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礼拝メッセージ

キリストは何をなされたか(2013.9.22)

宣教題  : 「キリストは何をなされたか」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ11章25~27節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との主イエスの御約束を信じて生きる人には、過去も現在も将来も開かれた人生となります。そのために、主イエスは、どのようなお方であり、何を語られ、何をなされたのでしょうか。

1.明るい将来を開かれた
マルタとマリアは、主イエスがいてくださりさえすれば、兄弟のラザロは死ななかったのにとの思いを抱いていました(21、32節)。死の厳しさ、虚しさ、悲しみを味わっていたのです。主イエスは、彼女たちの悲しみを受け止めて涙を流され(35節)、ラザロを墓からよみがえらされたのです(43~44節)。
マルタとマリアと兄弟ラザロは、私たちの代表です。同じように、私たちは、十字架に死んで復活された主イエスによって、肉体の死を越えて生きる者となるように招かれています。それだけではなく、主イエスは、死の不安におののき、本来の人間らしさを失った者に復活の命を与えて生かし、新しくされた人生を歩ませてくださいます。私たちには、主イエスと切り離されないで生きて死ぬという明るい将来が開かれているのです。

2.明るい過去に変えられた
私たちに明るい将来が開かれるためには、明るい過去に変えられる必要があります。私たちの数々の罪は、神の目から隠れてはいません。その神の前に素直な心になって、罪の赦しを求めるならば、主イエスの十字架の血によって罪のない者としてくださるのです。
このようにして、暗い過去が明るい過去に変えられ、明るい将来へと希望がつながるのです。私たちの希望の根拠は、十字架に死んで復活された主イエスにあるのです。
「信じる」とは、思い込むことでも、理性を殺すことでもありません。「わたしを信じる者」とあるように、私たちは、主イエスを自分の永遠の救い主として受け入れ、このお方によって尽きることのない復活の命を与えられているということを信じ、信じたとおりに生き、その結果を体験するように招かれているのです。

遣わされる人(2013.9.15)

宣教題  : 「遣わされる人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章6~21節
使徒言行録には、パウロの回心の経験が3回記されています。これは、パウロが自分を誇っているのではなくて、福音の出来事に巻き込まれている自分を実例として語らざるをえなかった恵みなのです。そこには、遣わされて生きる者の生き方が証しされています。

1.恵みによって変えられる 6~11節
パウロの回心の経験は、彼がキリスト者を迫害していた時に、神によってもたらされた突然の出来事でした(6節)。パウロは、復活の主が彼と問答されたことを通して、主が教会とご自身とを同一視しておられることを知りました(7~8節)。そして、パウロは、自分がこれから何をしたらよいのか、今までの自分の生き方が間違いではなかったのかと自問自答するようになったのです(10節)。
それに対して、主は、パウロがどこへ行って、何をすべきかを明らかにされました。そのために、彼の目を見えなくさせることによって、彼を弱い者とされたのです(11節)。
私たちの信仰体験は、個々に異なりますが、復活の主の恵みによって変えられるという共通の経験をさせていただけるのです。

2.恵みのもとで命じられる  12~21節
アナニアを通してパウロの目を見えるようにされた主は、彼に主の御心を悟らせ、主と会わせ、主の御言葉を聴かせることにより、復活の主の証人とされました(14~16節)。
続いて、エルサレムに帰って来たパウロは、主との交わりを通して主の導きを仰ぎました。その導きは、これまでのようにエルサレムに行くということではなくて、エルサレムから急いで出て行き、行って異邦人のために遣わされるということでした(17~21節)。彼が、この二つの板挟みから解放されるただ一つの道は、主の命令に従うことでした。それによって、彼はさらなる世界宣教へと遣わされていくこととなったのです。

私たちは、「急げ」「出て行け」「行け」と主が命じられることに従うときに、御言葉の深い意味と主の御計画が開かれていくのです。

恵みが輝く幸い(2013.9.8)

