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礼拝メッセージ

与える恵み(2013.3.3)

宣教題  : 「与える恵み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録20章32~38節
私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死を通して神の愛を体験し、その愛に応えて信仰の従順と献身に生きる者とされました(1ヨハネ3章16節)。この愛に生きる者たちが、主イエスの愛を土台として、神の教会を造り上げていくのです(エフェソ4章16節)。そこでは、本日の聖書箇所が明らかにしているように、与える恵みが支配しています。

1.恵みが継承されるために  32節
神の恵みの御言葉は、私たち一人ひとりまた教会の信仰と歩みの立脚点です。パウロは、任命されたエフェソの指導者たちと教会が造り上げられていくために、彼らを「神とその恵みの言葉」にゆだね、与え切ろうとしています。この世で最も信頼できるのは、主イエスも言われたように不変の神の御言葉なのです(マタイ24章35節)。
神の恵みの御言葉が、人を救いに導き、信仰の歩みを全うさせ、教会を造り上げていきます。そのような宣教の御業が、一代限りではなく何世代にもわたって伝えられ、そして受け継がれていくために、続く人々を神の恵みの御言葉にゆだね切り、与え切っていくさわやかさが必要なのです。

2.恵みが分かち合われるために  35節
パウロは、他人のものをむさぼることなく、自分自身の生活のためだけではなくて「共にいた人々のためにも」テント造りの仕事をしながら福音を伝えました(33~34節、18章3~4節)。パウロは、立場の弱い人々や働きたくても働けない病の中にある人々たちと共に福音の恵みを分かち合い、教会が愛の共同体として造り上げられていくために、主イエスに倣って「与える」生き方を選んだのです(35節)。
そうした彼の生き方の原点は、復活の主イエスと出会って恵みに触れ、それまでのように自分の思いに仕えるのではなく、神の御思いに仕える生き方に変えられたところにありました。パウロと共におられた十字架と復活の主イエスは、今も私たちと共におられて、恵みを分かち合う生き方をさせてくださるのです。

牧者の心(2013.2.24)

宣教題  : 「牧者の心」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章25~31節
良い羊飼いである主イエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださり(ヨハネ10章11節)、私たちを主のものとして養い導いてくださっています(詩編100編3節b)。そして、その群れを牧させるために、聖霊は人を牧者に任じて用いなさるのです(使徒言行録20章28節b)。牧者が求められることは、愛に根ざして真理を語る心を持つことです(エフェソ4章15節)。

1.愛に根ざして
エフェソの長老たちは、神によって立てられ、神に仕える牧者として召されました。長老たちだけでなく、他のエフェソ教会員もパウロも含めて神の教会に属する者はみな、神の御子の十字架の血によって贖い買い取られた一人ひとりでした。それによって彼らは、主なる神との豊かな交わりの関係に生きる者とされたのです。ここに、神の深い愛による救いと導きがあります。
従って、神の教会を牧するために召された者は、主を愛し、教会を愛し、聖徒を愛し、互いに愛し合うことに向き合い続けるのです。愛が通じないと思われる時であっても(2コリント12章15節b)、主の愛に根ざして、愛し抜くのです。牧するとは、愛し抜くことへの挑戦でもあるのです。

2.真理を 
御言葉の真理は、一人ひとりの魂を思いやる愛に根ざして語ることによって伝えられます。パウロは、その心をもって御言葉の宣教に専念しました(27節、31節)。彼は、牧者がその御言葉の宣教を継承していくために、福音信仰から外れた教えに捉われることのないよう自分自身に心を留め、聖書に集中し、語り教えていることに自らが生きているか見張るように命じ、教会の内外からの福音信仰を歪めようとする危機に際して、群れ全体に注意深く目を留め、また目を覚ましているように命じています(28節a、31節)。
牧するとは、信仰によって神のもとに立ち返った一人ひとりが御言葉に導かれ、その豊かな命に生かされ、互いに愛によって結び合わされる豊さを体現できるように働きかけることです。私たちは、互いに向き合い、互いに牧されることを願う群れとさせていただきたいものです。

