘れることのできないこととなり、彼の妻も喜びをもって主に仕えるようになりました(第1コリント9章5節参照)。
何もかも捨てて主イエスに従うことは、後には勝れる祝福と永遠の命を受ける恵みとなるのです(マルコ10章28~31節)。
主イエスは、ご自身に従う人のみか、その家族の一人ひとりにも心をかけ、思いを向け、一緒に主に仕える喜びへと導いてくださいます。

2.主からの使命に忠実である喜び  32~39節
主イエスは、病める人々を深くあわれんでいやし、神の恵みを現されて、愛のゆえに人々の必要に応えられました。ところが、主イエスは祈られる中で、父なる神のみこころは、福音の宣教によってもたらされる神の救いであることを確認されました。そこで、病をいやすこと以上に、時にはそれを捨て去るようにして、福音の宣教を最優先しておられます。
ペトロは、主イエスがカファルナウムで祈られたこの祈りを覚えつつ、その同じ祈りに自らも置くようにして従う喜びを経験しました。そして、ペトロはこの後、ガリラヤからロ-マにまで至る福音宣教の使命を主イエスと共に進めていきました。
今日の私たちが最も優先すべきことは、神の恵みが生き生きとなされる魂のいやしと救いのみわざが起こされることを祈ることです。そして、その恵みにあずかった私たちが、福音宣教の使命に忠実に生きることを喜びとすることです。

福音にあずかる(2008.6.1)

題   : 「福音にあずかる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章1節~11節
私たちが、いかなる状況下にあっても、またどのような時にも歓喜の生活を送ることは難しいものです。私たちの人生全般に喜びが満ち溢れているためには、イエス・キリストに結び合わされて、福音にあずかり、また福音にあずかり続けることが大切です。

1.福音にあずかっていることの感謝  3~8節
「福音にあずかっている」とは、イエス・キリストの十字架と復活によって現された神の救いの福音を聴いて、それを信じ救われたところから始まります。この福音の惠みを共有する私たちは、聖霊との交わり(2章1節)とキリストの苦しみにあずかりつつ(3章10節)、福音のために重荷を持って福音を伝えていくことにより、福音に生きる喜びを分かち合っていくのです。
フィリピ教会は、その誕生の最初の日から(使徒言行録16章11~40節)、この手紙が記された時まで、パウロの宣教の働きを共有してきました(フィリピ4章14~15)。パウロは、そのことをキリストの愛の心をもって受けとめ、感謝しています。
福音にあずかった者として、福音のために自らとその人生、そして時や財などを共有し、福音が広められていく喜びを経験したいものです。

2.福音にあずかり続けることへの祈り  6節、9~11節
私たちは、福音にあずかり続け、やがて「キリストの日」と言われる主の再臨の日に、主の御前に立つことのできるよう願っています。そのためには、それを成し遂げ全うさせてくださるイエス・キリストご自身に信頼し、任せていくことが大切です。
そして、私たちが、神を愛し、他者を愛し、キリストの体なる教会を愛する愛に富ませていただき、鋭い感覚を与えていただくことが大切です。それによって、何が神のみこころに適う重要なことであるかを判断させていただきつつ信仰生活を歩んでいくのです。
以上のことに、私たちの祈りの焦点が置かれていることが重要です。そうした中から、私たちはキリストの体なる教会に身を委ねるものとして、福音にあずかり続けていく喜びを経験したいものです。

驚きの波紋(2008.5.25)

題   : 「驚きの波紋」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章21節~28節
主の弟子たちは、生涯忘れることのできない主イエスとの出会いをして後すぐに、会堂における礼拝を体験しました。
そこにおいて人々は、ひっくり返るほどに心を動かされる驚きと(22節)、聖なるものに触れたときに経験する畏れが伴う驚きをしています(27節) 。

1.キリストの権威あるみことばへの驚き  21~22節
礼拝に集った人々は、主イエスの教えに非常に驚きました。それはまた、将来の教会の指導者となった弟子たちにとって、忘れることのできない礼拝となりました。キリストと共にある礼拝は、心動かす礼拝となるからです。
また、その驚きは、主イエスが語られたみことばに権威があったことによります。それは、語り方に権威があったからというより、神の恵みの支配が及んでいるという語られた内容そのものに権威がありました(1章15節)。
今日の私たちの礼拝が、主と共にある礼拝として、みことばに権威がある礼拝であり、心動かされる驚きを伴った礼拝であるかを問い続けたいものです。

2.キリストの権威あるみわざへの驚き  23~28節
この礼拝の中に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。この汚れた霊は、神の恵みの支配に逆らい続ける力であり、人の魂と心と体を不健全で不自由なものにしようと、主イエスの権威あるみわざがなされること拒みます。しかし、主イエスは、この男から汚れた霊を追い出して、彼を解き放たれました。
今日私たちは、恐れる力、悪習慣の力、怒りの力、赦せない力、嫉妬する力、不安の力といった私たちを不自由にしているものに支配されています。主イエスは、そんな私たちに、権威あるみことばとみわざをもって、神の惠みのみわざを成し続けておられます。その畏れ驚くべきキリストのみわざの極致は、汚れた霊の力を打ち破られた十字架であり、復活の力にあります(16章15~17節)。
マルコによる福音書は、宣教文書です。この後、迫害の中を通された教会は、この驚きの波紋の拡がりの中に前進していきました。そして、今日の私たちにまで至っているのです。

人間になる(2008.5.18)

題   : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 2章1節~25節
ここでは、「神にかたどって創造された」(1章27節)人間について、別の視点から描いています。主なる神の方からの愛と真実をもっての語りかけや働きかけに対して、人間の側からは信頼と服従をもって応答していくことが強調されています。
単に人間であること以上に、本来の人間になることの大切さを教えているのです。

1.主なる神に向かって生きるようになる  4~17節
人間は、もともと顔を上に向けて生きるように造られました。すなわち、神に向かって生きる者なのです。
主なる神は、朽ちていく土の塵で形づくられた人間を、神の霊を吹き入れていのちある尊いものとされました。そして、楽しみと喜びに溢れた「エデンの園」を備えてくださり、そこを正しく治めるように人間に託され、その祝福が世界中に及ぶようにされたのです。ただし、何が善で何が悪かとの基準を決めることができるのは神のみであり、それに人間が従って生きることが永遠の祝福となるのです。
私たちは、この神に向かって生きる人間になるように、主なる神から招かれているのです。

2.愛が分かち合えるようになる  18~25節
人間が人間らしくなるのは、人と人の間を大切にして生きることです。そこで主なる神は、お互いに神に向かい合い、お互いが向かい合い、お互いが同じ方向に向かって使命に生きることのできる「彼に合う」ふさわしい者を造られました。
そこには、主なる神の愛の配慮がありました。一つには、神の被造物に人が名をつけるという作業を通して、人を助ける者を見い出すことができるようにしておられます。もう一つには、神は人を助ける者を造られるのに、愛の源である人の「あばら骨」を取り出して造られました。互いに愛を分かち合うことができるためでした。こうして、父母を離れて男女が結ばれるのは、互いに自立した者として、互いに自分自身を相手に与えていくことにあったのです。
愛が分かち合える人間になれるように、その原点に立ち返らせてくださるのがイエス・キリストであり、その救いのみわざです。