題   : 「恵みが輝く幸い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : 詩編90編1~17節
モーセは、朝目覚めたときに、まず主の「慈しみに満ち足らせ」てくださいと祈っています。さらに、自分の人生に一日が加えられたことを感謝し、困難に遭っても主の最善がなされることを信じて、「生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」と願い求めています(14節)。それは、何をわきまえ、どんな幸いを告白する生涯なのでしょうか。

1.人間の限界を正しくわきまえる
この詩編には、人間の力の限界(3節)、人間の繁栄の限界(5~6節)、人間の秘密の限界(7~8節)、人間の齢の限界(9~10節)、人間と知恵の限界(12節)と語られています。そのほか私たちには、様々な限界をもっています。それらの限界をどう自覚し、どう考え、それらにどう対処していくかということが、その人の生き方を決定します。
ある人々は、そうした限界を無視した生き方をします。それは、個人だけでなく、社会の世相にも表れています。また、そうした限界に挑戦した生き方があります。それは、今日まで、さまざまな分野において発展をもたらしてきました。しかし、限界に挑戦することが、人間万能という錯覚と高慢にもつながってきました。

2.主に信頼して生きる幸いを告白する
モーセは、若い時には限界を無視し、限界に挑戦する生き方をしました。その彼が、自分の限界を知らされた上で、主に信頼して生きる幸いを告白しています(1~2節)。彼は、自分の生きることのできる日数が主に知られているという信頼をもって、主に祈りをささげています(12節a)。このように、人間のあらゆる限界を主は知っておられるということが、私たちを謙虚な信仰へと導くのです。そうした限界を知ればこそ、自分がどう生きればよいのか、その知恵を求め、また自分がなすべきことを確実に果たしていく力を求める姿勢が生まれるのです(12節b、17節b)。
こうした限界を越えさせるものは、実にイエス・キリストです。そこには、輝ける将来があるのです。

喜びを抱いて(2013.9.1)

宣教題  : 「喜びを抱いて」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 詩編100編1~5節
私たちの信仰の歩み、また教会の歩みを振り返る時に、いつも「主の恵み」がありました(1コリント15章10節)。そして、それに応答する信仰がありました。
「詩編100編」は、主の恵みが溢れているところには、尽きない喜びが溢れていることを語っています。

1.主の恵みの豊さゆえに
この詩編は、「あげよ」「仕え」「進み出よ」「知れ」「入れ」「たたえよ」と命令していますが、そこには緊迫感や圧迫感は感じられません。それには理由があります。主こそ私たちの創造主であり、私たちは主のものとされた主の民であり、主に養われる羊の群れであることを知っているからです(3節)。また、私たちは、主の恵み深さと、変わることのない慈しみと、真実の確かさを知っているからです(5節)。
そこからは、主に感謝をささげる礼拝生活が生まれてきます(4節)。何よりも、神が成し遂げられ、備えていてくださることの一つ一つに感謝することです。とりわけ、主イエスの十字架と復活のゆえに、神のものとされたことへの揺るぎない事実が、感謝の源泉です。このように感謝できることは、力強い人生です(1テサロニケ5章16~18節)。

2.主の恵みに徹するゆえに
主の恵みに対して、「喜び祝い、主に仕え」(2節)とは、当然の信仰の応答です。ただ、環境や条件が整ってから、主を礼拝し、主に仕えるというのではありません。
ダビデの生涯に、徹底した罪の赦しと聖別がありました(サムエル下11章~12章)。その時ダビテは、「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって(喜んで仕える霊が)支えてください」(詩編51編14節)と祈っています。このように罪だけが、救いの喜びを奪ってしまいます。
私たちは、「打ち砕かれ悔いる心」(同19節)でもって、贖い主を崇めていないと、復活の主を全ての中心に置いて、臨在の主に主権をお渡ししていないと、喜んで仕えることができないのです。
主の御前の喜びは全地にふさわしく、神の民にふさわしいのです(ローマ12章11節)。

無関心の正反対にあるもの(2013.8.25)