あなたの神に会う備え(2013.2.17)

宣教題  : 「あなたの神に会う備え」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 4章1~13節
「神に帰る」ことを聖書は「悔い改め」と呼んでいる。それは単に謝罪することではなく、行動を変えることだけでもない。神が世界を見られるようにこの世界を見るようになることも「神に帰る」ことには含まれている。

1.信仰は生活のあらゆる側面に関わっている
紀元前八世紀後半に北王国イスラエルへアモスは預言者として遣わされた。辛辣に預言者が民と社会を批判しているから、人々は信仰をなくしているのではないかと考えるだろう。
しかし、実際は、聖所へと人々は行き、数多くのささげものがささげていた(4-5)。そのような行動が罪を犯している、とアモスは批判している。聖所へささげものをしている王宮の関係者のライフスタイルが問題であったからだ。彼らの贅沢な生活は貧しい人の犠牲の上に成り立っていた(4-1)。礼拝に出席する、献金をする、十分に信仰的だと誤解してはならない。信仰はわたしたちのライフスタイルのすべてに行き渡る。

2.神は災いを通して語りかける
主はイスラエルに対して様々な災厄を下してきた(6-11)。それは、ある一面、罪に対する厳しい罰、下されたのろいだろう。しかし、くり返し、「お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」とある。災いは、「神に帰る」ために与えられた神の語りかけ、警告のことばである。

3.神は宇宙大のスケールの方である
アモスは4:13で、創造者であり、地の支配者、歴史の統治者である主の姿をあげ、賛美と信仰告白をしている。彼の告白する神は、生活の細かい所をチェックするような方ではない。むしろ、スケールの大きな方、私たちひとりびとりを思いつつも、大胆に世界を導かれる方である。信仰理解、神のわざの理解とともに、神ご自身がどういう方であるかの理解においても「神に帰る」ことが求められている。
神が世界を見られるようにすべてを見るという意味で「神に帰る」とき、私たちの神と会うことにむけて私たちは備えられる(12)。「悔い改め」ことこそ、最大の備えである。

神の恵みを無にしない(2013.2.10)

宣教題  : 「神の恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ4章22~30節 ガラテヤ2章21節a
ナザレの会堂にいた人々は、主イエスが語られる恵みの御言葉が気に入らないと言わんばかりに、神の恵みを無にしてしまっています。彼らは、憤慨し、主イエスを外に追い出し、ついには崖から突き落とそうとしたのです(28~29節)。なぜ、人々が、主イエスを拒否し、その救いの恵みを受け入れることができなかったのでしょうか。

1.偏見のゆえに 
人々は、主イエスをただの人としてしか捉えていません(22節b)。また、主イエスがカファルナイムでなされた奇跡をナザレでも見たいと願っています(23節)。「医者よ、自分自身を治せ」とは、主イエスが十字架に架られた時の嘲りや罵りと同じです(ルカ23章35~39節)。
こうした偏った理解また間違った思い込みは、主イエスの救いを正しく理解しようとしない偏見です。神の恵みを受け損なうことがないように!

2.ねたみと憎しみのゆえに
主イエスは、旧約の預言者エリヤとエリシャの例をあげて(25~27節)、神の救いの恵みが異邦人にまで及んだことを証ししておられます。ところが、人々は、異邦人に救いが及ぶことを受け入れることができなかったために、憤慨し、ねたみと憎しみをもって、主イエスを死に追いやろうとしました(28~29節)。
主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを受け損なうことがないように!

3.不信仰のゆえに
「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と語られた主イエスは、そうした人々の不信仰に驚かれました(マルコ6章4~6節)。不信仰は、主イエスに出会うのを妨げ、神の恵みを受け入れさせず、その恵みを無にしてしまいます。
信仰は、救いを成し遂げられた主イエスを心から信頼することです。私たちは、このような信頼の心をもって、主イエスに近づくのです。

宣教に生きる(2013.2.3)

