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礼拝メッセージ

喜びに生きる(2012.1.15)

宣教題  : 「喜びに生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書      : 使徒言行録 16章25節~34節、フィリピ4章4節

「喜びを物語る」イエス・キリストの福音は、主イエスと私また私と他者との出会い、関係、結びつきを通して波及していきます。その結果私たちは、主イエスにあって常に喜びに生きる者とされるのです。

1.主への礼拝に生きる
ここに至るまで、占いをしていた女性、彼女によって利益を得ていた人々、役人が登場しましたが、彼らに迷信と商売と政治の混乱した状況が伺えます(16~24節)。続いて登場した看守には、仕事上の失敗によって自縄自縛している様子があります(26~27節)。彼らには、救いを失った人間の共通した姿が見てとれます。福音は、そういう状況の中に伝えられる必要があるのです。しかし、そういう世界に福音を伝えることは、伝道の苦しみを経験することでもありました(23~24節)。
ところでそうした最中、パウロとシラスは真夜中の牢獄の中で、神を賛美し、神に祈るという神への礼拝をささげています(25節)。ここに、教会が教会であり続ける姿があります。イエス・キリストの救いに与かっている私たちは、いかなる時にも礼拝をささげる喜びに生きるのです。

2.主の救いに生きる
パウロとシラスは、看守の求めに対して、彼とその家族に対して神の言葉を語り、全家族が主イエスを信じることを勧めました(29~32節)。看守は、パウロとシラスが深い淵にあって神に賛美して祈り、敵対している者を思いやるという神のなされる御業に触れ、またパウロたちの導きに対して信仰の応答をし、家族も一緒に洗礼を受けたのです(33節)。そして彼は、パウロたちを自分の家に招いて食事を共にして信仰と愛の交わりを持ち、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのです(34節)。
イエス・キリストの十字架と復活は、私たちの罪を解決し、神との関係を回復します。そこには絶えず「喜び」と「神の平和」があり、「広い心」があります。そして力を合わせ、福音のために戦う喜びがあります(フィリピ4章2~7節)。私たちには、このような主の救いに生きる喜びがあるのです。

喜びを物語る(2012.1.8)

宣教題  : 「喜びを物語る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書   1章1節~4節

ルカによる福音書は、喜びの福音書と言われるほどに、主を讃え、喜んでいる内容で満ちています。そして、主イエス・キリストがどういう方であったか、何をなさった方であったかを物語り、主の恵みを伝えています。その結果として、人々が喜び物語る中に巻き込まれていくことを語っているのです。

1.「私が」巻き込まれる  1~3節
著者ルカは、異邦人の医者であり(コロサイ4章14節)、パウロと伝道を共にした協力者であり(フィレモン24節)、その殉教の死の時まで共にいました(2テモテ4章11節)。彼は、使徒言行録も書き記すほどにキリストに捉えられていました(使徒言行録1章1~2節)。
そんなルカが、実際主イエスを見聞きした人々の言葉を聴き、語り伝えるために仕える人々の言葉に耳を傾け、書き連ねられた言葉を熟読し、自らも「マルコによる福音書」などを基に詳しく調べて、順序正しく書いて伝えようとしたのです。
ところで、「わたしたちの間に実現した事柄について」と語っていますが、ルカ自らもそこに含まれ、巻き込まれているとの信仰に立っているのです。同じように私たちも、そこに含まれ、巻き込まれているのです。

2.「一人ひとりを」巻き込む  3~4節
ルカは喜びの物語を「テオフィロ」一人に語りかけています。彼が求道者であったか、信仰をもってまもない人であったかは不明ですが、彼に確かな信仰の決心が与えられ、信仰が強くされるようにと願って訴えかけているのです。そこには、主イエスの福音の喜びを味わい知った者の篤い思いがあります。
福音は、本来一人ひとりの魂に向かって注ぎ込むように語られるものですが、結果として、それが全ての人に向かって語り伝えられるのです。ですから、「私に語られているメッセ-ジである」との姿勢が一人ひとりに求められるのです。
私たちは、喜びの物語に巻き込まれる時を大切にして、そこから始まる喜びの出来事を生活の中で語り続け、書き表し続けていきたいものです。

若者も老人も(2012.1.1)

