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礼拝メッセージ

大いなる肯定(2011.4.10)

宣教題  : 「大いなる肯定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  14章43節~52節

私たちは、主イエスの救いに招き入れられ、このお方に導かれて歩む者ですが、いったいどこまで主に従っていけるのでしょうか。主の弟子たちは、主の十字架の死に至る最後まで従い切ることができず、ついには主を否んで逃げ、また捨ててしまいました。

1.恐れを抱く主の弟子
イスカリオテのユダはイエスを裏切り、人々を用いて捕えさせ、十字架に追いやってしまうという罪を犯しました。そこには、主を裏切ることに対する恐れがありました(43~45節)。その裏切りは、主の選びを拒否したことから生まれたのです(ヨハネ6章70~71節)。
そして、ペトロを含む「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった」(50節)のでした。彼らは人を恐れたのです。
さらに、「一人の若者が・・・裸で逃げてしまった」(51~52節)とあるのも、人に対する恐れからです。この若者は、マルコではなかったでしょうか。
主イエスを見捨てて死に追いやったのは、主の弟子たちだけのことではありません。私たちもまた同じではないでしょうか。

2.愛で包み込まれる主イエス
主イエスは、神の御子を裏切り、見捨て、否定してやまない人々の罪を引き受けて、それを赦し、新しく造り変えるという大いなる肯定へと逆転され、愛で包み込まれました(ヨハネ18章9節)。
主の弟子たちがそうであったように、私たちは主イエスに対して当てがはずれた、との思いを持つことがあります。そのような時、私たちの信仰は試され、ふるわれ、純粋なものにされます。そうなるためには、私たちは主に召されて、その愛に捕えられている者であることを知って、主の御足の跡を踏み従っていくことが大切です(1ペトロ2章21節)。それは、卒業のない、生涯のテ-マです。

心燃える祈り(2011.4.3)

宣教題  : 「心燃える祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章32節~42節
この箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれおり、主イエスが十字架を前にして苦闘の祈りをささげられた所です。そこに居合わせた弟子たちが、主イエスの警告の言葉に不感症となり、醜態を演じた所でもあります。

1.主イエスの祈り
主イエスはこの時、ただならぬ激情に襲われておられます。人が理解できないほどの途方もない力の前に、父なる神から捨てられる者が経験するほどの恐れを持たれ(33節)、普段では見られない姿で祈っておられます(34~35節)。
これは、私たちが持つ弱さや恐れや罪を変わって受け取ってくださっている祈りでした。
それは、全能の神にひたすら信頼しつつ、全知の神への従順を表明された祈りでした(35~36節)。ここに、神の怒りを一身に受けようとしておられるお姿があります。
このようにして、主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りから続く十字架の苦しみを経験してくださったので、私たちの「永遠の救いの源」となってくださることができたのです(ヘブライ5章8~9節)。

2.主の弟子の祈り
この主イエスの祈りを見聞きしていた弟子たちは、主イエスから「目を覚まして祈っていなさい」(34、38節)と命じられなければならないほど、事実「弟子たちは、眠っていた」(37、40、41節)のでした。主イエスはそんな彼らに同情しつつ、誘惑に陥らないために、試練に打ち勝つために祈ることを命じられたのです(38節、マタイ6章13節)。
私たちは、ゲツセマネの弟子たちのようでない、と誰がいえるでしょうか。十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされ、呼吸するようにキリストと交わり続けることによって、常に目をさまして心燃える祈りを続けることが大切なのです。

鷲の翼に乗せられて(2011.3.27)

宣教題  : 「鷲の翼に乗せられて」   宣教:   鎌野 直人師
聖    書  : 出エジプト記   19章1節~9節
武道に「型」があるように、神と共なるキリスト者の歩みにもふさわしい「型」が存在する。この型は私たちを縛らず、神の導きに従って私たちが歩む事ができるようにする。旧約聖書と新約聖書で一貫し、その原型は出エジプト記19:4~6に描かれており、キリスト者生涯の過去、現在、将来をそこに見いだすことができる。キリスト者が覚えるべき過去について19:4から考えてみたい。

