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礼拝メッセージ

捕囚の地で生きる民(2012.9.16)

題   : 「捕囚の地で生きる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖書  : エレミヤ書29章1~7節、テモテへの手紙一2章1~4節
キリスト者は、神が愛し、イエスが王であり、聖霊が働いているこの世に遣わされつつも(ヨハネ17:18)、そこに属するものではありません(17:16)。この世の真ん中で、この世と異なった歩みをします。

1.置かれている地の人々のために祈る
まず、キリスト者は、置かれている地のすべての人のために祈るよう招かれています(1テモテ2:1)。この地を統治している人々のためにも祈るべきです。彼らが正しく治めることによって、信仰に立った生き方を継続できるからです(2:2)。しかし、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」(2:4)主の摂理が実現へと進むために祈っているのだ、ということも忘れてはいけません。キリスト者の祈りは、いつも宣教的です。

2.置かれている地で長期的に生きる
けれども、難しい人々に囲まれた地に置かれることもあります。エレミヤの時代、バビロンへと捕らえられた人々は、自らの国を滅ぼした敵の間で住むよう求められました(エレミヤ29:1-3)。去りたい、しかし、逃げることはできない、そんな彼らに対してエレミヤは、万軍の主がそこに送られたことを告げます(29:4)。だからこそ、一時的な腰掛けではなく、長期的に住み、根ざし、増えろ、と勧めています(29:5-6)。そこが主の祝福の地だからです。

3.置かれている地の平安のために働く
しかし、求めていくのは自分たちのしあわせだけではありません。自分が置かれている町の平安を求めていくこと、敵であった人々の上に神の祝福があるように祈り、働くことも捕囚の地に住む民の使命です(29:7)。バビロンの民さえも愛しておられる主は、ご自身の民を通して主の平安がこの世界に広がることを願っておられるのですから。
神が今の場所(それが捕囚の地でも)に私たちを置かれています。その地の影響を受けてしまうのではなく、むしろ神の平安という影響を与えていきましょう。そのことを通して主の宣教のわざは進みます。

神の御手によって(2012.9.9)

宣教題  : 「神の御手によって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 申命記34章1~8節

モ-セの死は突然やってきました。彼の使命は、イスラエルの民の先頭に立って40年間荒れ野を旅し、約束の地カナンに民を導き入れることでした。ただし、モ-セ自身は、カナンを目の前にして、ピスガの山頂で天に召されたのでした。そこには、絶えることのない「神の御手」がありました(33章27節)。

1.神の御手にある生死  5節
モ-セは、死は神の命によるものであることを理解し(詩編90編3節)、自らの死も神の命によるものであることを受け止めていました。
私たちは、生きているのではなく、神によって生かされているのです。全ての人の生命は、神の御手の中にあるのです。従って、私たち一人ひとりの生死は、神の御手の中にあるのであり、神の御心に従うものなのです。

2.神の御手に導かれる使命  7節
驚くべきことに、モ-セは120歳になっても目がかすまず、活力も衰えていませんでした。そんな彼の死は、老衰などによるものではなく、使命が終わったからでした。
私たちには、それぞれの使命があります。それには、生かされているという使命と果たすべき使命があります。私たちが、その使命に真実かつ忠実であるならば、人々はそれを通して幸いを受けていきますし、その結果神が崇められるのです。一人ひとりの使命が終わったとき、それがその人の死なのです。

3.神の御手による御国への出発  6節
「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とあります。これは、モ-セの死が彼のすべての終わりではなかったことを証ししています。彼は、神の御手によって、地上の生活から御国の生活に移されたのです。
私たちは、死によって地上の生活を終え、肉体は朽ちますが、その霊魂は永遠に生きる者とされているのです。主イエスの十字架による贖いと復活を信じ、罪から救われて永遠の命を与えられた者は、肉体の死は迎えますが、主の再臨の時に復活の体に化せられるのです(フィリピ3章20~21節)。それは、神の御手による御国への葬送です。

使命への出発(2012.8.26)

宣教題  : 「使命への出発」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 3章15~22節

主イエスは、12歳の時と(2章42節)30歳の時に(3章21~22節)転機を迎えられました。主イエスが洗礼を受けられたのは、罪の赦しのしるしとしてではなく、救い主としての公生涯に入られる準備の期間を終えられて、使命の道につかれる就任式のような意味がありました。

