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礼拝メッセージ

信仰の生まれるところ(2009.8.2)

題   : 「信仰の生まれるところ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章14節~29節
ここには、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外の弟子たちの不信仰と、一人の父親の揺れ動く信仰が語られています。これらのことを通して、信仰が生まれるところには、必ず新たな信仰の気づきがあることを教えられます。

1.偉大な信仰の気づき
父親は、幼い時から「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」に取り付かれた息子を癒していただきたい一心でいました。主イエスは、弟子たちの不信仰のゆえに成しえなかったことを忍耐して担い、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)と言われました。このように、人に求められることは、全能の主を信頼する素直さと、いかなることでも主イエスのもとに持って行くことです。
父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と嘆願しました。それに対して、主イエスは、問題は父親自身にあることを指摘されたのです(23節)。この時父親は、「信仰のないわたしに」(24節)に気づいたのです。私たちも、様々な課題や問題に直面して、問題はこの自分にあると気づき、自分の信仰に思いを向けることです。これは偉大な気づきです。

2.時々刻々の信仰の気づき
この日、父親と息子は主イエスによって新しく立ち上がることが出来ました(25~27節)。
ところで、弟子たちは、悪質な霊を追い出せなかった理由が分かりませんでした(28節)。と言うのも、以前に主イエスから権威をいただいて遣わされた時には、悪霊を追い出すことが出来たからです(6章12~13節)。
信仰と祈りは(29節、マタイ17章20節)、時々刻々の継続と謙遜をもって主イエスの助けと導きを求めないと、無力になります。それは、祈りという敬虔な行為に力があるというのではなく、祈りは全能の神に信頼し、神の力に全く依存することなのです。この気づきがあるところに、信仰が生まれるのです。主イエスが、今日、どのように働いてくださるのか、期待したいものです。

人格から人格に(2009.7.26)

題   : 「人格から人格に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 3章1節~10節
主なる神は、ペトロのように弱い器を取り上げて、ご自身の栄光と福音の前進のために用いられます。ペトロは、キリストを「持っている」という明確な経験をしていましたので、聖霊によってキリストを「あげよう」と提供しました。これが、「人格から人格に」なされるキリストの救いの御業です。

1.自覚的なキリスト経験
施しを乞う男と二人の使徒との間には、関心を向けられることを必要とする男の視線と、その男の存在に関心を向け、その痛みに関わろうとする使徒たちの視線とが交差しています(3~5節)。それに続いてペトロは、キリストを信じる者は新たに自立する道を歩ませていただき、神を当てにする生き方に変えられることを語り導いています(6~8)。
キリストを「持っている」とは(ヘブライ4章14節)、キリストこそが私の救い主であり、私の主であることを自覚し、私の全てを支配しておられるのは内住のキリストであることを自覚していることを言います。そして、生きることがキリストであることを体験的に知っていることなのです。

2.自覚的な聖霊経験
使徒たちは、男にとって最も必要とされ、根本的な解決を与えるキリストの救いを「あげよう」と提供しました。彼らに、聖霊によって神の愛が注がれていたからです。キリストの救いとは、キリストに対する真実な悔い改めと主体的な信仰によって、男がキリストに結びつけられることでした(16節、19節)。この御業は、全て聖霊によることでした。
男は、このキリストの御業のゆえに歓喜し、神を賛美し、神に栄光を帰しています。そして、キリストの証人となったのです(8~9節)。
私たちは、主イエスからいただいて持っているものを他者に与えることができます。「わたしたちを見なさい」との聖霊の一致をもって、自覚的なキリスト経験、自覚的な聖霊経験をしていくのです。

仰ぎ見る日々(2009.7.19)

題   : 「仰ぎ見る日々」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章2節~13節
信仰とは、主なる神を仰ぎ見ることです。人は、罪を犯した時、また苦難の中に置かれた時など、目を伏せ、自分の周囲にしか目が向かなくなり、現実を見て失望したりします。また、他者を見てうらやみ、自分を見て一層惨めになったりします。
主イエスの変貌の出来事は、主を仰ぎ見る者にどういう意味があるのでしょうか。

