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礼拝メッセージ

選びの器(2010.5.23)

宣教題  : 「選びの器」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : 使徒言行録 9章1節-19節
神の時、神の霊、神の人が相重なるように展開されているのが、使徒言行録です。
聖霊の注ぎと満たしによって、どのような神の人が造られていくのでしょうか。その良い一つの例として、サウロが選びの器として祈る中に見い出すことができます。

1.生きておられるキリストの御前における祈り  1~6節
サウロは、当初キリストの福音に対して敵意と反感と憎しみに凝り固まった迫害者でした。彼は、主イエスは過去の人であって、今も生きておられる神として信じていなかったのです。復活のキリストは、そんなサウロにご自身を現わされて、教会を迫害することが神であるキリストに対する罪であることを明らかにされました。そして、神の大きな憐みによって立ち直らせてくださる救いの道を示されました(1テモテ1章12~17節)。
私たちに聖霊が臨むと直ちに自覚することは、キリストが共におられるという現実です(使徒言行録2章25節)。生きておられるキリストの御前に自分自身を置いて心を開くなら、主が何をしてくださるかを見ることができるようになります。主が共におられることを自覚する生涯は、どのような障害をも乗り越えさせます。
2.砕かれ、へりくだる祈り  7~19a節
復活のキリストにお会いしたサウロは、何も見えない状態で人々の手に引かれ、ダマスコで三日間を祈りの中に過ごしました。この時、人の助けを必要としない誇り高い人物であったサウロが、砕かれていく経験をしたのです。
そのために、この時だけ神の歴史の舞台に登場した「アナニア」が用いられて、使徒パウロが生み出されたのでした。アナニアは、神の御言葉を信じ、神の救いの御業を信じ、サウロとその祈りを信じて、執り成し、サウロを新しい使命へと導きました。そのようにして、サウロは目が開かれ、聖霊に満たされて、真に神に生きる道を示されたのでした。
私たちは、サウロと同じように主から選びの器とされています。主なる神は、砕かれて、へりくだった霊の人の祈りを求めておられます(イザヤ57章15節)。

キリストの権威(2010.5.16)

宣教題  : 「キリストの権威」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 11章27節~12章12節
権威は、脅しなどによって無理やりに服従させるのではなく、自発的に従うことを促す力です。とりわけ、キリストの権威に服する信仰の歩みは、幸いな人生と変えられます。

1.キリストの権威の根拠
受難週の三日目、エルサレムにおける出来事です。ユダヤ最高議会の代表者たちは、前日に宮清めをされた主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問いかけてきました(11章27~28節)。それに対して主イエスは、ヨハネのバプテスマの権威が神からのものか、それとも人からのものかと反問されました(同29~33節)。主イエスは、代表者たちが分かろうとしない頑なな心であることを見抜いておられたのです。
そこで主イエスは、譬えを用いてキリストの権威の根拠を明らかにされました(12章1~12節)。そこには、忍耐深い神の愛と、最終的には神の独り子イエスを死に追いやった人間の強情で貪欲な罪の姿があります。主イエスが十字架に架けられて「捨てた石」のようになられ、復活されて「隅の親石」となられることにより、人には「不思議に見える」救いの御業を成されたのです。これこそが、キリストの権威の根拠であり、私たちを喜び踊る礼拝へと駆り立てるのです(詩編118編)。

2.キリストの権威の支配
私たちは、父親の権威、母親の権威、教師の権威、牧師の権威といった様々な権威の下に生きています。これらは大事にしなければなりませんし、それには責任がともなってきます。大切なことは、それらの権威が、キリストの権威の支配の中に培われていくなら健全なものとなるのです。
ですから私たちは、心の領域だけでなく、生活と生涯の全ての領域に、キリストの愛の権威の支配をいただくことが大切です。主イエスに対して、「ここに入っていただいては困ります」という領域を作らないようにしたいものです。キリストの権威の支配の中に生きることが、私たちの歩みを確かなものとするのです。

女性の感化(2010.5.9)

