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礼拝メッセージ

苦しみからの出発(2012.12.30)

宣教題  : 「苦しみからの出発」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章13~23節
過ぎ行く一年が、悲しみや試練が多かった人、充実した一年で将来の見通しのついた人と様々でしょうが、主イエスの御前ではすべてを感謝をもって迎えることができるのではないでしょうか。本日の聖書箇所に見るように、クリスマスの出来事が喜びや明るさのある中で、悲しみや苦しみといった暗さが前面にでています。ヨセフ一行は、苦しみからの出発をしています。

1.自分を王とする歩み
幼子イエスに対して、エルサレムの人々及び祭司長や律法学者たちは無関心を、何よりも幼児虐殺の首謀者ヘロデ王は猜疑心を抱いていました。これは、私たちが生まれながらに持っている主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた拒絶する態度に通じるものです。さらに、私たちが、主イエス御自身とその御業と御言葉を受け入れないで、自分を王としたがる罪の姿です。お互いが、今そのことを吟味しつつ、悔い改める必要があります。
この罪の暗さこそが、神の御子イエスをその誕生の時から苦しみへ、そして十字架の苦難へと追いやったのです。ただし、神は確かな御意志と御計画をもって、主イエスを十字架の死に至るまで守られました。

2.キリストを王とする歩み
ヨセフに見る神の御言葉に対する忠実さは、マリアを妻に迎え入れ、幼子をイエスと名付けることにおいて明らかでした(1章24~25節)。そして、彼が幼子イエスを連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと(2章13~15節)、幼子イエスを連れてイスラエルの地に帰ったこと(同20~21節)、ガリラヤのナザレへ行くように告げられたことに従ったこと(同22~23節)に見るように、愚直なまでに従ったのです。
そこには、幼子イエスを王の王、主の主であると信じた者の姿があります。このようにして、神の救いの御業は進められていったのです。
このような従順を生み出すのは、「日々、わたしたちを担い、救われる神」の確かさにあります(詩編68編20~21節)。私たちは、この神に感謝し、神を讃えましょう。

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

ひとりの誕生が世界を変える(2012.12.16)

宣教題  : 「ひとりの誕生が世界を変える」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 7章1節~17節
クリスマスは、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と呼ばれる男の子の誕生を祝う日である。そこで述べられているイエスの誕生の預言は、イザヤ書7章をその背景としている。

1.戦いに巻き込まれるダビデの家の王
紀元前8世紀、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは同盟関係を結び、大国アッシリアに対抗しようとした。ユダの王アハズはこの同盟に加わらなかったため、二人の王の軍隊からの攻撃を受け、ユダの民はそれゆえに動揺した(1−2)。
主は預言者イザヤを通して、彼らの計画は実現しないと断言した。主がダビデと結んだ契約のゆえに、「タベアルの子を王としよう」とする計画を挫くからである(7)。だから、主を信じて、堅く立つために(9)、イザヤはアハズにしるしを求めよ、と勧めた(11)。しかし、アッシリアの軍隊という目に見える武力こそがユダの安泰のしるしだと考えるアハズは、主からのしるしを求めなかった(12)。

2.ひとりの誕生というしるし
アハズの思惑を見透かした主は、自ら彼にしるしを与えた。それは、妊娠しているひとりの若い女性が男の子を産むこと、彼女が彼をインマヌエル(神が我々と共におられる)と呼ぶことであった。この子どもが三歳になる頃までに、ふたりの王とその国は滅ばされると主は約束された。主が与えたこのしるしそのものは、小さく、普通の出来事である。しかし、それが、神は世界を動かし、変え、ダビデとの契約を守ることを表している。
イエスの誕生は、ベツレヘムという小さな町でひっそりと起こった。しかし、神はそこに共にいて、働かれていた。だから、イエスの誕生は、神が驚くべきことを世界中になされることを表すしるしとなった。このように、小さいことと思える出来事も、神の大きな計画の欠くことのできない一部を担っている。どのような状況下でも動揺することなく、むしろ「神が共におられる」という信仰に立ってなされる小さな愛のわざは、同様に神が世界を変え、ご計画を進めておられる、という驚くべき事実を指し示すしるしである。