1. 主のもとに連れてこられる
シナイ山のふもとにイスラエルの民が連れて来られる(19:1)までに、様々なことが起こっている。主の召命によってパレスチナに来た父祖たちが、摂理の中でエジプトに導かれ、そこでパロの奴隷となってしまった。しかし、民の叫びを聞かれた主が、エジプトの王を十のわざわいで打ちのめし、その軍を葦の海での戦いで打ち破った。このようにして、主はエジプトの奴隷からイスラエルを解放した。それだけではなく、イスラエルの民は神のもとに連れて来られた。単に神のそばに来たのではなく、彼らは神の所有の民となった。
大切なことは、私たちを解放して下さり、神のものとされた過去の神のみわざに基づいてキリスト者ひとりびとりがあるという点である。

2.あなたたちは見た
しかし、神のわざが過去の事実では終わってはならない。神のわざを「見た」、すなわち経験することが強調されている。知的なものに止まらない。「君もそこにいたのか」とあるように、神のわざを臨場感をもって自分の体験とすることこそがキリスト者には必須である。
イスラエルの民であるならば五書を読み、まさに出エジプトの神のわざを体験する。キリスト者は福音書を読み、イエスの生涯と十字架と復活を弟子たちと共に目の当たりにする。これを日々体験し続けることのなしに神と共なる歩みはありえない。私たちは神の救いのわざを日々見ているだろうか。

信仰によって生きる(2011.3.20)

宣教   : 「信仰によって生きる」   宣教:   岸本 望 師
聖    書  : ローマの信徒への手紙  5章1節~11節
ロ-マ書は、5章から新しい展開に入ります。即ち、信仰によって義とされた者の生活、つまり<信仰によって生きる>ことがテ-マとなります。
パウロは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(2コリント4章8節)という生き方を語っています。これこそが聖書の約束する、信仰によって生きる者の姿です。一体、何がこのような命を生きさせるのでしょうか。

1.神との間に平和を得ている
聖書は「神との間に平和を得ており」(1節)と記しますが、果たして私たちは本当に平和を持っているでしょうか。平和を得ていると告白するパウロは、すぐ後に「苦難をも誇りとします」(3節)と語りますから、苦難の中にあるのです。しかじ、その苦難の中でなお経験できる平和を持っているのです。
その根拠は、「信仰によって義とされ」(1節)ているからなのです。義とされるとは、私たちの道徳的な状態をいうのではなく、神との関係をいうのです。それがすなわち「神との間の平和」なのです。神との関係は、人間の罪によって断たれたのですが、ユダヤ人は律法を守ることによって回復しようとして失敗しました。今、私たちはキリストを信じることによって与えられるのです。

2.希望は私たちを欺くことがない
神との平和は、栄光に与かる希望をもたらします。そしてこの「希望は欺くことがありません」(5節)と言います。これこそが途方に暮れても行き詰まらず、苦難にあっても喜ぶ命を生きさせるのです。聖霊はこのような命に生きさせるために私たち信じる者の内に注がれているのです。
信仰によって義とされた今、信じる者の内に住んでくださる聖霊によって揺るがない希望が与えられ、絶望と思われる中で希望を、困難の中で平和を与えられて生きる、これが信仰によって生きることです。パウロと共に「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」(2節)と感謝しましょう。

キリストの仲間(2011.3.13)

宣教題  : 「キリストの仲間」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章27節~31節 66節~72節
私たちは主イエスと出会って後、続けて主イエスとつながり続け、交わり続けていくとき、キリスト者としての生涯が造られていきます。
ペトロがキリストの仲間であり続けた背後には、変わることのない主イエスの招きがありました。