1.永遠の救いの保証
主イエスが「高い山」に登られたのは、「祈るため」でした。そして、祈っておられるうちに、そのお姿が変えられたのでした(ルカ9章28~29節)。そこにおいて、主イエスがモ-セとエリヤと語っておられたことは、ご自身が「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」であり(同31節)、主の栄光が最も現された十字架と復活の出来事についてでした(9~13節)。
主イエスの十字架と復活なくして、私たちの救いとその完成はありません。主イエスの変貌の出来事は、十字架と復活による永遠の救いの保証を意味しており、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント3章18節)いく栄化の先駆けとなったのです。私たちは、栄光の主イエスを仰ぐのみです。

2.輝く生涯の動力
主イエスの変貌の出来事は、信仰者の地上の生涯を姿変わりさせる力を与え続けてきました(ロ-マ12章2節)。その恵みは、礼拝を中心とした信仰生活を輝きあるものにし続けてきました。
私たちのうちに、このような姿変わりさせられることを嫌っているところがないでしょうか。そうならないために、私たちは、主イエスが語られている御言葉に聴き従い続けることが大切です(7節)。また、いかなる時も、私たちと共におられる主イエスを仰ぎ見ることが大切です(8節)。そうするならば、主イエスといつも共にいる自分の姿が見えてきます。そして、人を見る目も変ってきますし、自分の周囲を見る目も変ってくるのです。
主を仰ぎ見る日々の連続が、主を仰ぎ見る生涯となるのです。

主を畏れる心(2009.7.12)

題   : 「主を畏れる心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章37節~47節
教会は、主を畏れつつ前進して来ました(9章31節)。
主を畏れる心が、恐れることを失った鈍感さから解き放ち、恐怖に対しては勝利させてくれます。そして、主を畏れる心は、生き生きとした信仰生活を生み出していきます(43節)。

1.真の回心へと導く  37~41節
神に対する恐怖の恐れは、神から離れようとしたり、神抜きで生きていこうと願ったりするようになります(創世記3章10節)。その結果、罪の責任転嫁が起こり、神への信頼、神の御心を知ろうとすることがなくなります。
しかし、神を畏れる心は、他に責任転嫁することなく、被害者意識を持つことなく、愛の神に近づかせます。ペトロを通して福音が語られたとき、人々は誠実に応答しました。「大いに心を打たれ」て罪の自覚が生まれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と切実な求道心が生まれました(37節)。そして、福音を受け入れて回心し、主イエスに対する悔い改めと信仰による洗礼の恵みに与かったのです(38~41節)。
このように、主なる神への畏れの心は、私たちを救いの喜びに変えるのです(ルカ23章40~43節)。

2.生きた信仰生活へと導く  42~47節
神に対する恐怖の恐れは、信仰生活を息苦しくし、愛、喜び、感謝、平安といった信仰生活の活力を奪います。
しかし、神を畏れる心は、主への賛美、感謝、喜びを本物にします。そして、私たちを主に引き寄せ、信仰生活の中心である礼拝生活と教会生活を生き生きとしたものにします(詩編111編)。それは、福音に聴き従うことによって(42節a)、福音を共有する交わりによって(42節b、44~45節、46節b)、神への全き信頼を通して(42c、46節a)培われます。
神は、このような信仰生活を歩む聖徒の群を信頼されて、神の宣教を進められます(47節)。私たちが主を畏れる心であり続けることによって、生きた信仰生活が展開されていくのです。

「アーメン」の生涯(2009.7.5)

題   : 「『アーメン』の生涯」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 8章27節~9章1節
主イエスは、ご自分が何者であるかを弟子たちに問いかけ、十字架と復活の事実を公然と語られています。私たちは、主イエスが弟子たちや群衆に求められたように、真実なキリストに対する信仰をもって、「ア-メン」の生涯を全うしたいものです。

1.「ア-メン」とキリストを告白する  27~32節a
主イエスが、「わたしを何者と言うか」と問いかけられたことに対して、人々は預言者の一人と言いました。それに対して、弟子を代表してペトロは、「あなたは、メシア」、油注がれた救い主と明確な告白をしました(29節)。そして、主イエスは、ご自身の十字架と復活による真剣な救いの御業に対して、弟子たちに真剣な信仰告白を求められたのです(31~32節a)。
主イエスは、私たちの家庭で、職場で、学び舎で、また病に伏せる中で、様々な人生の戦いの場で、「あなたは、わたしを何者だと言うか」と問いかけておられます。そのような中で、私たちがキリストを告白していくとき、福音は力を発揮し、罪と死から解放されている恵みを経験していくのです。