宣教題  : 「若者も老人も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   2章16節~21節

約束の聖霊が降られたペンテコステは、キリスト教会の誕生を意味しました。ペトロは、この出来事が旧約のヨエルの預言の成就であると宣言したのです(ヨエル3章1~5節)。ここに、教会は本来どのような性質を持っているかを明らかにしています。

1.「主の名を呼び求める者」の集まり
「主」とは、イエス・キリストご自身であり、「主の名を呼び求める」とは、イエス・キリストを信じ、信頼することです。教会は、全ての者の罪のために十字架に架かり、死から復活されて今も生きておられるイエス・キリストを信じ、そのことによって救われた人々の集まりです。
この信仰を基盤にして共に礼拝し、様々な活動や必要のために集まるのが教会です。
このような教会につながる私たちは、いかなる状況下でも主なる神を呼び求める道が開かれているのです。

2.様々な立場を越えた集まり
聖霊は、新約の時代に生きる「すべての人に」注がれ、男も女も、若者も老人も隔てなく、イエス・キリストとその救いを証しし、宣べ伝えるように導かれています。これは、教会の素晴らしい特質の一つです。
そして教会は、若者も老人も互いに尊びながら、現実をしっかりと見つめて、これからどうなるかを洞察します。その上で、どうすべきかという構想や幻を見させていただく神のビジョンに生きるのです。

3.神の時を待つ集まり
ペンテコステの日にヨエルの預言が成就したのが、約八百年経過してからでした。主の弟子たちに聖霊が臨まれたのは、彼らが待望の祈りを始めてから十日目でした。神の時が成就されるのは、神の御心一つです。
主の名を呼び求める者の集まりである教会は、目先の方法論や姑息な手段に頼るのではなく、困難があっても決していらだたず、各自が神の前に真実に生きるとともに、神の時の来ることを信じて、その時を待つのです。

暗闇に輝く光(2011.12.25)

宣教題  : 「暗闇に輝く光」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書   9章1節~6節

1.死の陰、暗闇
クリスマスには「暗やみ」が強調される。人々は暗やみの中を歩き、死の陰の地を歩んでいる(9:1)。国家的、宗教的、戦争による暗やみが国を覆っていた。心の奥に潜む暗やみ、自分の歩みの中にある暗やみがある。そして、私たちはその奴隷となっている。暗やみは表には出てこず、むしろ私たちのうちで増殖する。

2.暗闇に届く光
しかし、クリスマスには「暗闇に届く光」も強調されている。「大きな光」の到来というよい知らせが語られるからだ(9:1)。光が一切届かない場所にさえ届く光が到来する。光の到来は、当初、驚きと痛みを伴う。しかし、しばらくの後、喜びの宴がはじまる(9:2)。

3.王の誕生による解放と戦いの終わり
暗闇に光が届くきっかけとは何だろうか。天地創造の神が与えられた神の働きを代行する子どもの誕生である。彼は人知を越えた知恵で世界を治め、敵を打ち負かし、民が安心する統治を行い、戦いを終わらせ、国々に平和をもたらす(9:5~6)。あらゆる重荷と苦しみからの解放が到来し(9:3)、あらゆる戦いが終わりを告げる(9:4)。
クリスマスにその誕生を喜び祝うイエスこそ、暗闇に届く光をもたらす平和の王である。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。しかし、イエスの誕生だけですべての問題が解決したわけではない。イエスご自身が最も深い暗闇をその生涯と働きの中で通られた。世の暗闇が最も明らかとなる十字架で、憎しみ、苦しみ、暴力、痛みをご自身の身に負われた。だからこそ、暗闇の中にある私たちにイエスの光は届く。
イエスの再臨という夜明けが近いことをクリスマスは私たちに告げている。だからこそ、万軍の主の熱意によってもたらされた(9:6)光を覚え、感謝と賛美をささげつつ、主の再臨を待ち望もう。

降る愛(2011.12.18)

宣教題  : 「降る愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   4章9節~10節
クリスマスは、大いなる神が小さくなられて、幼子イエスとして、この地上に最も低く降ってくださった時です。私たちは、この出来事を「神は、独り子を世にお遣わしになりました。・・・ここに愛があります」と言い表していることに目を向け、そこに立ち帰り、そこから新たに出発するのです。

