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礼拝メッセージ

祭司の王国という使命(2011.5.22)

宣教題  : 「祭司の王国という使命」   宣教:     鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記 19章1節~9節
なぜ、神はイスラエルをエジプトの手から救い出され、神の声に従うという型に生きることを求められたのか。それはイスラエルが「祭司の王国、聖なる国民となる」(19:6)ためである。「聖なる国民」とは神の所有の民(19:4)を、さらに神の声に従う生き方をする民(19:5)を表している。それでは「祭司の王国」とはどのような姿だろうか。

1.神を王とする
エジプトの王ファラオの支配下にあったイスラエルは、出エジプトを通してその父祖の神、天地の創造者である主を王とする民となった。教会は、この世を愛され、イエスを送られた方の支配下に生きる、神の王国の民である。しかし、キリスト者もこの神以外の何ものかの支配下に生きることがある。主が王となり、その王国に歩み続けない限り、キリスト者はイスラエルと同じ失敗を繰り返す(32章)。

2.祭司たちの群
祭司は、イスラエルとその神である主の間に立って主の祝福を取りなすために選ばれた人々である(民数6:23−27)。しかし、祭司が主の声に聞き従わなかった時、主は彼らを罰する(レビ10章)。そして、主の祝福は民には届かない。教会は神の祝福をこの世に取りなす祭司として立てられている。祝福となって地上の民を祝福するという約束(創世12:3)は、教会が主に従い続けることを通して実現する。
しかし、キリスト者がひとりぼっちでいるならば、この使命を果たすことはできない。「祭司たち」とあるように、お互いを助け、支え合う群だからこそ使命を果たすことができるのだ。霊の導きに従って歩み、霊の実を結ぶ命令は、個人ではなく教会に向けて語られ(ガラテヤ5:16)、お互いの間での挑み合いを禁じていることからも(同5:26)、支え合うお互いが教会の使命の完遂のために必須であることは明らかだ。

真に柔和であるために(2011.5.15)

宣教題  : 「真に柔和であるために」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章53節~65節、1ペトロ2章23節
主イエスが捕えられて裁判を受けられた場面は、主の十字架のクライマックスに至る途中の出来事です。実はこのところに、キリストの柔和さが表れています(マタイ11章28~30節参照)。

1.キリストの沈黙の御姿に   53節~61節前
最高法院での裁判は、最初から主イエスの死刑ありきのもので、多くの者たちがした偽証はことごとく崩壊していきました(55節)。この時主イエスは、終始沈黙しておられました(60節~61節前)。
主イエスは、その地上の歩みの中で沈黙された時が幾つかあります。意味のない議論に挑発された時(ヨハネ8章4~6節)、相手の信仰を試し励ます時(マタイ15章22~23節)、単なる好奇心や興味からくる求めの時(ルカ23章8~9節)、この箇所で見るように、ののしられ苦しめられた時でした。究極には、十字架上で徹底して沈黙されました(マルコ15章29~32節)。
主イエスは、相手がどのような態度であっても、愛のゆえに沈黙されました。ここに、キリストの柔和さがあります。

2.キリストの忍従の御姿に   61節後~63節
主イエスは、大祭司の問いかけに対して、ご自身が救い主であり神であることを大胆に語られました(61節後~62節)。偽証においては弁明されずに沈黙された主イエスは、ご自分の使命と身分に関しては言明されたのです。それに対する最高法院の決定を受けた人々は、主イエスに三重の侮辱を加えています(65節)。主イエスは、それに黙々と耐えられたのです。そうされたのは、
父なる神に対する信頼と、その救いの御計画に忠実であられたからです(1ペトロ2章22~24節)。ここにもキリストの柔和さがあります。
キリストの沈黙と忍従に表わされた柔和さを思う時に、私たちは自らの何であるかを知らされるとともに、あわせてキリストの柔和さをもって生きているかが問われるのです。

母よ、子よ(2011.5.8)