宣教題  : 「宣教に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章17~24節
初代教会から今日に至るまで、宣教は試練の中で前進してきました。そうした試練の中にあってパウロは、エフェソ教会の指導者たちをミレトスに呼び寄せ、決別説教をしています。そこで語られたエフェソ教会のモデルは、あらゆる教会のモデルです。今回は、パウロ自身の生きた証言をとおして、宣教に生きるとはどういうことかを明らかにします。

1.主にお仕えして 
パウロのエフェソにおける三年間の宣教は、エフェソの人々と共に、彼らの前での裏表のない模範的なものでした(18節)。その宣教は、教会内外から批判されたり、また賞賛されたりしましたが、彼はいかなる時も、喜びと感謝をもって主にお仕えしています。パウロは、自らが取るに足りない者であるとの自覚をもって、滅びゆく魂に対して、労を惜しまず、愛を尽くして、喜んで犠牲を払って主にお仕えしたのです(19節)。
これは、私たちの宣教に対する基本姿勢です。

2.主体的な信仰を抱いて
パウロは、公の場や施設で福音を語り、個人的な交わりの場にあっても福音を伝え教えました(20節)。そして、伝えた福音の内容は、主体的に神に対する悔い改めをなし、主イエスへの信仰を言い表わすことでした(21節)。このことが不明確であると、福音を伝えることに確信がもてないのです。
私たちは、主イエスの愛の迫りをいただいて救いの福音を伝えるのです。

3.聖霊に促がされて
パウロの前途には、苦難や迫害が待ち構えていました。そうした中にあっても彼は、宣教の前進のために、不退転の決意と、固い献身の意志をもっていました。そのような力は、聖霊に促がされるところから生じるものでした(22~23節)。
喜びをもって、走るべき宣教の業のコ-スを走り終えるという使命は、主なる神が私たちに与えてくださいます(24節)。それを成し遂げることができるのは、聖霊の促がしによるのです。

恵みの御言葉に生きる(2013.1.27)

宣教題  : 「恵みの御言葉に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカによる福音書 4章14~22節
主イエスは、伝道を始められた時に、「いつものとおり」に会堂で礼拝をされ、自ら説教をされました。それを聴いていた人々は、「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」います。主イエスが語られる恵みの御言葉は、それを受け止めた人の生涯に驚くべき御業を起こします。

1.恵みの御言葉が開かれる
当時の会堂の礼拝においては、まず聖書が開かれ、それが朗読されていました。ここでは、主イエスが会堂司から渡された「イザヤ書」を開いて、それを朗読されたのでした。誰が、どんな言葉を語るよりも先に、聖書が開かれたのです。
私たちも重んじなければならないことは、聖書が開かれ、読まれ、そして説き明かされることです。そこで大切なことは、私たちが聖書を読む時に、御言葉の方から自らを開いてくださり、私たちがその御言葉と対話したり、また葛藤したりすることです。そして、私たちが御言葉の前に頭を垂れて従っていくことにより、御言葉が理解でき、また知恵と悟りを与えてくださるのです(詩編119編130節)。

2.恵みの御言葉に信頼し切る
朗読された御言葉は(18~19節、イザヤ61章1~2節)、主イエスご自身のことを証言しています。主イエスは、貧しい者に福音を告げ知らせ、罪と死、サタンの虜になっている者を解放されるお方です。そのようにして「ヨベルの年」の恵みが、主イエスの十字架と復活による贖いによって実現されたのです(19節、21節)。
ところで、聖書が大切なこととして伝えていることは、イザヤ書の預言が、「今日、実現した」という一事です。今日とは、主イエスが口を開いて、恵みの御言葉を語られた今日であり、主イエスが救いのためにご自身を差し出された今日です(ルカ2章11節、19章9節、23章43節)。
永遠に変わることのないイエス・キリストは、永遠の救い主です(ヘブライ13章8節)。私たちは、徹頭徹尾に主とその恵みの御言葉に信頼を寄せて生きることが求められているのです。

交わりに生きる(2013.1.20)

宣教題  : 「交わりに生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章13~16節 1ヨハネ 1章3節
神の御子の血によって贖われた者は、神のものとされ、教会の交わりに加えられます。その交わりは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であり、「わたしたちの交わり」と言われる聖徒の交わりです(1ヨハネ1章3節)。パウロのミレトスまでの旅程には、教会の交わりを証しするメッセージが語られています。