1.人を生かす愛  9節
神は、私たちに愛する価値があるから愛してくださったのではありません。神の愛は、神の方から示してくださったものであり、愛するに値するものを発見できなくても愛されるのであり、愛することによって価値あるものと造り変えてくださるのです。
それは、イエス・キリストによって私たちを生かす愛です。命の源である神と断絶して死んだような状態にあった者に、生きることの意味や目的や生きる力を与えられるのです。さらに、もうダメだと思われた人の生き方を変えて、その持ち味を生かして用いられるのです。そして、肉体の死で終わることなく、永遠にまで生かされるのです。
人は誰でも、自分を気遣ってくれて、自分の人生を肯定的に生かしてくれる人を求めます。イエス・キリストこそが、私たちにそれを成し遂げてくださるのです。

2.罪を贖う愛  10節
神に生かされることをとどめるのが、私たちの内にある「罪」です。罪は、神と人の本来の関係を破り、人と人との関係も人と自然との関係も破るもので、人間にとっての最大の問題です。それは、人間世界に悪や不義や不正や対立や争いとなって表れます。
愛の神は、この罪を放置しておくことができないので、ご自身の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。それは、神の独り子が十字架にお架かりくださり、「罪を償ういけにえ」となってくださったことによって明らかにされました。このことを信じる者に与えられる罪の赦しは、私たちが勝ち取った赦しではなく、贈られた赦しです。罪を赦された者は、真に生きる者となるのです。
「ここに愛がある」とは、何という素晴らしい宣言でしょうか。ほんものの愛に必ず会える「ここ」と呼び得るところは、イエス・キリストです。

光の中に生きる(2011.12.11)

宣教題  : 「光の中に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   1章5節~10節
イエス・キリストの来臨は、まことの光が失われてしまった世界に、神ご自身がまことの光であることを現わされた出来事でした(ヨハネ1章9節)。私たちには、この「光の中を歩む」のか、「闇の中を歩む」のかが問われています。
光の中に歩み続けるとは、どういうことなのでしょうか。

1.神と交わり続ける  5節~7節
イエス・キリストを信じる者は、光の中を歩み、神との交わりに生かされているのです。ところが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいることがあるというのです。具体的には、信仰と生活が関係なくばらばらになっている生き方をしていることです。しかし、神との交わりとは、主イエス・キリストに堅く結ばれ、主のものとされている交わりです。主に愛されていることを知るがゆえに主を愛し、礼拝に生きる者とされている交わりです。
闇の中に生きるならば、人は孤立し、互いに信頼し助け合うことができなくなります。しかし、光の中に生きるならば、互いに交わりを持つ健やかな人生がつくられ、新たな交わりを築き上げていきます。

2.神の真実に触れ続ける  7節b~10節
もし私たちが、これまで罪を犯したことがないとか、今も自分に罪がないといって罪を軽く考えるなら、それはイエス・キリストによってなされた救いの業を意味のないものとしてしまい、自分を欺くことになります。しかし、神は、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちが心にある罪の事実をそっくりそのまま神に告げて悔い改めることによって、あらゆる罪を赦し、罪から清め続けてくださるのです。この神の真実に触れ続けることが、光の中に生きることなのです。
光の中に生きることは、あやふやな生き方をすることではなく、私たちの日常生活を力ある歩みとします。ですから私たちは、自分の力で光を輝かせようとすることをやめて、まことの光であられるイエス・キリストに立ち帰り、その光の中に生き続けることが大切なのです。

喜びが満ち溢れて(2011.12.4)

宣教題  : 「喜びが満ち溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一  1章1節~4節
神が人に近づかれ、その人生に介入される時、人は不安や恐れを覚えることがあります。とともに、それが大きな喜びに変わり、新たな出発となる経験をします。それは、最初のクリスマスの出来事においても見られました(ルカ2章8~11節)。本日の聖書箇所には、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と証言しています。

1.永遠の命に与かる喜び  1~2節
イエス・キリストは、天地が創造された時すでに存在しておられた永遠の神であり、永遠の命そのものであり、私たちに永遠の命を与えるために現れてくださったのです。そして、人の言葉をもってご自分の意志・考え・計画を私たちが分かるように語りかけてくださいました。
使徒たちが経験したように、私たちは、信仰の耳をもってキリストの言葉を聞き、信仰の目を開いていただいてキリストを見、信仰の手を差しのべてキリストに触れることができるのです。そうすることによって、私たちは永遠の命に与かり、魂の深みにおいてキリストによって慰めを受けるのです。そして、最初のクリスマスの出来事に出会った人々と同じように、私たちは恐れではなくて喜びに溢れるようになるのです。

