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礼拝メッセージ

信仰の復興(2010.9.5)

宣教題  : 「信仰の復興」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  16章6節~15節
信仰の復興は、突然に起こるように思ったりしますが、決してそうではありません。フィリピ教会の誕生の発端となったリディアとパウロたちとの出会いの出来事は、そのことを証言しています。そこには、神の必然と人の備えがありました。

1.神の必然
この出来事は、神の側から言えば、聖霊の御働きの中に起きたことでした。使徒言行録全体が聖霊の働きの記録ですが、特にこの出来事の前に聖霊はパウロを導かれました。まず彼は、小アジアでの伝道を二度にわたって禁じられましたが、それを神の導きと信じ前進していきました。その後、彼がトロアスで祈る中から、対岸のマケドニアでの伝道の幻を見せられたのでした。
パウロ一行は、聖霊に禁じられ、目の前に開かれた宣教地に思いを馳せる中から、ひとつの結論を「確信するに至った」のです(6~10節)。
続いて聖霊は、フィリピのリディアに働きかけられ、「主が彼女の心を開かれた」のでした(14節)。

2.人の備え
そうした神の側の働きかけは、人の側に備えがあるところに成就していきます。特に、リディアに注目してみましょう。
リディアには、「神をあがめる」心がありました(14節)。それは、神を敬い、神を拝して讃え、神が共におられるとの臨在信仰に生きることです。
リディアには、規則的な祈りの生活がありました(13節)。目を見張るような業の背後には、祈りの積み重ねられた日々があったのです。
リディアには、御言葉に聴く心がありました(14節)。聖霊が彼女の心を開いてくださる前に、彼女はパウロの語ることを聴いていたのです。
私たちは、信仰の復興を必要とします。そのためには、多くの備えられた日々の、ある一日にもたらされる神の必然なのです。

求めよ、さらば与えられん(2010.8.29)

宣教題  : 「求めよ、さらば与えられん」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マタイ 7章7節~12節
祈りは、クリスチャンにとって、呼吸であり、仕事であり、神様との交わりにも欠かせないものであります。それでは、神様が言われる「祈り」とはどのようなものなのか、見ていきたいと思います。

1.誰に求めるのか
お祈りをする時、誰に祈るのか、がとても大切であります。それは、「求めなさい、そうすれば、与えられる」と約束して下さっている天の父なる神様に求めるべきであります(7節)。それでは一体、誰が求めるのでしょうか。「だれでも」(8節)とあるように「あなたも」「私も」であります。
私たちは日常生活の恐れや不安から、神様に求める代わりに、人や仕事等に求めてしまう時があります。ヤコブも恐れや不安の中にいた一人でした。兄エサウが自分の長子の特権や祝福をヤコブが横取りしたため、殺そうと企んでいたからです (創世記27:41) 。そんなある日、神様が夢の中で、ヤコブに近づいて下さいました(同28:13)。恐れの中にいた彼は、神様に「エサウから助けて下さい」と祈りました。
私たちもヤコブの様に恐れや不安を覚える時がありますが、その時、私たちは誰に信頼して祈るのか。ということがとても重要なのです。

2.何を求めるのか
神様に求めるべき物は、「天の国」(神の国)です(マタイ6:33)。天の国は神様が居られ、神様の恵みが溢れている世界です。この地上にいる間にも、天の国に生きることが出来るのです。
なぜ神様は、イエス・キリストを救い主と信じ求める者に天の国を与えて下さるのでしょうか。それは、神様が一人一人の問題や必要なものすべてをご存知で、それらがすべて天の国にあるからです。神様は、全ての祈りを聞いて下さいます。一人一人の祈りに対して、最善の道へと導き、必要な物を与えて下さるのです。
天の国を与えられた私たちは、神様との正しい関係によって、隣人との人間関係を築きあげることが出来るのです。ですから私たちは、隣人に対し愛をもって積極的に行動していこうではありませんか(12節)。

愛の完成(2010.8.22)