宣教題  : 「母よ、子よ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト2章1節~10節 、ヘブライ11章23節
人は、愛されることによって安息を覚え、愛することによって満足を知ります。母と子の間において、愛され、愛することが培われていく信仰について、モ-セの母であるヨケベド(民数記26章59節)の信仰から学ぶことにします。

1.神に委ねる
エジプトで苦役を強いられたイスラエルの民は、団結力が強くなり、ますます数が増え広がっていきました(1章1~14節)。それに恐れをなしたエジプト王は、ヘブライ人で生まれた男の子はナイル川に放り込んで殺すように命じました(1章15~22節)。ここに、イスラエルの民の精神的・生命的な苦悩と危機は極限に達しました。
そのようなただ中に、後のイスラエルの解放者モ-セが誕生したのです。この苦悩の期間、彼の両親を支えたのは、神への「信仰によって」でした(ヘブライ11章23節)。神に自分たちの子を委ねるという道を選んだのです(2章1~3節)。このように「信仰によって」神の御手に委ねることは、私たちにとっては信仰の学課なのです。

2.神から託されている 
ヨケベドは、母親としての自然の感情と戦いながら、長女ミリアムに弟のモ-セを見守らせています。母親は、長女の機転によって再び自分の子を腕に抱き、乳を与えて育てることが許されました。彼女は、子どもが乳離れするまで、生ける神を教え、祈りつつ育てたのです(2章4~10節)。このことが、後にモ-セが神の民の救出に用いられる伏線となったのです(ヘブライ11章24~25節)。このようにしてヨケベドは、神がモ-セを自分に託して養育するようにされたとの信仰が確立されていったのです。
私たちは、全てのものを神から依託されていると信じる信仰に生きることが大切です。主イエス・キリストを信じる信仰を持っているということと、その信仰によって生きるということが同じでありたいものです。

ほんものの信仰(2011.5.1)

宣教題  : 「ほんものの信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   13章42節~52節
異教の地でのパウロの説教は、神の愛と恵みに満ち、罪の赦しの福音が提示され、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」ものでした(42~43節)。
その結果、ほんものの信仰とはどういうものかが明らかにされたのです。

1.神の御言葉に動かされる
パウロが、キリストの十字架と復活の福音を「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(39節)と語りかけたことに対して、続けて福音を聴きたいと願って集まる者たちと、「ねたみ」のゆえに口汚くののしる者たちとに分かれました(44~45節)。
この時、パウロとバルナバは、神の伝道のご計画を深く理解し、神の御言葉に動かされて冷静かつ勇敢に語っています(46~47節)。そして、神の救いのご計画を聴いた異邦人たちは、神の選びに与かって永遠の命を得ることができたことを喜び、神の御言葉を讃えつつ、信仰に導き入れられました(48節)。
福音を語る者と聴く者が、共に神の御言葉に誠実であるなら、ほんものの信仰が培われていくのです。

2.聖霊に満たされている
「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)のですが、ユダヤ人たちは、人々を煽動してパウロたちを迫害し追い出しました(50~51節)。
パウロたちの伝道は失敗だったのでしょうか。いいえ、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」のです(52節)。彼らは、恐れや不安でなく、聖霊に満たされ、神と共にいることを証ししたのです。
また、弟子たちがパウロたちに依存していたのではなく、主イエスの弟子となり、聖霊に依り頼んで、聖霊による喜びをもって生活し、伝道していたのです(1ペトロ4章12~14節)。
このように聖霊に満たされ続けるならば、自立したほんものの信仰に立たせていただけるのです。

死はもはや支配せず(2011.4.24)

宣教題  : 「死はもはや支配せず」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章6節~7節、ロ-マ6章8~11節
「生」と「死」は、聖書が私たちに投げかけている一大テ-マです。それは、死に支配されたままでいるか、それとも死にもはや支配されていないか、との問いかけでもあります。
聖書は、「死はもはや支配しない」と宣言しています。