2.交わりを持つ喜び
永遠の命であるイエス・キリストを証しし、伝えることが教会の使命です。そうするのは、人々が「わたしたちとの交わりを持つようになるため」なのです。罪と死は、人と人を引き離し、交わりを削ぎます。しかし、命は人と人をつなぎ、交わりをもたらします。わたしたちの人と人の交わりを支え、守るのが、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」なのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰と、それによって与えられる永遠の命を共有する交わりです。このような神との交わりに生きる人々の交わりが拡大され、強められていくのが生きた教会です。
私たちは、永遠の命に与かる者たちの交わりに加えられていることを喜びましょう。さらに私たちは、喜びが満ち溢れる交わりを与えてくださるイエス・キリストを喜びをもって証しし、伝えていきましょう。

平和の王イエス(2011.11.27)

宣教題  : 「平和の王イエス」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書  11章1節~9節
「地には平和」とクリスマスによく語られるのはイエスが平和の王だからである。

1.平和をもたらす王
大国が支配を広げ、小国は絶望せざるをえない時代。「私たちは切り倒された切り株に過ぎない」とユダの民は思った。しかし、ダビデの父であるエッサイにたとえられる切り株から若芽が伸びるとイザヤは語る。ダビデの子孫の王が誕生する(11:1)。主の霊によってその務めを全うする王には、善悪を判断し、国と民を導く知恵、主を畏れ敬うことに基づく知恵が溢れている(11:2)。正当なさばきと公平と真実をもって国を治める(11:4~5)。主のみこころにかなう統治をする王が誕生する。

2.来るべき平和の希望
弱肉強食の世界に平和の王国が誕生する(11:6~9)。喰う者が喰われるべき者を喰わず、毒をもって相手を傷つけるものがそれを行わず、異なるものが共に住むのにお互いを傷つけない。平和の王が国を治め、その統治によって「水が海を覆っているように大地が主を知る知識で満たされる」(11:9)からだ。世界は根本的に変わる。民も平和の民へと変えられる。

3.平和の希望に支えられて
平和の王イエスは二千年前に生まれた。しかし、平和はいまだに到来しておらず、弱肉強食の世界に私たちは生きている。平和の王国は単なる幻に過ぎないのか。ちがう。「希望の源である神が・・・聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださる」(ローマ15:13)。イエスが平和を実現してくださるという希望に満たされ、主を畏れることを教える聖霊によって生きていく時、神は私たちを通して平和の王国を少しずつ実現していってくださる。イエスの再臨の時に平和の王国は実現する。人と人、国と国、そしてすべての被造物の間の平和がやがて世界に訪れる。だから、希望に生き、聖霊に押し出されて、私たちにできる平和のわざに参与しよう。

窮地に生きる信仰(2011.11.20)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章16節~25節
聖書には、信仰をもっているのに試練があることと、そのような試練にあったときにそれを喜びとしている証しが多く記されています。パウロのフィリピ伝道は、順調な出来事ばかりでなく、パウロやシラスの投獄というような窮地に追い込まれたこともありました。しかし、その時にも別な意味での喜びがありました。

1.主イエスに試される喜び
占いの霊に取りつかれた奴隷の女は、精神的にもバランスを欠いた状態で雇い人に利用されていましたが、主イエスの十字架と復活の福音によって、その罪の奴隷の悲惨な生活から解き放たれ、救いにあずかりました(16~18節)。ところが、この女の雇い人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、ありもしない罪状を作って、パウロとシラスを捕えて訴え、牢に投げ込んだのでした(19~24節)。パウロたちは、この難を避けるために正当な訴えもせずに、甘んじて受け入れました。このことが、続く看主の家族の救いにつながっていくのです。
私たちは、「神を信じているのに、神は約束されているのに、なぜこのような試みを通されるのか」と、信仰の土台を揺さぶられる経験をします。主イエスは、私たちの信仰が本物になるように、敢えて試みを通されるのです。そこには、主イエスに試されることによって得る喜びがあります(ロ-マ5章1~5節)。

2.主イエスを想う喜び
このような窮地の中で、しかも真夜中ごろ、パウロとシラスは神に賛美をして祈っていました。他の囚人たちはそれを聞き入っていました(25節)。普通ならば意気消沈してつぶやき、不満が出てくるものです。
彼らは、主イエスの十字架を想い起こし、罪の罰である死を受けてくださり、罪の奴隷から解放し、復活の命に与からせてくださったことに感謝して、神に賛美し、祈ったのでした。
私たちも窮地に追い込まれた時に、主イエスの十字架と復活の福音を想い起して賛美し、祈ろうではありませんか。必ず主の御業が拝せられることを信じて!