1.聖霊による出発
洗礼者ヨハネは、誰に対しても罪の悔い改めを迫るメッセ-ジを語りました(19~20節)。民衆は、彼こそが待望するメシアであると考えたほどです(15節)。しかし、彼は、真のメシアである主イエスに仕えて、この方こそ自分よりも力ある優れた方であると紹介しました。主イエスは、神の救いの御業に与からせてくださる聖霊を注いでくださるのです(16~18節)。
さて、主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、神と人との深い絆がつくられるように「祈っておられ」ました(21節)。その祈りが神に聞かれると、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のでした(22節a)。ここでの聖霊の働きは、イエスの救い主としての使命の出発に際してなされたことでした。聖霊が明らかにしておられる主イエスとその救いこそが、私たちの財産です。

2.御言葉による出発
この時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神の御声が聞こえたのです(22節b)。それは、神が選ばれ、喜びとされ、支持され、御目に適った僕であるとの御言葉の成就でもあったのです(イザヤ42章1節)。そこには、声をあららげることなく、ひたすら祈り、黙々と歩まれる僕としての御姿が証しされています(同42章2~4節)。主イエスは、父なる神から託された使命に歩み出された時から、十字架の死に至るまで一貫して、この僕として歩みを全うされました。
私たちは、神から遣わされ、託された使命に生きる者として召されています。そのためには、どこまでも主イエスとその御言葉に学び、倣い、従うという信仰の歩みが求められているのです。

御言葉の力(2012.8.19)

宣教題  : 「御言葉の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 19章11~20節

主の御言葉の力は、いかに強いものであり、拡大されていくかが明らかにされています(20節)。それは、「このようにして」とあるように、神がパウロを通してなされた目覚ましい驚くべき奇跡を通して、人々の神に対する具体的な信仰が呼び起こされたことによりました。

1.神を畏れかしこむ  17節
ここに見る奇跡は(11~12節)、主イエスが地上におられた時にも同様に見られたものです(マルコ5章25~34節)。エフェソは迷信が盛んで、アルテミス神殿においては祭儀がなされ、小アジア全体からの多くの巡礼者がはびこっていました。こうした所では、キリストの福音を目に見える形で見せる伝道の仕方がなされたのです。
そして、イエスを信じていないユダヤ人の祈祷師たちが、試しに同じような奇跡を行なおうとしましたが大失敗し、逃げ出してしまうという有様でした(13~16節)。
そのことを知った人々は、神を畏れかしこむようになりました(17節)。それは、人間の全存在が根底から揺さぶられ、神を崇める者に造り変えてしまう畏れです。そして、神に対して感謝と喜びと希望を抱いて礼拝をささげる自由な者に造り変えてしまう畏れです。

2.キリスト信仰を告白する  18~19節
ここには、信仰に入った人々が、罪を具体的に告白し、キリストの救いに与かる真の悔い改めの実を結んでいる姿があります。それは、主イエスの十字架と復活に対する、彼らのキリスト信仰を告白したものでした。
私たちが、この点において不徹底になっていると、信仰に進歩が見られませんし、喜んで主に仕える力ある奉仕をささげることが難しくなります。
私たちが、キリスト信仰を告白することは、生涯にわたって神と関わることであり、生活の全領域に関わることです。これこそが、キリスト者であることのライフスタイルなのです。「このようにして」、私たちは、御言葉の力を日常生活で体験させていただくのです。

神に遣わされる民(2012.8.12)

宣教題  : 「神に遣わされる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 6章1~13節  マルコ 3章14~15節

キリスト教会を「使徒的教会」と呼ぶことがあります。イエスが十二人の使徒を遣わされたように、教会もキリストによって遣わされているからです(マルコ3:14−15)。

1.謙遜な民
イザヤはその幻の中で、エルサレムの神殿をその足台としている主を見ました(イザヤ6:1)。この方は、「主の栄光は、すべての地を覆う」(6:3)とあるように、全世界をその活動の舞台としています。この聖なる方を見た時、自分がこれまで叱責してきた汚れた民と何ら変わらないことに気がつきます(6:5)。それは、彼が王である主を見たからです。神を見ることなしに遣わされることはありません。しかし、神を見るとは自分の本当の姿を見ます。だから、謙遜にそれを認めることこそ大切です。