1.キリストが「復活」されたから
人は例外なく死に支配されています。それには肉体の死だけではなく、生きながらにして希望や喜びや愛に生きることを失った状態でいる死もあります。
それは、神から離れて生きている罪の結果による死です。「罪の支払う報酬は死です」(ロ-マ6章23節)と語られているとおりです。
十字架の死から復活されたキリストは、死に支配されることのないお方です
(マルコ16章6節、ロ-マ6章9~10節)。私たちは、このキリストに捉えられ(マルコ16章7節)、キリストに結び合わされて身を任せていくならば、もはや死の支配に生きることはないのです(ロ-マ6章8節、11節)。

2.キリストが「主」であるから
「死は・・・支配しません」とは、「死はもはや主でありません」という意味です。復活のキリストに結び合わされた者は、「キリストが主です」と告白するのです。私たちに死は存在しますが、それがもはや主ではなく、復活されたキリストを主とする信仰の歩みを続けることです。
この信仰は、教会の中心をなすものです。その根拠は、それを証言する聖書が残されていますし、キリストの復活の証人が絶えることがありませんでしたし、教会が存続していることに見い出すことができます。しかし、歴然たる証拠は、私たち自身が、復活されたキリストを「私の主です」と告白して生かされていることです。
復活された主イエス・キリストの恵みに捉えられ、生かされ、支えられているならば、死はもはや支配しないのです。

主の宝の民となる(2011.4.7)

宣教題  : 「主の宝の民となる」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト記    19章1節~9節
主がなして下さった罪からの解放のわざを経験し続けることこそ、主と共に歩むキリスト者生涯の「型」に欠くことができない土台である。解放された民は、主の宝となる道を進む。

1.主の宝の民となる条件
主の宝の民となるための条件は、主の声に聞き従い、その契約を守ることである(19章5節)。これはその生き方において、これまでとは異なる、新しい型を学ぶことを意味する。意識的に選ばなくても、難しい訓練をしなくても、ガラテヤ5章19~21節に描かれている肉のわざを行うことができる。しかし、主の所有とされたキリスト者は、ガラテヤ5章22~23節に描かれている聖霊の実という「新しい型」を学ぶように招かれている。意識的に選びつづける訓練なしに、新しいこの型を身につけることはできない。
なぜ、このような型を学び、訓練する必要があるのだろうか。それは、主ご自身が「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」をもってご自身が創造された世界に関わり続けておられるからである。武道の型と同様に、主が働かれるその動線に従って、主の民はこの世界でからだを動かす。その結果、宝の民として主の働きに参加するという召命(19章5節)に応えることができるのだ。

2.律法主義?
この条件はいわゆる「律法主義」だろうか。そうではない。主が罪の奴隷から解放して下さっためぐみが私たちの内なるものを変え、それゆえに、聖霊の実という新しい生き方の型が私たちのからだに生み出されていく。あれができなかった、という減点主義で恐れおののく必要はない。解放という主のめぐみに応えて、喜んで、新しい生き方の型を選び続け、前にからだを伸ばすべきだ。
生き方の新しい型を選び続けていくとき、主の所有物であるこの全世界のまん中で主のわざに参加している、主の宝の民と成長する。きよめの生涯の成長をここに見いだすことができる。

大いなる肯定(2011.4.10)

宣教題  : 「大いなる肯定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  14章43節~52節

私たちは、主イエスの救いに招き入れられ、このお方に導かれて歩む者ですが、いったいどこまで主に従っていけるのでしょうか。主の弟子たちは、主の十字架の死に至る最後まで従い切ることができず、ついには主を否んで逃げ、また捨ててしまいました。

