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礼拝メッセージ

主を賛美する民(2012.11.18)

宣教題  : 「主を賛美する民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 詩篇96篇、使徒言行録16章25節

賛美とは主に向かって歌うこと(1)です。そして、フィリピでそうであったように、賛美は宣教の働きの一翼を担います(使徒16:25)。

1.なぜ賛美を歌うのか
詩編の賛美の歌には、主を賛美することを求める命令とともに、なぜ賛美を主にささげるべきか、その理由が記されています。
第一の理由は、主が他の神々が比較の対象にならないほどに偉大な方であるからです(4−6)。なんの影響力もない他の神々に対して、主は天地とその中に満ちるすべてのものの創造者であり、イスラエルを強大な力から救い出された方です。主の力と輝きを仰ぎ見ると、他の神々はなきに等しいものです。
第二の理由は、主が王として地を正しく裁かれるからです(10,13)。主以外の何ものかが世界を治めていたとしたら、地震が起こるように世界は不安定となり、拠り頼むものなどなにひとつなくなるでしょう。しかし、正しさと真実と公平をもって主が王として世界を支配されているからこそ、世界は堅く立ち、動かされることはありません。主の偉大さとその支配の確かさを味わい知り、それゆえに主を賛美しているでしょうか。

2.賛美は世界への招き
詩編96編は、イスラエルの体験を証ししているのではありません。全地を(1)、諸国の民を(7)賛美へと招き、国々の間(3)で彼らを賛美に招くように命じています。そして、イスラエル、諸国の民、全被造物が「新しい歌を主に向かって歌え」と歌い出すことを願っています。神が天地を創造されたのは、すべての造られたものが喜びつつ、いつも主を賛美するためです(11-12)。礼拝堂が賛美に満ちあふれ、国に賛美が満ちあふれ、この世界に賛美が満ちあふれ、その賛美の満ちあふれた世界に主が住まわれる、そのような日を私たちは待ち望んでいます。
パウロとシラスの賛美は二人きりの賛美であったかもしれません。しかし、そんなわずかな賛美がやがて世界を変えていきました。ですから、今ここでささげられる私たちの賛美もこの世界における神のわざの一端を担っているのではないでしょうか。

御言葉がとどまる(2012.11.11)

宣教題  : 「御言葉がとどまる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカによる福音書 4章1~13節
私たちは、御言葉に対して、どのような態度を持っていることが大切でしょうか。主イエスが、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたときに、三つの試みに対して御言葉を引用しながら、「と書いてある」と言われて勝利されました。御言葉がとどまっていたからです(ヨハネ15章7節)。

1.信仰の戦いの中で
主イエスに対する悪魔の誘惑は、実に巧妙でした。「神の子なら」(3節、9節)と繰り返しているのは、主イエスが神の子であることを知って試しているのです。三つの誘惑の言葉は(3節、5~7節、9~11節)、悪魔が主イエスを自分に従わせようとする試みであり、第三の誘惑の場合は、旧約聖書の御言葉を断片的に引用して誘っています。
私たちは、荒れ野の中を通るように、試行錯誤し、悩み、苦しむという信仰の戦いを経験します。そうした試みが長く続くと、神への信頼を失ったり、神の子とされていることが揺らぎがちとなったりします。こうした時、主イエスが受けてくださった試みの極限は、十字架においてであったことを思い起こすのです。ここにこそ、私たちの救いの門が開かれているからです(ルカ23章32~43節)。

2.神の御言葉に従う
主イエスは、「と書いてある」との神の御言葉に立って、それに従って勝利されました(4節、8節、12節)。特に、「人はパンだけで生きるものではない」とあり、マタイによる福音書では、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4章4節)と続いています。このように、主イエスは、人はたとえパンがなくなったとしても、神とその御言葉を信じて生きることを強調しておられます。
これは、主イエスが、普段から持っておられた御言葉に対する姿勢をよく物語っています。よく読んで、その内容を知っておられたからこそ、「書いてある」と言えたのです。罪に負けるか、神に従うかといった重大事にあたって、神の御言葉が引用されたということは、主イエスはそれだけ御言葉に敬意を払っておられたのです。御言葉そのものが持っている力に信頼しておられたのです。これらは、私たちの姿勢でもあります。