宣教題  : 「愛の完成」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章28節~34節
主イエスは、唯一の主である神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することを、二つで一つであるかのように同列のものとして語っておられます。私たちは、本気になって神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しているかということを問いかけられています。

1.愛の優位性
ここでの律法学者の問いかけは、「イエスを試そうとして」という不純なものでした(マタイ22章35節)。主イエスは、そのような問答を用いて、何を優先すべきかを明らかにされたのです。
まず、私たちが、自分の全存在・全人格をもって、本気になって主なる神を愛することです(マルコ12章30節)。その理由は、神は唯一のお方であって、私たち一人ひとりの全てにわたって神であられるからです(同29節)。そして、神に愛されている自分を愛するように、神に愛されている隣人を愛するのです(同31節)。
私たちは、絶えず聖霊によって神の愛を注いでいただき、神を愛し、自分のように隣人を愛することに勝利させていただきましょう。

2.愛の具体性
神が私たちを愛していてくださるゆえに、私たちは愛の交わりの中を生きるようにされました(1ヨハネ4章10~11節)。ところが、私たちは自らが愛し抜けない不真実な姿に気づくことがあります。そのような時こそ、私たちは主イエスの十字架の贖いの恵みに立ち続けるのです(同1章7節)。私たち一人ひとりが、主イエスの十字架を仰ぐ時、そこにある愛の力を経験するようになるのです。
私たちは、律法学者のように「神の国から遠くない」者ではなくて(マルコ12章32~34節)、主イエス十字架の愛を受け入れて、その愛に生かされ、生きる者とされましょう。

神が願っておられること(2010.8.15)

宣教題  : 「神が願っておられること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 32章23節~33節
ここには、かつて弟ヤコブの偽りと裏切りを恨んで殺意を抱いた兄エサウと、それを恐れて不安の日々を送った弟ヤコブが登場します。このような戦いや争いは、人の内にある欲望から生まれるものです(ヤコブ4章1~2節)。
神は、ヤコブのような性質を持つ私たちに何を願っておられるのでしょうか。

1.人の顔を恐れないで
ヤコブは、かつて神の祝福の約束をいただいて信仰の歩みを始めましたが(28章15節)、その時から20年過ぎたこの時に至るまで、大きな悩みと恐れの中を歩んでいました。成功をおさめたヤコブの記憶の底にあったものは、エサウの怒りに満ちた顔でした。それを思い出すたびごとに、彼はエソウをだまして長子の権利を奪った自分の醜さに気づかされたのでした。
ヤコブ一行が渡った「ヤボク」とは、格闘という意味があります。彼はエサウの怒りをなだめるために、多くの人間的策略をしつつ、自らはヤボクの渡しに残って祈りの格闘をしたのでした(23~25節)。
私たちは、人の顔を恐れて様々な策略をめぐらしますが、根本的な解決にはならないことを知る必要があります(箴言29章25~26節)。

2.神の顔を仰ぎ見よ
神は、ご自身と祈りの格闘をするヤコブを愛されました。神は、ヤコブの求めに対して屈してくださるお方でした(26~27節、ルカ24章29節参照)。ここに、求める者に対する神の謙遜があり、神の愛があります。
続いて神が「お前の名は何というのか」とヤコブに尋ねられたのは、彼が自分の本当の姿を直視できるようにするためでした。そして、神によって新しく変えられる恵みへと彼を導かれたのです(28~29節)。ヤコブは、神の顔を仰ぎ見て、そのご支配に自らを委ねたのでした(30~31節)。
神が最も願っておられることは、祈りの格闘ができるほどの情熱ある信仰と、あるがままの真の自分を認めて十字架の主にすがりつく砕かれた心です。

イエスを訪ね続けたニコデモ(2010.8.8)

宣教題  : 「イエスを訪ね続けたニコデモ」   宣教:   西原 孝至 師
聖    書  : ヨハネ 19章38節~42節
人がキリストを訪ね続けていると造り変えられ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できる人になります。