2.罪赦された民
イザヤの罪を主は赦されます(6:6)。しかし、主が直接に赦しを宣告するのではなく、主が遣わしたセラフィムによってそのことが宣告されます。私たちが遣わされるために、他の人をまず私たちのために主が遣わして下さいます。そして、主が遣わされた者を通してなされる主のわざを経験させてくださるのです。神の恵みを受けずして、神の恵みの宣教者として遣わされることはできません。

3.神を中心とする民
イザヤは神の声を聞きます(6:8)。「わたしがここにおります」は「どうぞ用いてください」、招きに対するイザヤの自発的応答を表しています。主は強いてことをなさいません。しかし、遣わされる者にご自身のメッセージを語るように命じます(6:9-10)。遣わす方がなせと命じることに服従するのが遣わされた者の働きです。遣わされる者は、もはや自分が世界の中心ではありません。遣わす主こそがその人の中心なのです。
イザヤも使徒たちも、圧倒的な神のわざを体験し、神のわざのために遣わされていきました。私たちはもうすでに遣わされるべきところに遣わされています。しかし、「私をどうぞ用いてください」と主の前に出ているでしょうか。自発的に主の前に出てはじめて、主のわざに参加する神に遣わされた民としてその使命に生きることができます。

信仰の気づき(2012.8.5)

宣教題  : 「信仰の気づき」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  3章1節~14節

洗礼者ヨハネは、救い主イエスがおいでになる道備えをするために、人々が福音を受け入れるための「悔い改め」を迫った預言者でした。彼の役目は、そのことを人々に気づかせ、与えることにあったのです。「罪の赦しを得させるために悔い改め」るのが(3節)、なぜ私たちに必要なのでしょうか。

1.全ての人に神のさばきがあるため
イスラエルの民は、自分たちはアブラハムの子孫で神の選びの民であるという自負に安住していました。しかし、ヨハネはそれを再度評価し直さなければならないと指摘したのです(ルカ3章7~8節)。それは、旧約聖書の中で「かたくなな民」と語られている姿であり(出エジプト33章3節)、彼らが同じ状態にあることを気づかせようとしたのでした。ヨハネは、そのようなイスラエルの民に神のさばきが近づきつつあることを知って、悔い改めを迫ったのでした(ルカ3章9節)。
私たちは、同じように悔い改めることの迫りをいただいています。この時、私たちは自らの罪を認めてその自覚を持ち、罪とその結果を悲しみ、罪を捨てて、神に立ち帰ることが必要なのです(2コリント7章10節)。

2.全ての人の生きざまが変革されるため
ヨハネは、荒れ野で神の御言葉を聴き、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(ルカ3章2~3節)。それは、荒れ野に主の道が整えられ、その道筋をまっすぐにし平らにする働きでした(同4~5節)。荒れ野と呼ぶ世界に含まれるのは、当時の皇帝・総督・領主たち・大祭司(同1~2節)、また群衆・徴税人・兵士(同10~14節)であり、今日の私たち一人ひとりのことであることに気づくことが必要です。
私たちは、イエス・キリストを通して現わされた神の救いを、自分の救いとして受け入れ、仰ぎ見る心の柔らかさが求められています(同6節)。そのような中から「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(同8節)者とされていくのです。それは自己中心的な生き方でなく、人を愛する生き方であり(同10~11節)、正しさを貫く生き方です(12~14節)。この私にさえ及んでいる救いの恵みに気づく者とされましょう。

福音を宣べ伝える民(2012.7.29)

宣教題  : 「福音を宣べ伝える民」   宣教:   鎌野 直人協力牧師
聖    書  : イザヤ 52章7節~10節  マルコ 1章15節

すべてが順調に行っている時に福音は必要ないかもしれません。しかし、最悪としか思えない現実の直面している時、良い知らせは必要です。

1.神は王になった
歴史の中でも最悪の状況に陥っていたイスラエルが聞いたのは、「シオンよ、あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)という知らせでした。すべてを分裂と争いへと仕向ける存在が支配していた世界に、主が王として即位されました。勝利をとられた主を中心に据えて、世界が再編成されるのです。そして主はシオンへと帰還されます(52:8)。
主によって救いと平和が、イスラエルを奴隷から解放し、ひずみ、破れ、とげとげしくなったあらゆる関係の修復がもたらされました(52:7)。ご自身が特別に選んだ民に対して果たすべき責任であったわざを主が実行されたからです(52:9)。そして、イスラエルに主がなされたわざとそのインパクトをすべての民は目の当たりにします(52:10)。