宣教題  : 「女性の感化」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 27章1節~17節
神の歴史が展開されるところには、連綿として後を絶たない聖徒の姿があり、その多くは母や妻といった女性の感化を受けています。
ヤコブがリベカから受けた感化も例外ではありません。彼らの功罪を直視しつつ、今日の私たちへの語りかけを聴くことが大切です。

1.神の約束を待ち望む信仰の感化
イサクとリベカ夫婦には、委ねられた双子の兄エサウと弟ヤコブに対してお互いの偏愛がありました。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛し、二人の兄弟の違いが増幅され、その関係は複雑なものになっていったのです(25章28節)。ヤコブは、エサウから長子の権利を奪っただけでなく(25章29~34節)、母リベカから命じられるままに、偽ってエサウから神の祝福を奪いました(27章)。
ところで神は、リベカの胎に双子が宿ったときに「兄は弟に仕えるようになる」との約束をされていました(25章23節)。にもかかわらず、リベカはこの神の約束を認め、信じ、待ち望むことができなかったのです。神は、このような人間的な失敗も御手の中にあって用いられ、約束どおりに最善へと導かれます(ロ-マ9章10節)。神の約束に信頼して歩む信仰のゆとりをいただきたいものです。

2.惜しみない犠牲を注ぐ愛の感化
ヤコブは長子の特権と祝福を受けましたが、家におられなくなり、相続人でありながら家出人となりました。そして、20年後にヤコブが故郷に帰ったときには、リベカはすでに召されていました。つまり、リベカにとってこの事件は、最愛のヤコブとの生き別れであったのです。
さて、リベカが「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます」(13節)と言った盲目的ともいえる母性愛の中に、犠牲的な愛、贖罪愛の一断片を見ることができます。人は神の愛に触れてこそ、その愛に生き、その愛を注ぐことができるのです。
リベカの神は、私の神であり、私たちの神であり、あなたの神なのです。

神の導き(2010.5.2)

宣教題  : 「神の導き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章26節~40節
異邦人であったエチオピアの高官がバプテスマを受けるに至った過程には、明確な神の導きがありました。それは、救いの御業がなされるために用いられた人にも、救いに与かった人にもありました。主イエスの救いの御業が展開される時には、この神の導きを誰しもが経験するのです。

1.神の導きの深さ  26~28節
フィリボの足跡をたどると、彼は聖霊の導きの中を縦横無尽に用いられています。そうしたなかで彼は、サマリアでの大きな働きから、突如として荒れた寂しいガザに下るように命じられました。彼は、柔軟にその導きに従って「すぐ出かけて行った」のです。
「折から」福音を必要としているエチオピアの高官がいました。思いがけない神の設定です。それは、フィリボにとっても、高官にとっても未知の遭遇と言うべきものでした。全てをご存知の神は、明らかに二人が出会うように導かれたのです。
神の導きは、福音を届ける人にとっても、福音に与かる人にとっても、人知を超えた深いものであるという信仰の気づきをいただきたいものです。
2.神の導きの確かさ  29~40節
これは、エチオピアの高官がエルサレムでの礼拝を終えて、帰国する途中での出来事でした。彼が「預言者イザヤの書」を朗読しながら旅をしていた時に、聖霊に導かれたフィリボが近づいてきました。彼は朗読されていた御言葉を通して(イザヤ53章7~8節)、そこに記されているのは受難のイエス・キリストであることと、福音の真髄を語りました。聖霊が御言葉を用いて働かれるとき、主イエスの救いの御業が成されます。
この確かな神の導きは、福音に与かっている人を通して進められます。そして、自発的な信仰告白とバプテスマへと導き、自立した信仰の歩みへと導きます。
神の導きを必要としない人は、一人もいません。そして、教会も神の導きを必要としています。
それに従える一人ひとりであり、教会とさせていただきましょう。

祈りの力(2010.4.25)

宣教題  : 「祈りの力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 11章20節~25節
主イエスが呪われたいちじくの木は、翌日の朝には根元から枯れていました。その光景に驚嘆する弟子たちに、主イエスは信仰に裏打ちされた祈りの力について教えられたのです(20~21節)。