導く星(2012.12.9)

宣教題  : 「導く星」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~9節

占星術の学者たちは、神が備えられた星の導きを受けて(民数記24章17節)、遠い道を旅し、ついに神の御子に出会うことができました。私たちの人生が、星という一時的に現れるものにではなく、いつも共におられる神に導かれることほど大切なことはありません。それによって、私たちの人生に新しい歩みが始まるのです。

1.神の導きは確かである
学者たちは、まだ真の神を知ることのない暗い世界に生きていました。それだけに、求めることにおいて熱心であり、真剣であり、切実であったと思われます。彼らは、特別な星の動きを自分たちの知恵や力によって判断してエルサレムまで導かれたのですが、そこには限界があって行き詰ってしまいました。彼らが御子イエスの誕生地ベツレヘムに導かれるのには、神の御言葉による導きが必要だったのです。
神の導きとその御言葉に対する信頼と服従に生きるときに、神は大いなる喜びをもって報いてくださいます。そこには、神が共におられるという確かさ、神の導きに誤りがないという確かさ、神の御言葉は偽ることがないという確かさがあるからです。私たち一人ひとり、教会、そして世界は、この神の導きを必要としているのです。

2.神の導きの中を歩み続ける
学者たちは異邦人でしたが、ひたすら神に向かう姿勢をもって、その導きに従う人たちでした。彼らには、神の御子イエスに出会う確信と喜びがありました。それに対して、エルサレムの人々は、ヘロデ王に対する恐れのゆえに、将来に不安を覚えました。祭司長や律法学者たちは、聖書知識を駆使して神の御子の誕生地を見出したものの、無関心で冷淡な態度をとりました。ヘロデ王にいたっては、ユダヤ人の王の座を奪われるのではとの不安から、憎悪の念に駆られたのです。
私たちは、神に対する無関心、冷淡、憎悪といった態度でいるのではなく、神の御子イエス・キリストの救いに与かる歩みを始めることが大切です。この神の救いと導きの中を歩み続けることは、人生の様々な不安や罪と死の恐れが取り除かれ、喜びに変えられる歩みとなるのです。これこそ、学者たちと同じ歩みなのです。

最も小さいもの(2012.12.2)

宣教題  : 「最も小さいもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~6節

神の御子イエスの誕生の時期と場所が大まかに報告されています(1節)。その場所は、旧約聖書に預言されていたように「ベツレヘム」であり(6節、ミカ書5章1節)、その町は小ささを象徴するものでした。ここにおいて、神は救いの御業を始められたのでした。

1.最も小さいものを大切にされる神
神の御子は、大きな都エルサレムではなく、最も小さな町ベツレヘムに誕生されたことに注目したいと思います。このことを通して、神は小ささを大切にされるお方であることを示唆しています。これは、聖書を貫く大切なテ-マです。その例としては、イスラエル民族が選ばれたこと(申命記7章6~8節)、神の御子イエスの地上における父親と母親の役を神から担わされたヨセフとマリアが貧しく小さな存在であったこと(ルカ1章48節)などに見ることができます。
主イエスは、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる牧者として、神から遣わされて来られました(1章21~23節)。神は、それほどまでに、小さな私たちを愛し大切にしてくださるお方なのです。主イエスの下に赴く一人ひとりとならせていただきましょう。

2.最も小さいものを用いてくださる神
愛の神は、この世における小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではありません。かえって、大切にして用いてくださり、御自身の御業を進められるお方です。これもまた、聖書を貫くテ-マであり、ヨセフとマリア、羊飼いたち、そして東の方から来た学者たちが証ししています。
私たちは、信仰の歩みが深まるにつれて、自らが最も小さなものであることを自覚するようになります(1コリント15章9節、エフェソ3章8節、1テモテ1章15節)。神は、そのような最も小さいもの一人ひとりを用いて、御自身の恵みの御業をなされるのです。私たちは、自己卑下したり、高慢になったりしないで、神への信仰と希望と愛を働かせていただいて、神に用いていただこうではありませんか。