1.キリストに知られている  27~31節
主の晩餐が終わるや、主イエスは弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」ことを明言されました(27節)。あわせて主イエスは、先立つご自身の歩みを示しつつ、弟子たちを見捨てることなく導かれるとの約束をされています(28節)。
それに対してペトロは、主イエスの予告を聞き流して自己過信し、「死ななければならないとしても」と、必要以上に大げさに受け取り、主の約束をあなどっています(29~31節)。
主イエスは、そのようなペトロを知り尽くし(ヨハネ2章24~25節)、その愛と真実は変わることがありませんでした。私たちは、信仰生活のすべての面において主イエスに知られていることに安心を覚えるのです。

2.キリストに受け入れられている  66~72節
主イエスが最高法院で裁判を受けておられたときに、ペトロは三度も主イエスを否認しました。それは、主イエスを裏切るという、人間の惨めな姿を現わしています。これこそが、主イエスを十字架に追いやった罪であり、ペトロだけでなく、私たちのことでもあるのです。
そんなペトロを立ち直せるきっかけとなったのは、あらかじめ警告しておられた主イエスの御言葉と主イエスのまなざしでした(ルカ22章61節)。それに耐えきれなくなったペトロは、「いきなり泣きだし」悔いています。
私たちは、ペトロ同様に、復活の主イエスに立ち帰り(1ペトロ2章25節)、主イエスと正面から向き合う生き方をしていくことが必要なのです。

主の愛と忍耐(2011.3.6)

宣教題  : 「主の愛と忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録13章13節~14節、2テモテ4章11節bc

神は、バルナバとパウロ、パウロとマルコといった関わりの中で、ひとり一人を造り変え、神の栄光を現わす器として用いられます。キリストの愛と忍耐は、「マルコと呼ばれていたヨハネ」(使徒言行録12章12節)を狭い檻の中に閉じ込めないで、伸び伸びと生かしました。

1.人を造り変えられる
マルコは、ペトロが「わたしの子マルコ」(1ペトロ5章13節)と言っているように、ペトロによって信仰に導かれたと思われます。彼はバルナバのいとこであったこともあり、パウロたちと一緒に海外宣教に遣わされました(使徒言行録13章5節)。
ところが、マルコは伝道旅行の途中で離脱し、出身教会のエルサレムに帰ってしまいました(使徒言行録13章13節)。そのようになった理由は、彼の信仰的な弱さ、福音理解の狭さといったものがあったと思われます。しかし、後にパウロは、ロ-マの獄中に一緒にいるマルコを「協力者」と呼び、執り成すほどになりました(コロサイ4章10節、フィレモン24節)。愛と忍耐に富んでおられる主は、このように人を造り変えられます。

2.人を用いられる
殉教前にロ-マの獄中にいたパウロは、テモテと一緒にマルコが来るように要請しています。というのは、彼は役に立つ器であると信頼していたからです(2テモテ4章11節)。
その後のマルコの消息は明らかではありませんが、少なくともペトロが見聞きした証言の記録である「マルコによる福音書」が記されました。主の愛と忍耐が、マルコをこのように導くとともに、バルナバやパウロやペトロの愛の配慮も用いられて、マルコを有用な器としたのでした。
主は愛と忍耐をもって、私たちに最善をなされるお方です。この主を信じ、信頼し、従う恵みを大切にしたいものです。

神の前に楽しもう(2011.2.27)

宣教題  : 「神の前に楽しもう」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : 1テモテ   6章11節~21節
今日も、心からの感謝をもって皆様と共に「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様」を礼拝することが出来る事を感謝いたします。今も生きて働いておられる神様が今私たちに何を求めておられるかをご一緒にこの箇所から見て行きたいと思います。

1.頼れる神様
パウロは、すべてのものを豊かに与えてくださる神様への信頼の代わりに、地上の物を信頼するのは危険なことであることを忠告しました(17節)。聖書の言葉は、昔だけでなく、現在の私たちにも言っているのです。地上の物や日本の不況の危機感に振りまわされるのではなく、私たちはもう既に神様から崇高な永遠の命を戴いているのですから、このことを無駄にすることなく、神様を信頼して歩む生活をしましょう。

