メニュー 閉じる

礼拝メッセージ

実を結ぶ若木(2010.11.14)

題   : 「実を結ぶ若木」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記   49章22節~26節
ヤコブは、その臨終に際してヨセフに祝福の言葉を述べています。ヨセフの生涯は波瀾万丈に満ちていましたが、神への信仰によって「実を結ぶ若木」となって祝福されたのです。

1.いのちを得させる神によって
幼かったヨセフは、父ヤコブと伯父ラバンとの不仲な関係を知ったことによる不安(創世記31章)、ヤコブと神との格闘やエサウとの和解を通して知った強烈な印象(同32~33章)、兄たちが報復の殺害をしたことによる恐れ(同34章)、ヤコブの一夫多妻がもたらした家庭悲劇などを経験して心を痛めたことでしょう。さらに、若い時のヨセフが、兄たちの妬みによってエジプトに奴隷として売られるという悲惨な経験をしました(同37章)。
そんなヨセフが、「泉のほとりの実を結ぶ若木」となったのです(詩編1編3節)。それはちょうど、神のいのちのない世界に生きていた者が、恵みによって神の世界に移されて、神のいのちに生きる者となったことを意味しています。それは、ただ信仰によって受け取るものなのです。

2.共に歩まれる神によって
ヨセフは、「主が共におられたので」幸運な人となり、人からの信用も勝ち取りました。また、誘惑に際しても勝利し、言われなき訴えにも主の支えがありました(創世記39章)。境遇は変わっても、ヨセフと共におられた神は変わらないお方です。続いての失望と孤独の中で信仰が萎える時にも、神に励まされて神に祈ることは衰えませんでした(同40章、イザヤ62章6節)。
ヨセフは、エジプトの責任者となった時も、永遠に変わらない全能の神の前を歩み、自らも他者もすべて神の御手にあることを覚えて、人を恨まず、さばかず、常に神から与えられた立場と使命に生きたのです。主が共に歩んでくださってこそ、「その枝は石垣を超えて伸びる」生涯となるのです。

祈りがあるから(2010.11.7)

題   : 「祈りがあるから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録   12章1節~17節
ここに、死に直面した二人の使徒が登場します。その結果は、ヤコブは殉教の死を、ペトロは同じような扱いをうけながらも救出されました。この事態に対して、『教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた』と、教会は祈りをもって真正面から立ち向かいました。

1.神を制限しない「熱心」な祈り
ここで、真剣かつ熱心な祈りが神にささげられています。人が神に祈る姿は、万策尽きて、全知全能の神に助けを求める姿です。人が弱さに撤し抜いて、腹の底から創造主である神を信じ、死から復活されて共におられるキリストを信頼し、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださる聖霊に依りすがる時に(ロ-マ8章28節)、最も弱そうに見える人間が、最も強い者に変えられるのです。
祈っていた教会は、ペトロが奇跡的に救出されたことを知らされた時、半信半疑でした(12~17節)。そんな不完全な信仰の祈りであっても、神は教会の祈りに耳を傾けてくださり、祈り願った以上に豊かに答えてくださったのです。私たちは、神がなされることに制限をしてはならないのです。

2.教会の「一致」した祈り
ここで教会が祈っていたことは、『彼のために』とあるだけで、その具体的な祈りの内容は多様なものだったと思われます。というのも、ペトロが救出されたとの知らせを聞いた人々は、神のなさったことの素晴らしさと意外性に驚いているからです。
祈る者たちの思いや考え方は様々であっても、ひたすら「彼のために」祈ることにおいて一つであれば、神はその教会の祈りを聞いてくださるのです。どう答えられるかは、神のみこころ次第なのです。教会の一致の祈りがあるところに、主の栄光が現わされるのです(ヱフェソ3章20~21節)。

その時、あなたは(2010.10.31)