1.以前、ニコデモは主イエスの教えを聞くために、夜、人目をはばかって、イエスを訪問したことがありました(ヨハネ3:1-11)。しかし、その頃のニコデモは、自分の努力で律法を守って正しい生活をし、そのことを神に喜んでもらおうとする世界に生きていたので、主イエスを信じて罪赦され、聖霊によって造り変えられるという世界を理解することは、どうしてもできませんでした。

2.その後、7章では「律法を知らない群衆は呪われている」と言うファリサイ派の人々に対して、ニコデモは「イエスがまちがっていると頭ごなしに言ってはならない。その言葉に耳を傾け、御業をよく見てから判断すべきだ」と勇気をもって語りました(50~51)。

3.やがて19章では、十字架で死なれたイエス・キリストが私たちの身代りであることを知ったニコデモは、キリストの愛に押し出されて、主イエスの死体を墓に収めるという愛のわざを、昼間堂々と人目を恐れないで行ったのでした。

誰でも始めは、キリストの言葉の意味がわかりません。しかし、ニコデモのようにイエスを訪ね続けるなら、必ず天からの助けが与えられ、造り変えられるのです。礼拝に出席し、聖書を読み、祈りを通してイエスを訪ね続けましょう。

あっ、生きている!(2010.8.1)

宣教題  : 「あっ、生きている!」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録9章36節~43節
ここに、キリストの弟子となっていた「タビタ」という婦人が登場します。彼女は、病のすえに死を迎えましたが、「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11章25節)とのキリストの宣言のとおりに、死から命に移されて、永遠の命に生きる者とされていました 。

1.キリストの復活によって
タビタがペトロの祈りを通して生き返った出来事は、かつて会堂長ヤイロの娘が主イエスによって生き返った経過と似通っています(マルコ5章21~24節、35~43節)。ただし、前者はペトロが「ひざまずいて祈り」と主イエスに対する信仰の結果でしたが(使徒言行録9章40節)、後者は主イエスご自身の力によったものでした。こうして、「多くの人が主を信じた」のでした(同42節)。栄光を現わされたのは、イエス・キリストご自身だったのです。
私たちの罪を赦す権威は、絶対者であられる神だけが持っておられます。死を超えた永遠までも保証してくださるのは、永遠の神以外にはおられません。それは、イエス・キリストの十字架と復活の救いの御業を通して明らかされたのです。この神に立ち帰ることは、私たちの最高の喜びであり、それ以上に神の最高の喜びなのです。

2.キリストの命によって
タビタは、幸いな女性信徒でした。彼女の内から溢れる美しさは、「たくさんの善い行いや施し」によって知られていました(36節)。彼女の死を悲しむやもめたちは、その生き証人でした(39節)。
罪とは自己中心に生きることです。しかし、キリストの命が与えられる救いは、私たちを神中心に生きる者に変えます。私たちは、このことを単に知的に知る、歴史的に知るだけで終わるのではなく、「この救いは、私のためでした」と一人ひとりが受け入れ、それが生活の中に浸透していくことが大切です。ですから、一度イエス・キリストを信じてその命に与かった者は、キリストの愛と命の中に自分自身を委ねて安(やす)んじるのです。神は、大地のようなお方です。

福音のための交わり(2010.7.25)

宣教題  : 「福音のための交わり」   宣教:   鎌野 直人師
聖   書  : フィリピ1章1~7節

関西聖書神学校には現在21名の神学生が学んでいる。みことばと聖霊に導かれ、祈り、神のめぐみの広さと深さを経験し、整えられた品性を持ち、教会を立てあげる伝道者を養成するための働きは80年以上、継続している。

神学校の働きとそれぞれの教会の働きとはどのように関わっているのだろうか。それは「福音のための交わり」(1:5)である。パウロとフィリピの教会が福音を宣べ伝えるための交わりの中にあったような関係を教会と神学校はもつべきだ。