1.恐れを抱く主の弟子
イスカリオテのユダはイエスを裏切り、人々を用いて捕えさせ、十字架に追いやってしまうという罪を犯しました。そこには、主を裏切ることに対する恐れがありました(43~45節)。その裏切りは、主の選びを拒否したことから生まれたのです(ヨハネ6章70~71節)。
そして、ペトロを含む「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった」(50節)のでした。彼らは人を恐れたのです。
さらに、「一人の若者が・・・裸で逃げてしまった」(51~52節)とあるのも、人に対する恐れからです。この若者は、マルコではなかったでしょうか。
主イエスを見捨てて死に追いやったのは、主の弟子たちだけのことではありません。私たちもまた同じではないでしょうか。

2.愛で包み込まれる主イエス
主イエスは、神の御子を裏切り、見捨て、否定してやまない人々の罪を引き受けて、それを赦し、新しく造り変えるという大いなる肯定へと逆転され、愛で包み込まれました(ヨハネ18章9節)。
主の弟子たちがそうであったように、私たちは主イエスに対して当てがはずれた、との思いを持つことがあります。そのような時、私たちの信仰は試され、ふるわれ、純粋なものにされます。そうなるためには、私たちは主に召されて、その愛に捕えられている者であることを知って、主の御足の跡を踏み従っていくことが大切です(1ペトロ2章21節)。それは、卒業のない、生涯のテ-マです。

心燃える祈り(2011.4.3)

宣教題  : 「心燃える祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章32節~42節
この箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれおり、主イエスが十字架を前にして苦闘の祈りをささげられた所です。そこに居合わせた弟子たちが、主イエスの警告の言葉に不感症となり、醜態を演じた所でもあります。

1.主イエスの祈り
主イエスはこの時、ただならぬ激情に襲われておられます。人が理解できないほどの途方もない力の前に、父なる神から捨てられる者が経験するほどの恐れを持たれ(33節)、普段では見られない姿で祈っておられます(34~35節)。
これは、私たちが持つ弱さや恐れや罪を変わって受け取ってくださっている祈りでした。
それは、全能の神にひたすら信頼しつつ、全知の神への従順を表明された祈りでした(35~36節)。ここに、神の怒りを一身に受けようとしておられるお姿があります。
このようにして、主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りから続く十字架の苦しみを経験してくださったので、私たちの「永遠の救いの源」となってくださることができたのです(ヘブライ5章8~9節)。

2.主の弟子の祈り
この主イエスの祈りを見聞きしていた弟子たちは、主イエスから「目を覚まして祈っていなさい」(34、38節)と命じられなければならないほど、事実「弟子たちは、眠っていた」(37、40、41節)のでした。主イエスはそんな彼らに同情しつつ、誘惑に陥らないために、試練に打ち勝つために祈ることを命じられたのです(38節、マタイ6章13節)。
私たちは、ゲツセマネの弟子たちのようでない、と誰がいえるでしょうか。十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされ、呼吸するようにキリストと交わり続けることによって、常に目をさまして心燃える祈りを続けることが大切なのです。

鷲の翼に乗せられて(2011.3.27)

宣教題  : 「鷲の翼に乗せられて」   宣教:   鎌野 直人師
聖    書  : 出エジプト記   19章1節~9節
武道に「型」があるように、神と共なるキリスト者の歩みにもふさわしい「型」が存在する。この型は私たちを縛らず、神の導きに従って私たちが歩む事ができるようにする。旧約聖書と新約聖書で一貫し、その原型は出エジプト記19:4~6に描かれており、キリスト者生涯の過去、現在、将来をそこに見いだすことができる。キリスト者が覚えるべき過去について19:4から考えてみたい。

1. 主のもとに連れてこられる
シナイ山のふもとにイスラエルの民が連れて来られる(19:1)までに、様々なことが起こっている。主の召命によってパレスチナに来た父祖たちが、摂理の中でエジプトに導かれ、そこでパロの奴隷となってしまった。しかし、民の叫びを聞かれた主が、エジプトの王を十のわざわいで打ちのめし、その軍を葦の海での戦いで打ち破った。このようにして、主はエジプトの奴隷からイスラエルを解放した。それだけではなく、イスラエルの民は神のもとに連れて来られた。単に神のそばに来たのではなく、彼らは神の所有の民となった。
大切なことは、私たちを解放して下さり、神のものとされた過去の神のみわざに基づいてキリスト者ひとりびとりがあるという点である。