宣教題  : 「その時、あなたは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  13章14節~27節
聖書は、神の約束どおりにキリストの初臨が成就したように、キリストの再臨があることを約束しています。時は、この約束の成就に向かって確実に縮まっています。私たちは、そのことを自覚して、それにふさわしく生きることを忘れてはなりません。

1.苦難の時に  14~23節
「それらの日には・・・今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」(19節)とは、紀元後70年にロ-マ軍によるエルサレムの町と神殿の破壊や民への虐殺また飢餓が起こること、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わしたりすることの預言です。
こうしたことは、世の終末にも起こることであり、とりわけクリスチャンの信仰を脱線させようと試みる者がいるので、毅然としているようにと警告されたのです。そして、主イエスは、こうした苦難の中にあるクリスチャンたちを「主はご自分のものとして選んだ人たち」と呼ばれて、彼らを忘れることなく、最後まで責任をもって守られることを約束されました。
私たちは、主なる神に選ばれているとの揺るぎない根拠があるので、苦難に耐えることができるのです。

2.主の再臨の時に  24~27節
このような苦難の後の終末には、天体の大異変とキリストの再臨があります。この時、キリストによって選ばれたクリスチャンたちは、呼び集められてキリストのもとへと引き上げられるのです。この再臨のキリストこそが、真の審判者であり、私たちの真の望みです。
再臨の主を待望する私たちは、神の恵みだけを頼りにして、凛としてキリストを仰ぎ続けて生きるのです(ルカ21章28節)。そのように生きるならば、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」との使徒信条が、生きた告白となるのです。

あなたも家族も(2010.10.24)

宣教題  : 「あなたも家族も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   16章25節~34節
日本人の宗教意識には、信仰を持つということが、社会や家族から遊離された形で生きることと思っているところがあります。しかし、聖書が語る「救い」とか「信仰」は、聖書の約束にあるように「あなたも家族も」に及ぶものなのです(31節)。

1.救われます
ここには、迷信と商売と政治の混乱した世界の中で(使徒言行録16章16~24節)、家庭と誇りを背負いつつ自縄自縛の人生を生きる看守がいます(同27節)。要するに、救いを失った人間の姿があります。
そうした混乱の中にあって、パウロとシラスは、真夜中の牢獄で神に賛美をし、神に祈って礼拝をしていました(25節)。ここに、神の救いの力が現われています。救われるということは、いかなる時であっても、神が共におられることを知って、神を信頼し、神を讃え祈る者と変えられることです。
看守は、恐怖の中に置かれて「(私が)救われるためにはどうすべきでしょうか」と二人の伝道者に懇願しました。彼らは、明確に「あなたも家族も救われます」と、家族にまで及ぶ神の救いの福音を宣言したのです(30~32節)。神の救いは、神と人の回復のみか、人と人の回復にまで及ぶのです。

2.主イエスを信じなさい
「主イエスを信じなさい」とは、主イエスを信頼して、自分自身とその生涯を任せなさいということです。そのようにすれば、「あなた」という個人とともに、「家族も」救われて、家族全体が喜びと平安と愛に包まれる祝福にあずかるのです。
ひとり一人が信仰を言い表して「洗礼を受け」、キリストの愛と赦しと和解に生きるようになり、「神を信じる者となったことを家族ともども喜んだ」(33~34節)との恵みの輪が広がることを祈りましょう。

希望に生きる(2010.10.17)

宣教題  : 「希望に生きる」   宣教:   和田 治  師
聖    書  : ヨハネ3章1~21節
真の神様は、私たちの将来を明るくしようとしておられ、私たちを希望で満たし、確かに幸せにすることのできるお方だと、聖書は言っています 。

1.新しくされることは必要?
自他共に認める「正しい人」で裕福でもあったニコデモ。しかし、何かが足りないと感じていました。確信を持って「私の将来は明るい」と希望を告白することはできなかったのです。ゆえにイエス様を訪ねました。イエス様は、「新しく生まれる以外に、真の希望に生きる方法はない」と教えなさいました。では、どうすれば新しく生まれることができるのでしょうか。