大いなる慰め(2012.11.25)

宣教題  : 「大いなる慰め」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖   書  : 使徒言行録20章7節~12節
今の日本に必要なのは、偉大な慰めです。死んだ者が生き返ることは、最も幸いなことであり、大きな慰めです。そこには、あり得ないことがあり得たという慰めがあります。私たちは、この大いなる慰めに生かされているのです。

1.共有することによる慰め  7~8節
パウロたちは、フィリピから海路トロアスに来て、同労者たちと落ち合い、七日間を過ごすこととなりました(6節)。彼らは、キリストの復活を記念する「週の初めの日」にそこの教会の聖徒たちに集まってもらい、礼拝をささげました。その礼拝は、聖餐を意味する「パンを裂く」ことと、御言葉が話されるメッセ-ジとから成っていました。
聖餐式は、私たちがキリストの贖いの恵みに感謝する時であり、キリストの体にあずかるという主との交わりまた聖徒の交わりを持つ時であり、キリストの臨在に生かされ、キリストの再臨待望に生きることを確認する時です(1コリント11章23~26節)。また、メッセ-ジが語られる時には、私たちが御言葉に触れることによって、「忍耐と慰めの源である神が」希望と同じ思いとを持ち続けさせてくださるのです(ロ-マ15章4~6節)。このように私たちは、慰めの礼拝共同体に生かされているのです。

2.復活信仰に生きる慰め  9~12節
パウロは、夜明けまで説教し続けました。その間、エウティコという名の青年が、説教中眠りこけて、建物の三階から下に落ちて死んだのです。パウロは、愛と祈りをもって青年の上にかがみ込み、抱きかかえたところ、キリストの復活の命が青年を死からよみがえらせました。「騒ぐな。まだ生きている」とのパウロの力強い信仰の言葉は、その場の暗い沈んだ雰囲気を明るい喜びの雰囲気に変えました。
私たちは、このような非常事態が起こった時にこそ、死者を復活させてくださる神を信じて、冷静に祈り深く行動することが求められます。私たちは、死の現実、絶望的な現実に追いやられた時に、十字架と復活の信仰に生きることによって、慰めを受けるのです(1テサロニケ4章15~18節)。教会の使命は、復活信仰に生きる慰めを分かち合うことにあります。

主を賛美する民(2012.11.18)

宣教題  : 「主を賛美する民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 詩篇96篇、使徒言行録16章25節

賛美とは主に向かって歌うこと(1)です。そして、フィリピでそうであったように、賛美は宣教の働きの一翼を担います(使徒16:25)。

1.なぜ賛美を歌うのか
詩編の賛美の歌には、主を賛美することを求める命令とともに、なぜ賛美を主にささげるべきか、その理由が記されています。
第一の理由は、主が他の神々が比較の対象にならないほどに偉大な方であるからです(4−6)。なんの影響力もない他の神々に対して、主は天地とその中に満ちるすべてのものの創造者であり、イスラエルを強大な力から救い出された方です。主の力と輝きを仰ぎ見ると、他の神々はなきに等しいものです。
第二の理由は、主が王として地を正しく裁かれるからです(10,13)。主以外の何ものかが世界を治めていたとしたら、地震が起こるように世界は不安定となり、拠り頼むものなどなにひとつなくなるでしょう。しかし、正しさと真実と公平をもって主が王として世界を支配されているからこそ、世界は堅く立ち、動かされることはありません。主の偉大さとその支配の確かさを味わい知り、それゆえに主を賛美しているでしょうか。

2.賛美は世界への招き
詩編96編は、イスラエルの体験を証ししているのではありません。全地を(1)、諸国の民を(7)賛美へと招き、国々の間(3)で彼らを賛美に招くように命じています。そして、イスラエル、諸国の民、全被造物が「新しい歌を主に向かって歌え」と歌い出すことを願っています。神が天地を創造されたのは、すべての造られたものが喜びつつ、いつも主を賛美するためです(11-12)。礼拝堂が賛美に満ちあふれ、国に賛美が満ちあふれ、この世界に賛美が満ちあふれ、その賛美の満ちあふれた世界に主が住まわれる、そのような日を私たちは待ち望んでいます。
パウロとシラスの賛美は二人きりの賛美であったかもしれません。しかし、そんなわずかな賛美がやがて世界を変えていきました。ですから、今ここでささげられる私たちの賛美もこの世界における神のわざの一端を担っているのではないでしょうか。