パウロとフィリピの教会は、手紙を送り、喜びと感謝と願いと取りなしを祈り、具体的にものを送るという形で福音のための交わりを持っていた。この交わりを通して、パウロの宣教の働きは進められ、フィリピの教会も義の実に満ちあふれることによってその地域での宣教を進めていった。

福音のための交わりには三つの特徴があった。まず、それは継続した交わりであった(1:5)。次に、この交わりは神が始め、神が導き、神が完成されるものである(1:6)。最後に、困難と戦いの中にあるからこそ、この交わりを通して共に神のめぐみにあずかることができる(1:7)。

神学校は現在、困難の中にある。だからこそ、福音のための交わりがさらに深められなければならない。学んでいる学生が整えられ、新しい学生が加えられ、神の栄光と誉れを表す神学校となるように祈っていただきたい。

再び燃えたたせなさい(2010.7.18)

宣教題  : 「再び燃えたたせなさい」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 2テモテ1章3節~7節
私たちは、イエス・キリストを信じることによって、神の救いの福音に与かっています。その福音は、私たちの内から満ち溢れ、伝えられ、受け継がれていくものです。さて、パウロがテモテに、「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせなさい」と勧めていますが、それは今日の私たちへのメッセ-ジでもあります。

1.再び燃え立たせるものは何か
私たちが、どのような時であっても、いかなる状況下でも、神が一方的に与えてくださる「神の賜物」に満ち溢れて燃やされている必要があります。神は、このことにおいて大胆な者に変えられることを願っておられます。
神の賜物は、「力」の霊です。それは、主イエスご自身が信じる者に内住してくださり、内から働き出してくださる聖霊の力です(使徒言行録1章8節)。また、「愛」の霊です。私たちは聖霊によって神の愛が注がれるならば、愛が溢れ出て、豊かな結実を生み出すのです(ロ-マ5章5節)。そして、思慮分別の霊です。聖霊に導かれているならば、その信仰生活に慎みがあり、健全かつ常識があり、落ち着きがあって、バランスがとれた心と魂の状態となるのです。

2.再び燃え立たせる秘訣は何か
私たちが力と愛と思慮分別の霊に燃やされ続けているためには、全てをイエス・キリストに任せて、従い抜くことです。そのためには、日々に信仰の目をもって見続けていなければならないものがあります。
まず、信仰の遺産を回顧することです(1章5節)。そして、福音の出所であるイエス・キリストを仰ぎ見ることです(1章9~12節)。さらに、信仰に立っている周囲の聖徒たちを見ることです(1章16~18節)。最後に、前方に開かれている将来を見ることです(4章7~8節)。
このようにして聖霊の炎が燃え続けていくなら、私たちの内にある不必要なものが取り除かれていきます。そして、私たちの周囲が変えられ、福音が伝えられ、受け継がれ、拡げられていくのです。

聖書と神の力(2010.7.11)

宣教題  : 「聖書と神の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  12章18節~27節
主イエスは、復活はないと理解していたサドカイ派の人々に対して、「あなたたちは大変な思い違いをしている」(24節、27節)と言われました。それは、単なる思い違い以上に、大いに誤っている、とんでもない所に迷い出ているという意味です。その理由は、「聖書も神の力も知らないから」でした。

1.神の力を知らない  25節
サドカイ派の人々は、モ-セ五書に明記されている御言葉だけに立つという立場でした。彼らは、家系と財産を保存するための規定を用いて(申命記25章5~10節)、復活はないと議論をしかけてきたのです(マルコ12章19~23節)。それに対し主イエスは、あらゆる領域において生きて働いておられる神の力を知らないから、聖書が語る教えに疑いが生じるのだと指摘されました(同24節)。
イエス・キリストの十字架と復活を信じる者は、「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」との約束をいただいています(ルカ20章36節)。その復活のときには、結婚も死もない世界に生きるのです。