2.福音を宣べ伝える
「神は王となった」という福音を宣べ伝える召命を私たちはいただいています。福音とは、徹頭徹尾、神のわざについての良い知らせです。イスラエルの神である主が世界の王となったのも、目で見ず、耳で聞くことができなかった民が福音を知ることができようになったのも、すべて神がなされたからです。さらに、私たちだけが福音の宣教者ではありません。様々な方法を用いて、神ご自身がこの福音を宣べ伝えておられます。主の恵みのわざのゆえに新たに造り変えられた者として、どのような状況の中にあっても喜びの賛美の声を世界中にあげることこそわたしたちがもっと励むべきことではないでしょうか(52:9)。
イエスご自身、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とこの福音を宣べ伝えました。イエスのわざを通して、神は王となり、シオンに帰り、世界は再編成されたのです。ですから、わたしたちがおかれている現実が最悪であったとしても、「神は王」です。そのことを確信しつつ、どのような中でも、喜びの讃美の声をあげましょう。神のすばらしいわざの知らせを世界は心待ちにしているのですから。

キリスト者を生かす(2012.7.22)

宣教題  : 「キリスト者を生かす」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  19章1節~10節

私たちにとって大切なことは、聖書に証言されているイエス・キリストを信じ、このお方と結びつき、信頼して従っていくことです。これは、信仰告白に対する私たちの在り方も同じです。そのために、聖霊は今も、信じる私(たち)の内に働き、また私(たち)を通して働いておられます。

1.私(たち)の内に働かれる
パウロは、アポロからヨハネの洗礼について教えを受けていたエフェソの弟子たちに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と問いかけました。彼らは、聖霊のことが分からず、イエス・キリストを救い主また主と信じていませんでした。そこでパウロは、彼らに最善の道を明確に示しました。その結果、「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」という御業が瞬間的に起こったのです(2~6節)。
聖霊は、見ることも触れることもできない、まるで風のように働かれます(ヨハネ3章5~8節)。聖霊は、私たちの心の目を開いて、私たちの真相を認識させてくださり、イエス・キリストの永遠の救いを明らかにしてくださり、信仰へと導かれます(エフェソ1章17~19節)。また、聖霊は、私たちの全存在・全生活をキリスト御自身とその愛で支配されます(エフェソ3章14~19節)。そして、聖霊は、神の言葉を大胆に語らせ、しかも他国の言葉で話すことを自由にさせてくだるのです(使徒言行録19章6節)。

2.私(たち)を通して働かれる
聖霊は、ペンテコステの時の12人の使徒たちに対すると同じように、エフェソにおいても聖霊に満たされた12人を用いて、小アジアへの宣教を進められました(7節)。
パウロが会堂で熱心に神の国について論じ説得したときに、心を頑なにして不信仰を表わし非難をする者たちが起こりました。しかし、それをも転じて福となして、他の場所での働きを進めることになりました。そうした二年の働きの結果、小アジア全域に福音が伝えられていったのです(8~10節)。
聖霊が、私(たち)の内に働かれ、それによって私(たち)を通して働かれるには、私(たち)が心砕かれ、イエス・キリストの恵みの御支配に委ねていくことが大切なのです。

傾聴される神(2012.7.15)

宣教題  : 「傾聴される神」   宣教:   仁科 千永子 師
聖    書  : 創世記  21章1節~21節

1.登場人物
一家の中心的存在であり、物事を決する家長としてのアブラハム、その正妻サラ、約束の子イサク、女奴隷ハガル、彼女が産んだ子イシマエル、この5人のバトルが繰り広げられています。神はアブラハムに「大いなる国民の基」となる事を約束されました(創世記12章1節)。しかし、サラには子が生まれませんでした(同16章1節)。そこでサラはハガルによって子を得る事を夫に勧め、彼もこの提案を受け入れ、そこに生まれたのがイシマエル(主は聞かれるの意)です(同16章15節)。ハガルがイシマエルを産んだ時、アブラハムは86歳でした。しかし、「来年の春にサラに子が与えられる」と神は約束され(同17章)、サラにも直接語られました(同18章14節)。

2.約束の成就 イサクの誕生
神は約束通り、アブラハム100歳サラ90歳の時、イサクが誕生しました。この時イシマエルは14歳、イサクが乳離れした日、盛んな宴会が開かれました。世界中がバラの花束で埋まるほどの感謝と喜びの日に「あってはならない事」が起こりました。サラが「あなた!何とかこの親子を追い出して下さい」と怒り爆発したのです。

