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礼拝メッセージ

主の道を守る民(2011.10.9)

宣教題  : 「主の道を守る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記 18章16節~22節
教会の宣教のわざは、決してきれいごとですむようなものではない。教会にはソドムやゴモラのような世界に祝福を届ける使命が与えられているからだ。

1.ソドムとゴモラの現実
ソドムとゴモラは邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた(13章13節)。そして、町から天に上る公正な審判を求める叫び声は大きい(18章20節)。正義が行われず、立場の弱い人々が食い物にされていたからだ。主はそこに行かれ、現実を知り、介入される(18章21節)。ソドムとゴモラは現代日本を映している。

2.主の道を守る民
主はアブラハムを選ばれた。ソドムとゴモラと無縁ではない場所で、彼自身がソドムや他の神々の道ではなく、主の道を守るためである。さらに、彼の子孫たちも主の道を守って正義に生きるよう、彼らに命令し、教えることを主は彼に求めた(19節)。宣教のために、主への従順に生きる人々が継続して起こされ、主の道を守ることが伝統として引き継がれる必要がある。つまり、イエスの命令のすべてを守るように教えることによってイエスの弟子を養成することは、教会の宣教に必須である(マタイ28章18~19節)。

3.主の祝福を届ける
宣教のゴールは、アブラハムとその子孫たちが主に従って歩むことではなく、主が結ばれた約束、つまり世界の民の祝福の実現だ(18章19節)。そして、ソドムへの宣教を願っておられたからこそ、主はアブラハムに介入の機会を与えた(18章17節)。そして、アブラハムは大胆にソドムの民のために主ににじり寄り、主はその交渉に応じられた(18章23~32節)。
神の恵みによって選ばれた私たちは、神の宣教のわざが教会によって実現するため、主に従うよう招かれている。だから、主がソドムへ下って行かれたように(18章21節)主の道を守る者として積極的にこの地に関わっていこう。

わたしたちを生かす信仰(2011.9.25)

宣教題  : 「わたしたちを生かす信仰」   宣教:   中川 利行 師
聖    書  : マルコによる福音書 16章1節~8節
キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストを神の御子、罪よりの贖い主、そしてこの方をわたしの個人的な救い主と信じる信仰です。そして福音とは、イエス・キリストの御生涯、彼が受けられた十字架による苦難、その死よりの復活を言います。

1.「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
マルコ16章1~8節は、主のご復活の記事です。この時の三人の婦人たちは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という天使の声を聞いた時でさえ、持参した香料のことをすっかり忘れてしまうほどに、疑いの心、落胆しきった気持ち、絶望感を抱いたままでした。婦人たちは、ここに至るまで主イエスから何度も十字架の死と復活の予告を聞いてきたにもかかわらず、結局死んだらお終いだとの疑いの心に捕らわれていたのです。続いて婦人たちは、復活された主にガリラヤでお目にかかれると聞いても、震え上がり、正気を失って墓から逃げ去りました。戦慄を覚えたからです。
しかし、主イエスの復活は事実起こりました。主が復活された三つの証拠があります。(1)三人の婦人の証人=彼女たちは目撃者でした。(2)大きな証拠品=封印された大きな石が転がされていました。(3)天からの証し=天使が「あの方はよみがえられた」との伝言がありました。

2.復活されたイエス・キリストをいつも思う。
キリストの使徒となったパウロは若き伝道者テモテに、「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(2テモテ2章8節)と語っています。
主イエスは今日も復活されて生きておられます。私たちが信仰生活を続けていく上で特に記憶しなければならない事は、「死者の中から復活された」イエス・キリストの事を思うことです。パウロは「イエス・キリストをいつも思い起こす。これがわたしの福音である」と生き生きと表現しています。
私たちを生かす信仰は、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを信じる信仰以外にありません。私たちは、この信仰に立つ者となりましょう。

主を愛するゆえに(2011.9.18)

宣教題  : 「主を愛するゆえに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章1節~8節、1ペトロ1章8~9節
私たちは、主イエスの愛に応答したマグダラのマリアの歩みから、さらに主イエスの愛に応答することを証言し続けたペトロのメッセ-ジから、主イエスを愛するとはどういうことかを教えられます。