1.疑わないで信じる祈り  22~24節
主イエスが「少しも疑わず」にと語られたのは、弟子たちが風に吹かれて揺れ動く海の波のような状態であったからです。つまり、一方では神の御言葉に基づいて信じ祈っても、片方では神の言われるとおりにはいかないと疑う心があったのです。それは、「生き方全体に安定を欠く人」の姿を表しています(ヤコブ1章6~8節)。
主イエスは、そんな弟子たちに「神を信じなさい」、すなわち神への祈りを信じなさいと命じられました。それは、山をも動かすことのできる祈り、すなわち不可能を可能とされる神への信仰の祈りであり、それによって人が経験する困難・試練などが除き去られると言われたのです。私たちにとっての最大最高の山は、全ての人に共通する罪と死です。これらは、主イエスの十字架と復活による救いによって、すでに取り除かれているのです。今私たちには、「既に取り除かれたと信じる」信仰の祈りが求められるのです。
2.赦しの恵みに立ち続ける祈り  25節
主イエスは、祈る者が備えておくべき大切なこととして、正しい対人関係をつくり、また保つことを勧められました。それは、神との関係が正しくつくられていてこそ可能となります。これを妨げるのは、「あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」との神の赦しの恵みを疑わせる罪だけです。
私たちが神を疑い、主イエスの救いを疑い、祈りを疑う不信仰の罪を持ったままで祈っても、神は自動的にその祈りを聞いてくださるお方ではありません。主イエスの十字架の赦しの恵みに堅く立ち続けて祈ることが大切です。
信じて祈る祈りにこそ力があります。私たちは、祈りにおいて取り扱っていただくことにより、豊かな実を結ばせていただけるのです。

偽りのない信仰(2010.4.18)

宣教題  : 「偽りのない信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章9節~25節
ここに登場するシモンは、神の御業に対して無頓着な人物でした。つまり、聖霊のご支配と導きに生きるのではなく、自分が聖霊の働きを支配しようとするものでした。そのような在り方が、「心が神の前に正しくなかった」(21節)と指摘されています。それは、どうした点においてでしょうか。

1.神の賜物であるとの理解において
シモンは、フィリポを通して主イエスを信じ洗礼を受け、いつも彼について歩きました。そのシモンは、ペトロとヨハネを通してなされる聖霊の御業が魅力的に見えたので、それと同じ業ができる力を金で買おうとしたのでした。当然のことながら、ペトロはシモンを叱責し、「この悪事を悔い改め」ることを迫りました。
神の救いの御業は、すべて神からの賜物です。主イエスの十字架と復活によって与えられた罪の赦し、新生、永遠の命の賦与などの救いの恵みは、ただ主イエスを信じる信仰によって受け取るものなのです。そして、私たちにその恵みを具体的に与からせてくださるのは聖霊であり、聖霊に支配され続けて行くことが大切なのです。こうした神の賜物は、私たちの罪や汚れや無力さしか持ち合わせない私たちにとって、「ただ」信仰によって与えられるのです。
2.神の栄光のためにという動機において
シモンの動機は自分を偉大な者として見せつけることであり、その有様は古い自分に縛られている状態でした。ペトロは、そのようなシモンを悔い改めに導こうとしましたが、自分の護身を懇願するだけでした。そうした中でも、ペトロとヨハネは「主の言葉を力強く証しして語った」のです。
神の賜物に与かった者は、神の栄光が現わされることを願い求めます。決して自分を誇示して、自分を見せようとは願いません。ここに、神の前に謙遜かつ正しく生きる姿があります。
私たちは、内にシモン的なものが潜んでいないかと問いつつ、絶えず栄光を主に帰していく歩みが必要です。

今も生きておられる主(2010.4.11)

宣教題   : 「今も生きておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 16章19節~20節
主イエスが死から復活され、命あふれる恵みをもたらしてくださったことを心から祝い、讃えるのが聖日礼拝です。この時私たちは、全存在をもって、今も生きておられる主に向かうことが大切です。
今も生きておられる主は、どのように私たちと関わってくださるのでしょうか。