宣教題  : 「無関心の正反対にあるもの」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 1ヨハネ4章7~12節
なにごとにも無関心であった高校生が新しい世界に出会い、成長するドラマに人気が集まっている。事実、この主人公同様、無関心に満ちた世界に私たちは生きている。

1.神が愛である世界
ところが、聖書を読むとき、それとは全く対照的な世界に出会う。「神は愛」(4:8)という世界である。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」という有名なことばの通り、無関心な神ではなく、愛である神が生きて働いておられる世界である。この方は、人と世界を愛するその愛のゆえに、御子イエスをこの世界に送り、その十字架を通して、「神は愛」ということばが確かであることを示される神(4:9)である。

2.神への愛に目覚める
「神は愛」である世界という世界に私たちが生きている、と言われても実感できないだろう。私たちのまわりを見回しても、「神は愛」なんて現実的ではない。問題だけが目につくからだ。しかし、聖書に触れているとき、教会に集っているとき、突然、神の愛に気づくことがある。誰かに背中を押されて、海に飛び込んだように、神の愛に気づく。そして、神の愛に目覚めた私たちは神に対する無関心を棄てて、神を愛するようになる。

3.隣人への愛に目覚める
神の愛に気づき、神への愛に目覚めたとき、周りの人々や世界に無関心であった私たちが、隣人とこの世界への愛に目覚める(4:11)。そして、「神は愛」に対して全く無関心であった私たちを通して、「神は愛」の世界が広がっていく。
私たちは「神は愛」の世界にすこし気づいているのかもしれない。ひょっとしたらそれに目覚めているかもしれない。神への愛や隣人への愛に目覚めているのかもしれない。しかし、「神は愛」の世界に誰かから気づかされているだけにとどまっていてはいけない。御子を送られた神に自分から飛び込む時、つまり「信じる」時、私たちは「神は愛」の世界に生きる本当の住人、クリスチャンになっている。

新しいライフスタイル(2013.8.18)

宣教題   : 「新しいライフスタイル」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ 5章33~39節
主イエスは、人自身とその生き方を新しくされ、また変革してくださるお方です。それは、レビをご自身の弟子とされたことにより、いつまでも以前の生き方ではなくて、新しいライフスタイルへと変えられたことにも表れています(5章27~30節)。

1.新しい喜びに生きる
主イエスの弟子になったレビの人生には、悲しみではなくて喜びが生まれました。それは、婚礼の客にとって、断食が表わす悲しみではなくて、結婚を祝う喜びが生まれるのと同じです(33~34節)。
続いて主イエスは。そのような新しい喜びに生きることを三つのたとえで話されました。主イエスは、人に部分的な生活改善を求めるのではなくて、根底から全く変えてしまわれます(36節)。そして、人が持っていた古い生き方を捨てて、主イエスが明らかにされた喜びの生き方へと導かれます(37~38節)。さらに、古い生き方にとどまり続けないように勧められます(39節)。
私たちは、古い生き方ではなくて、悔い改めて新しくされた生き方をすることによって、新しい喜びの歩みが造られていくのです。

2.キリストと共に生きる
新しい喜びに生きることは、どこから来るのでしょうか。「花婿が一緒にいる」ところからです(34節)。すなわち、花婿である主イエスが一緒にいてくださり、人と共に生きてくださることによってです。そのために、主イエスは、「奪い取られる」とあるように十字架にお架かりくださり(35節)、そして死から復活してくださったことによって、私たちと共に生きる道を開いてくださったのです。
ここから生まれる喜びは、主イエスが与えてくださるものです。主イエスは、それを首尾一貫した素朴な喜びとして保ち続けてくださいます。私たちは、新しい生き方を造ってくださる主イエスに全てを任せていくだけでよいのです。

真実な証人(2013.8.11)

宣教題  : 「真実な証人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章37節~22章5節 1ペトロ3章15節
真実な証人は、キリストの救いと今も共に働かれるキリストを生き生きと証言します。それが「キリストを主とあがめ」ることなのです(1ペトロ3章15節)。さて、絶対絶命の窮地に追い込まれた時のパウロの「ひと言」が、状況を一変してしまいました。