2.神の前に楽しむ
すべてのものを豊かに与えてくださる私たちの神様は、私たちを楽しませてくださる神様であることがわかります。神様はご自分が備えられたすべての物を楽しみなさいと言われているのです(申命記12章7節)。
私たちの手の内にある物すべてです。そして、それらを主のご臨在の内に全ての者と共に楽しみなさいと言われているのです。神様に寄り頼み、神様の前で楽しむ私たちの生き方は、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様への信仰とより頼みの姿です。
それは、神様から受けた愛を人々に対して良い行いをし、良いわざに富んで、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜ぶ生活なのです。
多くの恵みを、心から神様に感謝をささげて歩んでいきましょう。そして、恵みの神様により頼み、神様の前に楽しみ、生きましょう。

忘れるな(2011.2.20)

宣教題  : 「忘れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章22節~26節
主イエスは、過越の祝いの席において、聖餐の制定をされました。これを通して、主イエスは、私たちが主ご自身とその恵みの深さを忘れずに日々を過ごすことを教えられたのです。

1.主ご自身を忘れるな
過越の食事のテ-ブルマスタ-は、家長でした。ここでは、途中から主イエスがそれをされています。「イエスはパンを取り・・・杯を取り」とあるように、明らかに「主」が備えてくださった「晩餐」でした。ですから、主イエスが「取りなさい。これはわたしの体である。・・・わたしの血である」と言われたとき、弟子たちは主イエスから受け取ったのです。
さて、パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11章23節)と語っているように、主イエスは、聖餐の場に特別に臨在しておられるのです。ですから、今日も聖餐のパンとぶどう汁を司式者を通して受け取ることは、主イエスから受け取るとの信仰が必要なのです。そうするならば、主イエスを忘れることはないのです。

2.主の恵みを忘れるな
「これはわたしの体である」とパンを裂かれたことは、私たちのためになされたことでした(1コリント11章24節)。また、手渡された「杯から飲んだ」ぶどう汁は、私たちを罪から解き放つ完全な救いを成し遂げてくださった十字架の血潮を意味します(ヘブライ9章12節)。主イエスが、賛美と感謝の祈りを唱えて執り行われたことは、そこに救いの恵みがあるからです。
パウロが「わたしの記念として行いなさい」と二度繰り返したのは(1コリント11章24~25節)、主の救いの恵みを、主のご再臨まで忘れずに語り続けるためでした(同26節)。
このようにして私たちは、聖餐の恵みに与かる度ごとに、罪を赦し、それを祝福の転機としてくださる主イエスの恵みを受け取り続けていくのです。

御言葉がなくては(2011.2.13)

宣教題  : 「御言葉がなくては」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  13章4節~12節
「聖霊によって送り出された」とある力強い聖霊の働きは、神の御言葉が宣教の中心であったことを教えています(5節、7節、12節)。その結果、ひとりの人が「信仰に入った」のでした。

1.御言葉を伝える  5節
バルナバとサウロが、アンティオキア教会から遣わされた最初の地はキプロス島でした。彼らは、その島最大の都市サラミスに着くと、「ユダヤ人の諸会堂で神を告げ知らせた」のでした。
二人が語った神の御言葉とは、旧約聖書からでしたが、それを基にして、十字架に死んで復活されたイエス・キリストとその救いが伝えられたのです。宣教の業の基礎は、「御言葉をあなたがたに余すところなく伝える」(コロサイ1章25節)ことなのです。

2.御言葉を渇望する  7節
バルナバとサウロは、島の西端の都市パフォスにおいて、その地方総督セルギウス・パウルスに招かれました。彼には、魔術などでは満足できないものがあり、「神の言葉を聞こう」という強い渇望がありました。これは、人が持つ渇望の中でも、最も崇高なものと言えるでしょう。
宣教の働きは、ひとり一人にこの渇望を起こさせ、それに答えるものでなければならないのです。