2.聖書を知らない  26~27節
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、サドカイ派の人々が重んじていた御言葉の一つでした(出エジプト3章6節)。その神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であって、今の私たち一人ひとりに「わたしはあなたの神である」と語りかけていてくださるのです。私たちは、この語りかけを聴き取ることが大切です。
十字架上の二人の犯罪人は、最も主イエスの近くにいました。しかし、真に近くいたのは、悔い改めた者であり、そこに永遠の救いがあったのです(ルカ23章32~43節)。私たちも信仰によってイエス・キリストと結び合わされるならば、十字架と復活に現わされた神の力が「私の救い」となるのです。
御言葉と神の力に対する信仰があるならば、誤り、迷い出ることはありません。

人生を変える出会い(2010.7.4)

宣教題  : 「人生を変える出会い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 9章32節~35節
私たちは、人生の途上において様々な出会いを経験します。それには、詩編に見るように、嘆きとの出会いがあり、神を讃える出会いもあります。大切なことは、私たちの人生を根本から変えてくださるイエス・キリストとの出会いが一人ひとりに求められていることです。

1.嘆きとの出会い
ここに登場するアイネアは、8年間も中風で床についていました。彼は、人には見離され、自らも治りたいと願う気力もなくなり、諦めて無力感と不安といらだちの中にいたと思われます。
今日、私たちは「失う」という様々な経験をします。病によって健康を失う、死別によって家族を失う、人間関係がこじれて友を失うといったことがあります。また、罪と汚れによって自分自身を失う、自らの死を迎えて将来を失う、あげくは、神に見捨てられたと錯覚してしまって神を失うこともあります。こうした喪失による嘆きとの出会いは、私たちを無力、諦め、いらだちの虜にしてしまいます。
しかし、私たちが失うという経験に向き合っていくなら、神が開いてくださる新たな世界を発見することができるのです。

2.キリストとの出会い
大切なことは、様々なものを失うという嘆きの中を通されても、魂の命を奪うことをなさらないイエス・キリストとの出会いを経験することです。アイネアは、ペトロによって「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と招かれ、「すくに起きあがった」と、信仰の応答をしました(34節)。
私たちは、誰ひとり例外なくイエス・キリストに出会い、その十字架による罪の赦しをいただく信仰に堅く立たせていただく必要があります。さらに私たちは、多くの人々がアイネアを見て「主に立ち帰った」ように、私たちを見る人々が、私たちを造り変えてくださったイエス・キリストを見ずにはいられないという、キリストの証人とされたいものです(35節)。その秘訣は、ただ信仰に立つことです。

仕えることの喜び(2010.6.27)

宣教題  : 「仕えることの喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章13節~17節
人が、主なる神に仕えることと、人に仕えることは大きな祝福です。それは、ちょうど、キリストと教会、夫と妻の間においても言えることです(ヱフェソ5章21~33節)。そして、主イエスが「神のものは神に返しなさい」と語られた根底には、神と人に仕えることの喜びが証しされています。

1.神に仕えることの喜び
ユダヤ人指導者たちは、税金問題を持ち出して主イエスを捕え、十字架に追いやろうと巧妙な罠をしかけています(13~14節、ルカ23章2節)。その偽証を見抜いておられた主イエスは、皇帝の肖像と銘が記された銀貨を見せながら、それが「皇帝のものです」と指導者たちの口を通して答えさせられました(15~16節)。そして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と命じられたのでした(17節)。
主イエスが、このように答えられたのには根拠があります。神にかたどって造られた人間は(創世記1章27節)、与えられている全てのものは神のものであり、神にお返しするのが当然のことだからです。このことが明確になるなら、私たちは神に仕えることが喜びとなります。

2.人に仕えることの喜び
神に仕える喜びがあるところには、人に対しても健やかに仕える喜びが生まれてきます。「皇帝のものは皇帝に・・・返しなさい」との生き方ができるのです。
はからずも主イエスを陥れようとした指導者たちは、「人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と語りました(14節)。主イエスにとって「神の道」とは、十字架と復活の道でした。十字架に死んで復活されたキリストと結び合わされて新創造された者は、神のものとされ、神に仕え、人に仕える喜びの中を歩むことができるのです(2コリント5章17節)。
神のものとされた私たちは、健やかな時も病める時も、順境の時も逆境の時も、生きている時も死を迎える時も、神と人に仕えることを喜びとして生きるのです。