1.聖霊によって  21章37~40節
「ひと言お話ししてもよいでしょうか」とのパウロの申し出によって、千人隊長との問答が始まりました。千人隊長は、正直に語るパウロの安全を確保しつつ、民衆に対してパウロが弁明する許可を与えました。ヘブライ語で弁明するパウロには、気迫があったのでしょう。民衆は、すっかり静かになりました。
こうした正直な証言は、驚くべき力を持っています。全ては、聖霊によったからです(使徒言行録1章8節)。それは、ステファノが殉教した時と同じように(同7章54~60節)、聖霊に満たされているならば、人の憎悪の中にあっても、復活の主が見え、その救いに与かった者としての生き方がなされるのです。聖霊は、証言すべきことも教えてくださるからです(ルカ12章11~12節)。

2.揺るがない希望を抱くゆえに  22章1~5節
パウロがヘブライ語で弁明したことは、多くのユダヤ人に対して最適の言葉でした。彼は、ユダヤ人で名門の家に生まれ、律法の厳格な教育を受け、「熱心に神に仕えて」いたことを強調しています。さらに、キリスト者と教会の迫害者であったことを正直に証言しました。このようにして、彼は、律法に熱心で、どんなに名門に生まれても、人は救われないことを証ししたのです。彼は、恥はわがもの、栄光は主のものという信仰に徹していたのです。
ところで、キリストの大いなる救いに与かるという信仰は、私たちの希望であり、「いつでも弁明できるように備えて」いる必要があります(1ペトロ3章15~16節)。このような弁明こそが、人の目と心を開くのです。

危機に際して(2013.8.4)

宣教題  : 「危機に際して」   宣教:   川原﨑 晃 牧師 聖    書  : 使徒言行録21章27~36節 2コリント1章9節 主なる神が用意されている危機は、危険(ピンチ)と好機(チャンス)が織り成される時です。主は決して、ピンチをお与えになるだけではなく、その裏側には必ずチャンスを用意されています。主と共に歩む者が経験する危機は、何を明らかにするでしょうか。 1.主は御計画を遂行される パウロは、死を迎えてもおかしくなかったという経験を何度かしています。この度もその一つに数えられます。アジア州のエフェソから来たユダヤ人は、パウロが死罪に値する重大な宗教的罪を犯していると訴え、全群衆を扇動してパウロを捕らえて境内から引きずり出したのです(27~30節)。そして、民衆がパウロを殺そうとしていた時、エルサレムを支配していたローマの千人隊長はパウロの身柄を確保させ、兵営でエルサレムが混乱状態に陥った真相をつかむために連行させたのでした(31~34節)。こうしてパウロは、危機一髪のところで窮地から助けられたのです。その背後には、パウロを通して主が福音宣教を進められる御計画があったのです。 私たちの信仰生活には、窮地に追い込まれて万事休すと思えることがあります。そうした中において主の助けがあるのは、主の御業が進められるという御計画があるからです。 2.復活の主の助けがある  ここに見るパウロの受難は、26章まで続きます。その有り様はエルサレムにおける主イエスの御受難と並行しています(36節、ルカ23章18節)。パウロは、アジア州のエフェソにおいても自分の命の危険を感じる苦難の中を通され(19章)、それは生ける望みを失うほどで、死の宣告を受けた思いをもったことでした。そのように、彼は一方で万事休すではないかとの恐れと、他方で死から復活された主イエスが共にいて助けてくださるという神への信頼が交錯する中で、神に望みを置いたのです(2コリント1章8~10節)。 全てを御支配しておられる私たちの主は、私たちが危機感を抱く時であっても、それを喜祈感に変わらせてくださるのです(1テサロニケ5章16~18節)。

あなたをたずねる客(2013.7.28)

宣教題  : 「あなたをたずねる客」   宣教:   池口 留都 伝道師
聖   書  : ルカ19章1~10節

1.ことのはじまり:イエス様を見ようとしたザアカイ
ザアカイは、徴税人の頭でした。当時の社会では、神様に逆らう「罪深い男」です。そんなザアカイが、イエス様がどんな方か見ようと求めて行動した。これがことのはじまりです。