3.イシマエルとハガルの事
荒野をさまよう親子の旅、やがてパンも水も尽きてしまいました。「私はこの子の死ぬのを見るに忍びない」と、何の希望もない精も根も尽き果てた母親失格の姿があります。泣く子の声を聞かれた神は、ハガルの目を開かれました。ハガルは、あれ程さまよっても見つけられなかった井戸の水(湧きあがる恵みの水)を見つけ、それをわが子に飲ませたのでした。まさに人間の苦悩、絶望の中での神の恵みです。
結論:100%の人はいない。
全ての人には苦悩があり、私たちにも苦悩があります。しかし、その苦悩を「神は聞きたもう方」です。そこに、「祈り」が生まれるのです。私たちは、「祈りを傾聴される神」から恵みを頂き、信仰に立ち「明日の主」に全てを委ね従っていきましょう。ここに私の全てを知りつくされ、最善に導かれる神の祝福があるのです。

成長をめざして(2012.7.8)

宣教題  : 「成長をめざして」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章39節~52節

ユダヤの社会においては、過越祭に際して信仰の継承を家庭で行い(出エジプト12章26節以下)、エルサレム神殿に集まって礼拝をささげました(ルカ2章41~42節)。キリスト教会においても、幼子や少年たちの身体的・精神的・霊的成長を願っての取り組みが求められています。

1.全人格的に成長する
12歳になられた少年イエスは、身体的に、精神的に、霊的に成長されていきました(40節、52節)。また、神の愛と恵みに包まれ、対人関係において関わりをもてる社会的な成長もしていかれました。そして、「イエスは・・・両親に仕えてお暮しになった」のでした(51節)。
同様に私たちは、身体的・精神的・霊的存在として全人格的に成長していくことが必要です。とりわけ、聖書を通して、見えない神を信じ、死後の世界があることを信じ、自らの罪を知ってイエス・キリストの救いを信じることが大切なのです。
そして、幼い時から家庭で学び舎で、愛をもって周りの人々に仕えていくのです。そこで、愛と謙遜を学びつつ成長していくのです。

2.主の家で成長する
エルサレムに留まられたイエスは、学者たちとの問答をされていました。人々は、イエスの賢明な受け応えに驚いています。一方両親は血眼になって捜し、イエスを見つけてその姿に驚き、憤りにも似た言葉を語りました(43~48節)。それに対してイエスは、自分は神の独り子であり、父なる神から救い主としての仕事を委ねられているのですから「自分の父の家にいるのは」当然のことであると語られました(49節)。
同様に私たちは、父なる神の家である教会において、神の御言葉を聴き、それに応答することによって、神の仕事にいそしむ生活をつくっていくのです。今も変わらずに、イエスが私たちの「真ん中に座り」、その中心におられ、私たちと御言葉の問答をしてくださっています(46節)。私たちは、そのことに驚きを覚えつつ、繰り返し目を開いていただくなら、一人ひとりが新たにされ続け、成長していくのです。

キリストを知る(2012.7.1)

宣教題  : 「キリストを知る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章24節~28節

プリスキラとアキラとがアポロに対して成したことは、「神の御心」を実行する実例となりました(21節)。それを通して、アポロがキリストを知るという信仰の経験へと導かれて行ったのです。

1.キリストの素晴らしさを知る  24~26節
エフェソにやって来たアポロは、「主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが」、それはバプテスマのヨハネが語っていたガリラヤのイエスのことであり、エルサレムで十字架に架かられ、三日目に復活され、昇天されたイエスのことではなかったのです。従って、彼は、聖霊降臨やそれによってもたらされた教会誕生のことも知らなかったのでした。
アポロのメッセ-ジを聴いたプリスキラとアキラは、その内容がエフェソの教会を根底から崩壊させてしまう危険を感じて、個人的に彼を招き、キリストの素晴らしさとその救いを語り説明したのでした。それを謙虚な態度で聴いて受け入れたアポロは、アカイア州に渡った時、「メシアはイエスであると公然と立証し」(28節)たのでした。
私たちがキリストの素晴らしさを知る時、それが愛の連鎖反応となっていくのです。