御言葉がとどまる(2012.11.11)

宣教題  : 「御言葉がとどまる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカによる福音書 4章1~13節
私たちは、御言葉に対して、どのような態度を持っていることが大切でしょうか。主イエスが、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたときに、三つの試みに対して御言葉を引用しながら、「と書いてある」と言われて勝利されました。御言葉がとどまっていたからです(ヨハネ15章7節)。

1.信仰の戦いの中で
主イエスに対する悪魔の誘惑は、実に巧妙でした。「神の子なら」(3節、9節)と繰り返しているのは、主イエスが神の子であることを知って試しているのです。三つの誘惑の言葉は(3節、5~7節、9~11節)、悪魔が主イエスを自分に従わせようとする試みであり、第三の誘惑の場合は、旧約聖書の御言葉を断片的に引用して誘っています。
私たちは、荒れ野の中を通るように、試行錯誤し、悩み、苦しむという信仰の戦いを経験します。そうした試みが長く続くと、神への信頼を失ったり、神の子とされていることが揺らぎがちとなったりします。こうした時、主イエスが受けてくださった試みの極限は、十字架においてであったことを思い起こすのです。ここにこそ、私たちの救いの門が開かれているからです(ルカ23章32~43節)。

2.神の御言葉に従う
主イエスは、「と書いてある」との神の御言葉に立って、それに従って勝利されました(4節、8節、12節)。特に、「人はパンだけで生きるものではない」とあり、マタイによる福音書では、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4章4節)と続いています。このように、主イエスは、人はたとえパンがなくなったとしても、神とその御言葉を信じて生きることを強調しておられます。
これは、主イエスが、普段から持っておられた御言葉に対する姿勢をよく物語っています。よく読んで、その内容を知っておられたからこそ、「書いてある」と言えたのです。罪に負けるか、神に従うかといった重大事にあたって、神の御言葉が引用されたということは、主イエスはそれだけ御言葉に敬意を払っておられたのです。御言葉そのものが持っている力に信頼しておられたのです。これらは、私たちの姿勢でもあります。

窮地に生きる信仰(2012.11.4)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章1~6節
パウロの三年にわたるエフェソ伝道は、大騒動の中にあっても豊かに実を結びました。その後彼は、エルサレムを経由してロ-マへと出発したのですが、その途上は困難な伝道の旅となりました。彼は、このような窮地に追い込まれながらも、その中をどのように生きたのでしょうか。

1.互いに励まし合う  使徒言行録20章1~6節
パウロは、エフェソ教会員を呼び集めて「励まし」、マケドニア州へと向かいました。そして「言葉を尽くして人々を励ましながら」、ギリシャに来て三か月を過ごしたのです。このように、彼は困難と試練の中にある教会を励まし、慰めていったのです。
続いて、パウロはユダヤ人の陰謀があったため、遠回りしてエルサレムに向かいました。これが幸いして、ベレア、テサロニケ、フィリピ各教会を問安し、愛の献金をエルサレムに届けることになったのです。そこでは、七人の代表者が同行し、さらに「わたしたち」とあるように、著者ルカが加わっています。以後ルカは、パウロがロ-マに護送されるまでの困難な中を付き添い、パウロを励ましたのです。
私たちは、苦しい窮地に追い込まれる時に、互いに励まし合う信仰の交わりが必要なのです。

2.キリストの慰めが満ち溢れる  2コリント1章3~7節
パウロは、ギリシャにおける三か月の間に、「ロ-マの信徒への手紙」と「コリントの信徒への手紙二」を書き送りました。後者の手紙において、パウロは、様々な信仰の闘いがあり課題を抱えていた教会に、教会のよって立つ在り方を語りつつ、「慰めを豊かにくださる神」を証言しています。この慰めは、苦難の中にいる人々に慰めと救いを与え、生かすものです。
私たちは、キリストの十字架の御苦難があったので、罪からの救いの慰めを受けることができました。また、私たちは、様々な心の惑いや葛藤や恐れのあるただ中で、死者を復活させてくださる神を頼りにすることにより、キリストの慰めに満ち溢れるようになるのです。