2.新しくされる方法は?
5節にあるように「霊から生まれる」、つまり神からの命に生まれることによって新しくされる、とイエス様はおっしゃいました。それは、15節にあるように、イエス様を信じるときに起こるというのです。
罪という猛毒、死に至らしめる、滅びへとおとしめる罪の力から、イエス・キリストを救い主として仰ぎ信じるだけで、解放され、きよくしていただけるのです。イエス様は私たちの罪を負って、十字架でその罰を受けてくださいました。このお方を信じるだけで、罪を一度も犯したことのない、新しい者とみなされるというのです。

3.新しくされた結果は?
「永遠の命を得る」とあります。本当でしょうか?
キリストの復活は誰も否定することができない「事実」です。ということは、キリストを信じれば、少なくとも二つのことが確実になります。人間の最大の敵である「死」に勝利なさったお方と一つになるのですから、どんな問題があっても大丈夫、と言えるのですね。これこそ真の希望でしょう。
そしてもうひとつ。キリストは復活したのですから、このお方を信じる私たちもまた、やがて復活する、ということです。永遠の命につながる真の希望に、あなたはすでに生かされていますか?

主のみ手があったので(2010.10.10)

宣教題  : 「主のみ手があったので」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  11章19節~26節
キリストの弟子たちが「キリスト者(キリストに属する者)」と呼ばれるようになったのは、アンティオキア教会においででした(26節)。この教会は、「主のみ手が彼らと共にあった」(21節、口語訳聖書)ことによって誕生しました。主のみ手があるところには、神の恵みが現われます。

1.神の恵みの力が現われる  19~21節
迫害という試練の中で伝道は前進して行きました。中でも、キプロス島やキレネ出身の無名の信徒たちが、異邦人に主イエスの福音を伝えました。その中には、キレネ人シモンとその家族が加えられていたか、彼らの信仰の感化を受けた人々がいたと思われます(マルコ15章21節、ロ-マ16章13節)。その結果、不道徳と偶像崇拝の空虚な生き方をしていた多くの人たちが、主イエスに立ち帰りました。こうして、アンティオキア教会が異邦人伝道の拠点となったのです。
忘れてならないことは、「主のみ手が彼らと共にあったため」、すなわち主イエスの十字架と復活に現わされた神の恵みの力に与かった人たちによって、伝道が展開され、教会が誕生したのです。

2.神の恵みの拡がりが現われる  22~26節
エルサレム教会は、このアンティオキア教会の信徒たちの信仰指導をするために、バルナバを遣わしました。それには理由がありました。バルナバは、異邦人伝道に理解と使命を持っていたからであり(使徒言行録4章36~37節)、主のみ手が働くところには神の恵みを見ることができるとの霊的洞察力が与えられていたからであり(同11章23~24節)、伝道の前進のためにサウロを用いる広い心が備えられていたからです(同25~26節)。
後にパウロとバルナバが伝道旅行から戻ったとき、伝道は神ご自身が伝道する者と共にいて、その恵みのみ手をもって拡大されると証言しています(14章27節)。キリストに属する者は、主の恵みのみ手を見て喜ぶのです。

主のみ手に支えられて(2010.10.3)

宣教題  : 「主のみ手に支えられて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  13章1節~13節
主イエスは、神殿が崩される時がくることを語りつつ、「世の終わり」の時について予告しておられます。そして、それが起こる時の前兆について語られ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と励まされました。私たちが耐え忍ぶことができるのは、主イエスのみ手に支えられているからです。