神様の愛・真実な愛(2010.6.20)

宣教題  : 「神様の愛・真実な愛」   宣教:   水谷 潔  師
聖    書  : ルカ 19章1節~10節
この聖書箇所において私たちは神様の真実な愛を三つの面で見ることができます。

1.価値創造的な愛(6節)
イエス様は最も愛するに値しない人物を最優先で愛されました。人間の愛の多くは「価値発見的愛」です。相手の中に価値を見出し、それを根拠にその価値の持ち主である相手を愛します。
しかし、神様の愛は相手の価値に無関係で愛し、愛された側に価値を造り出す「価値創造的愛」なのです。価値があるから愛されているのではなく、この愛で愛されているから、私たちは価値があるのです。

2.すすんで犠牲を払う愛(7節)
愛は犠牲を惜しみません。イエス様はザアカイと交わりを持つことによって、本来ザアカイが受けるべき非難を身代わりとなって受けています。しかも「あなたの家に泊まることにしてあるから」(新改訳)とすすんで自分から非難を受ける愛の配慮をしておられます。
このすすんで犠牲を払う愛は、ローマ5章8節が示すように今日、十字架の愛として私たちに注がれているのです。

3.人を造り変える愛(8節)
そのようなイエス様の真実の愛はザアカイを内側から劇的に変えました。あるままで愛された者はあるがままではいられません。そのような愛に応える生き方、愛してくださった方に喜ばれる生き方へと内側から変えられるのです。

結論「木の上から木の下に」(10節)
「失われた」とは「定位置から外れている」という意味です。この愛を知らず、受け止めず、応答しないならそれは「失われている」のです。
私たちの定位置は、木の下です。ザアカイのように木の下でイエスをお迎えするのが定位置です。まだ、木の上でイエス様を眺めている方は、呼びかけに応えて木の下に降りましょう。また、クリスチャンは木から降りた者らしい生きかたをと願います。

祈りと涙(2010.6.13)

宣教題  : 「祈りと涙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 21章9節~21節
ハガルが「声をあげて泣いた」(16節)とあることに代表されるように、涙を流したことがないという人はいないのではないでしょうか。そのような中で、人が神の御前で涙を流すときには、それが祈りとなる経験をします。それはまた、神がどういうお方であるかを知る経験ともなるのです。

1.顧みられる神
これより先にアブラハムは、妻サラとの間に子が与えられなかったために、女奴隷ハガルとの間に子をもうけることになりました。
その結果、この家族は複雑な関係となりました。神が荒野に逃亡するハガルに、歩むべき道と息子イシュマエルの将来を予告された時、ハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」と告白しました(16章1~13節)。このように体験的に神を知ったハガルは、その後の彼女の生涯に多大の影響を与えたのです。
やがて、イシュマエルが誕生し、またイサクが誕生すると、状況は悪化しました。ハガルとイシュマエルは追い出され、彼らはあてどもなく荒野をさまようことになりました。彼女は、人生の理不尽さや無情そして自らの無力さを悲しみ、「声をあげて泣いた」のでした(21章9~16節)。
しかし、こうした涙を顧みられる神は、その涙を貴いものとして蓄え、記録しておかれるのです(詩編56編9節)。
2.祈りを聞かれる神
息子イシュマエルは、泣いている母ハガルを見て、代わりに祈っています。神は、その祈りを聞かれたのです(17節)。神は、祈っているイシュマエルと、祈られているハガルの間に立っておられたのです。
ところで、主イエスは、私たちの人生の悲しみ、痛み、罪の苦悩を、涙を流しながら受けとめ、その祈りを聞いてくださるお方です(ヨハネ11章35節、ヘブライ5章7節)。
泣く者がいて、共に涙する者がいます。祈る者がいて、祈られる者がいます。その間に主イエスが立っていてくださるのです。これが、教会の家族なのです。