自分が変われば(2012.10.28)

宣教題    :     「自分が変われば」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 8章1~12節
今、私たちが最も必要としているものは、心の光ではないでしょうか。しかし、現実は心の暗闇におおわれています。イエスはその暗闇に光を灯そうとされて、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)と招かれるのです。

1.暗闇の中を歩んでいた事実
ある朝早く、人々が一人の女性を連行してきた目的は、「イエスを試して、訴える口実を得るため」でした。そこには、人間の暗い闇が潜んでいます。姦通という人間の哀れな本性にまつわる罪があります。そして、自分も同じ可能性を持ちながらも、この女性が犯した行為、その現象だけを厳しく咎めて裁いている人間の底知れない罪があります(3~6節)。そして、救い主をすぐ目の前にしながらも、その御言葉に背を向け、折角の救いのチャンスを放棄し、その場を立ち去っていく人間の哀れな姿があります(7~9節)。そこにも私たちの罪の暗さを見ることができます。これこそが、時代を越えて存在する人間の共通の罪、その暗さです。
自分には罪がないと言える人は、一人もいません。自分で自分を救える人もいません。イエス・キリスト御自身とその救いの御業による以外にないのです。

2.光であるキリストに従う信仰
イエスは、この女性に優しく語りかけ、それに答える彼女に決定的な御言葉を告げられました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』と(10~11節)。これは、罪の審きが貫かれ、その赦しが貫かれている十字架のイエスを仰ぐことにより可能となる宣告です。
私たちは、「世の光」であるイエスによって、罪を赦されて生かされる「命の光を持つ」のです。そして、私たちの内側から輝かしていただく「命の光」に立つのです。
各人がそのように変えられるためには、イエス・キリストへの信仰が必要です。それは、イエス・キリストの御人格と御性質を信じ受け入れ、その真実な御業にすべてを委ねていくことです。このお方に信頼し従っていくことです。

ほんとうに良くなりたいのか(2012.10.21)

宣教題  : 「ほんとうに良くなりたいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 5章1~9節a

エルサレムの町中が祭りで祝っていたときに、ベトザタの池の周囲は失望と悲しみの渦巻く中にありました。そこにイエスが来られて、38年間も病気で苦しむ一人の人を見られ、彼の実情を知られ、「良くなりたいか」との真剣な問いかけをもって対話をされ、彼の新たな出発のときとされたのです。

1.人生は悲哀なり
この人は、病気で苦しみ続けているゆえに、失望と空しさと不安といらだちの日々を過ごしていました。自分の力でどうにもならない人生の悲哀を体験していました。さらに、彼は、イエスの「良くなりたいか」との問いかけに、人々が助けてくれないと人のせいにして自己憐憫に陥り、一緒に苦しんでくれる人がいないと諦めて無力感を味わっている始末です(7節)。
こうしたことは、極めて今日的です。人は、様々な形でこのような経験をするものですが、人であれば誰しもが共通して味わう悲哀があります。それは、罪と死の恐れの奴隷となっている惨めさです。人は、こうした惨めさから解き放たれないかとあえぎつつ、あげくはそれを他者に責任転嫁し、人は誰でも同じだと諦めてしまっているといった状況です。

2.されど歓喜とならん
人生の悲哀が、すべての結果ではありません。イエスにあっては結果ではなく始まりであり、そこからイエスが御業を始めてくださるのです。そして新たな歩みを造り出してくださるのです(8~9節)。
聖書は、人が自力で解決できない罪と死の現実を容赦なく真正面から取り上げています。そして、イエスの前に謙虚に自分の罪を告白するように迫るのは、イエスが十字架でその罪の身代わりの死を遂げ、その死の壁を打ち破って復活されたことにより、罪と死に対する勝利をされたからです。
イエスは、今も「あなた」の前に立たれ、ほんとうに良くなりたいのか、との招きに決断することを求めておられます。ここに、悲哀から歓喜へと転換点があるのです。