1.主との交わり
ここでのパウロは、不思議な行動をとっています。彼は、ルカたちを船でアソスに行かせ、自らは一人でアソスまでの山道を歩いて行ったのです。彼はそのことを決め、ルカたちに指示するほどに並々ならない決意をしています。そうすることによって彼は、ミレトスでエフェソの指導者たちに決別説教を語るに際して、主イエスと交わり、祈り、考え、黙想しつつ、伝道や教会や聖書についてまとめ上げていったと思われます。
聖書に登場する多くの人物が、神の前の孤独を経験し、それを通して自分を見つめ、神に近づき、神の御心を知らされ、神に仕えることに豊かにされています。こうした主イエスとの交わりは、良いことであり、また幸いなことです。パウロは、その良い方を選んだのです。私たち一人ひとりも、この良いことに身を置くことが必要です。

2.聖徒の交わり
アソスでルカたちと合流したパウロは、ミレトスまで船旅をしました。彼が、エフェソの指導者たちをミレトスに呼び寄せて、決別説教をしたのには理由がありました。それは、五旬祭にはエルサレムに到着していたいとの願いがあったからです。彼は、ユダヤ人たちが重んじる習慣を受けとめつつ、彼らをキリストの福音に導き、ユダヤ人と異邦人の間にある敵意という障害を取り除いて、両者がキリストにあって一つになることに重荷をもっていたからです。
私たちの交わりは、信仰によって与えられた共通の救い・御言葉・礼拝・目標・使命・苦難・栄光を共有する交わりです。私たちは、主との交わりを深め、相違を意識しやすい愛の乏しさを悔い改めつつ、共通のものにしっかりと目を向けていくことによって、教会の交わりを確立していくことが大切なのです。

主の愛のわざを覚えて(2013.1.13)

宣教題  : 「主の愛のわざを覚えて」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 2章6~16節
言者を通して語られる神はうっとうしいほどに熱い神である。紀元前八世紀、繁栄する北王国イスラエルで預言者として生きたアモスは、獅子の雄叫びのような主の声を多くの国々に向かって語った(1章2節~2章16節)。

1.主は熱い神:愛ゆえの「熱さ」
主はご自身の民の現状を知っている。不正が蔓延し、人と人との関係がひずんでいる状況を見聞きしたそれゆえに主は痛み、その現実を告発する(2章6~8節)。それは主が民とその歴史に深く関わっておられるからだ。出エジプト、荒野の放浪、約束の地の征服のすべてを実現させたのはこの神である(2章9~10節)。そして、アモスら預言者を送り、主の声を聞かせ、ナジル人を送り、主の聖なることを示しておられる(2章11節)。主はこれほど熱い、愛のわざをされたのは、イスラエルの父祖であるアブラハムと契約を結ばれたからだ。しかし、イスラエルは神の声を聞こうとはせず、主の聖なることを見ようとはしない(2章12節)。熱い神の愛のわざを拒否している。だから、主は預言者を通してほえたける。アモリ人に対してそうであったように大勇士としてイスラエルに攻撃を加えると言われる(2章13~16節)。その愛ゆえに思い切った行動を取られる。

2.主の熱さは悔い改めと使命のため
さばきの預言は、罪に対する神の憎しみの現れではない。民を切り捨てる神のあきらめのよさでもない。ヨナのことばがニネベの民を立ち返らせたように(ヨナ3章)、イスラエルが熱い神の雄叫びを聞き、自分の姿に気がつき、悔い改めることを願う主の愛の現れである。愛ゆえの熱いさばきである。さらに、民が主の名を聖なるものとする(アモス2章7節)という、アブラハムに与えられた使命をイスラエルが諸国民の間で果たすことができるように導くためにもこの預言は語られている。
預言のことばそのものが、熱い神の愛のわざである。それは甘ったるくなく、厳しい。しかし、教会がその使命を果たすものとなるようにと整えることばである。

証人として生きる(2013.1.6)