2.「ア-メン」とキリストに生きる  32節b~9章1節
主イエスは、ご自身をいさめたペトロを叱られました。「サタン、引き下がれ」とは、十字架を避けさせようと背後で働くサタンの誘惑を言われたのです(33節)。
さて、十字架の道を歩まれた主イエスは、弟子たちだけではなく全ての人に対して、「わたしに従いなさい」と語っておられます。そのためには、自分にしがみつかないで「自分を捨て」、「自分の十字架を背負って」自分に死に、キリストに生きていただくのです。そして、キリストのため、福音のために、自分の全てを主イエスに任せていくなら、神の命に与かり続けるのです(34~37節)。
私たちは、自分を中心に据えれば据えるほど、自分のことしか見えなくなり、隣人を愛するゆとりもなくなり、いよいよ不安になります。主イエスに従ってこそ、主イエスが見えてくるのです。今この時、主イエスと御言葉を恥じることなく、「ア-メン」とキリストを告白し、キリストに生きる者とさせていただきましょう。

終末に生きる(2009.6.28)

題   : 「終末に生きる」   宣教:   足立 幹夫  牧師
聖書  : ぺトロの手紙一 4章7節~11節
万物の終わりとは、主の再臨とその後に行われる審判のことです。ところが、紛争の続出、自然界に起きている異変、それに人心の退廃した今の世相を見ますと、その時は近づいていると思わされます。この終わりの時に生きるキリスト者は、どのような備えが必要なのでしょうか。

1.思慮深く、身を慎んで祈る  7節
主の再臨が近いと聞くと、宣教が第一と考えますが、祈りが先になっています。どんなことを祈るのでしょうか。思慮深く慎んで祈るとは、キリスト者が異端や悪霊の教えに惑わされたり、動揺されたりしないで、聖書信仰に固く立って、主の再臨。

2.愛し合い、もてなし合う  8~9節
心を込めてとは、気の合う人にだけでなく、偏らず隔てず、いつまでも関わり合って生きることです。そして、愛は多くの罪を覆うのです。だから、人の失敗や汚点は、吹聴したくなるものですが、お互いにカバ-し合うのです。ペトロは、7度を70倍するように言われた主の御言葉を心にとめていたのです。
主は、私たちの罪を十字架の血で覆い包んでくださいました。この主の愛によって救われた者が、罪を覆い合うのは当然のことなのです。もてなし合いも、この心でするのです。主はそれを喜ばれ、再臨のとき豊かに報いてくださいます。

3.神の恵みの善い管理者となる  10~11節
キリスト者が管理して活用する天与の賜物には、才能、時間、財宝があります。主は、折角の賜物を自分のためにだけ使おうとした金持ちを、愚かな者と言われました。しかし、私たちは、善い管理者となり、賜物を活用することによって、主から褒められる者になりましょう。その賜物を用いる動機と目的は、個々人か賞賛されるためではなく、それを授与された主が崇められるためです。
私たちは、目覚めて祈る教会、うるわしい交わりの教会、皆が積極的に奉仕している教会となって、主の再臨の日まで、祈り合い励まし合って前進していきましょう。

二人は一緒に(2009.6.21)

題   : 「二人は一緒に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  22章1節~14節
アブラハムは、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と神から命じられました。これは、アブラハムにとって大きな信仰の危機でしたが、そこから逃げることなく、命じられた場所に向かって「二人は一緒に歩いて行った」(6節、8節)のです。

1.試みの中において
アブラハムにとっては、全てが順調にいっている時に与えられた試みでした。それは、「全能の神」であり(17章1節)、「永遠の神」(21章33節)がなされることとは思えなかったので、彼の信仰は揺さぶられました。また、アブラハムとイサクは、説明がつかない、納得できないことに逃げ出したいとの思いをもって、「その場所」(4節、9節)に立ったのです。二人のうちどちらが欠けても成り立たない神の計画の中で、二人は一緒に歩き続けたのです。
聖書は、神を信じていても試みに出会うことを否定していません。むしろ、そうした経験の必要と尊さを明らかにしています。試みは、「いろいろな試練」とあるように、その種類は一様ではありませんし、それを通して信仰が本物とされ、忍耐という品性が与えられ、成長させてくださる大きな喜びなのです(ヤコブ1章2~4節)。