窮地に生きる信仰(2012.11.4)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章1~6節
パウロの三年にわたるエフェソ伝道は、大騒動の中にあっても豊かに実を結びました。その後彼は、エルサレムを経由してロ-マへと出発したのですが、その途上は困難な伝道の旅となりました。彼は、このような窮地に追い込まれながらも、その中をどのように生きたのでしょうか。

1.互いに励まし合う  使徒言行録20章1~6節
パウロは、エフェソ教会員を呼び集めて「励まし」、マケドニア州へと向かいました。そして「言葉を尽くして人々を励ましながら」、ギリシャに来て三か月を過ごしたのです。このように、彼は困難と試練の中にある教会を励まし、慰めていったのです。
続いて、パウロはユダヤ人の陰謀があったため、遠回りしてエルサレムに向かいました。これが幸いして、ベレア、テサロニケ、フィリピ各教会を問安し、愛の献金をエルサレムに届けることになったのです。そこでは、七人の代表者が同行し、さらに「わたしたち」とあるように、著者ルカが加わっています。以後ルカは、パウロがロ-マに護送されるまでの困難な中を付き添い、パウロを励ましたのです。
私たちは、苦しい窮地に追い込まれる時に、互いに励まし合う信仰の交わりが必要なのです。

2.キリストの慰めが満ち溢れる  2コリント1章3~7節
パウロは、ギリシャにおける三か月の間に、「ロ-マの信徒への手紙」と「コリントの信徒への手紙二」を書き送りました。後者の手紙において、パウロは、様々な信仰の闘いがあり課題を抱えていた教会に、教会のよって立つ在り方を語りつつ、「慰めを豊かにくださる神」を証言しています。この慰めは、苦難の中にいる人々に慰めと救いを与え、生かすものです。
私たちは、キリストの十字架の御苦難があったので、罪からの救いの慰めを受けることができました。また、私たちは、様々な心の惑いや葛藤や恐れのあるただ中で、死者を復活させてくださる神を頼りにすることにより、キリストの慰めに満ち溢れるようになるのです。

自分が変われば(2012.10.28)

宣教題    :     「自分が変われば」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 8章1~12節
今、私たちが最も必要としているものは、心の光ではないでしょうか。しかし、現実は心の暗闇におおわれています。イエスはその暗闇に光を灯そうとされて、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)と招かれるのです。

1.暗闇の中を歩んでいた事実
ある朝早く、人々が一人の女性を連行してきた目的は、「イエスを試して、訴える口実を得るため」でした。そこには、人間の暗い闇が潜んでいます。姦通という人間の哀れな本性にまつわる罪があります。そして、自分も同じ可能性を持ちながらも、この女性が犯した行為、その現象だけを厳しく咎めて裁いている人間の底知れない罪があります(3~6節)。そして、救い主をすぐ目の前にしながらも、その御言葉に背を向け、折角の救いのチャンスを放棄し、その場を立ち去っていく人間の哀れな姿があります(7~9節)。そこにも私たちの罪の暗さを見ることができます。これこそが、時代を越えて存在する人間の共通の罪、その暗さです。
自分には罪がないと言える人は、一人もいません。自分で自分を救える人もいません。イエス・キリスト御自身とその救いの御業による以外にないのです。

2.光であるキリストに従う信仰
イエスは、この女性に優しく語りかけ、それに答える彼女に決定的な御言葉を告げられました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』と(10~11節)。これは、罪の審きが貫かれ、その赦しが貫かれている十字架のイエスを仰ぐことにより可能となる宣告です。
私たちは、「世の光」であるイエスによって、罪を赦されて生かされる「命の光を持つ」のです。そして、私たちの内側から輝かしていただく「命の光」に立つのです。
各人がそのように変えられるためには、イエス・キリストへの信仰が必要です。それは、イエス・キリストの御人格と御性質を信じ受け入れ、その真実な御業にすべてを委ねていくことです。このお方に信頼し従っていくことです。

ほんとうに良くなりたいのか(2012.10.21)

宣教題  : 「ほんとうに良くなりたいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 5章1~9節a

エルサレムの町中が祭りで祝っていたときに、ベトザタの池の周囲は失望と悲しみの渦巻く中にありました。そこにイエスが来られて、38年間も病気で苦しむ一人の人を見られ、彼の実情を知られ、「良くなりたいか」との真剣な問いかけをもって対話をされ、彼の新たな出発のときとされたのです。