1.私たちと共にいてくださる
主イエスは復活された後、「天に上げられ、神の右の座につかれ」ました。これは、私たちが日常経験する悲しみの別離とは違って、主イエスはいつでも、どこでも私たちと共にいてくださることを意味しています(マタイ28章20節)。
このイエスを主と告白することは、罪と死に支配されて生きるのではなく、神の恵みの支配の中に生きることなのです。主イエスが「どういうお方か」を知ることは大切ですが、「今どこにおられるか」を知ることはさらに重要なことです。行き詰まりを覚えている真っただ中に、死を迎えるその場に共におられる主イエスは、私たちの苦痛や死と一つになってくださり、それに勝利してくださいます。そして、一時だけ共にいてくださるのではなくて、常時共にいてくださるお方です。

2.私たちと共に働いてくださる
続いて、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教」しました。主イエスの救いの御業、そして「イエスは主
である」ことを宣ベ伝えたのです。そのとき、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」のです。それは、確かな地盤の上に「安定した錨」を下ろすように(ヘブライ6章19節)、主イエスが共に働いていてくださるという確かな信仰をもって神の御言葉を語ることなのです。
私たちは、神の御言葉を担って生きています。ところが、その御言葉を宣べ伝えることに自信を無くし、また臆しやすいものです。しかし、私たちは、いかなる時も信仰をもって聖書の御言葉を伝えていく時に、主イエスが一緒に働いてくださることを経験するのです。

復活からの道(2010.4.4)

宣教題   : 「復活からの道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章9節~18節
キリストの復活という喜びの知らせが(6節)、「ここにはおられない」という言葉だけが残った人々には恐れを生じさせました(8節)。そこで、キリストは弟子たちをはじめとする多くの人々に、ご自身を現わされました。それによって、キリストの復活が確かであることを明らかにされたのです。

1.信じなかった人たちによって証明された  9~14節
キリストは、マグダラのマリアを通して「イエスと一緒にいた人々」に、二人の弟子を通してエルサレムに留まっている「残りの人たちに」、「復活されたイエスを見た人々」を通して11弟子たちに復活の事実を知らせましたが、誰も「信じなかった」のです。このように、キリストの復活を容易に信じなかったことが、キリストの復活が彼らの思いこみでもなく、だまされたからでもなく、逆に確かな事実であることを証ししています。
こうした人々がキリストを信じなかったのは、信じようとしない心のかたくなさが原因でした。ですから、真実な証人の証言を通して、キリストの復活の事実を信じる信仰が求められるのです。
2.信じた人たちによって証言された  15~19節
キリストは、不信仰でかたくなな弟子たちに恵みを注がれ、「滅びの宣言」ではなく、キリストを信じることによって「救われる」ことを語られました。そして、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と招かれました。
キリストは、必死になって、ご自身の救いの中に人間を引き戻そうとされるお方です。そのために、信じた主の弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じて、彼らを用いて神の救いを進めてこられました。その時、キリストの名によって種々の不思議な御業がなされるとともに、何よりも救いと祝福と慰めの「新しい言葉」を語ることによってなされてきたのです。
キリストを信じた者の人生は、恐れで終わることなく、キリストによって神を讃え、神の救いの言葉を語る者に変えられるのです。

十字架への道(2010.3.28)

宣教題  : 「十字架への道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章32節~42節
エルサレムの町の東側にあたるオリ-ブ山の中腹にあった「ゲツセマネ」でのことです。そこで主イエスは、迫り来る受難を間近に控えて、その心の思いを父なる神に向かって訴えるように祈られました。さらに弟子たちに向かっても、その思いをはっきりと告げられました。

1.キリストの苦しみが現われている
ゲツセマネの祈りは、主イエスの壮絶な苦しみ、苦闘、苦悶の様を伝えています。主の苦しみは十字架上だけではなかったのです。そこに現わされた主の恐れと悲しみは、神を否む罪と死に対して抱かれたものでした(33~34節)。
それに対して主イエスは、神の御心に適う道を求められ、全ての人の罪に対して注がれる神の怒りを一身に引き受ける祈りをささげられたのです(35~36節)。
しかし弟子たちは、眠りこけてしまいました(37節)。肉体の疲れによって眠っただけではなく、魂も眠ってしまって神の御心に無頓着になっていたのです。主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)と語られたように、キリストの苦しみを覚えつつ、魂が目覚めていたいものです。