1.しっかりと立つ  5~9節、12~13節
終わりの時には、偽キリストの出現、戦争や民族間・国家間の対立、自然災害の徴が現われ、誤解や無理解ゆえにキリスト者への迫害が増します。そうした時、私たちは「人に惑わされないように気をつけ」、また「自分のことに気をつけ」ていなければなりません。
ところで、このような事態に際して、誰が耐え忍ぶことができるでしょうか。主の弟子たちは、十字架を前にして主イエスを捨ててしまい、最後まで耐え忍ぶことができませんでした。忘れてならないことは、主イエスのみ手に支えられて、聖霊の助けをいただくことによって(1ペトロ4章12~14節)、しっかりと立つことができるのです。

2.福音を宣べ伝える  9~11節
主イエスは、試練や迫害の中にあって、「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と語られました。主イエスの十字架と復活は、成し遂げられねばならないことでした(マルコ8章31節)。そして、その福音は伝えられなければならないし、人はその救いに与からなければならないのです(ヨハネ3章3節、5節)。世界聖餐日は、世界中の教会が一致のしるしである聖餐を共にすることによって、世界に対する宣教の責任を果たしていくことを覚える日でもあるのです。
この福音宣教が推進されていく力の源泉は「聖霊」です。私たちは、主のみ手に支えられて、聖霊によって与えられる喜びをもって福音を証しし、宣べ伝えていくのです。

あと一歩でキリスト者(2010.9.26)

宣教題  : 「あと一歩でキリスト者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  10章34節~48節
ロ-マの軍人であったコルネリウスは、どこかで真の神を知り、その敬虔さは全家族だけでなく配下の者にまで影響を及ぼし、祈りと施しに生きていました(10章2節、7節)。しかし彼は、自分の信仰には何か根本的に欠けているものがあることを薄々気づいていたようです。彼が真にキリスト者となるには、神による備えと導きが必要でした。

1.伝道者を備えられた
ユダヤ人ペトロが、異邦人に対して何の偏見ももたないでキリストの救いへと導くためには、乗り越えなければならないハ-ドルがありました。それは、異邦人に対する偏狭な民族感情や生活感情から生じたものでした。そのために、コルネリウスが福音を受け入れることができるように、神は幻をもってペトロ自身の心を備えられたのです(9~33節)。ペトロは、この経験を通して、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)と告白しています。
信徒はみな伝道者です。そのために神は、救われた者が求道者をキリストに導ける備えをして下さるのです。

2.求道者を導かれた
ペトロは厳かに、「すべての人の主」であるイエス・キリストの福音を語っています。このお方の十字架と復活によって「罪の赦しが受けられる」救いの道を証言しました(34~43節)。
それを信じたコルネリウスとその仲間たちには聖霊が降り、ユダヤ人同様に多国語で福音を証しし、神を賛美するという「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれ」たのです。それゆえに、彼らがバプテスマを受けるのは何の支障もないことでした(44~48節)。
私たちは、誰一人もれることなく洗礼の恵みに与かり、イエス・キリストのものとなり、その交わりに生きる信仰の一歩を歩み出しましょう。

心を見ておられる主(2010.9.19)

宣教題  : 「心を見ておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  12章35節~44節

イエス・キリストは、ご自身が「主」であることを証言しつつ(35~37節)、そこに居合わせた人々の心を見ておられました。主イエスは、律法学者たちに見る暗い面に、それと対比するように一人の貧しいやもめの明るい面にまなざしを注いでおられます。

1.動機を見られる主  38~40節 主イエスは、律法学者たちの「見せかけの」行為に気をつけるように言われました。それは、見えを飾った虚栄の演出であり、自尊心を満足させる態度であり、あげくは弱い立場の人を横柄に扱う貪欲な態度でした。彼らの心が、こうしたことを好み、それに執着し、自分の利益のことしか考えていなかったのです。 私たちは、自らを十字架に献げ尽くしてくださった主イエスの愛の支配に、死からよみがえられて今も生きておられる主イエスの恵みの支配に生きることが大切です。主イエスは、私たちの言動の全てにおいて、この愛と恵みが動機となっているかを見ておられるのです。