1.人生は悲哀なり
この人は、病気で苦しみ続けているゆえに、失望と空しさと不安といらだちの日々を過ごしていました。自分の力でどうにもならない人生の悲哀を体験していました。さらに、彼は、イエスの「良くなりたいか」との問いかけに、人々が助けてくれないと人のせいにして自己憐憫に陥り、一緒に苦しんでくれる人がいないと諦めて無力感を味わっている始末です(7節)。
こうしたことは、極めて今日的です。人は、様々な形でこのような経験をするものですが、人であれば誰しもが共通して味わう悲哀があります。それは、罪と死の恐れの奴隷となっている惨めさです。人は、こうした惨めさから解き放たれないかとあえぎつつ、あげくはそれを他者に責任転嫁し、人は誰でも同じだと諦めてしまっているといった状況です。

2.されど歓喜とならん
人生の悲哀が、すべての結果ではありません。イエスにあっては結果ではなく始まりであり、そこからイエスが御業を始めてくださるのです。そして新たな歩みを造り出してくださるのです(8~9節)。
聖書は、人が自力で解決できない罪と死の現実を容赦なく真正面から取り上げています。そして、イエスの前に謙虚に自分の罪を告白するように迫るのは、イエスが十字架でその罪の身代わりの死を遂げ、その死の壁を打ち破って復活されたことにより、罪と死に対する勝利をされたからです。
イエスは、今も「あなた」の前に立たれ、ほんとうに良くなりたいのか、との招きに決断することを求めておられます。ここに、悲哀から歓喜へと転換点があるのです。

想定外の愛(2012.10.7)

宣教題  : 「想定外の愛」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 3章1~16節

世界がこうなればいいのに、と思うことがあるでしょう。「物事が正しく行われればいいのに」、「ものだけがすべてではないのに」、「他の人と親しくなれればいいのに」、「人は、世界はもっと美しいはずなのに」。いつの時代も、どこに住む人も、そう願っています。けれども、現実はそうではありません。

1.想定外の条件
ユダヤ人の指導者であったニコデモという教師もそう願っていました。「神の国を見れば、永遠のいのちを得ることができれば、そんな違った世界を見る事ができる」と求めていました。そこで、当時はやりの教師であるイエスの所に尋ねに行きました。ところが、イエスは「新たに生まれなければ」(3)とか「水と霊によって生まれなければ」(5)というニコデモにとっては想定外の条件を突きつけてきます。今まで考えたこともなければ、理解もできない条件でした。
「すばらしい世界が来るように」と願う私たちに聖書が突きつける条件は、私たちにとっては想定外のものばかりです。いや、条件の意味さえも理解できません。自分が今置かれている枠組みがそれをとどめているのです。

2.想定外の愛
しかし、天地を造られた神が私たちのためにこの想定外の条件を満たして下さいました。神がその独り子イエスを与えてくださることによって、それも十字架につけることによってです。私たちのために大切な独り子を与える神の愛は想定外です。神を知ろうともしないし、見ようともせず、むしろ嫌っている世界のために、神は最後まで約束を守ると語られているからです。むごたらしい十字架があなたを、そして世界を癒して、すばらしいものを回復すると約束されているからです。
こんな想定外の愛を受け入れることができるでしょうか。自分の枠にこだわり続ける限り、受け入れることはできません。そのようなは神のすばらしい世界を経験することなく人生の終わりを迎えるでしょう。しかし、イエスを信じる時、この神の賜物を喜んで受け取る時、新しい世界があなたから始まるのです。

渇くことのない水とは(2012.10.4)

宣教題  : 「渇くことのない水とは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 4章7~19節
肉体の渇きや心の渇きのいやしは、繰り返しなされます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とは、繰り返すことがないものです。これは、イエス・キリストとの関わりを通して受け取らせていただくのです。

1.キリストに出会う
キリストは、サマリアの女が水を汲みに来た際に声をかけられ、一杯の水を所望されました。「水を飲ませてください」と、水を受け取ることから始まる出会いを求められています。そこでキリストは、水を飲む器を共有することを何の妨げとも思われないで、彼女との人格と人格の交わりを求められたのです。このことをきっかけとして、キリストは、渇くことのない「永遠の命」を与えることに全力を注がれました。
キリストは、私たちにもご自身の方から出会いを求められるお方です。