2.神を信じる信仰をもって
アブラハムは全能の神を信じ信頼していました(5節、8節、9~10節)。神の呼びかけに「はい」と答えて、神の御手の中に留まり続けました(1節、11節)。
イサクは、この父と同じ信仰に立っていました。二人を結びつけていたものは、全てを備えてくださる神を信じる信仰であり、父の信仰に子が従い、この信仰に父が励まされています。そんな彼らを神は見守り、導き備えられたのです(14節)。
私たちは、互いが神を信頼しながら(イザヤ30章15節)、親子、夫婦、兄弟、そして教会員のお互い、また伝道者と信徒などの関わりの中で、「二人は一緒に歩いて行った」との歩みを続けることが求められています。そこにこそ、神の祝福の御業がなされていくのです(16~18節)。

霊的であるとは(2009.6.4)

題   : 「霊的であるとは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章14節~36節
聖霊に満たされた人々によって、神の福音が伝えられていきました。中でもペトロは、他の11人の使徒たちと共に、大胆に語りだしています。そのメッセ-ジは、聖霊によって開かれたもので、真に霊的であるとはどういうことかを教えています。

1.御言葉が開かれる
ペトロは、聖霊が注がれた「すべて人に」よって、神の御言葉が語られ、また神のビジョンが明らかにされると語っています。それは、旧約聖書の預言の成就であったと指摘しています(17~21節、ヨエル3章1~5節)。さらに、詩編を引用することにより(25~28節、34~35節)、ペトロが語ることはすべて聖書に基づくものであることを明らかにしました。
聖霊は、主イエスが語られたことを思い起こさせ(ヨハネ14章26節)、真理に導かれるお方です(同16章13節)。霊的であるとは、聖霊的であるということであり、御言葉が開かれることです(詩編119編130節)。そして、御言葉にともなう聖霊の導きを喜び、従い、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

2.イエス・キリストが見えている
続いてペトロは、「このイエス」の十字架と復活と昇天のゆえに(23節、24節、32節、36節)、聖霊が注がれたことを明らかにしています(33節)。このように、聖霊の注ぎと満たしは、主イエスの救いの事実に拠っています。私たちは、聖霊によって、キリストご自身に目が開かれるのです(1コリント12章3節)。そして、キリストの臨在の恵みに与かりつつ、キリストの証人とならせていただくのです(25~28節)。
私たちは、キリストの十字架と復活に固く結ばれているなら、何ものによっても支配されることはありません。そして、キリストを愛し、信じ、喜びに満ち溢れるのです(1ペトロ1章8~9節)。私たちは、イエス・キリストを主と仰ぎ見ることのできる霊的な存在です。そうした者の集まりである教会は、キリストを主とする霊的な生きものなのです。

開かれよ、心の目(2009.6.7)

題   : 「開かれよ、心の目」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ  8章22節~26節
この聖書記事は、預言の成就として(イザヤ29章18節)、マルコのみが記しています。主イエスは、肉体上の目が開かれるという以上に、神が見えない、自分自身の本当の姿が見えないでいる私たちの霊的な目が開かれることを望んでおられます。

1.漸次的な開眼
主イエスは、連れて来られた盲人の手を取って、村の外に連れ出して癒しの業をされました。それは、主イエスと盲人が一対一となる、より深い人格と人格の出会いの経験でした。
主イエスは、盲人の両目に唾をつけて、二度に分けて両手をその上に置かれました。一度だけ触れることによって完全な業をされなかったのは、理由がありました。主イエスが、盲人の信仰の鈍さにご自身の力を表す速度を合わせられたからです。
その実例が、ペトロの告白と信仰に見うけられます(29~33節)。告白していても信仰が伴っていない時は、主イエスは漸次的に働かれるのです。
主イエスは、信仰の鈍さゆえに開眼していない私たちに、「何か見えるか」と問いかけつつ、導いておられるのです。