想定外の愛(2012.10.7)

宣教題  : 「想定外の愛」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 3章1~16節

世界がこうなればいいのに、と思うことがあるでしょう。「物事が正しく行われればいいのに」、「ものだけがすべてではないのに」、「他の人と親しくなれればいいのに」、「人は、世界はもっと美しいはずなのに」。いつの時代も、どこに住む人も、そう願っています。けれども、現実はそうではありません。

1.想定外の条件
ユダヤ人の指導者であったニコデモという教師もそう願っていました。「神の国を見れば、永遠のいのちを得ることができれば、そんな違った世界を見る事ができる」と求めていました。そこで、当時はやりの教師であるイエスの所に尋ねに行きました。ところが、イエスは「新たに生まれなければ」(3)とか「水と霊によって生まれなければ」(5)というニコデモにとっては想定外の条件を突きつけてきます。今まで考えたこともなければ、理解もできない条件でした。
「すばらしい世界が来るように」と願う私たちに聖書が突きつける条件は、私たちにとっては想定外のものばかりです。いや、条件の意味さえも理解できません。自分が今置かれている枠組みがそれをとどめているのです。

2.想定外の愛
しかし、天地を造られた神が私たちのためにこの想定外の条件を満たして下さいました。神がその独り子イエスを与えてくださることによって、それも十字架につけることによってです。私たちのために大切な独り子を与える神の愛は想定外です。神を知ろうともしないし、見ようともせず、むしろ嫌っている世界のために、神は最後まで約束を守ると語られているからです。むごたらしい十字架があなたを、そして世界を癒して、すばらしいものを回復すると約束されているからです。
こんな想定外の愛を受け入れることができるでしょうか。自分の枠にこだわり続ける限り、受け入れることはできません。そのようなは神のすばらしい世界を経験することなく人生の終わりを迎えるでしょう。しかし、イエスを信じる時、この神の賜物を喜んで受け取る時、新しい世界があなたから始まるのです。

渇くことのない水とは(2012.10.4)

宣教題  : 「渇くことのない水とは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 4章7~19節
肉体の渇きや心の渇きのいやしは、繰り返しなされます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とは、繰り返すことがないものです。これは、イエス・キリストとの関わりを通して受け取らせていただくのです。

1.キリストに出会う
キリストは、サマリアの女が水を汲みに来た際に声をかけられ、一杯の水を所望されました。「水を飲ませてください」と、水を受け取ることから始まる出会いを求められています。そこでキリストは、水を飲む器を共有することを何の妨げとも思われないで、彼女との人格と人格の交わりを求められたのです。このことをきっかけとして、キリストは、渇くことのない「永遠の命」を与えることに全力を注がれました。
キリストは、私たちにもご自身の方から出会いを求められるお方です。

2.キリストの救いに招かれている
サマリアの女は、肉体は生きていても、その魂は罪と過ちのために死んでいる状態でした。彼女が、そのままの状態を続けるとしたら、永遠の死を味わうことになります。
しかし、キリストの目には、彼女はかけがえのない存在であり、「わたしが与える水」は永遠の滅びから永遠の栄光に招き入れる救いであることを明らかにされました。
それは、キリストが十字架の身代わりの死をもって罪を全く赦し、復活されて死に勝利された救いで、人が再び神の愛のふところに帰れる道をつけてくださったのです。
これこそ、神が私たちのために打つべき手を打ち尽くしてくださった愛の御業です。

3.キリストを信じ受け入れる
キリストを信じ受け入れるとは、ちょうど人が自分で水を飲むことが必要であるように、一人ひとりが極めて個人的にすることなのです。このように、愛の神のところに身を委ねる素直さが、私たちに真の幸いをもたらすのです。
キリストを信じ受け入れて歩み出す人生は、日々に望みに満ちた新しさがあり、困難にもめげず前進する力があり、死への勝利の保証を与えられた強さがあります。キリストは、私たちに永遠の命の泉となってくださり、わき出る豊さに導いてくださいます。