2.キリストの救いに招かれている
サマリアの女は、肉体は生きていても、その魂は罪と過ちのために死んでいる状態でした。彼女が、そのままの状態を続けるとしたら、永遠の死を味わうことになります。
しかし、キリストの目には、彼女はかけがえのない存在であり、「わたしが与える水」は永遠の滅びから永遠の栄光に招き入れる救いであることを明らかにされました。
それは、キリストが十字架の身代わりの死をもって罪を全く赦し、復活されて死に勝利された救いで、人が再び神の愛のふところに帰れる道をつけてくださったのです。
これこそ、神が私たちのために打つべき手を打ち尽くしてくださった愛の御業です。

3.キリストを信じ受け入れる
キリストを信じ受け入れるとは、ちょうど人が自分で水を飲むことが必要であるように、一人ひとりが極めて個人的にすることなのです。このように、愛の神のところに身を委ねる素直さが、私たちに真の幸いをもたらすのです。
キリストを信じ受け入れて歩み出す人生は、日々に望みに満ちた新しさがあり、困難にもめげず前進する力があり、死への勝利の保証を与えられた強さがあります。キリストは、私たちに永遠の命の泉となってくださり、わき出る豊さに導いてくださいます。

新しい命の道(2012.9.30)

宣教題  : 「新しい命の道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録19章23~40節

「この道」とは、「新しい道」とも言われており、アルテミス神殿を中心とした偶像礼拝という古い生き方に対して、主イエスによる生き方が「新しい命の道」であることを証言しています。

1.救いの道です。
「この道のことで」とあるので、人にはこの道に踏み出した時、この道に生きることを始めた時があります。この道こそは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と自らを現されたイエス・キリストご自身です。このお方は、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(同6節)と招かれ、そのために「場所を用意しに行く」(同2節)と言われました。しかも、「戻って来て」くださって永遠の住いに導いてくださり、その歩みを支えてくださるとは、驚くべきことです(同3節)。この将来が確立しているならば、いかなる困難も乗り越えられるのです。
感謝したいことは、私たちがこの道に歩み出すことができるように、主イエスご自身が道を踏み外した私たちの身代わりとなって十字架に踏みつけられ、「新しい生きた道」を開いてくださったことです(ヘブライ10章20節)。

2.勝利の道です。
パウロが、「この道」と言われる福音をエフェソで約三年間伝道した結果、小アジア全体とその周辺に拡がっていきました。そのことが、同じ地域に行き渡っていたアルテミス神殿を中心とした偶像礼拝との対決を起こし、その利害関係者の反発と群衆による大騒動を起こさせたのです(使徒言行録19章24~34節)。パウロは、彼に及ぶ危険を察知した弟子たちや町の高官によって難を逃れるとともに、冷静に対応した町の書記官によって守られたのでした(同35~40節)。
以上のような出来事の中に、歴史を支配しておられる神と復活の主イエスと聖霊が共にいてくださって、騒動は治まったのでした。新しい命の道は静かに勝利したのです。
こうした中にあって、「コリントの信徒への手紙一」が執筆されことは(15章32節、16章8~10節参照)、主の臨在によるゆとりの勝利と言えましょう。勝利の主に栄えあれ!

人間になる(2012.9.23)

宣教題  : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカ 3章23~38節、ヘブライ 2章17節

ルカが記した主イエスの系図は、イエスから始まって人類の最初の人アダムにまでさかのぼっています。系図は、人と人とのつながり、関係を確認するものとして用いられましたが、この系図では、主イエスが真の人間になられたことを証言し、さらに私たちが主イエスにあって本来の人間とされることを明らかにしています。

1.人となられた主イエス
神が人となられたのが、主イエスです。このお方は、その誕生からして私たち人間と同じお姿で、その後同じように育ちなさいました。ユダヤの社会においては、三十歳というのは、神の召しをいただいて、その務めを始めるのに適当な年齢と考えられていました。主イエスは、この年齢になって「宣教を始められた」のでした(23節)。
そして、「イエスはヨセフの子と思われていた」とあることからして、幼い時から父親ヨセフの訓育を受けられ、大工の子としての仕事を教えられなさいました。また父親と一緒に家族を守り養うという任務を誠実に果たされ、人々の生活を知り、その絆を体験しつつ、父なる神の使命を果たしていく準備をされたのでした。
このようにして、憐れみ深い主イエスは、すべての点で私たちと同じようになってくださいました(ヘブライ2章17節)。