宣教題  : 「証人として生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : イザヤ書 43章8~15節
イザヤ書に見る神の民イスラエルの姿は、新しいイスラエルと言われる神の教会の姿でもあります。そこには、神の民がどういう人たちの群れで、どういう使命を託されていたかが明らかにされています。その使命は、主の証人として生きることです。

1.どういう資格が必要か
主の証人は、主ご自身が選ばれた、主の僕です(10節a)。従って、主に忠実に仕え、主が崇められることを願う人々です。私たちは、主イエスによって選ばれ、任命された主の証人であることを忘れずにいる必要があります(ヨハネ15章16節)。
そのような資格が与えられるためには、主によって贖われている必要があります(1節、14節)。
私たちは、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、すでに罪と死の奴隷状態から贖われているのです(テトス2章14節)。

2.どういう資質を備えておくのか
主の証人は、主御自身を体験的に知り続け、主御自身との親しい交わりを通して信じ続け、自分のものとして身につけるほどに主御自身を理解し続けていくことによって備えられるのです(10節b)。
このように、主の証人としての資質を備え続けていただくことによって、私たちは、謙遜になり、主とその救いの恵みを忘れないでいることができるのです。

3.どういうメッセージを届けるのか
主の証人は、神が唯一であり、この神こそが救い主であるというメッセ-ジを人々に届けるのです。主イエスは、ゲラサで悪霊に取りつかれていた人をいやされましたが、そのことを身内の人に知らせるように言われました(マルコ5章1~20節)。このように、主の証人が語るメッセ-ジは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」ということなのです。

主の証人は、決してあきらめずに、繰り返しキリストを証し続けるのです。そうすることによって、繰り返しキリストによって救われた自分を見つめ、救ってくださったキリストを「折りが良くても悪くても」紹介できるのです(2テモテ4章2節)。

苦しみからの出発(2012.12.30)

宣教題  : 「苦しみからの出発」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章13~23節
過ぎ行く一年が、悲しみや試練が多かった人、充実した一年で将来の見通しのついた人と様々でしょうが、主イエスの御前ではすべてを感謝をもって迎えることができるのではないでしょうか。本日の聖書箇所に見るように、クリスマスの出来事が喜びや明るさのある中で、悲しみや苦しみといった暗さが前面にでています。ヨセフ一行は、苦しみからの出発をしています。

1.自分を王とする歩み
幼子イエスに対して、エルサレムの人々及び祭司長や律法学者たちは無関心を、何よりも幼児虐殺の首謀者ヘロデ王は猜疑心を抱いていました。これは、私たちが生まれながらに持っている主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた拒絶する態度に通じるものです。さらに、私たちが、主イエス御自身とその御業と御言葉を受け入れないで、自分を王としたがる罪の姿です。お互いが、今そのことを吟味しつつ、悔い改める必要があります。
この罪の暗さこそが、神の御子イエスをその誕生の時から苦しみへ、そして十字架の苦難へと追いやったのです。ただし、神は確かな御意志と御計画をもって、主イエスを十字架の死に至るまで守られました。

2.キリストを王とする歩み
ヨセフに見る神の御言葉に対する忠実さは、マリアを妻に迎え入れ、幼子をイエスと名付けることにおいて明らかでした(1章24~25節)。そして、彼が幼子イエスを連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと(2章13~15節)、幼子イエスを連れてイスラエルの地に帰ったこと(同20~21節)、ガリラヤのナザレへ行くように告げられたことに従ったこと(同22~23節)に見るように、愚直なまでに従ったのです。
そこには、幼子イエスを王の王、主の主であると信じた者の姿があります。このようにして、神の救いの御業は進められていったのです。
このような従順を生み出すのは、「日々、わたしたちを担い、救われる神」の確かさにあります(詩編68編20~21節)。私たちは、この神に感謝し、神を讃えましょう。

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

ひとりの誕生が世界を変える(2012.12.16)

宣教題  : 「ひとりの誕生が世界を変える」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 7章1節~17節
クリスマスは、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と呼ばれる男の子の誕生を祝う日である。そこで述べられているイエスの誕生の預言は、イザヤ書7章をその背景としている。