1.主イエスに仕えることを喜ぶ
マグダラのマリアは、以前は「七つの悪霊」にとりつかれていた悲惨な生き方をしていました。そういうところから主イエスによって救われただけに、彼女の主イエスへの感謝は誰にも負けないくらいに深かったと思われます。ですから彼女は、主イエスが十字架にお架かりになった際もそこに立っていましたし(マルコ15章40~41節)、主イエスが葬られた後も墓から去りがたかったのです(同47節)。そして、彼女は世界で最初に復活の主イエスにお会いする光栄を与えられたのです(同16章9節)。
このように、人として惨めさを知り抜いたひとりの女性が、主イエスに愛され、その罪を赦され、悪霊から解き放たれた結果、ひたすら主イエスを愛し、仕えることを喜びとする歩みをするようになったのです(ルカ8章1~3節)。私たちが、主イエスを愛して喜び仕えていくなら、主イエスの深い愛が見えてくるのです。

2.キリストの証人であることを喜ぶ
これまでのキリスト教会の歴史において、多くの婦人たちが、黙々と忍耐深く、礼拝をささげ、祈りをささげ、教会の働きを担ってきました。何よりも、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」マグダラのマリアのように、彼女たちは十字架と復活の証人となりました(マルコ16章10節)。
ところで、ペトロもこの喜びの知らせを聞いて、復活された主イエスに会い、主イエスを愛し、信じ、喜びに満ち溢れました。同じように、魂の救いを受けている者は、主イエスを肉眼では見てはいなくても主イエスを愛してやまず、信じ、言葉では言い尽くせない喜びに溢れる者とされるのです(1ペトロ1章8~9節)。ですから私たちは、マグダラのマリアやペトロのように、主イエスに愛され、主イエスの愛に生き、主イエスを愛する者とされていることを喜びをもって証しするのです。

最高の祝福(2011.9.11)

宣教題  : 「最高の祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 民数記  6章22節~27節
モ-セとアロンとミリアムは、80歳を超えてから、神に遣わされて神の民イスラエルの先導者となりました(ミカ6章4節)。特にモ-セの兄であったアロンは、神の祝福を執り成す者として用いられました。

1.祝福を受ける
アロンは、徹頭徹尾モ-セの脇役に甘んじたという点で、たぐいまれな人物です。アロンが表面に立って語る時があるとすれば、それはモ-セの代弁者としてでした(出エジプト4章16節)。しかし、どこまでもモ-セを支えるものであって、とりわけ彼の祈りを支えました(同17章8~12節)。
ところが、モ-セが大祭司を選ぶための諸規定を神から教えられていた間(同28~29章)、アロン自身は民の要求に従って金の子牛作りに精を出していました(32章)。神は、そんなアロンの罪を赦し、「主の聖なる人」(詩編106編16節)として、神と罪人の間に立つ仲保者とする祝福を与えられました(出エジプト32章)。これは、私たちの姿を映す鏡であり、イエス・キリストの救いという祝福を受ける者の姿です(エフェソ1章3節)。

2.祝福を告げる
アロンは、神の祝福を告げる祭司として用いられました(民数記6章22~27節)。ここには、「あなた」と言われる神の民全体に対して、神の祝福と守りが(24節)、主の臨在の恵みと導きが(25節)、主の臨在の顧みと平安が備えられることが告げられています(26節)。そしてこの祝福は、全キリスト者に及び、三位一体の神の名による祝祷でもあります(1コリント13章13節)。
今日の教会の礼拝は、牧師の祝祷で終わりますが、互いの日々の歩みがこの祝福を受けたところから始まります。この祝祷は単に祝福を祈るという以上に、祝福を告げることなのです。そして、祝福のうちに死を迎え、祝福の確信をもって試練と戦うのです。私たちは、イエス・キリストに信仰によって結び合わされ、神の祝福を告げる祭司なのです。

確信はどこから(2011.9.4)