2.キリストの従順が現われている
ゲツセマネの祈りに見る主イエスのお姿は、徹底して人となられた神、どこまでも私たち人間の側に立ち続けておられる救い主を伝えています。主イエスは、「御心に適う」道を選ばれて、全てを明け渡されました。主は死に至るまで父なる神に従われたことを通して、従順を学ばれたのです(ヘブライ5章7~8節)。ですから私たちも、神への従順を学び続けていくことが大切なのです。
さて、ゲツセマネの祈りを終えられた主イエスは、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう」(41~42節)と言われました。人間の罪がどれほど絶望的であっても、死の闇がどんなに深く覆っていても、行き詰まりの中に八方塞がりでうめいていても、主イエスは立ちあがって歩み出してくださいます。今私たちは立ち上がって、信仰の従順の一歩を踏み出させていただきましょう。

喜びの拡大を(2010.3.21)

宣教題  : 「喜びの拡大を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章1節~8節
キリストの十字架と復活の福音は、迫害の中にあっても前進し続け、勝利をもたらしました。その結果、人々に大きな恵みが注がれ、「人々から非常に好意を持たれて」いました(4章33節)。
さらに、散らされた主の弟子が福音宣教を拡大していったことにより、人々に救いの喜びが拡がって行ったのです(8章8節)。

1.試練を通して拡がっていく  1~4節
ステファノの殉教の死は、人々に大きな悲しみをもたらしました。また、教会は大迫害を受け、使徒以外の主の弟子たちは散らされるという試練を経験しました。
しかし、神は生きておられ、試練を試練のままで終わらせなさいませんでした。それを逆手にとるかのようにして、散らされて行った主の弟子たちによって福音宣教が拡げられて行きました。また、この出来事を通して、サウロが救われる伏線となりました。神が働かれると、どんなに荒れ狂った迫害者も、神によって新たに用いられるようになるのです。
このように、福音がもたらす神の創造的な御業は、いかなる状況下であっても、それを価値あるものとされるのです。

2.恵みの器を用いて拡がっていく  4~8節
宣教の領域は拡がって行きます。散らされて行った主の弟子たちは、ギリシャ語を使う人たちで、ギリシャ語を使う地域へと遣わされて行きました。彼らは、使徒ではなくて、言わば信徒でした。その中の一人に教会に仕えるフィリポがいました。このように、教会に対して起きた迫害は、むしろ信徒の働きに拍車をかける結果となったのです。
主の弟子は、関わることのできる領域や地域や関係筋といった恵みの場に遣わされて行きます。そこにおいて、キリストの救いに与かっている者は、生きておられるキリストを見ることはできませんが、キリストを愛するという喜びに生きるようになるのです(1ペトロ1章8~9節)。このようにして、集められては散らされて行く恵みの器は、福音に与かっている大きな喜びを拡大していくのです。

ひとり子をたもう神の愛(2010.3.14)

宣教題  : 「ひとり子をたもう神の愛」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : ヨハネ 3章16節~21節
私たちはこの世に生まれてから、いつも愛を求めて生きています。赤ちゃんの時はお父さんお母さんの愛、大人になると家族や仕事などです。このように私たちはいつも誰かに愛を求めて生きているのです。

1.神はこの世を愛して下さった。
神様はこの世を愛して下さいました。しかし、この世は神様を無視し、罪によって失われた世界と言えます。神様に背いて、罪に満ちた私たちを、神様は限りなく愛して下さっているのです。その愛は、無私で無償の愛、人種的偏見や人間的差別もありません。神様は、私たちが罪人であろうとも愛して下さっているのです。神様の愛は、どのように表されたのでしょうか?

2.神はそのひとり子を賜ったほどに愛して下さった。
キリストの十字架によって、神様の愛が具体的に表されました。人間は罪を持ったままでは絶対に御国に行くことは出来ません。でも神様は、全ての人が救われて御国に行くことが出来るように、キリストをこの世に送られたのです。
神様はどうして、これほどまでにキリストの十字架と言う大きな愛の犠牲を払って下さったのでしょうか?