2.完全な開眼
盲人は、主イエスによって目が開かれていく過程で、「人が見えます」と、その喜びを表しています(24節)。その人とは、主イエスご自身であり、次第に周囲にいた人も見えてきたのでした(25節)。
主イエスは、ご自身の力を表すことによって肉体の目を開かれました。しかし、主イエスが私たちの霊的な目を開くためには、自らの十字架の死という自己犠牲以外の方法ではなさいませんでした。
今も主イエスが語りかけてくださることを聴きつつ、十字架と復活の救いの御業と、主イエスの臨在と導きを「はっきり見える」者とさせていただきましょう。そうするならば、課題や問題ばかりを見てしまう目ではなく、大いなる主イエスを仰ぎ見る目をもって歩み続ける者とされるのです。

教会の起源(2009.5.31)

題   : 「教会の起源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章1節~13節
五旬節の日が来て」とは、イ-スタ-から50日目にあたるペンテコステの日を言います。この日は、キリスト教会の起源として祝いの時でした。また、キリストの救いがあまねく拡大していくという、豊かな霊の収穫の時の始まりでした。

1.神の霊によって  1~4節
「一同が一つになって集まっていると」、突然聖霊が降りました。聖霊は、風が激しく吹くように、神に背を向けて生きていた者に新しい神の命を与え、次から次へと新しい命を生み出していきます。聖霊は、炎のように、私たちの罪や汚れを焼き尽くし、キリストのお姿を私たちの内に焼き付け、私たちをキリストのものとして燃え続けさせてくださいます。そして、聖霊は、舌に象徴されるように、私たちが福音の言葉を語れるようにしてくださいます。
聖霊は、「突然・・・天から・・・一人一人の上にとどまった」のであり、その結果「一同は聖霊に満たされ」たのです。このようにして、教会は、聖霊によって始められたのであり、今も変わらず聖霊が働いておられるのです。

2.神の言葉によって  5~13節
ペンテコステの出来事は、宣教する教会が始まった時でした。聖霊に満たされた人々は、「゛霊゛が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のでした。人々が驚いたことは、各地から来ていた人々の生まれ故郷の国語で、「神の偉大な業」が語られていたことです。この時、「天下のあらゆる国から」の人々によって福音が語られています。しかも、文化・国語・地方性にマッチした形で「めいめいが生まれた故郷の言葉」によって語られています。このように、聖霊が一人一人に降る時、神は私たちをご自身の器として用いてくださるのです。
ところで、聖霊が降ったその時から、教会は宣教の群れとなりました。聖霊の満たしとその支配の中にあったからです。私たちは、失敗や挫折があっても、閉塞感を覚えることがあっても、時が良くても悪くても、宣教する教会を導かれる聖霊の働きに、心と思いを向けていく必要があるのです。

恵みを無にしない(2009.5.24)

題   : 「恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  8章1節~21節
主イエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われ(2節)、いつも憐れみを注ぎ続けられました。そこから溢れ出た今回のパンの奇跡は、先回のパンの奇跡(6章30~44節)と同様に、主イエスの恵みの御業でした。私たちは、今日も変わらない主イエスの恵みを無にすることはできません。

1.満ち溢れる恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、多くの共通するものがあります。中でも、「残った」パン屑を籠に集めたことは(8節)、神の恵みを無駄しないことを教えています。 ところで、主イエスは、偽善と世俗主義の悪影響が及んで、神の恵みが変質させられることを嘆き悲しまれました。弟子たちが、信仰をもって神の恵みを受け止めることができなくなったからです(11~21節)。
さて、私たちは、神の満ち溢れる恵みを変質させ、信仰によって受け止めることができず、それを無にしていないかと問われます。キリストの救いの恵みは満ち溢れており(2コリント9章18節)、その喜び、慰め、栄光、感謝、希望も満ち溢れています。主イエスに心柔らかくしていただき、信仰の目、信仰の耳を開いていただきましょう。

2.拡大されていく恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、相違点もあります。注目すべきことは、先回は弟子たち方が心配して主イエスに相談しましたが(6章35~36節)、今回は主イエスの方から話しかけておられます(8章1~2節)。
前者は、主イエスが弟子たちの信仰をテストされたことに重きをおき、後者は、弟子たちの異邦人に対する冷淡な態度に対して主イエスが憐れみの御業をされたことに重きをおいています。
私たちは、常に主イエスの御業に満ち溢れ、それが拡大されていくことが求められています。ですから私たちは、今ある全てを主イエスの御手に委ねて、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(1コリント15章58節)と、神の恵みを拡大させていく使命を果たしていくのです。