神の教育(2011.11.13)

宣教題  : 「神の教育」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 出エジプト 2章11節~15節、ヘブライ11章24~27節
愛の神が、人間が生きる社会に働かれるとき、必ず贖われた人を神の器として用いられます。そのために、神の最大の関心事は、神の器の教育です。そこでは、神が人をどのように取り扱われるかが中心のテーマとなります。今回は、モ-セの生涯の第一の転機とも言える出来事から学びます。

1.神の民であることを選び続ける
モ-セは、ヘブライ人の母親から、創造者であり歴史を導かれる神を信じる信仰を受け継ぎ、エジプトの王女に引き取られてからは、そこでの最高の教育を受けました(使徒言行録7章22節)。彼が40歳になった時に、同胞のヘブライ人をかえりみる心が起こされ(同7章23節)、エジプト人から同胞を助けました(出エジプト2章11~14節)。
この事件を通して、モ-セはエジプトの富と栄誉よりも、神の民と共に苦しみとあざけりを受けることを選び取ったのです(ヘブライ11章24~26節)。彼は、神から与えられる報いに目を向けつつ、信仰によって神を仰ぎ見つつ耐え忍んだのでした(同11章27節)。
このように、神に選ばれた人生を選んでいくことは、見栄えのする華やかな生活、また楽な人生を追及することではなくて、たとえ試練があっても神が備えてくださったところに踏みとどまることです。それを通して、神からの使命が明らかになるのです。

2.神の民をむなしくする
モ-セが神に用いられるためには、さらなる神の高等教育へと導かれる必要がありました。彼は、ミディアンの地に逃れて、再起の機会を伺っていたことでしょう。しかし、彼の荒野での40年は、自己過信や傲慢や衝動的な性格が聖別され、孤独と失意を通して神の助けを求め、神に信頼して委ねる信仰のレッスンを学ぶ時となったのです。このことを通して、モ-セは自分のうちに、もはや何の信頼も持つことができなくなったのです。
この世の教育は人を偉大にしますが、神の教育は人をむなしくします。神は、神の民をむなしくすることにより、造り上げていかれるのです。

真実な救い(2011.11.6)

宣教題  : 「真実な救い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 16章19節~20節
主イエスが弟子たちと共に働かれたので、彼らは確信をもって福音の働きをすることができました。『彼らの語る言葉が真実である』ことが証しされ、人々に真実な救いとして受け入れられていきました。

1.勝利をもたらす救い
私たちが、「いまキリストはどこにおられるか」と問われたならば、「天に上げられ、神の右の座に着かれ」ていますと答えます。それは、遥か遠い所で静観しておられるということではなく、「主は彼らと共に働き」とあるように、弟子たちと共に歩まれた地上の在り方とは違った状態でおられるということです。すなわち、いつでも、どこでも共にいてくださって(マタイ28章20節)、福音の働きを共に進めてくださり、真実な救いへと導いてくださるのです。それは、「主イエス」の勝利の支配が、いつでも、どこにでも及んでいくということです。
私たちは、信仰者としても、教会としても様々な信仰の経験をし、試練を受け、また思わぬ方向へと導かれていくものです。そのような時、「神はこのことを通して何を教えていてくださるのか」と問いつつ、主イエスは私たちを勝利をもって支配しておられるということを本気で信じることが大切です。

2.拡がり続ける救い
主イエスがご自分の弟子たちと共に働かれて、彼らの語る言葉が真実であることを、主の臨在と同行という確かなしるしをもって明らかにされたことは、今も変わらずに続けられていることです。
また、主イエスは、ご自身の弟子たちを通して、「永遠の救いに至る・・・福音を広められた」(結び二)とあるように、今も変わらずに私たちを用いて、救いのご計画を進めておられます。
私たちは、十字架に死んで復活された福音の灯を消してはなりません。今も私たちと共に働かれる主イエスの恵みを無にするわけにはいきません。私たちが語る福音の言葉が真実であることを証ししないわけにはいきません。