こうして教会は(2010.6.6)

宣教題  : 「こうして教会は」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 9章19b節~31節
生きている教会は、キリストの命が溢れています。そこには、喜びや希望が満ちていますが、時には痛みや失望を経験することもあります。
「こうして教会は」(31節)とキリストの御業が展開され、教会が生きものであることを証ししています。

1.キリストが崇められる
サウロが回心し、宣教者パウロと変えられたことは、人々に非常な驚きを与えています(19b~22節)。その背後には、教会の祈り、支援、配慮がありました。まず、サウロが救いに与かるに際しては、アナニアが用いられましたが(10~19a節)、それはダマスコの教会とそのメンバ-が用いられたことを意味しています。続いて、サウロがエルサレム教会に受け入れられるに際しては、エルサレム教会のメンバ-であったバルナバが仲介者また保証人として用いられています(26~28節)。そして、無名の身辺警護をする聖徒がいました(23~25節、29~30節)。教会の痛みをご自身の痛みとしてくださる主イエスは、このような仕方で教会を用いられるのです。
教会が前進していく中での中心は誰でしょうか。サウロでも、アナニアでも、バルナバでも、無名の人々でもありません。生きておられる復活のキリストご自身であり、このお方が崇められているところに主の御業が進んでいきます。
2.聖霊が生き生きと働かれる
教会は、聖霊に満たされた器を用いて働かれる所です(1章8節)。また教会は、お互いの間に異なった文化や習慣があっても、「平和を保ち、主を畏れ」る聖霊の一致が与えられる所です。そして教会は、「聖霊の慰め」と励ましとをいただいた一人ひとりを通して造られていく所です(9章31節)。
私たちは、この聖霊の火が消され、燃え尽きることのないようにしたいものです。
聖霊の火が消えていくと、御言葉が軽んじられていきます。そうさせてしまう、不信仰と不従順の罪から遠ざかりたいものです(1テサロニケ5章19~22節)。聖霊が、生き生きと働かれるところに勝利があるのです。

私の願い(2010.5.30)

宣教題  : 「私の願い」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖  書  :  マルコ10章46節~52節
エリコの町に、道端に座って物乞いをしていたバルティマイがいました。彼は、イエスが来られたと聞くと、心の願望をぶつけたのです。

1.わたしたちの願い事は何か?
バルティマイには目に障害がありました。当時の社会は、体に障害がある人たちが生きるには物乞いをする以外に道はありませんでした。彼は、心の中にあるその無くてはならないもの、目が心の目が見えるようになることをぶつけたのです。
私たちにはいつも願い事があります。しかし私たちにとって一番大切な願い事は、心の目が開かれていることなのです。

2.求めるべきお方は誰か?
バルティマイは、イエスが自分の目を開いて下さるお方であると知っていたため、大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい」と叫びました。
バルティマイが正しい人に叫び求めたように私たちもいつも求める相手を間違わないようにしないといけないのです。

3.どのように願い事は成就するか?
イエスがバルティマイを呼びかけられた時、彼は着ていた上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに行きました。彼にとって上着は唯一の持ち物でした。その上着を脱ぎ捨てたのです。今までの生活を惜しいと思わないほどの価値がイエスの呼びかけにはあったのです。
バルティマイを呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか?」と聞きました。彼は「先生、目が見えるようになりたいです」と正直に答えたのです。
イエス・キリストによって、バルティマイは直ぐ目が見えるようになり、今までとは全く違う新しい生活をイエス・キリストと共に、永遠に始めることが出来たのです。

私たちも、上着を脱ぎ捨てて、イエス・キリストに求める時、心の目が開かれて、イエス・キリストが私たちと共に永遠に歩んで下さるのです。
バルティマイは、すぐ見えるようになると、なお道を進まれるイエスに従いました。すぐに従ったバルティマイの姿は、イエス・キリストに対する信仰の現れでした。私たちも、心の目を開かれた時、バルティマイの様に、直ぐにイエス・キリストに従ってまいりましょう。