宣教題  : 「確信はどこから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章6節~10節
パウロ一行がアジア伝道からヨ-ロッパ伝道へという新たな展開をするにあたって、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」と語っています。それは、情況を総合的に判断して、このように決断したということです。この決断は、どういうところから生まれたのでしょうか。

1.聖霊の導きに従うことを通して
パウロは、第一回目の伝道の時に開拓された教会を問安し、小アジアの中心エフェソに赴く計画を持っていましたが、「聖霊から禁じられ」、続いて「イエスの霊がそれを許さなかった」と二度にわたって阻まれました(6~7節)。
主なる神の御心は別のところにあることを示そうとされたのです。この時パウロ一行は、主なる神が最善のところに導かれると信じつつも、不安と戦いつつ、迷い、悩み、戸惑ったことでしょう。
パウロが、自分の計画や考えを持ちつつ、それを捨ててまでも聖霊の導きに従うことができたのは、「私ではありません。キリストです」との信仰経験と訓練を絶えず持っていたからでした(ガラテヤ2章19~20節)。主なる神からの確信は、聖霊の導きに従うことを通して与えられるのです。

2.魂の叫びを聴くことを通して
聖霊の導きによってトロアスに着いたパウロは、一人のマケドニア人の嘆願を通して、ヨ-ロッパ伝道の幻を見たのです(8~9節)。この三度目の主なる神の導きに、「わたしたちは」とあるパウロ、シラス、テモテ、そしてルカが従ったのでした(10節)。
主イエスが一人の魂の叫びを大切にされたように、パウロは一人の魂の叫びを聴き逃しませんでした。魂の救いの叫びは、途絶えることなく続いています。主なる神は、今日までその叫びを聴いた人を用いてご自身の救いの御業を進めてこられました。私たちは、一人の人の魂の叫びを聴き取って、その人のところに遣わされていく群れであり続けたいと切願します。

先立つ主イエス(2011.8.28)

宣教題  : 「先立つ主イエス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  16章1節~8節
復活された主イエスについて「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)と告げられていることは、主イエスが予告されたことであり(14章28節)、自ら十字架に向かって決然として先立ち行かれたお姿でもありました(10章32節)。先立たれる主イエスは、どういうお方なのなのでしょうか。

1.復活の命を与える主
主の弟子たちとペトロがガリラヤに戻ることは、彼らにとってはもう一度やり直そうとの願いがあったからかもしれません。ただ確かなことは、死んだらお終いだとの暗い思いに捕らわれていたということです。死に勝利して復活された主イエスは、そうした彼らに永遠の命を与えて生きるものとするために、ガリラヤに先立って行かれたのです。
私たちが信仰を与えられるようになるには、各々その道筋をたどります。ただ共通していることは、復活の主イエスが先回りして出会ってくださり、復活の命に生きる者にしてくださるということです。それは、今までとは違う解き放たれた自由と喜びと平安に生きることです。

2.再起動される主
主の弟子たちだけでなく、マグダラのマリアを始めとする女性たちは、ガリラヤに向かって先立たれる主イエスの後ろ姿を見ながらついて行きました。主の弟子たちにとっては、それはふりだしに戻っていくことでもありました。かつて主イエスは、そのご生涯をガリラヤ伝道から始められ、弟子たちは「イエスの後について行った」からです(1章14~20節)。先立たれる主イエスは、彼らを使命の原点に立たせ、再起動させようとされたのです。
十字架に死んで復活され、今も生きておられる主イエスは、私たちを絶えず初心に立ち返えらせて、与えられている使命に振い起させてくださいます。私たちは、死と恐れが支配しているように見える中にも、「ここは、復活され、先立たれる主イエスが支配しておられる」との信仰に立ち続けたいものです。

世界への祝福となる民(2011.8.21)

宣教題  : 「世界への祝福となる民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 創世記  12章1節~3節
アブラハムに対する「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という主のことばこそが福音である、とパウロは語っている(ガラテヤ3:8)。信仰によってアブラハムの子孫とされた私たちにもこの福音を宣教する使命が与えられている。