信じること(2011.10.30)

宣教題  : 「信じること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 1章12節~13節、3章16~21節
聖書は、ひたすら神の恵みにより、ただそれを私たちが信じる信仰によってのみ、罪赦され、罪を全く犯したことのない義人と認められると主張しています。「信じる」という語を多く用いている「ヨハネによる福音書」は、それはどういうことで、何をもたらすのかを語っています。

1.受け入れて、未来の先取りを
私たちは、イエス・キリストを「信じる」に際して正しい事実を知ることから始める必要があります。まず、私たちは罪という事実を自分自身のこととして認め、死という事実から目をそむけないことです。そして、イエス・キリストの十字架と復活の事実は、罪と死の唯一の解決の道であることを認めることです。
イエス・キリストは、神の愛を伝える「言」として、愛そのものである神を明確に示されました(3章16節)。私たちは、この方の御人格と御業を「受け入れ」るのです。それは、単なる賛成や同感することではなく、ありのままの自分を任せて安んじてしまうことです(1章12~13節)。そうするなら神は、神に敵対する人生を歩んできた者を「神の子」として受け入れ、神と共に「永遠の命」に生きる者として天国の世嗣としくださるのです。このように、私たちは未来を先取りする者とされているのです。

2.信頼して、生活の改革を
イエス・キリストを信じる者は、罪を拒否する生活改革を行います。私たちは、「真理を行う者は光の方に来る」(3章21節)とあるように、真理の御言葉に照らされることにより、真面目な罪意識を持ってそれを告白するならば、イエス・キリストの十字架の血潮ゆえに、神の無限の赦しの愛を信じて立ちあがることができるのです。
このように、イエス・キリストを信じるとは、このお方の真実に身を委ねて、信頼していくことです。私たちは、罪人から徐々に義人になるのではなくて、きっぱりとした決断をすることにより、そこから神の祝福に生きる歩みが始まるのです。
私たちの生活改革がされる解決の糸口は、私たちの側にあるのではなくて、神の側すなわちイエス・キリストの十字架と復活にあるのです。

身代わりとして十字架に架かられたキリスト(2011.10.23)

宣教題  : 「身代わりとして十字架に架かられたキリスト」   宣教:   唐木 照雄 師
聖    書  : マルコ 15章25節~39節

1. 十字架を背負い処刑場に向かうキリスト
主イエス様は、十字架に架かる為にゴルゴタの丘に向かいます。そこは犯罪人が処刑される場所であります。そしてその十字架と言うのは、想像するのに、犬きくて、重たくて荒削りの十字架ではなかったであろうか。恐らくその十字架は主イエス様の肩にぐいぐいと食い込んで来た事と思います。しかも十字架を背負った主イエス様に対して死刑執行人であるローマの兵士は、時間までにその刑を終わらせたいという思いから早く歩けと言わんばかりに急き立ててまいります。

2.想像を絶する苦しみを受けられるキリスト
やがてゴルゴタの丘に着いた主イエス様は、自ら背負って来た十字架上に両手、両足を縛られ、死刑執行人によって有無を言わさずに、あの太い犬釘にも似た釘がガン、ガンと打ち込まれたと言うのであります。この時の肉体的な痛みについては、ある方は『痛みは、時とともに増して行き、裂かれた肉体の痛み、ことに不自然な姿勢の結果、手足は硬直し頭脳、肺、胃におけるはなはだしい充血、血管の膨張、身を焼かれるような渇き、めまい、頭痛、しかもこうしたものが、すべて同時になされる時、しかも意識はまだ失うまでにいたらず、その苦しみは、人間の想像を絶する耐え難い苦しみとなって起こって来る』と語っています。

3.キリストは何故このような苦しみを受けなければならなかったのか
何故キリストはこのような苦しみをしなければならなかったのであろうか、私たちの罪の身代わりとしての苦しみであったと聖書は告げております。いわば十字架とは、捨てられなくても良いお方が捨てられ、捨てられて当然の者、いや、捨てられなければならない者が捨てられることなく救われる為であったと言うのです。今まで父なる神様を喜ばせてばかり来たお方が、父なる神様を少しも喜ばせなかったような者として取り扱われ、今まで、父なる神様を少しも喜ばせなかった者が、全く父なる神様を喜ばせてばかり来た者のように受け入れられる。つまり上なる者が下に、そして下なる者が上に、この交差、クロスこそがイエス・キリストの十字架であったと言うのであります。