2.真実を見られる主  41~44節 主イエスは、人々が献金をするのを「見ておられ」ました。それは、集中して観察する人のように、深く関わってじっと見られたということです。何と厳粛なことでしょうか。 主イエスは、表面に現われている事実を見ておられます(41~42節)。 しかし、主イエスはその事実だけで判断されないで、目に見えない真実な心を見て、それを大切にしておられるのです(43~44節)。一人の貧しいやもめは、神の愛なしには生きることができないことを知っており、その愛に応答して精一杯の信仰の献げ物をしたのでした。 私たちが主イエスを信じる信仰に生きるということは、主イエスのまなざしの中に生きることを体験し続けることなのです。

祝福を祈る(2010.9.12)

題   : 「祝福を祈る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  48章1節~4節 15節~19節
長生きは、神の祝福です。喜び、人生の厚み、神の恵みといったことは、長生きする中から深く分からさせていただけるからです。
ヤコブは、147歳まで長生きし(創世記47章28節)、その晩年において子どもたちや孫たちに祝福の祈りをしています(ヘブライ11章21節)。

1.牧者なる神への祈り
ヤコブは、エジプト王の前に立たされたとき、自分の生涯を振り返って「苦しみ多く」と語っています(創世記47章9節)。彼の一生は、時に禍に振り回され、人の策略に苦しみ、子どもたちの勝手な生き方の犠牲となり、生きた年数を重ねた分だけ苦しみました。
ヤコブは、そのような背後に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(48章15節)と告白できる神を体験的に知っていました。このお方は、アブラハムやイサクが信頼して「その御前を歩んだ神」(同15節)であり、ヤコブを「あらゆる苦しみから贖われた」お方でした(同16節)。
私たちは、今日まで導かれた牧者なる神を証しし続けたいものです。

2.最大のとりなしの祈り
ヤコブは、その生涯を閉じるに当たり、人生最後の仕事をしました。彼は、全能の神によって自分が祝福されただけではなく、自分が祝福の源となって、「力を奮い起して」息子ヨセフと孫たちを祝福したのでした(48章1~4節)。その行為は、神の約束に堅く立って神を礼拝し、後に続く者に神の祝福を祈るということでした。
ヤコブは、財産や何らかの教えを残したのではなく、自分が信じてきた神の恵みと神への信仰を残したのでした(1コリント15章10節)。以前は利己的なヤコブでしたが、今や祝福の器として召されていったのです。
私たちは、神の祝福を祈り、神の恵みを証しし続ける父親また母親、祖父母でありたいものです。

信仰の復興(2010.9.5)

宣教題  : 「信仰の復興」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  16章6節~15節
信仰の復興は、突然に起こるように思ったりしますが、決してそうではありません。フィリピ教会の誕生の発端となったリディアとパウロたちとの出会いの出来事は、そのことを証言しています。そこには、神の必然と人の備えがありました。

1.神の必然
この出来事は、神の側から言えば、聖霊の御働きの中に起きたことでした。使徒言行録全体が聖霊の働きの記録ですが、特にこの出来事の前に聖霊はパウロを導かれました。まず彼は、小アジアでの伝道を二度にわたって禁じられましたが、それを神の導きと信じ前進していきました。その後、彼がトロアスで祈る中から、対岸のマケドニアでの伝道の幻を見せられたのでした。
パウロ一行は、聖霊に禁じられ、目の前に開かれた宣教地に思いを馳せる中から、ひとつの結論を「確信するに至った」のです(6~10節)。
続いて聖霊は、フィリピのリディアに働きかけられ、「主が彼女の心を開かれた」のでした(14節)。