受け継がれる祈り(2009.5.17)

題   : 「受け継がれる祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  1章12節~26節
復活された主イエスは、40日後に昇天されました(9節)。その時から使徒たちは、10日の間、神の約束に従ってエルサレムで過ごしました(4節)。その期間、「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。

1.信じ抜く祈り
使徒たちは、主イエスが昇天された後、どうすべきかと協議していたのではありませんし、今後の長期計画を練るために集まったのでもありません。ただ、彼らは、エルサレムの「泊まっていた家の上の部屋」で、約束の聖霊が与えられることを信じ(ヘブライ11章6節)、祈り待ち望みました。しかも、「熱心に祈っていた」と、祈りに打ち込んでいたのです。10日間祈りは、彼らにとって信仰の試される期間でした。
キリスト教会の歴史は、信仰による待望の祈りを体験した人たちによって進められてきました。それは、私たちの教会にとっても例外ではありません。祈る時間がないほど忙しいスケジュ-ルになって、優先順位を間違えないようにしたいものです。祈りに忙しい教会であらせていただきましょう。

2.一致して心注ぎだす祈り
ここには、使徒たちだけではなく、主イエスに従ってきた人たちが集まり、「心合わせて」同じ心で、祈りに打ち込んでいます。ここでの彼らは、主イエスの救いの御業が何を意味するのかを問い直し、自らを吟味し、悔い改め、罪を言い表し、互いに赦しあう時となりました。真の一致は、主イエスの十字架のもとで、真実な悔い砕かれた心を注ぎだすところから生まれてくるのです(ヤコブ5章16節)。
さて、12使徒の補充のために選ばれたのは、他の使徒と行動を共にした「主の復活の証人」でした(21~22節)。そのために人々は、祈って、「すべての心をご存じてある」主に判断を委ねています(23~24節)。
祈りは、教会が進んでいく上で、人ができる最善の備えです。こうした祈りこそが、いつの時代にも、いかなる状況下にあっても、受け継がれていくのです。

喜びにも、悲しみにも(2009.5.10)

題   : 「喜びにも、悲しみにも」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  18章9節~15節
アブラハムとサラ夫妻は、神の召しを受けて、未見未知のカナンの地に旅立ちました(創世記12章1~5節)。その時から、妻サラは、呟くことなく、夫に従って行きました。この出発は、彼女の生涯にどのような信仰をもたらしたでしょうか。

1.神の真実への信仰
サラは、不妊の女でしたが(創世記11章30節)、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロ-マ4章⒘節)を信じる必要がありました。ところが、彼女は、神の時が待ちきれず、女奴隷ハガルを夫にすすめるという不信仰の行動を取ったのです。その実は、嫉妬と憎しみが渦巻く家庭のトラブルを刈り取ることとなりました(創世記16章)。
しかし、神は、約束どおりサラに祝福を与えられました。神は、ご自身の使者を通して彼女に懐妊したことを知らせ(同18章13~15節)、約束の子イサクを与えられたのです(同21章1~8節)。
こうして、信仰の弱いサラは、悔い改めて、神は約束されたことは必ず成し遂げられる「真実な方」であるとの信仰に飛躍したのです(ヘブライ11章11節)。神の真実が最大限に現されたのは、イエス・キリストの十字架です。私たちは、いかなる時にも十字架を仰ぎ、神の真実に対する信仰を貫くことが必要です。

2.従順の信仰
アブラハムとサラ夫妻の最大の試練は、最愛の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の命令でした(創世記22章)。アブラハムは、自らも納得できないことでしたし、他者に説明することはとうていできないことでした。しかし、彼は、神の命じられることに従ったのです。また、「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3章6節)。
彼女は、喜びにも、悲しみにも、神に従順な夫の行く所どこまでも従ったのです。このサラの強い感化が、神を畏れ、父母に仕える従順の子イサクを生み出したと言えるでしょう。
主イエスは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5章8節)。まして私たちが従順を学び続けることは、当然のことなのです。