新たな出発(2011.10.16)

宣教題  : 「新たな出発」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章12節~18節
聖書には、多くの出発(旅立ち)の出来事が記されています。何よりも主イエスご自身が、その弟子たちとともに日々旅に生きたお方でした。そして、今日の私たちの信仰の出発は、復活された生ける主イエスの命令と約束に生きることから始まります。

1.主イエスを仰ぎ見るときから  14節
主イエスと一緒にいた人たちの中には、キリストの復活の事実を聞いても「信じなかった」とあります(11、13、14節)。彼らが信じようとしない原因は、「かたくなな心」にありました。主イエスは、それをお叱りになっています。
このように「信じなかった」者たちは、その後、神のあわれみによって、不信仰な心、かたくなな心を取り去られ、神の救いの恵みにあずかる者と変えられました。それは、彼らが「復活されたイエスを見た人々」と同じように、キリストを仰ぎ見る者となったからです。
信仰とは、現実を見て失望したり、他人を見てうらやんだり、自分を見て惨めになるのではなくて、主イエスを信じて仰ぎ見ることなのです(詩編34編6節)。この仰ぎ見る日々の連続が、仰ぎ見る生涯となるのです。

2.主イエスの弟子になるときから  15~18節
主イエスは、ご自身を仰ぎ見る者たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音が、神に造られた人々に宣べ伝えられることによって、人々が主の弟子になることができるからです(マタイ28章19節)。主イエスは、ご自身を信じて洗礼を受け、神のものになることを欲しておられるのです。しかも、主イエスは、人々を悪魔的な力から解き放ち、キリストとその御業が語られることによって、不可能と思われることを可能とされるのです。
マルコによる福音書は、イエス・キリストの素晴らしさを証言するとともに、人間の弱さや罪深さをストレ-トに語っています。こうした弱く罪深い者が造り変えられて主イエスの弟子となり、福音を証言していったのです。私たちは、主イエスの弟子とされて、新しい出発をさせていただきましょう。

神の必然としてのリバイバル(2011.10.2)

宣教題  : 「神の必然としてのリバイバル」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章11節~15節
主の恵みが満ち満ちて、それが溢れ出でて周囲を変革していくのが「リバイバル」と言われています。その「リバイバル」の本質は、主イエス・キリストが崇められ、主イエス・キリストが拡大されていくことです。それは、日常的なことであり、その備えがいつもなされていることが求められます。

1.「主が」心を開かれる  14節
主がヨ-ロッパ伝道に導いておられると確信したパウロ、シラス、テモテ、ルカたちは、当時小ロ-マと言われた「フィリピ」に到着しました。彼らは、そこの祈り場に集まっていた婦人たちに福音を語りました。その中に居合わせたリディアは、「神をあがめる」敬虔な婦人で、主がその彼女の霊の目を開かれたので、語られることを集中して聴き、回心へと導かれました。
真のリバイバルは、このような「敬虔の気風」を生み出し、それが教会の気風となり、教会を決定づけます。そのためには、一人ひとりが不敬虔から敬虔への人生に変えられ(ルカ23章40節)、それが深められることが必要です。何よりも、毎週繰り返される礼拝において、私たちは信仰の基本に立ち返り、敬虔であることを慕い求め、敬虔の鍛錬をされていくことが大切なのです(1テモテ4章7節)。

2.「主に」忠実である  15節
リディアとその家族は、共に洗礼を受けました。そして彼女は、自宅にパウロ一行が泊まるように愛をもって招待しています。こうして、この家族が中心となって、「喜び」を最大の特徴とするフィリピ教会が誕生しました。それ以来、彼女の家を拠点としてフィリピ伝道がなされ(16章40節)、「献身的な気風」に満ちた教会となりました(フィリピ4章15~16節)。
こうした気風は、「主を信じる者」すなわち「主に忠実な者」たちが、一つになって集まる所に生まれます。「世界聖餐日礼拝」は、こうしたことを重んじて生まれました。私たち一人ひとりは、主イエスを信じる信仰をもって、主に忠実に、また主に真実に生きるならば、途絶えることのないリバイバルが生まれるのです。