1.神の祝福
アブラムに与えられた使命は「祝福となる」こと(創世記12:2)、つまり彼を通して世界の諸国民が神の祝福をいただく事である(12:3)。この神の祝福は、天地創造の初めに神が世界中を満たす被造物へと与えられたいのちの祝福を指す(1:28)。人はそれを自分たちの力で獲得しようとするが(バベルの塔)、神は造られたものすべてにこの祝福を与えようと願っておられる。神の祝福は賜物である。

2.すべての国民
神はすべての民(異邦人)がこの祝福を経験することを願っている(12:3)。一部の人だけ(たとえばイスラエルの民)に閉じられてはおらず、ノアの子孫として世界中に散り、広がっていった(10章)「地上の氏族すべて」がその対象である。すべての国民と出会うためにアブラムはカナンの地へと出ていったことを忘れてはいけない。まわりにクリスチャンがいないことは嘆くべき事ではない。祝福が「すべての国民」に与えられるチャンスを生み出す場にあなたは置かれている。

3.あなたによって
アブラムは他者のために選ばれた。聖書における選びとは、神の祝福が広がるという宣教を目的としている。だからこそ、選ばれたアブラムにとって、「離れ、行きなさい」(12:1)という主の命令に対する積極的な応答、歓びに満ちた従順が大切となってくる。主が私たちに求めておられるのも、主への従順である。主の招きに従って、安住の地から一歩進み、人々と関わることによって、祝福とならせていただきたい。

死と向かい合う(2011.8.14)

宣教題  : 「死と向かい合う」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  15章42節~47節
私たちが告白する使徒信条には、主イエスの十字架の死の事実を「十字架につけられ、死にて葬られ」と詳しく言い表しています。本日の聖書箇所には、主イエスの埋葬と、その死と向かい合う人間の姿が描かれています。

1.墓に向かう人生
主イエスの死が確かめられてから、その体はアリマタヤのヨセフによって、王と同じような待遇でもって丁重に葬られました。主イエスは犯罪者のように呪われた死を死なれましたが、死の直後から栄光を受け始められたのです(イザヤ53章9節)。このようにして、主イエスは本当に死なれたのであり、葬られたのです。
主イエスは、私たち人間が死ぬのと同じように死なれ、同じように葬られました。その意味で、私たちと主イエスとは、「死にて葬られ」ということにおいて一つとなることができます。ただし私たちは、主イエスが復活してくださったゆえに、今や墓に向かう人生から墓を突き破る人生に変えられているのです(16章)。

2.主イエスに向かう人生
アリマタヤのヨセフは、神の国を待望しつつも、公然と信仰を言い表わすことができなかったようです(ヨハネ19章38節)。しかし、彼は、この時一切の恐れを捨て、地位も名誉も失う覚悟で、主イエスの埋葬の役を買って出たのです。彼をしてこのような言動に至らせた理由は、主イエスの十字架の死の事実があったからでした。アリマタヤのヨセフ同様に、主イエスの十字架を仰ぐ者は、信仰の妨げとなるものを打ち砕くのです。
「この人も・・・」と言われていますが、アリマタヤのヨセフだけでなく、先の百人隊長も(39節)、最後の最後まで主イエスを見失わなかった婦人たちも(47節)、主イエスに向かう人生を歩んだのです。そして、神の恵みの支配に生きる「私たちも」主に向かって歩み続けるのです。

人知を超えて(2011.8.7)

宣教題  : 「人知を超えて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  16章1節~5節
私たちは、主の弟子であり、また主から遣わされて生きる使徒でもあります。絶えずこの自覚をもっていたパウロは、先の伝道旅行において殺されそうになったリストラにある教会を問安するために遣わされて行ったのです。その結果「こうして、教会は・・・」と人知を超えて前進して行きました。