3.御言葉に動かされる  12節
サウロは聖霊に満たされ、聖霊の助けをいただいて、魔術師の目が見えなくなるという不思議な業を行いました。総督は、その不思議な業を見たことがきっかけになったのですが、何よりも伝えられた神の御言葉に驚嘆して動かされ、イエス・キリストを主と信じたのでした。
御言葉こそが、人の魂を動かします(1テサロニケ1章13節)。この御言葉の宣教こそが、私たちに与えられている使命なのです。

御前を去らじ(2011.2.6)

宣教題  : 「御前を去らじ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章10節~21節
この箇所は、主イエスと12人の弟子が、横になって過越の祝いの食事をしている場面です。ここには、主の弟子たちが誰一人として主の御前から去っていくことがないようにとの、主の御心が明らかにされています。

1.主イエスと一緒にいるゆえに   10~17節
主イエスの一行が過越の祝いの食事をするために準備された場所は、「ニ階の広間」でした。「イエスは12人と一緒にそこへ行かれた」のでした。
この場所こそ、復活された主を信じられないでいた弟子たちが集まっていた所であり(ヨハネ20章19~23節)、主の昇天後に弟子たちが集まって祈っていた所であり(使徒言行録1章13~14節)、エルサレム教会危機の時に弟子たちが祈っていた所でした(同12章12節)。そうした度ごとに、主の弟子たちは、主の最後の晩餐の出来事を何度も繰り返し思い起こしたことでしょう。
同じように、私たちは、主イエスと一緒の教会の交わりに加えられています。どうして、一緒におられる主の御前を去ることができるでしょうか。

2.主イエスの愛にとどまり続けるゆえに  18~21節
そこは、ただ楽しい思い出だけでなく、主イエスの弟子の一人が裏切るという深い痛みを思い起こす場所でした。彼らは、そのことを主から聞かされて心を痛め、「まさかわたしのことでは」と次々に尋ねています。
しかし、彼ら以上に深い痛みを覚えられたのは主イエスであり、最後の最後までイスカリオテのユダを愛し抜かれ、その愛にとどまり続けるように招かれています(マタイ26章50節)。それに対してユダは、主の愛の外に出て行ったのでした(ヨハネ13章30節)。
私たちは、主の御心を受けとめて担おうとするよりも、自分の思いを優先させて押し通そうとすることがあります。そんな時こそ、私たちが主の愛にとどまり続け、主の御前に堅く立つことが大切なのです。

柔和な者の幸い(2011.1.30)

宣教題  : 「柔和な者の幸い」   宣教:   光田 隆代
聖    書  : マタイ  5章1節~11節
山上の説教は私たちを主と共にすがすがしい山の上に導き、平明な言葉で私たちを真理に導いてくれます。この有名な八福の教えで、今朝も新鮮な恵みを主よりいただきましょう。

1.幸いな人
聖書の神はシャローム、満月のような祝福を私たちの与えることを望まれます。その神が「ああ、なんとさいわいなのだろう」と感嘆して語られる言葉の中にこそ、真の幸福が映し出されています。この幸いを得させるお方が私たちの神です。

2.柔和な人
旧約聖書に登場するモ-セは「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と記されています(口語訳民数記12章3節)。彼はエジプトからカナンの地へ導く道中、イスラエルの民の不信仰と不従順に何度も悩まされました。しかし彼は忍耐深くとりなした人物です。「柔和」の特徴は、現実に目に見えてくる反抗、反逆などに対して、ストレートな反応を返しません。むしろ、その相手が将来必ず回復することを望む愛の心です。つまり、相手の態度に一喜一憂したりすぐ失望したりすることのない、本当に強い心を言うようです。
今の時代人間関係を作り上げることの難しい人たちが増えてきました。言葉で自分を伝えたり、相手を理解したりすることが困難になりつつあります。教会の交わりが健全になるために、お互いの言葉の使い方、理解の仕方に成長が必要でしょう。そして互いの関係を深めるためにも「柔和」が必要ではないでしょうか。
主イエスは罪深い私たちに対してさえ諦められません。むしろ十字架と聖霊によって必ず人があるべき姿に回復されることを信じられました。それは私たち一人一人にも当てはめられています。キリストの柔和は私たちの期待すべき望みの姿です。上からの知恵が必要なこの時代に、私たちも聖霊により頼み、キリストにある柔和で、前向きなお互いの関係に成長させていただきましょう。