3.神は滅びから永遠の命に移すほどに愛して下さった。
キリストは、私たちが永遠の滅びから救われて永遠の命を得る為に、私たちの罪の罰の代わりに十字架で受けて死んで下さったのです。
永遠の命とは、肉体の死だけではありません。誘惑に打ち勝つ命であり、試練や困難の中にいても私たちが生き続けることが出来る命なのです。
献身する前、私は試練に遭いました。私を支えてくれたのは、私の祈りを聞かれていた神様だけでした。それまでの私は、人に言えない罪もありました。それにも関わらず私を愛し続けて下さっている神様は、信じ求める者に勝利を与えて導いて下さるお方なのです。日々、神様の愛を求めて、キリストによる救いの勝利を得ましょう。

真実であれ(2010.3.7)

宣教題   : 「真実であれ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 11章12節~19節
受難の道を歩まれるキリストは、エルサレム入城の翌日に理解しがたい行動をとられました。それは、実のないいちじくの木を呪い、荒々しく神殿をきよめられた出来事です。そこには、キリストご自身の失望と怒りが現わされているのですが、その根底にはキリストの真実が秘められていました。

1.真実を見抜かれるキリスト
キリストは、葉だけを茂らせて実のならないいちじくの木を枯らせてしまわれました。それは、神の民が過越祭という神への熱心な礼拝をささげているにもかかわらず、神の民としてふさわしい実を結んでいないことを教えようとされた行動であり、そこに潜む偽善を明らかにされたのです。続いてキリストは、神殿におけるささげ物の売買や両替がなされていることの中に、「それを強盗の巣にしてしまった」と偽善の罪が横行していることをあばかれました。キリストは、そのような偽善がご自身を十字架につけてしまうことを見抜いておられたのです。
さて、キリストが十字架において命を投げ出してくださった事実には、偽りのない愛が現わされています(ロ-マ12章9節、1ヨハネ3章16節)。このキリストの真実な愛が私たちを真実な者に変えるのです。
2.真実を求められるキリスト
真実を見抜かれるキリストは、私たちに真実を求められます。
まず「わたしの家」とは、今日の教会です。そこはキリストと交わり、神を礼拝する「祈りの家」です。このことを忘れてしまうと、私たちは自分の考えや感情を満足させるために神を引き合いに出して利用するようになってしまいます。このことに関しては、絶えず信仰の目覚めをいただいていることが大切です。
また私たちは、キリストの十字架の贖いによって「聖霊が宿ってくださる神殿」とされました(1コリント6章19~20節)。ですから私たちは、日々にキリストの愛と真実に支配されて、神のものとして生きることが求められているのです。そのようにして、真実な信仰の歩みが造られていくのです。

キリストを見る(2010.2.28)

宣教題  : 「キリストを見る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 7章54節~60節

キリストの福音に敵対する人々の罪を指摘したステファノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしています。そのような時でもステファノは、死からよみがえって、いつも生きておられるキリストを仰ぎ見て生きていました(55~56節)。

1.キリストによって勝利者とされる
「天を見つめ」ているとは、いかなる時も主なる神を信じ仰いでいるということです。その結果、ステファノは父なる神の右に立っておられる復活のキリストを見たのでした。聖霊に満たされるならば、人の憎悪や問題の中にあっても、見なければならないキリストが見えてくるのです。
その時ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、キリストを信頼して祈っています。彼は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)と叫ばれ、十字架上で救いを成し遂げて勝利されたキリストを見ていたのです。十字架のキリストを見る時、私たちの罪は赦されて滅びることはありません。復活されたキリストを見る時、死が私たちの終わりとなることはありません。キリストによる罪と死に対する勝利者とならせていただけるのです。

2.キリストに似る証人とされる
さらにステファノは、自分が見たものについて人々にも呼びかけ、証しをしています(56節)。それに
対して、人々は聞く耳をもたず、それを否定しようとしました(57~58節)。
そんな中でステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)と執り成しの祈りをささげました。これは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と相通じる祈りです。赦すということには、実に大きな力がいります(コロサイ3章13節)。今も生きておられるキリストを見つづける者は、キリストの十字架によって赦していただいたゆえに、赦すことにおいてキリストのようにならせていただけるのです。