2.キリストの体なる教会を知る  27~28節
プリスキラとアキラ及びエフェソの教会は、アカイア州に渡ることを望んだアポロを励まし、アカイア州の教会が彼を歓迎してくれるように手紙を書き、神の御業が進められるようにと「神の御心」を見極めつつ行動しました。そして、アポロもまた、「神の御心」に従って、熱心かつ徹底して福音を立証したのでした。
以後、アポロはコリント教会で活躍し、高い評価を受けましたが、それが分裂をもたらす危険もはらんでいました(1コリント1章12節、3章4~6節)。そのアポロをコリントの教会が招きたいと願った時に、彼がそれに答えることは「神の御心」でないと拒否しました(1コリント16章12節)。そうした背景もあって、パウロがアポロに対して愛の配慮をしています(テトス3章13節)。
私たちは、キリストの体なる教会に生きることを体験的に知ることが大切なのです。

持ち運ばれる人生(2012.6.24)

宣教題  : 「持ち運ばれる人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章12節~23節

神の御言葉が宣教されていくとき、ある者はそれを受け入れ、ある者はそれを拒みました。神の御言葉は、さえぎるものがある中を前進していったのです。そのために用いられたパウロは、聖霊に持ち運ばれていく経験をしたのでした。

1.神の御計画に目が開かれることによって  12~17節
ユダヤ教の指導者たちは、パウロが福音を宣証できないようにするために、その行為はロ-マ法に反するとコリントの地方総督に訴え出ました(12~13節)。しかし、彼らの陰謀は失敗しました。その理由として、復活の主イエスの御言葉の約束があったからであり(9~10節)、さらに、ロ-マ法を通して、神の見えない御支配が実現されていったからでした(14~16節)。これ以後約12年間は、福音がロ-マ帝国内に浸透していくという、神の見えない支配と導きを見ることになったのです。
その結果パウロは、復活の主イエスの約束は真実であることに感謝し、福音を語り続ける情熱と勇気が与えられ、見えない神の摂理と支配に感動したことでしょう。
私たちは、聖霊によって心の目を開いていただき、神の偉大な御計画を知るようにされたいものです(エフェソ1章17~19節)。

2.神の御心に従うことによって  18~23節
パウロの一年六か月にわたるコリント伝道は、並々ならない決意をもってなされたことでした。彼は、そこをシラスとテモテに託し、続いてエフェソに赴いて福音を宣証しますが、そこもプリスキラとアキラに託して、カイサリア、エルサレム、そしてアンティオキア教会を訪ねたのです(18~22節)。パウロは、それらの教会に第二回伝道旅行の報告をし、感謝を述べ、託された献金を届けたのでした(11章29節他)。続いて彼は、第三回伝道旅行に出かけ、先に生み出された諸教会を力づけたのでした(23節)。こうしてパウロは、「神の御心」に従うことによって、聖霊に持ち運ばれていくように先へ先へと前進して行ったのです。
私たちは、主イエスに対する信仰と従順と献身へと踏み込むことによって、神の御心を知り、主に持ち運ばれる歩みの素晴らしさを知らされるのです。

主の証人である民(2012.6.17)

宣教題  : 「主の証人である民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ  43章8節~13節

捕らえられていくイエスを置いて逃げ去っていく時ほど、イエスの弟子たちが自らの失敗者であることを味わった時はなかったでしょう。旧約聖書のイスラエルが自らの失敗者であることを痛感したのは、ユダ王国が滅び、エルサレムの神殿が崩壊し、王位に就くものがいなくなったバビロン捕囚の時代でした。自らが見えず、聞くことができなかったことに気がつき、主を知らず、偶像を神とする諸国の中に散らされたのですから。

1.主が選んだ主の僕
主はイスラエルを捨てたのでしょうか。そうではありません。「わたしが選んだわたしの僕だ」(43:10)と主はイスラエルを呼んでいます。主の声を聞くことができなかったために失敗者となったイスラエルさえも主は捨てず、むしろ彼らを捕囚から救い出そうとしておられます。そして、捕囚から救いのわざを通して、神は彼らの耳を開き、「聞こえぬ民」(43:8)にこの方こそが神であることを知らせます。彼らは主を知り、信じ、理解するようになります(43:10)。恵みによってイスラエルを選んだからこそ、主は彼らを造りかえ、再び用いようとしておられるのです。