2.人の備え
そうした神の側の働きかけは、人の側に備えがあるところに成就していきます。特に、リディアに注目してみましょう。
リディアには、「神をあがめる」心がありました(14節)。それは、神を敬い、神を拝して讃え、神が共におられるとの臨在信仰に生きることです。
リディアには、規則的な祈りの生活がありました(13節)。目を見張るような業の背後には、祈りの積み重ねられた日々があったのです。
リディアには、御言葉に聴く心がありました(14節)。聖霊が彼女の心を開いてくださる前に、彼女はパウロの語ることを聴いていたのです。
私たちは、信仰の復興を必要とします。そのためには、多くの備えられた日々の、ある一日にもたらされる神の必然なのです。

求めよ、さらば与えられん(2010.8.29)

宣教題  : 「求めよ、さらば与えられん」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マタイ 7章7節~12節
祈りは、クリスチャンにとって、呼吸であり、仕事であり、神様との交わりにも欠かせないものであります。それでは、神様が言われる「祈り」とはどのようなものなのか、見ていきたいと思います。

1.誰に求めるのか
お祈りをする時、誰に祈るのか、がとても大切であります。それは、「求めなさい、そうすれば、与えられる」と約束して下さっている天の父なる神様に求めるべきであります(7節)。それでは一体、誰が求めるのでしょうか。「だれでも」(8節)とあるように「あなたも」「私も」であります。
私たちは日常生活の恐れや不安から、神様に求める代わりに、人や仕事等に求めてしまう時があります。ヤコブも恐れや不安の中にいた一人でした。兄エサウが自分の長子の特権や祝福をヤコブが横取りしたため、殺そうと企んでいたからです (創世記27:41) 。そんなある日、神様が夢の中で、ヤコブに近づいて下さいました(同28:13)。恐れの中にいた彼は、神様に「エサウから助けて下さい」と祈りました。
私たちもヤコブの様に恐れや不安を覚える時がありますが、その時、私たちは誰に信頼して祈るのか。ということがとても重要なのです。

2.何を求めるのか
神様に求めるべき物は、「天の国」(神の国)です(マタイ6:33)。天の国は神様が居られ、神様の恵みが溢れている世界です。この地上にいる間にも、天の国に生きることが出来るのです。
なぜ神様は、イエス・キリストを救い主と信じ求める者に天の国を与えて下さるのでしょうか。それは、神様が一人一人の問題や必要なものすべてをご存知で、それらがすべて天の国にあるからです。神様は、全ての祈りを聞いて下さいます。一人一人の祈りに対して、最善の道へと導き、必要な物を与えて下さるのです。
天の国を与えられた私たちは、神様との正しい関係によって、隣人との人間関係を築きあげることが出来るのです。ですから私たちは、隣人に対し愛をもって積極的に行動していこうではありませんか(12節)。

愛の完成(2010.8.22)

宣教題  : 「愛の完成」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章28節~34節
主イエスは、唯一の主である神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することを、二つで一つであるかのように同列のものとして語っておられます。私たちは、本気になって神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しているかということを問いかけられています。

1.愛の優位性
ここでの律法学者の問いかけは、「イエスを試そうとして」という不純なものでした(マタイ22章35節)。主イエスは、そのような問答を用いて、何を優先すべきかを明らかにされたのです。
まず、私たちが、自分の全存在・全人格をもって、本気になって主なる神を愛することです(マルコ12章30節)。その理由は、神は唯一のお方であって、私たち一人ひとりの全てにわたって神であられるからです(同29節)。そして、神に愛されている自分を愛するように、神に愛されている隣人を愛するのです(同31節)。
私たちは、絶えず聖霊によって神の愛を注いでいただき、神を愛し、自分のように隣人を愛することに勝利させていただきましょう。

2.愛の具体性
神が私たちを愛していてくださるゆえに、私たちは愛の交わりの中を生きるようにされました(1ヨハネ4章10~11節)。ところが、私たちは自らが愛し抜けない不真実な姿に気づくことがあります。そのような時こそ、私たちは主イエスの十字架の贖いの恵みに立ち続けるのです(同1章7節)。私たち一人ひとりが、主イエスの十字架を仰ぐ時、そこにある愛の力を経験するようになるのです。
私たちは、律法学者のように「神の国から遠くない」者ではなくて(マルコ12章32~34節)、主イエス十字架の愛を受け入れて、その愛に生かされ、生きる者とされましょう。