2.新創造される一人ひとり
この系図は、アダムまでさかのぼることにより、主イエスがユダヤ民族だけではなく、全人類との絆で結ばれていることを明らかにしています。そして、ここに登場する人物は、何を語り、何を成したかは記されておらず、また有名無名の別なく人の名が織りなされています。これは、私たちが、神から忘れられることなく、主イエスに結びつくものとして招かれていることを表わしています。
私たちは、一人の例外もなく、罪の深い淵に落ち込んでしまっていました。しかし、真の人間になられた主イエスが、その罪を十字架によって贖ってくださったことにより、私たちは新創造された「人間になる」ことができるのです(ヘブライ2章17節)。
私たちは、この主イエスに結びつけられることによって「神に至る」のです(37節)。

捕囚の地で生きる民(2012.9.16)

題   : 「捕囚の地で生きる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖書  : エレミヤ書29章1~7節、テモテへの手紙一2章1~4節
キリスト者は、神が愛し、イエスが王であり、聖霊が働いているこの世に遣わされつつも(ヨハネ17:18)、そこに属するものではありません(17:16)。この世の真ん中で、この世と異なった歩みをします。

1.置かれている地の人々のために祈る
まず、キリスト者は、置かれている地のすべての人のために祈るよう招かれています(1テモテ2:1)。この地を統治している人々のためにも祈るべきです。彼らが正しく治めることによって、信仰に立った生き方を継続できるからです(2:2)。しかし、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」(2:4)主の摂理が実現へと進むために祈っているのだ、ということも忘れてはいけません。キリスト者の祈りは、いつも宣教的です。

2.置かれている地で長期的に生きる
けれども、難しい人々に囲まれた地に置かれることもあります。エレミヤの時代、バビロンへと捕らえられた人々は、自らの国を滅ぼした敵の間で住むよう求められました(エレミヤ29:1-3)。去りたい、しかし、逃げることはできない、そんな彼らに対してエレミヤは、万軍の主がそこに送られたことを告げます(29:4)。だからこそ、一時的な腰掛けではなく、長期的に住み、根ざし、増えろ、と勧めています(29:5-6)。そこが主の祝福の地だからです。

3.置かれている地の平安のために働く
しかし、求めていくのは自分たちのしあわせだけではありません。自分が置かれている町の平安を求めていくこと、敵であった人々の上に神の祝福があるように祈り、働くことも捕囚の地に住む民の使命です(29:7)。バビロンの民さえも愛しておられる主は、ご自身の民を通して主の平安がこの世界に広がることを願っておられるのですから。
神が今の場所(それが捕囚の地でも)に私たちを置かれています。その地の影響を受けてしまうのではなく、むしろ神の平安という影響を与えていきましょう。そのことを通して主の宣教のわざは進みます。

神の御手によって(2012.9.9)

宣教題  : 「神の御手によって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 申命記34章1~8節

モ-セの死は突然やってきました。彼の使命は、イスラエルの民の先頭に立って40年間荒れ野を旅し、約束の地カナンに民を導き入れることでした。ただし、モ-セ自身は、カナンを目の前にして、ピスガの山頂で天に召されたのでした。そこには、絶えることのない「神の御手」がありました(33章27節)。

1.神の御手にある生死  5節
モ-セは、死は神の命によるものであることを理解し(詩編90編3節)、自らの死も神の命によるものであることを受け止めていました。
私たちは、生きているのではなく、神によって生かされているのです。全ての人の生命は、神の御手の中にあるのです。従って、私たち一人ひとりの生死は、神の御手の中にあるのであり、神の御心に従うものなのです。

2.神の御手に導かれる使命  7節
驚くべきことに、モ-セは120歳になっても目がかすまず、活力も衰えていませんでした。そんな彼の死は、老衰などによるものではなく、使命が終わったからでした。
私たちには、それぞれの使命があります。それには、生かされているという使命と果たすべき使命があります。私たちが、その使命に真実かつ忠実であるならば、人々はそれを通して幸いを受けていきますし、その結果神が崇められるのです。一人ひとりの使命が終わったとき、それがその人の死なのです。