1.戦いに巻き込まれるダビデの家の王
紀元前8世紀、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは同盟関係を結び、大国アッシリアに対抗しようとした。ユダの王アハズはこの同盟に加わらなかったため、二人の王の軍隊からの攻撃を受け、ユダの民はそれゆえに動揺した(1−2)。
主は預言者イザヤを通して、彼らの計画は実現しないと断言した。主がダビデと結んだ契約のゆえに、「タベアルの子を王としよう」とする計画を挫くからである(7)。だから、主を信じて、堅く立つために(9)、イザヤはアハズにしるしを求めよ、と勧めた(11)。しかし、アッシリアの軍隊という目に見える武力こそがユダの安泰のしるしだと考えるアハズは、主からのしるしを求めなかった(12)。

2.ひとりの誕生というしるし
アハズの思惑を見透かした主は、自ら彼にしるしを与えた。それは、妊娠しているひとりの若い女性が男の子を産むこと、彼女が彼をインマヌエル(神が我々と共におられる)と呼ぶことであった。この子どもが三歳になる頃までに、ふたりの王とその国は滅ばされると主は約束された。主が与えたこのしるしそのものは、小さく、普通の出来事である。しかし、それが、神は世界を動かし、変え、ダビデとの契約を守ることを表している。
イエスの誕生は、ベツレヘムという小さな町でひっそりと起こった。しかし、神はそこに共にいて、働かれていた。だから、イエスの誕生は、神が驚くべきことを世界中になされることを表すしるしとなった。このように、小さいことと思える出来事も、神の大きな計画の欠くことのできない一部を担っている。どのような状況下でも動揺することなく、むしろ「神が共におられる」という信仰に立ってなされる小さな愛のわざは、同様に神が世界を変え、ご計画を進めておられる、という驚くべき事実を指し示すしるしである。

導く星(2012.12.9)

宣教題  : 「導く星」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~9節

占星術の学者たちは、神が備えられた星の導きを受けて(民数記24章17節)、遠い道を旅し、ついに神の御子に出会うことができました。私たちの人生が、星という一時的に現れるものにではなく、いつも共におられる神に導かれることほど大切なことはありません。それによって、私たちの人生に新しい歩みが始まるのです。

1.神の導きは確かである
学者たちは、まだ真の神を知ることのない暗い世界に生きていました。それだけに、求めることにおいて熱心であり、真剣であり、切実であったと思われます。彼らは、特別な星の動きを自分たちの知恵や力によって判断してエルサレムまで導かれたのですが、そこには限界があって行き詰ってしまいました。彼らが御子イエスの誕生地ベツレヘムに導かれるのには、神の御言葉による導きが必要だったのです。
神の導きとその御言葉に対する信頼と服従に生きるときに、神は大いなる喜びをもって報いてくださいます。そこには、神が共におられるという確かさ、神の導きに誤りがないという確かさ、神の御言葉は偽ることがないという確かさがあるからです。私たち一人ひとり、教会、そして世界は、この神の導きを必要としているのです。

2.神の導きの中を歩み続ける
学者たちは異邦人でしたが、ひたすら神に向かう姿勢をもって、その導きに従う人たちでした。彼らには、神の御子イエスに出会う確信と喜びがありました。それに対して、エルサレムの人々は、ヘロデ王に対する恐れのゆえに、将来に不安を覚えました。祭司長や律法学者たちは、聖書知識を駆使して神の御子の誕生地を見出したものの、無関心で冷淡な態度をとりました。ヘロデ王にいたっては、ユダヤ人の王の座を奪われるのではとの不安から、憎悪の念に駆られたのです。
私たちは、神に対する無関心、冷淡、憎悪といった態度でいるのではなく、神の御子イエス・キリストの救いに与かる歩みを始めることが大切です。この神の救いと導きの中を歩み続けることは、人生の様々な不安や罪と死の恐れが取り除かれ、喜びに変えられる歩みとなるのです。これこそ、学者たちと同じ歩みなのです。

最も小さいもの(2012.12.2)