1.同労者が見い出されたから  1~3節
パウロを通して福音の前進がなされていくには、シラスに加えて多くの人材が立てられ、福音が継承されていく必要がありました。そこで選ばれたのが、「テモテという弟子」でした。テモテは、信仰者家庭で育った純粋な信仰を持っていましたし(2テモテ1章5節)、「兄弟の間で評判のよい人」とその信仰と人柄が高く評価されていたからです(フィリピ2章20~22節)。ここでパウロは、テモテがユダヤ人の間でも福音を語るにふさわしい者とされるために、愛のゆえに割礼を授けています。それは伝道のためであって、決して救いのための条件ではありませんでした。
主なる神は、私たちが遣わされていく先々で、福音のための同労者を備えておられます。そこには、人知を超えた神の働きがあるのです。

2.福音の本質を見失わなかったから  4~5節
パウロたちは、先のエルサレム教会会議で明確にされた「イエス・キリストの救いの恵みに与かるには、ただ信仰によるのみです」との福音の本質をもって諸教会を励まし、力づけ、導いていきました。
「こうして、教会は」、まず内的な信仰が強められることが優先され、その結果教会の外的成長がなされていきました。この優先順位が、初代教会から今日まで守られてきたところに、健全な成長を見てきました(2章47節、6章7節、9章31節、16章5節)。
このように福音は、人知を超えて前進して行くのです。私たちは、福音の本質を見失わない霊性を持ち続けることが大切です。

キリストの孤独(2011.7.31)

宣教題  : 「キリストの孤独」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 15章33節~41節
主イエスが、十字架上で父なる神に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたことは、聖書中の最大の「なぜ」です。私たちは、この叫びを真剣に尋ねる必要があります。

1.キリストは孤独を経験された
父なる神は、主イエスに十字架上で容赦のない審きをされました。それは、主イエスが人間の罪そのものとなられて、身代わりに神から捨てられてくださったことを表しています。本来、罪を犯されなかった主イエスは、死ぬ必要がないどころか、父なる神に審かれることなどあり得なかったのです。
この時、一瞬とは言っても、主イエスは父なる神との交わりを断たれて孤独になられたのでした。しかし、「永遠の(聖)霊によって、御自分をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は・・・」(ヘブライ9章14 節)とあるように、聖霊は主イエスの贖いの御業を全うできるように支え続けられたのです。そこには、孤立された主イエスのお姿はありません。それゆえに、主イエスは、ご自分からその霊を父なる神に委託され、贖いの御業を完了したと勝利の宣言をされたのです(37節、ルカ23章46節、ヨハネ19章30節)。

2.信仰者は孤立することがない
私たちは、示されている罪がありながら、それを認めなかったり、悔い改めなかったりして、神との交わりから断たれて孤立していました。しかし、神は、主イエスの十字架によって、断たれた隔てを取り除き、交わりの道を回復してくださったのです(38節)。私たちが、百人隊長のように「イエスの方を向いて」信仰告白に導かれるならば(39節)、孤立することなく、神との交わりの中を生き続けることができるのです。
私たちは、主イエスの復活の勝利に立ちつつ、本来神から捨てられて当然であったにもかかわらず、捨てられずにしてくださった主イエスの十字架の贖いを忘れないで、それを重く受け止めていく信仰者となりましょう。

造られたものを治める民(2011.7.24)

宣教題  : 「造られたものを治める民」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : 創世記  1章26節~28節
東日本大震災に続く福島第一原発の事故は、福島県一帯を中心に甚大な土壌汚染を生み出している。環境を破壊している人の現実に対して教会はどのように向き合うことが求められているのだろうか。

1.神は天地を創造された
「初めに、神は天地を創造され」(創世記1章1節)、「万物をただ御子によって、御自分と和解させられ」(コロサイ1章20節)、「新しい天と新しい地」(黙示録21章1節)を終わりの日に創造される。このように、神のご計画は天地創造ではじまり、すべての造られたものの完成というゴールへと進んでいる。
しかし、世界が神の目指すゴールと真逆の方向に進んでいるように私たちは感じる。それは、神ご自身のかたちに造られた人(創世記1章:27節)がその使命を果たしていないからである。被造物が人の必要を満たそうと手を伸ばしているのに、人は万物のよき管理者として働こうとはしない。