新しい命の道(2012.9.30)

宣教題  : 「新しい命の道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録19章23~40節

「この道」とは、「新しい道」とも言われており、アルテミス神殿を中心とした偶像礼拝という古い生き方に対して、主イエスによる生き方が「新しい命の道」であることを証言しています。

1.救いの道です。
「この道のことで」とあるので、人にはこの道に踏み出した時、この道に生きることを始めた時があります。この道こそは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と自らを現されたイエス・キリストご自身です。このお方は、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(同6節)と招かれ、そのために「場所を用意しに行く」(同2節)と言われました。しかも、「戻って来て」くださって永遠の住いに導いてくださり、その歩みを支えてくださるとは、驚くべきことです(同3節)。この将来が確立しているならば、いかなる困難も乗り越えられるのです。
感謝したいことは、私たちがこの道に歩み出すことができるように、主イエスご自身が道を踏み外した私たちの身代わりとなって十字架に踏みつけられ、「新しい生きた道」を開いてくださったことです(ヘブライ10章20節)。

2.勝利の道です。
パウロが、「この道」と言われる福音をエフェソで約三年間伝道した結果、小アジア全体とその周辺に拡がっていきました。そのことが、同じ地域に行き渡っていたアルテミス神殿を中心とした偶像礼拝との対決を起こし、その利害関係者の反発と群衆による大騒動を起こさせたのです(使徒言行録19章24~34節)。パウロは、彼に及ぶ危険を察知した弟子たちや町の高官によって難を逃れるとともに、冷静に対応した町の書記官によって守られたのでした(同35~40節)。
以上のような出来事の中に、歴史を支配しておられる神と復活の主イエスと聖霊が共にいてくださって、騒動は治まったのでした。新しい命の道は静かに勝利したのです。
こうした中にあって、「コリントの信徒への手紙一」が執筆されことは(15章32節、16章8~10節参照)、主の臨在によるゆとりの勝利と言えましょう。勝利の主に栄えあれ!

人間になる(2012.9.23)

宣教題  : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカ 3章23~38節、ヘブライ 2章17節

ルカが記した主イエスの系図は、イエスから始まって人類の最初の人アダムにまでさかのぼっています。系図は、人と人とのつながり、関係を確認するものとして用いられましたが、この系図では、主イエスが真の人間になられたことを証言し、さらに私たちが主イエスにあって本来の人間とされることを明らかにしています。

1.人となられた主イエス
神が人となられたのが、主イエスです。このお方は、その誕生からして私たち人間と同じお姿で、その後同じように育ちなさいました。ユダヤの社会においては、三十歳というのは、神の召しをいただいて、その務めを始めるのに適当な年齢と考えられていました。主イエスは、この年齢になって「宣教を始められた」のでした(23節)。
そして、「イエスはヨセフの子と思われていた」とあることからして、幼い時から父親ヨセフの訓育を受けられ、大工の子としての仕事を教えられなさいました。また父親と一緒に家族を守り養うという任務を誠実に果たされ、人々の生活を知り、その絆を体験しつつ、父なる神の使命を果たしていく準備をされたのでした。
このようにして、憐れみ深い主イエスは、すべての点で私たちと同じようになってくださいました(ヘブライ2章17節)。

2.新創造される一人ひとり
この系図は、アダムまでさかのぼることにより、主イエスがユダヤ民族だけではなく、全人類との絆で結ばれていることを明らかにしています。そして、ここに登場する人物は、何を語り、何を成したかは記されておらず、また有名無名の別なく人の名が織りなされています。これは、私たちが、神から忘れられることなく、主イエスに結びつくものとして招かれていることを表わしています。
私たちは、一人の例外もなく、罪の深い淵に落ち込んでしまっていました。しかし、真の人間になられた主イエスが、その罪を十字架によって贖ってくださったことにより、私たちは新創造された「人間になる」ことができるのです(ヘブライ2章17節)。
私たちは、この主イエスに結びつけられることによって「神に至る」のです(37節)。