3.神の御手による御国への出発  6節
「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とあります。これは、モ-セの死が彼のすべての終わりではなかったことを証ししています。彼は、神の御手によって、地上の生活から御国の生活に移されたのです。
私たちは、死によって地上の生活を終え、肉体は朽ちますが、その霊魂は永遠に生きる者とされているのです。主イエスの十字架による贖いと復活を信じ、罪から救われて永遠の命を与えられた者は、肉体の死は迎えますが、主の再臨の時に復活の体に化せられるのです(フィリピ3章20~21節)。それは、神の御手による御国への葬送です。

使命への出発(2012.8.26)

宣教題  : 「使命への出発」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 3章15~22節

主イエスは、12歳の時と(2章42節)30歳の時に(3章21~22節)転機を迎えられました。主イエスが洗礼を受けられたのは、罪の赦しのしるしとしてではなく、救い主としての公生涯に入られる準備の期間を終えられて、使命の道につかれる就任式のような意味がありました。

1.聖霊による出発
洗礼者ヨハネは、誰に対しても罪の悔い改めを迫るメッセ-ジを語りました(19~20節)。民衆は、彼こそが待望するメシアであると考えたほどです(15節)。しかし、彼は、真のメシアである主イエスに仕えて、この方こそ自分よりも力ある優れた方であると紹介しました。主イエスは、神の救いの御業に与からせてくださる聖霊を注いでくださるのです(16~18節)。
さて、主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、神と人との深い絆がつくられるように「祈っておられ」ました(21節)。その祈りが神に聞かれると、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のでした(22節a)。ここでの聖霊の働きは、イエスの救い主としての使命の出発に際してなされたことでした。聖霊が明らかにしておられる主イエスとその救いこそが、私たちの財産です。

2.御言葉による出発
この時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神の御声が聞こえたのです(22節b)。それは、神が選ばれ、喜びとされ、支持され、御目に適った僕であるとの御言葉の成就でもあったのです(イザヤ42章1節)。そこには、声をあららげることなく、ひたすら祈り、黙々と歩まれる僕としての御姿が証しされています(同42章2~4節)。主イエスは、父なる神から託された使命に歩み出された時から、十字架の死に至るまで一貫して、この僕として歩みを全うされました。
私たちは、神から遣わされ、託された使命に生きる者として召されています。そのためには、どこまでも主イエスとその御言葉に学び、倣い、従うという信仰の歩みが求められているのです。

御言葉の力(2012.8.19)

宣教題  : 「御言葉の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 19章11~20節

主の御言葉の力は、いかに強いものであり、拡大されていくかが明らかにされています(20節)。それは、「このようにして」とあるように、神がパウロを通してなされた目覚ましい驚くべき奇跡を通して、人々の神に対する具体的な信仰が呼び起こされたことによりました。

1.神を畏れかしこむ  17節
ここに見る奇跡は(11~12節)、主イエスが地上におられた時にも同様に見られたものです(マルコ5章25~34節)。エフェソは迷信が盛んで、アルテミス神殿においては祭儀がなされ、小アジア全体からの多くの巡礼者がはびこっていました。こうした所では、キリストの福音を目に見える形で見せる伝道の仕方がなされたのです。
そして、イエスを信じていないユダヤ人の祈祷師たちが、試しに同じような奇跡を行なおうとしましたが大失敗し、逃げ出してしまうという有様でした(13~16節)。
そのことを知った人々は、神を畏れかしこむようになりました(17節)。それは、人間の全存在が根底から揺さぶられ、神を崇める者に造り変えてしまう畏れです。そして、神に対して感謝と喜びと希望を抱いて礼拝をささげる自由な者に造り変えてしまう畏れです。

2.キリスト信仰を告白する  18~19節
ここには、信仰に入った人々が、罪を具体的に告白し、キリストの救いに与かる真の悔い改めの実を結んでいる姿があります。それは、主イエスの十字架と復活に対する、彼らのキリスト信仰を告白したものでした。
私たちが、この点において不徹底になっていると、信仰に進歩が見られませんし、喜んで主に仕える力ある奉仕をささげることが難しくなります。
私たちが、キリスト信仰を告白することは、生涯にわたって神と関わることであり、生活の全領域に関わることです。これこそが、キリスト者であることのライフスタイルなのです。「このようにして」、私たちは、御言葉の力を日常生活で体験させていただくのです。