2.あなたたちは見た
しかし、神のわざが過去の事実では終わってはならない。神のわざを「見た」、すなわち経験することが強調されている。知的なものに止まらない。「君もそこにいたのか」とあるように、神のわざを臨場感をもって自分の体験とすることこそがキリスト者には必須である。
イスラエルの民であるならば五書を読み、まさに出エジプトの神のわざを体験する。キリスト者は福音書を読み、イエスの生涯と十字架と復活を弟子たちと共に目の当たりにする。これを日々体験し続けることのなしに神と共なる歩みはありえない。私たちは神の救いのわざを日々見ているだろうか。

信仰によって生きる(2011.3.20)

宣教   : 「信仰によって生きる」   宣教:   岸本 望 師
聖    書  : ローマの信徒への手紙  5章1節~11節
ロ-マ書は、5章から新しい展開に入ります。即ち、信仰によって義とされた者の生活、つまり<信仰によって生きる>ことがテ-マとなります。
パウロは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(2コリント4章8節)という生き方を語っています。これこそが聖書の約束する、信仰によって生きる者の姿です。一体、何がこのような命を生きさせるのでしょうか。

1.神との間に平和を得ている
聖書は「神との間に平和を得ており」(1節)と記しますが、果たして私たちは本当に平和を持っているでしょうか。平和を得ていると告白するパウロは、すぐ後に「苦難をも誇りとします」(3節)と語りますから、苦難の中にあるのです。しかじ、その苦難の中でなお経験できる平和を持っているのです。
その根拠は、「信仰によって義とされ」(1節)ているからなのです。義とされるとは、私たちの道徳的な状態をいうのではなく、神との関係をいうのです。それがすなわち「神との間の平和」なのです。神との関係は、人間の罪によって断たれたのですが、ユダヤ人は律法を守ることによって回復しようとして失敗しました。今、私たちはキリストを信じることによって与えられるのです。

2.希望は私たちを欺くことがない
神との平和は、栄光に与かる希望をもたらします。そしてこの「希望は欺くことがありません」(5節)と言います。これこそが途方に暮れても行き詰まらず、苦難にあっても喜ぶ命を生きさせるのです。聖霊はこのような命に生きさせるために私たち信じる者の内に注がれているのです。
信仰によって義とされた今、信じる者の内に住んでくださる聖霊によって揺るがない希望が与えられ、絶望と思われる中で希望を、困難の中で平和を与えられて生きる、これが信仰によって生きることです。パウロと共に「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」(2節)と感謝しましょう。

キリストの仲間(2011.3.13)

宣教題  : 「キリストの仲間」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章27節~31節 66節~72節
私たちは主イエスと出会って後、続けて主イエスとつながり続け、交わり続けていくとき、キリスト者としての生涯が造られていきます。
ペトロがキリストの仲間であり続けた背後には、変わることのない主イエスの招きがありました。

1.キリストに知られている  27~31節
主の晩餐が終わるや、主イエスは弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」ことを明言されました(27節)。あわせて主イエスは、先立つご自身の歩みを示しつつ、弟子たちを見捨てることなく導かれるとの約束をされています(28節)。
それに対してペトロは、主イエスの予告を聞き流して自己過信し、「死ななければならないとしても」と、必要以上に大げさに受け取り、主の約束をあなどっています(29~31節)。
主イエスは、そのようなペトロを知り尽くし(ヨハネ2章24~25節)、その愛と真実は変わることがありませんでした。私たちは、信仰生活のすべての面において主イエスに知られていることに安心を覚えるのです。