祝福の基となる教会(2011.1.23)

宣教題  : 「祝福の基となる教会」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 13章1節~3節
神の新たな御業が展開される時には、アブラハム以来の神の祝福が世界大に拡がっていきます(創世記12章1~4節)。パウロ一行が世界宣教に出発した際に、アンティオキア教会が共有していた恵みがありました。それを通して、神の祝福が拡がっていったのです。

1.信仰を共有する  1節
ここに、教会を構成していた指導的な人物が五人紹介されています。彼らは、人種も異なり、社会的立場も異なり、性格も賜物も異なる人々でした。
そんな彼らに共通するものは、イエス・キリストを信じる信仰によって結び合わされていたということです(2コリント5章17節)。
教会の魅力は、さまざまな壁を越えて、信仰を共有し、福音の素晴らしさと力に生きるところにあるのです。

2.礼拝を共有する  2節
人々が神を礼拝し、御言葉のメッセ-ジに聴従していく中から、聖霊が宣教の業を発案・計画され、人を宣教の道へと召し出されます。この時、宣教の業は、聖霊の業であると同時に教会全体の業となります。このことは、宣教の業に召された者にとって、どんなに大きな力、また慰めとなることでしょうか。
私たちは、礼拝を共有することによって、宣教のための資金のサポ-トをはじめ、祈りのサポ-ト、霊的なサポ-トを進めていきたいものです。

3.宣教を共有する  3節
教会の会衆は、宣教に遣わされる者と一体となって、断食し祈っています。教会全体が一つとなって、宣教者を「出発させた」のでした。これは、送り出す会衆も、送り出される宣教者も聖霊に満たされ、一体となって宣教を共有している姿です。
私たちが、キリストの救いの福音をたずさえて出発させていただくなら、様々な危険に遭遇しつつも宣教は前進していきます。教会は、主なる神の臨在の支えと導きとをいただきつつ、宣教を共有するところだからです。

美しい人生(2011.1.16)

宣教題  : 「美しい人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章1節~9節
主イエスは、一人の女がナルドの香油を自分の頭に注ぎかけたことを称賛して、「わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました(6節)。後にペトロは、この出来事を思い起こして、人々の心を引きつける美しい「立派な行い」と語っています(1ペトロ2章12節)。何が、美しい良いことだったのでしょうか 。

1.キリストの愛に捕えられている
この出来事の背景には、出エジプトという神の救いの御業を祝っている最中に、神の御子を殺害する人間の罪が現れています(1~2節、10~11節)。
この時になされた一人の女の行為は、主イエスの十字架と復活の「福音」と結びついています(9節)。これは、彼女が主イエスの十字架に現わされる愛に捕えられていることを証しするものでした。
今日の私たちは、主イエスの十字架によって現わされた神の憐れみによって、すべて赦され、受け入れられ、神のものとされ、礼拝者とされています(ロ-マ12章1節)。この神の愛に捕えられ、神にすべてを任せて、神に身を投げかける人生は、素晴らしいのです。

2.キリストの愛に応えている
ナルドの香油は、死体の葬りや礼拝における任職の油として用いられました。一人の女は、その高価な香油を一気に「イエスの頭に注ぎかけた」のでした。主イエスは、その行為に憤慨した人々に、彼女がこの時にしかできない、しかも彼女のできる限りのことをしたと弁護されました(4~8節)。
彼女のした良いことを無駄と言うのであれば、主イエスが十字架上で最後の一滴までも流された贖いの血は、世界最大の偉大な無駄と言わざるをえません。私たちは、主イエスに対してへりくだる時に、キリストの御姿と御業が見えてくるのです。
私たちは、いかなるものを、ナルドの香油として主イエスに注ぐことができるのでしょうか。一筋に、キリストの愛に捕えられ、その愛に応える者の心と存在は美しいのです。