2.諸国のための主の証人
主の救いのわざゆえに、イスラエルは主を知り、信じるようになり、この方以外に神は、救い主はないことを経験し、理解します(43:11)。そして、イスラエルは諸国に主を示す証人となります(43:10)。失敗者である自分たちをあえて選び、造りかえてくださった神を、その恵みの証拠である自らの姿をもって指し示すのです。その結果、諸国はイスラエルを通して主のような神は他にはいないことに気がつきます(43:9)。
失敗者であったイエスの弟子たちも、十字架と復活という神の偉大なわざによって、その目と耳が開かれ、イエスを通してなされた神のわざを示す証人となりました。立派な自分を指し示す証人ではありません。失敗者であった者をも造りかえてくださる神とそのわざを指し示すことこそ、主の証人として人々に仕える道なのです。

一心に(2012.6.10)

宣教題  : 「一心に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章36節~38節
女預言者アンナは、幼子イエスに近寄り、シメオンの讃歌に自分の心を合わせるようにして、神に賛美をささげています。彼女は、その全人格・全生涯をかけて、神に向かって一心に生きたからです。

1.キリストに集中する
夫と死別したアンナは、その悲しみを通して心が砕かれ和らげられて、神との親密な交わりをし、また他者に対して思いやりの心にされました。彼女は、神に信頼し、いつも神に祈り続け、仕え続けたのです(37節、1テモテ5章5節)。それは、いつもイエス・キリストに集中している姿勢でした。
イエス・キリストの十字架の苦しみにおいて、神はご自身の力を振り絞ってくださいました。神が一所懸命になって、その救いを私たちに集中して注いでくださったのです。私たちは、その恵みに応答して、日ごとに神に感謝の祈りをささげ、感謝に満ちて神に仕えるのです。それは、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを全ての中心に置くことなのです(2テモテ2章8節)。

2.キリストに生きる
アンナが神を賛美した言葉は、具体的には語られていませんが、その内容はシメオンの讃歌に通じるものだったでしょう(29~32節)。彼女は、イエス・キリストに出会ったことを喜び、神を賛美し、その出来事を周りの人々に語り伝えました(38節)。彼女は、若い時から信仰に生きてきたゆえに、老いて死を迎える時が近づいてもキリストに生きることができたのです。
同じように私たちも、老いる前にキリストに生きる喜びや慰めや力を体験し、それが日々の歩みを支える土台となることを祈り求めたいものです(コヘレト12章1節)。イエス・キリストへの信仰を言い表わした時が、「青春の日々」なのです。
イエス・キリストは生きておられます。このキリストに生きる者を神は用いて、人々の救いのために働かれるのです。

聖霊に導かれて(2012.6.3)

宣教題  : 「聖霊に導かれて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章22節~35節

シメオンが、神殿に連れられてきた幼子イエスを見て、この方が救い主であると認めることができたのは、聖霊によってでした(25~27節)。聖霊に導かれるとは、神秘的なことではなくて、ある状態に整えられた心において、初めてとらえられるものです。

1.待ち望む心
シメオンは長い間、救い主の来臨を待ち望んでいました(25節)。神の約束は、必ず果たされると信じて疑わなかったのです。そこには、神に対する信頼がありました。
彼が待ち望んでいたことは、主の慰めであり、根本的には「救い」でした。救いなしに、本当の慰めは与えられないのです。私たちは、罪と死の虜になっていることを悲しみ、そこからの唯一の救い主イエス・キリストとその救いの事実を受け入れることによって、真の慰めをいただくのです。

2.敬虔な信仰の心
シメオンは、他に多くの幼子が同じように神殿に連れてこられた中から、幼子イエスが救い主であると聖霊の導きによって確信させられたのでした。彼には、「この人は正しい人で信仰があつく」(25節)とあるように、神を敬い畏れる信仰の心があったからです。
聖霊の導きは、神を敬い、聖書を読み、祈りをささげるといった日常生活の積み重ね中から明らかにされていくのです。そのことを通して、救い主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、また安らかに去らせていただけるのです(29~32節)。

3.使命に生きる心
シメオンが救い主イエス・キリストを見て喜んだのは、決して個人的な満足のためではありませんでした。彼はそれを同胞のために待ち望み、マリアにはイエスの使命を告げています(34~35節)。彼には明確な使命があり、その使命が果たされるまでは死なないとまで告げられていたのでした。ここに聖霊の導きがあったのです。
私たちは、このような聖霊の導きを感じる整えられた心を持たせていただき、養わせていただくことが大切なのです。