柔和を身に帯びて(2010.2.21)

宣教題  : 「柔和を身に帯びて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  11章1節~11節
主イエスは、十字架を目指してエルサレムに入城されました。人々は主イエスのそんな決意も知らないで、「ホサナ(どうかお救い下さい)」と、王を迎えるように歓呼しています。
この出来事について旧約聖書の預言者は、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリヤ9章9節)と、柔和を身に帯びた平和の王の入城であったと語っています。

1.卑しめられた受難のキリスト
主イエスは、人々が期待するような地上に新しい権力を打ち立てる戦いの王ではなく、わざわざ「子ろば」に乗って、柔和で平和をもたらす救い主としてのお姿を表わしておられます。
ところで「柔和」という言葉には、高ぶらないで謙った、卑しめられたという意味が含まれています。主イエスが最も卑しめられたのは、受難のしもべとして十字架にお架かりくださった時でした。そこには、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(1ペトロ2章22~24節)と、愛のゆえに黙しておられるお姿があります。この主イエスの柔和が、私たちを罪と死と滅びから救い、生かす力となったのです。

2.こころ砕かれた謙遜なキリスト者
人々は、主イエスを王として迎え入れたのですが、キリストについての理解が欠けていたために、数日後には主イエスを裏切り、「十字架に架けろ」と叫んで豹変してしまいました。彼らは、自分が持っていた先入観でキリストを理解し、自分が納得できる範囲でキリストを受け入れたのですが、そうでない場合は切り捨てようとしたのです。ここに人間の罪の姿があります。
私たちは、自分の主張やわがままにしがみつかないで、聖書が証言しているキリストご自身をそのまま受け入れ、心砕かれて従っていきたいものです。柔和なキリストが私たちの全てを支配してくださるとき、私たちは謙遜で柔和な者に造られていくのです。

信仰の目覚め(2010.2.14)

宣教題  : 「信仰の目覚め」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記  28章10節~22節
ヤコブが、旅の途中の荒野で過ごした夜の出来事です。彼は父との死別の悲しみ、兄を裏切った心の痛み、いつも傍にいて守ってくれた母との別れの悲しみ、旅そのものの恐怖、見知らぬ土地への不安を秘めながら、石を枕にしての野宿をしました。
そのような中で、ヤコブは神と出会い、信仰に目覚めさせられるのです。

1.見上げよ!  10~15節
ヤコブは、この時まで神の話しは聞かされ、神の祝福に与かることに憧れていましたが、神ご自身を個人的に知ることはありませんでした。そんな彼が、神の御名を呼んで助けを求めて眠りについたのではないでしょうか。その夜彼は夢を見て、神を見上げる時を与えられたのです。
まず神ご自身が、ヤコブの暗い孤独な現実へ下ってこられたことを見ました(12節)。また、神ご自身がヤコブの傍らに立っておられるのを見ました(13節)。そして、神ご自身がヤコブと共にいてくださり、守り、見捨てることはないとの力強い約束を見聞きしました(15節)。
私たちは、いかなる時であっても、この神を見上げることを忘れてはなりません。

2.目覚めよ!  16~22節
ヤコブは、夜の眠りからの目覚めと同時に、信仰の目覚めを経験しました(16~17節)。そして、その場所を聖別し、信仰の記念としました(18節)。さらに、神のヤコブに対する約束に対して(20~21節)、ヤコブは神に誓願しています(22節)。その誓願は、神が約束されていることが実現すると堅く信じつつも、不安な気持ちの入れ混じったものでした。
ところでヤコブは、信仰を目覚めさせられた場所を「ベテル(神の家)」と名付けています(19節)。そこから信仰の歩みが始まったヤコブは、そこに戻ってきて礼拝をしました(35章3節)。このベテルこそ、今日の教会です。そしてイエス・キリストが、天に通じる唯一の階段となってくださいました(ヨハネ1章51節)。私たちは、神の臨在とその守りの中を御国を目指して歩んでいるのです。