ヨセフの骨(2011.1.9)

宣教題  : 「ヨセフの骨」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 50章22節~26節
聖書に登場する人物の多くは、信仰をもって神の深いご計画の中を歩んでいます。ヨセフに関しては、その信仰の生涯を総括して、『信仰によって・・・自分の遺骨について指示を与えました』(ヘブライ11章22節)と証言しています。これは、今日の私たちに何を語っているのでしょうか。

1.継承される信仰
ヨセフの骨は、出エジプトに際して、モ-セによって携えられていき(出エジプト13章19節)、ヨシュアによって約束の地が平定されたときに埋葬されました(ヨシュア24章32節)。これは、神の民が神の約束の地に導き入れられるまで、ヨセフの生涯を通してなされた神の御業に対する信仰の証しとメッセ-ジが彼らを導くことを明らかにしたのでした。
ヨセフの骨は、過去から現在、そして将来に受け継がれていく信仰の伝統を意味しています。私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぐことが求められています。ですから、私たちは、受け継いでいる信仰の遺産を無視したり、変質させたり、無駄にしてしまうことのないようにすることが大切なのです。

2.生きた信仰
ヨセフは、波乱万丈の信仰の歩みをしました。その結果ヨセフは、出エジプトという大きな神の救いの計画につながる大切な役割を果たしたのです。
ヨセフを支えたものは、いかなる時にも主が彼と共におられたことでした(39章)。主の臨在信仰は、あらゆる不安、不公正、試練に耐える力を与えるのです。さらに、真実な神は、人の意図や画策や悪意すらもすべて最善に導かれました(45章5節、50章19~21節)。真実な神への摂理信仰は、人を神の器としてに用いるのです。
生きた信仰とは、何をしたかではなく、何を信じたか、いかに信じたか、いかに生きてその信仰を証ししたかです。生きた信仰が受け継がれていくとき、その信仰は偶像化されることはないのです。

だから、恐れるな(2011.1.2)

宣教題  : 「だから、恐れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章5節~11節

パウロは、コリント伝道において、御言葉の宣教に専念しました。ところが、復活されたキリストは、なぜ「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と言われたのでしょうか。パウロは、多くの人々が救われた時に何を恐れたのでしょうか。そして、キリストが語られたことに対して、彼はどう応答したのでしょうか。

1.主の御言葉に立つ
パウロは、福音に対して反抗するユダヤ人に無理やり語り続けることをしないで、福音に対して心を開いている異邦人に伝えていきました(5~6節)。その結果、神をあがめる異邦人の家が用いられ、ユダヤ教会堂長一家が信仰に導かれました。それだけでなく、コリントにいた異邦人の多くが救われて洗礼を受けたのです(7~8節)。パウロは、こうしたことがユダヤ人の迫害をますます強くすることを知っていたので恐れたのです。そして、コリント教会の将来を案じて恐れたのです。
その時、キリストはパウロに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と、励まし、命じられたのです(9~10節)。それに応えたパウロは、主の御言葉によって再び強くされて、コリント伝道をやり遂げたのでした(11節)。
要するに、私たちにとって、主の御言葉に立つかどうかが分かれ目となります。

2.主の臨在信仰に立つ
パウロと同じように、私たちは気弱になって恐れを経験すると、自分が持っているものや置かれている状況に心が奪われがちになります。しかし、そのような中から、あらゆる恵みに満ちておられるキリストを見上げるならば、このお方との深い交わりに引き戻していただけるのです。
その時私たちは、「わたしがあなたと共にいる」との主の臨在の約束を新鮮な思いで見い出させていただき、慰められ、励まされ、力づけられるのです(2テモテ4章16~18節)。
私たちは、主の臨在信仰に立ち続け、キリストが生きて働いておられることを体験的に知るものとならせていただきましょう。