2.教会の使命
神は人を御自身のかたちに創造され、地を従わせ、すべての造られたものを支配する使命を与えられた(1章28節)。つまり、神が愛をもってこの世界を王として治められているように、この世界を治めるために人は造られた。さらに、神は人を農夫として造り、土を耕し、守る使命を与えられた(2章15節)。人間は世界のすべてを自分の利益を生み出す道具と考えているが、この世界にいのちが満ちあふれるようにすべての造られたもの、特に「地」のしもべとして働くことこそが人の使命である。
すべての造られたものを治める使命が与えられている教会は、神が造られた世界を守り、キリストによってなされた万物との和解を実現する働きへと召されている。世界のよい管理人となることによって、新しい天と新しい地の前味を神の恵みによって今、この世界に現すことができるのだ。

すべてが益に(2011.7.17)

宣教題  : 「すべてが益に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  15章36節~41節
神に愛されてキリストの救いに与かった者は、神を愛する者となり、神の御計画に従って召されていることを自覚するようになります。神はそのような者と共に働いて一切を益としてくださいます(ロ-マ8章28節)。教会はそのような中を歩んできましたが、そこに何を見い出してきたでしょうか。

1.神を再発見する
パウロが第二回伝道旅行を提案したのは、生まれたばかりの異邦人教会を問安しようという愛からでした。それに際して、第一回伝道旅行の途中で働きを離脱していったマルコをこの伝道旅行に同伴させるかどうかで、パウロとバルナバとの間に激しい意見のやり取りと対立があり、分裂する結果となってしまいました。
そこで、パウロとバルナバは、互いに意見の違いを抱えたまま一緒に伝道するよりも、神の導きの中をそれぞれの確信に従って伝道することを選びました。彼らは、こうした出来事を通して、神が二つの伝道チ-ムによる伝道の拡大へと導かれることを見い出すこととなったのです。

2.主の恵みを体験する
パウロの厳しさとバルナバの温かさによって、マルコは造り変えられていったと思われます。一方パウロは、忠実な兄弟であったシラス、すなわちシルワノ(1ペトロ5章12節)を選び、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」のでした。人々が、主の恵みに委ねたというところに、伝道の力の秘密があります。
主に委ねるとは、何もしないでただ待っているということではありません。主の前に自分の無力さを認め、謙虚にひざまずき、御言葉の約束を信じて、前に向かっていくことです。私たちが、受け継いでいる臨在信仰に生きるのも同様です。私たちは、主の恵みに委ねることを繰り返し体験していく信仰の達人でありたいものです。

主に新しい歌を(2011.7.10)

宣教題  : 「主に新しい歌を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト  15章20節~21節
私たちは、普段から多くの賛美を歌っています。出エジプトに際してささげられた賛美は、聖書に登場する最初の賛美です(15章1~21節)。そこには、変わることのない賛美のスピリットが明らかにされています。

1.主に向かって
神の民は、今にもエジプトの軍隊に滅ぼされようかというところから、神の御手によって奇跡的に救われました。神の民もミリアムたちも、その「主に向かって」歌っています(1節、21節)。
当たり前のことですが、私たちは、讃美歌という歌をただ歌うというのではありません。賛美は主にささげられるものなのです。聖霊に満たされて、主に向かって心からほめ歌うのです(エフェソ5章18~19節)。

2.主の救いを感謝して
「女預言者」と言われたミリアムは、神のみこころを人々に伝えた人でした。彼女は、弟モ-セが用いられて「主は大いなる威光を現し」と、出エジプトという主の大いなる救いを感謝しています。
賛美は、敵に追い詰められた崖っぷちのイスラエルのように、罪のために滅びるべきであった私たちに注がれた神の愛と、救い主イエス・キリストの十字架と復活の救いを感謝して歌うことなのです。

3.主の御前に謙って
この神の民の賛美のスピリットは長続きしませんでした。荒野に導かれた彼らは、不信仰に陥り不平を述べています(16章2節)。また、ミリアムとアロンは、神が立てられた指導者モ-セに対する嫉妬と高ぶりを抱いて、主に賛美をささげることを忘れてしまいました。その後、彼らは悔い砕けた心を与えられ、回復の恵みにあずかりました(民数記12章1~16節、ミカ書6章4節)。
キリストの謙遜が、私たちの救いです。そしてキリストの救いが、私たちを謙遜に導きます。そこには、絶えることのない主への新しい賛美があります。