2.キリストに受け入れられている  66~72節
主イエスが最高法院で裁判を受けておられたときに、ペトロは三度も主イエスを否認しました。それは、主イエスを裏切るという、人間の惨めな姿を現わしています。これこそが、主イエスを十字架に追いやった罪であり、ペトロだけでなく、私たちのことでもあるのです。
そんなペトロを立ち直せるきっかけとなったのは、あらかじめ警告しておられた主イエスの御言葉と主イエスのまなざしでした(ルカ22章61節)。それに耐えきれなくなったペトロは、「いきなり泣きだし」悔いています。
私たちは、ペトロ同様に、復活の主イエスに立ち帰り(1ペトロ2章25節)、主イエスと正面から向き合う生き方をしていくことが必要なのです。

主の愛と忍耐(2011.3.6)

宣教題  : 「主の愛と忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録13章13節~14節、2テモテ4章11節bc

神は、バルナバとパウロ、パウロとマルコといった関わりの中で、ひとり一人を造り変え、神の栄光を現わす器として用いられます。キリストの愛と忍耐は、「マルコと呼ばれていたヨハネ」(使徒言行録12章12節)を狭い檻の中に閉じ込めないで、伸び伸びと生かしました。

1.人を造り変えられる
マルコは、ペトロが「わたしの子マルコ」(1ペトロ5章13節)と言っているように、ペトロによって信仰に導かれたと思われます。彼はバルナバのいとこであったこともあり、パウロたちと一緒に海外宣教に遣わされました(使徒言行録13章5節)。
ところが、マルコは伝道旅行の途中で離脱し、出身教会のエルサレムに帰ってしまいました(使徒言行録13章13節)。そのようになった理由は、彼の信仰的な弱さ、福音理解の狭さといったものがあったと思われます。しかし、後にパウロは、ロ-マの獄中に一緒にいるマルコを「協力者」と呼び、執り成すほどになりました(コロサイ4章10節、フィレモン24節)。愛と忍耐に富んでおられる主は、このように人を造り変えられます。

2.人を用いられる
殉教前にロ-マの獄中にいたパウロは、テモテと一緒にマルコが来るように要請しています。というのは、彼は役に立つ器であると信頼していたからです(2テモテ4章11節)。
その後のマルコの消息は明らかではありませんが、少なくともペトロが見聞きした証言の記録である「マルコによる福音書」が記されました。主の愛と忍耐が、マルコをこのように導くとともに、バルナバやパウロやペトロの愛の配慮も用いられて、マルコを有用な器としたのでした。
主は愛と忍耐をもって、私たちに最善をなされるお方です。この主を信じ、信頼し、従う恵みを大切にしたいものです。

神の前に楽しもう(2011.2.27)

宣教題  : 「神の前に楽しもう」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : 1テモテ   6章11節~21節
今日も、心からの感謝をもって皆様と共に「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様」を礼拝することが出来る事を感謝いたします。今も生きて働いておられる神様が今私たちに何を求めておられるかをご一緒にこの箇所から見て行きたいと思います。

1.頼れる神様
パウロは、すべてのものを豊かに与えてくださる神様への信頼の代わりに、地上の物を信頼するのは危険なことであることを忠告しました(17節)。聖書の言葉は、昔だけでなく、現在の私たちにも言っているのです。地上の物や日本の不況の危機感に振りまわされるのではなく、私たちはもう既に神様から崇高な永遠の命を戴いているのですから、このことを無駄にすることなく、神様を信頼して歩む生活をしましょう。

2.神の前に楽しむ
すべてのものを豊かに与えてくださる私たちの神様は、私たちを楽しませてくださる神様であることがわかります。神様はご自分が備えられたすべての物を楽しみなさいと言われているのです(申命記12章7節)。
私たちの手の内にある物すべてです。そして、それらを主のご臨在の内に全ての者と共に楽しみなさいと言われているのです。神様に寄り頼み、神様の前で楽しむ私たちの生き方は、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様への信仰とより頼みの姿です。
それは、神様から受けた愛を人々に対して良い行いをし、良いわざに富んで、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜ぶ生活なのです。
多くの恵みを、心から神様に感謝をささげて歩んでいきましょう。そして、恵みの神様により頼み、神様の前に楽しみ、生きましょう。