宣教題  : 「最も小さいもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~6節

神の御子イエスの誕生の時期と場所が大まかに報告されています(1節)。その場所は、旧約聖書に預言されていたように「ベツレヘム」であり(6節、ミカ書5章1節)、その町は小ささを象徴するものでした。ここにおいて、神は救いの御業を始められたのでした。

1.最も小さいものを大切にされる神
神の御子は、大きな都エルサレムではなく、最も小さな町ベツレヘムに誕生されたことに注目したいと思います。このことを通して、神は小ささを大切にされるお方であることを示唆しています。これは、聖書を貫く大切なテ-マです。その例としては、イスラエル民族が選ばれたこと(申命記7章6~8節)、神の御子イエスの地上における父親と母親の役を神から担わされたヨセフとマリアが貧しく小さな存在であったこと(ルカ1章48節)などに見ることができます。
主イエスは、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる牧者として、神から遣わされて来られました(1章21~23節)。神は、それほどまでに、小さな私たちを愛し大切にしてくださるお方なのです。主イエスの下に赴く一人ひとりとならせていただきましょう。

2.最も小さいものを用いてくださる神
愛の神は、この世における小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではありません。かえって、大切にして用いてくださり、御自身の御業を進められるお方です。これもまた、聖書を貫くテ-マであり、ヨセフとマリア、羊飼いたち、そして東の方から来た学者たちが証ししています。
私たちは、信仰の歩みが深まるにつれて、自らが最も小さなものであることを自覚するようになります(1コリント15章9節、エフェソ3章8節、1テモテ1章15節)。神は、そのような最も小さいもの一人ひとりを用いて、御自身の恵みの御業をなされるのです。私たちは、自己卑下したり、高慢になったりしないで、神への信仰と希望と愛を働かせていただいて、神に用いていただこうではありませんか。

大いなる慰め(2012.11.25)

宣教題  : 「大いなる慰め」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖   書  : 使徒言行録20章7節~12節
今の日本に必要なのは、偉大な慰めです。死んだ者が生き返ることは、最も幸いなことであり、大きな慰めです。そこには、あり得ないことがあり得たという慰めがあります。私たちは、この大いなる慰めに生かされているのです。

1.共有することによる慰め  7~8節
パウロたちは、フィリピから海路トロアスに来て、同労者たちと落ち合い、七日間を過ごすこととなりました(6節)。彼らは、キリストの復活を記念する「週の初めの日」にそこの教会の聖徒たちに集まってもらい、礼拝をささげました。その礼拝は、聖餐を意味する「パンを裂く」ことと、御言葉が話されるメッセ-ジとから成っていました。
聖餐式は、私たちがキリストの贖いの恵みに感謝する時であり、キリストの体にあずかるという主との交わりまた聖徒の交わりを持つ時であり、キリストの臨在に生かされ、キリストの再臨待望に生きることを確認する時です(1コリント11章23~26節)。また、メッセ-ジが語られる時には、私たちが御言葉に触れることによって、「忍耐と慰めの源である神が」希望と同じ思いとを持ち続けさせてくださるのです(ロ-マ15章4~6節)。このように私たちは、慰めの礼拝共同体に生かされているのです。

2.復活信仰に生きる慰め  9~12節
パウロは、夜明けまで説教し続けました。その間、エウティコという名の青年が、説教中眠りこけて、建物の三階から下に落ちて死んだのです。パウロは、愛と祈りをもって青年の上にかがみ込み、抱きかかえたところ、キリストの復活の命が青年を死からよみがえらせました。「騒ぐな。まだ生きている」とのパウロの力強い信仰の言葉は、その場の暗い沈んだ雰囲気を明るい喜びの雰囲気に変えました。
私たちは、このような非常事態が起こった時にこそ、死者を復活させてくださる神を信じて、冷静に祈り深く行動することが求められます。私たちは、死の現実、絶望的な現実に追いやられた時に、十字架と復活の信仰に生きることによって、慰めを受けるのです(1テサロニケ4章15~18節)。教会の使命は、復活信仰に生きる慰めを分かち合うことにあります。