危機はチャンス(2011.7.3)

宣教題  : 「危機はチャンス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  15章22節~35節
初代教会が、大きな転換期を迎えていました。それは、だれであってもイエス・キリストの恵みにより信仰によって救われるという福音の真理が明らかにされることにより、教会の分裂の危機を免れたことです。そのために、聖霊が教会会議を用いて働かれました(28節)。

1.聖霊の導きに従う
「割礼を受けなければ救われない」という教えが、アンティオキア教会に持ち込まれた結果、意見の対立と論争が生じました。エルサレム教会は、この信仰の危機を打開するために、パウロとバルナバの異邦人伝道の報告に基づいて会議を開き、議論を重ねた後に、ペトロが異邦人に対する神の恵みの御業と自らの信仰経験を証ししました。それによって、キリストの福音は、世界的かつ普遍的な救いであることが証言されたのです。議長であったヤコブは、人はだれでもキリストの恵みにより、信仰によって救われることを明らかにし、ユダヤ人への愛の配慮を付加して、会議を収束させました(15章1~21節)。
このように福音の真理が貫かれ、分裂の危機が避けられたのは、聖霊の導きに教会全体が従ったからでした。

2.聖霊の御旨に同意する
エルサレム教会は、アンティオキア教会にパウロたちを派遣することを決定し、決議事項を手紙と口頭で伝えることを決定しました。さらに、最終的に「聖霊とわたしたちは・・・決めました」と、聖霊の御旨に教会全体が同意していることを明らかにしたのです(22~29節)。
聖霊の御旨に添うた決定の内容は、アンティオキア教会の一人ひとりを慰め、励ますものでした(30~34節)。このようにして聖霊は、クリスチャン一人ひとりの心の中に信仰の確信を与え、教会全体の一致と成長をもたらされたのです。
聖霊とわたしたちにとって、危機はチャンスとなるのです。

愚かと見える道(2011.6.26)

宣教題  : 「愚かと見える道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  15章16節~32節

聖書は、「愚かさ」ということについて多くを語っています。とりわけ、神の救いが、イエス・キリストの十字架という一見愚かに見える方法で現わされました。そして、そのキリストためには、私たちが喜んで愚かになる道を歩むことを証ししています。

1.救いをもたらす道
ロ-マ兵に引き渡された主イエスは、「ユダヤ人の王」と見立てられての侮辱を受けられました(16~20節)。また、ゴルゴタで十字架につけられてくださった時には、そこを取り囲む人々からののしられました(29~32節)。それの侮辱の言葉は、主イエスが「他人は救ったのに、自分は救えない」ということと、「今すぐ十字架から降りる」のを見たら信じるということでした。
私たちは、彼らの言い分とは逆のところに真理を見い出しています。主イエスは、自分を救わなかったからこそ、人を救うことができたのです。十字架から降りられなかったからこそ、救い主なのです。この愚かに見える救いにこそ、「神の力、神の知恵」(1コリント1章21~25節)が明らかにされています。私たちは、神の恵みによって、この救いを受け入れるのです。

2.祝福をもたらす道
シモンは、主イエスの十字架を「無理に担がせ」られました(21節)。彼は十字架を担ぎながら、眼中から兵士や群衆も消えて、十字架上の主イエスのみが見え、救いの御言葉のみが聞こえるようになったのです。無理やりの恵みを通して、彼は主イエスに近づけられたのです。無理やりに十字架を担がせた人の手は、実は神の恵みの御手でもあったのです(ロ-マ16章13節)。
こうした経験は、私たちも日々に与えられているものです。主の十字架を無理やりにと思える形で担っていくことが、自分自身と周囲に大きな祝福をもたらします。今日も十字架の主イエスを仰ぎ、主の十字架を担って、従う者となりましょう。