忘れるな(2011.2.20)

宣教題  : 「忘れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章22節~26節
主イエスは、過越の祝いの席において、聖餐の制定をされました。これを通して、主イエスは、私たちが主ご自身とその恵みの深さを忘れずに日々を過ごすことを教えられたのです。

1.主ご自身を忘れるな
過越の食事のテ-ブルマスタ-は、家長でした。ここでは、途中から主イエスがそれをされています。「イエスはパンを取り・・・杯を取り」とあるように、明らかに「主」が備えてくださった「晩餐」でした。ですから、主イエスが「取りなさい。これはわたしの体である。・・・わたしの血である」と言われたとき、弟子たちは主イエスから受け取ったのです。
さて、パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11章23節)と語っているように、主イエスは、聖餐の場に特別に臨在しておられるのです。ですから、今日も聖餐のパンとぶどう汁を司式者を通して受け取ることは、主イエスから受け取るとの信仰が必要なのです。そうするならば、主イエスを忘れることはないのです。

2.主の恵みを忘れるな
「これはわたしの体である」とパンを裂かれたことは、私たちのためになされたことでした(1コリント11章24節)。また、手渡された「杯から飲んだ」ぶどう汁は、私たちを罪から解き放つ完全な救いを成し遂げてくださった十字架の血潮を意味します(ヘブライ9章12節)。主イエスが、賛美と感謝の祈りを唱えて執り行われたことは、そこに救いの恵みがあるからです。
パウロが「わたしの記念として行いなさい」と二度繰り返したのは(1コリント11章24~25節)、主の救いの恵みを、主のご再臨まで忘れずに語り続けるためでした(同26節)。
このようにして私たちは、聖餐の恵みに与かる度ごとに、罪を赦し、それを祝福の転機としてくださる主イエスの恵みを受け取り続けていくのです。

御言葉がなくては(2011.2.13)

宣教題  : 「御言葉がなくては」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  13章4節~12節
「聖霊によって送り出された」とある力強い聖霊の働きは、神の御言葉が宣教の中心であったことを教えています(5節、7節、12節)。その結果、ひとりの人が「信仰に入った」のでした。

1.御言葉を伝える  5節
バルナバとサウロが、アンティオキア教会から遣わされた最初の地はキプロス島でした。彼らは、その島最大の都市サラミスに着くと、「ユダヤ人の諸会堂で神を告げ知らせた」のでした。
二人が語った神の御言葉とは、旧約聖書からでしたが、それを基にして、十字架に死んで復活されたイエス・キリストとその救いが伝えられたのです。宣教の業の基礎は、「御言葉をあなたがたに余すところなく伝える」(コロサイ1章25節)ことなのです。

2.御言葉を渇望する  7節
バルナバとサウロは、島の西端の都市パフォスにおいて、その地方総督セルギウス・パウルスに招かれました。彼には、魔術などでは満足できないものがあり、「神の言葉を聞こう」という強い渇望がありました。これは、人が持つ渇望の中でも、最も崇高なものと言えるでしょう。
宣教の働きは、ひとり一人にこの渇望を起こさせ、それに答えるものでなければならないのです。

3.御言葉に動かされる  12節
サウロは聖霊に満たされ、聖霊の助けをいただいて、魔術師の目が見えなくなるという不思議な業を行いました。総督は、その不思議な業を見たことがきっかけになったのですが、何よりも伝えられた神の御言葉に驚嘆して動かされ、イエス・キリストを主と信じたのでした。
御言葉こそが、人の魂を動かします(1テサロニケ1章13節)。この御言葉の宣教こそが、私たちに与えられている使命なのです。