神に遣わされる民(2012.8.12)

宣教題  : 「神に遣わされる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 6章1~13節  マルコ 3章14~15節

キリスト教会を「使徒的教会」と呼ぶことがあります。イエスが十二人の使徒を遣わされたように、教会もキリストによって遣わされているからです(マルコ3:14−15)。

1.謙遜な民
イザヤはその幻の中で、エルサレムの神殿をその足台としている主を見ました(イザヤ6:1)。この方は、「主の栄光は、すべての地を覆う」(6:3)とあるように、全世界をその活動の舞台としています。この聖なる方を見た時、自分がこれまで叱責してきた汚れた民と何ら変わらないことに気がつきます(6:5)。それは、彼が王である主を見たからです。神を見ることなしに遣わされることはありません。しかし、神を見るとは自分の本当の姿を見ます。だから、謙遜にそれを認めることこそ大切です。

2.罪赦された民
イザヤの罪を主は赦されます(6:6)。しかし、主が直接に赦しを宣告するのではなく、主が遣わしたセラフィムによってそのことが宣告されます。私たちが遣わされるために、他の人をまず私たちのために主が遣わして下さいます。そして、主が遣わされた者を通してなされる主のわざを経験させてくださるのです。神の恵みを受けずして、神の恵みの宣教者として遣わされることはできません。

3.神を中心とする民
イザヤは神の声を聞きます(6:8)。「わたしがここにおります」は「どうぞ用いてください」、招きに対するイザヤの自発的応答を表しています。主は強いてことをなさいません。しかし、遣わされる者にご自身のメッセージを語るように命じます(6:9-10)。遣わす方がなせと命じることに服従するのが遣わされた者の働きです。遣わされる者は、もはや自分が世界の中心ではありません。遣わす主こそがその人の中心なのです。
イザヤも使徒たちも、圧倒的な神のわざを体験し、神のわざのために遣わされていきました。私たちはもうすでに遣わされるべきところに遣わされています。しかし、「私をどうぞ用いてください」と主の前に出ているでしょうか。自発的に主の前に出てはじめて、主のわざに参加する神に遣わされた民としてその使命に生きることができます。

信仰の気づき(2012.8.5)

宣教題  : 「信仰の気づき」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  3章1節~14節

洗礼者ヨハネは、救い主イエスがおいでになる道備えをするために、人々が福音を受け入れるための「悔い改め」を迫った預言者でした。彼の役目は、そのことを人々に気づかせ、与えることにあったのです。「罪の赦しを得させるために悔い改め」るのが(3節)、なぜ私たちに必要なのでしょうか。

1.全ての人に神のさばきがあるため
イスラエルの民は、自分たちはアブラハムの子孫で神の選びの民であるという自負に安住していました。しかし、ヨハネはそれを再度評価し直さなければならないと指摘したのです(ルカ3章7~8節)。それは、旧約聖書の中で「かたくなな民」と語られている姿であり(出エジプト33章3節)、彼らが同じ状態にあることを気づかせようとしたのでした。ヨハネは、そのようなイスラエルの民に神のさばきが近づきつつあることを知って、悔い改めを迫ったのでした(ルカ3章9節)。
私たちは、同じように悔い改めることの迫りをいただいています。この時、私たちは自らの罪を認めてその自覚を持ち、罪とその結果を悲しみ、罪を捨てて、神に立ち帰ることが必要なのです(2コリント7章10節)。

2.全ての人の生きざまが変革されるため
ヨハネは、荒れ野で神の御言葉を聴き、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(ルカ3章2~3節)。それは、荒れ野に主の道が整えられ、その道筋をまっすぐにし平らにする働きでした(同4~5節)。荒れ野と呼ぶ世界に含まれるのは、当時の皇帝・総督・領主たち・大祭司(同1~2節)、また群衆・徴税人・兵士(同10~14節)であり、今日の私たち一人ひとりのことであることに気づくことが必要です。
私たちは、イエス・キリストを通して現わされた神の救いを、自分の救いとして受け入れ、仰ぎ見る心の柔らかさが求められています(同6節)。そのような中から「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(同8節)者とされていくのです。それは自己中心的な生き方でなく、人を愛する生き方であり(同10~11節)、正しさを貫く生き方です(12~14節)。この私にさえ及んでいる救いの恵みに気づく者とされましょう。