開かれる世界(2009.5.3)

題   : 「開かれる世界」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  7章31節~37節
神の福音に与かった人は、それを分かち合うことを願います。この福音は、今日にいたるまで、「この方のなさったことはすべてすばらしい」(37節)と証しされ、伝道されてきました。この福音の世界は、これからも開かれ続けていきます。

1.自分の魂が開かれる
連れて来られた「耳が聞こえず舌の回らない人」は、コミュニケ-ションが遮断され、視界のみの世界に生きていた人でした。主イエスは、この人の痛みにご自身の体をくっつけて触れられ、それが主イエスご自身の深い憐れみによる御業であることを明らかにされました。そして、「エッファタ」と言われて、この人の人格全体を解き放たれたのです(33~35節)。
私たちの間のコミュニケ-ションが、不足し、断絶している原因はどこにあるのでしょうか。私たちが、神の語りかけに魂の耳を開いていない、神に語りかける魂の口がきけないでいることにあります。しかし、憐れみの神は、私たちが神と心を通わせることができるように、さらに私たちお互いが心を通わせることができるように、イエス・キリストによって救いの道を開いてくだったのです。

2.隣人の魂が開かれる
かつては、主イエスに退去を求めたゲラサ人が(マルコ5章17節)、ここでは、耳の聞こえないで舌のもつれていた人を主イエスのもとに連れてきました。かつては、自分たちの豚のほうを大切に思っていましたが、今や隣人の救いを願っています。汚れた霊にとりつかれていた人が、主イエスによって解き放たれた救いを「デカポリス地方に言い広め」ていたからです(同19~20節)。一人の人の真実な証の持つ力は、どんな人の魂も開き、変えてしまうのです。
主なる神は、私たちを主の弟子として、必要な舌と耳を備えてくださいます(イザヤ50章4~6節)。舌は、すべて疲れて重荷を負う人に与える主の言葉です。そのために、主なる神は、神に聴いて悟ろうとする私たちの耳を全開してくださいます。 主の弟子は、周囲にいる隣人の魂のために、開かれた心、開かれた耳をもって、開かれた福音の言葉を語り続ける者なのです。

信仰の余裕(2009.4.26)

題   : 「信仰の余裕」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ  7章24節~30節
ここに登場する母親は、わが子を愛するゆえに、その娘のあまりにも重い病のいやしを主イエスに願い求めています。
それに対して主イエスは、冷淡とも思える言葉を語り、態度を取られました。しかし、母親は主イエスに対する信仰を失いませんでした。その余裕は、いったいどこからきているのでしょうか。

1.キリストの愛を知るゆえに
母親が、主イエスに願い続けたのは(26節)、主イエスが沈黙されたからであり、無視するような態度を取られたからです(マタイ15章23節)。挙句の果て拒絶されました(27節)。
しかし、母親は主イエスの語られたことに腹を立てることなく、拒絶の言葉と受け取ることもありませんでした。それどころか、満腹した子供たちの食べこぼしを小犬も食べますと、主イエスの豊かな愛と恵みに与かることを願っています(28節)。ですから、「主よ」と呼びかけることができたのです。
私たちが祈り願うことの答えが得られないとき、なお信じ、祈り続けることができのは、神の御言葉をどう聴くかにかかっています。いかなるときも、主の愛に信頼することです。そこに、信仰のゆとりが生れます。

2.キリストを信じ抜くゆえに
母親は、主イエスの「足もとにひれ伏し」懇願しています(25節)。彼女は、ひれ伏したまま主の御言葉を聴き、見上げながら、「主よ、お言葉どおりです」と謙虚に語っています(28節、口語訳聖書)。主の御言葉を聴き取ることができ、主の恵みを見ることができるのは、魂がひれ伏し、ひざまずいている時です。
ところで、主イエスの語られた通りに信じた母親は、あれほど執拗に懇願した人とは思えないほどに、あっさりと家に帰っています(29~30節)。それは、見ないで信じる信仰だったからです。
私たちは、罪人であり、弱く小さな者でしかありません。主イエスは、そんな私たちを愛し抜き、救いを成し遂げてくださいました。私たちは、主イエスの前にひれ伏し、信じ抜くだけです。そこから、信仰の余裕が生れるのです。