神が願っておられること(2010.8.15)

宣教題  : 「神が願っておられること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 32章23節~33節
ここには、かつて弟ヤコブの偽りと裏切りを恨んで殺意を抱いた兄エサウと、それを恐れて不安の日々を送った弟ヤコブが登場します。このような戦いや争いは、人の内にある欲望から生まれるものです(ヤコブ4章1~2節)。
神は、ヤコブのような性質を持つ私たちに何を願っておられるのでしょうか。

1.人の顔を恐れないで
ヤコブは、かつて神の祝福の約束をいただいて信仰の歩みを始めましたが(28章15節)、その時から20年過ぎたこの時に至るまで、大きな悩みと恐れの中を歩んでいました。成功をおさめたヤコブの記憶の底にあったものは、エサウの怒りに満ちた顔でした。それを思い出すたびごとに、彼はエソウをだまして長子の権利を奪った自分の醜さに気づかされたのでした。
ヤコブ一行が渡った「ヤボク」とは、格闘という意味があります。彼はエサウの怒りをなだめるために、多くの人間的策略をしつつ、自らはヤボクの渡しに残って祈りの格闘をしたのでした(23~25節)。
私たちは、人の顔を恐れて様々な策略をめぐらしますが、根本的な解決にはならないことを知る必要があります(箴言29章25~26節)。

2.神の顔を仰ぎ見よ
神は、ご自身と祈りの格闘をするヤコブを愛されました。神は、ヤコブの求めに対して屈してくださるお方でした(26~27節、ルカ24章29節参照)。ここに、求める者に対する神の謙遜があり、神の愛があります。
続いて神が「お前の名は何というのか」とヤコブに尋ねられたのは、彼が自分の本当の姿を直視できるようにするためでした。そして、神によって新しく変えられる恵みへと彼を導かれたのです(28~29節)。ヤコブは、神の顔を仰ぎ見て、そのご支配に自らを委ねたのでした(30~31節)。
神が最も願っておられることは、祈りの格闘ができるほどの情熱ある信仰と、あるがままの真の自分を認めて十字架の主にすがりつく砕かれた心です。

イエスを訪ね続けたニコデモ(2010.8.8)

宣教題  : 「イエスを訪ね続けたニコデモ」   宣教:   西原 孝至 師
聖    書  : ヨハネ 19章38節~42節
人がキリストを訪ね続けていると造り変えられ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できる人になります。

1.以前、ニコデモは主イエスの教えを聞くために、夜、人目をはばかって、イエスを訪問したことがありました(ヨハネ3:1-11)。しかし、その頃のニコデモは、自分の努力で律法を守って正しい生活をし、そのことを神に喜んでもらおうとする世界に生きていたので、主イエスを信じて罪赦され、聖霊によって造り変えられるという世界を理解することは、どうしてもできませんでした。

2.その後、7章では「律法を知らない群衆は呪われている」と言うファリサイ派の人々に対して、ニコデモは「イエスがまちがっていると頭ごなしに言ってはならない。その言葉に耳を傾け、御業をよく見てから判断すべきだ」と勇気をもって語りました(50~51)。

3.やがて19章では、十字架で死なれたイエス・キリストが私たちの身代りであることを知ったニコデモは、キリストの愛に押し出されて、主イエスの死体を墓に収めるという愛のわざを、昼間堂々と人目を恐れないで行ったのでした。

誰でも始めは、キリストの言葉の意味がわかりません。しかし、ニコデモのようにイエスを訪ね続けるなら、必ず天からの助けが与えられ、造り変えられるのです。礼拝に出席し、聖書を読み、祈りを通してイエスを訪ね続けましょう。