2.転機:ザアカイをたずねられたイエス様
すると、驚くべきことが起こりました。イエス様は、人々には見捨てられたザアカイに顔を向け、目を留めて呼び、たずねられたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えましたが、これを見た群衆はつぶやきました。
自分が正しい人間だとうぬぼれて、自分の正しさを主張する人と、自分は罪人だと自覚して、神の憐れみを求める人。神様が受け入れられるのは、憐れみを求めて近づく罪人です(ルカ18:9~14)。群衆は前者、ザアカイは後者でした。
ザアカイは、ありのままの自分をたずね、受け入れてくださったイエス様の愛に心溶かされ、悔い改めました。イエス様がたずねてくださった。これがザアカイの転機です。彼は新しいスタートを切りました。

3.さらに先立っていたはじまり:神様とアブラハムとの契約
ザアカイに対するイエス様の愛は、さらに先立っていました。神様がこの世界を造られた時から、ザアカイは選ばれ、愛されていました。神様は、罪と悩みと苦しみ、孤独の中にさまよう人類をあわれみ、救い出すため、ご自分を人類に結びつけられたのです(創世記12:1-3、15)。失われた人をご自分のもとに立ち返らせ、命と喜びと希望を与えるためです。その頂点が、イエス・キリストの十字架です。
『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』これは、ザアカイに起こった出来事であり、今日、私たちにも起こる出来事です。今日、イエス様をお迎えしましょう。そして、イエス様を見続けましょう。

キリストに従う祝福(2013.7.21)

宣教題  : 「キリストに従う祝福」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章27~32節
私たちの教団と諸教会は、主なる神がキリストに従う弟子たちと同行してくださった中を歩んできました(出エジプト33章14節)。これこそが、これからも変わらない私たちの立ち位置です。レビと同じように、キリストに従い続けることは、祝福された歩みが造られていきます。

1.キリストが招かれる  27節
主イエスは、慈しみの心をもって徴税人のレビをごらんになられました。当時、徴税人は、ユダヤ人からは神に呪われた罪人と同じように見なされていました。主イエスは、レビが収税所にいるその場で「わたしに従いなさい」と、そのままを受け入れて招かれたのです。
主イエスは、レビに対するのと同じように、私たちを招いていてくださいます。

2.キリストの招きに応える  28節~29節a
「わたしに従いなさい」と、説明も条件もついていません。レビには、少なくとも罪人を招くために来てくださった主イエスに対する強い信頼がありました。そこで、座り続けていた収税所の席から立ち上がって、「イエスに従った」のです。
また、何もかも捨てたレビが、大盤振る舞いをしています。これは、献げることについて示唆を与えています。何もかも捨てて主イエスに従うことは、自分が持っている財・才能・時間・賜物・生涯などを「イエスのために」用いさせていただくことなのです。

3.キリストを紹介する  29節b~32節
こうして、レビは、自分の持っているものを最大限に用いて、主イエスの紹介に努めました。彼は、主イエスと同じ心で、自分と共に生きる人々を見直し、主イエスに招いていただいたように、彼らを招いたのです。
福音は、一番身近な所から伝わっていきます。そのためには、私たちが「イエスのために」生きるように変えられていることが大切です。

罪の赦しの福音(2013.7.14)

宣教題  : 「罪の赦しの福音」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章17~26節
主イエスのご来臨の目的は、「神の国の福音を告げ知らせ」ることでした(4章43節)。ここでは、主イエスが中風の人をいやされたことを通して、福音とは何かを明らかにされています。福音とは、「人よ、あなたの罪は赦された」とあるように、罪の赦しであることを宣言されたのです。

1.福音は「求めるもの」に与えられる
中風の人と彼を運んできた男たちは、主イエスに切なる求めをしています。彼らは、様々な障害を乗り越える勇気と熱心さとを持ち合わせていました。さらに、彼らが、主イエスが与えてくださるものを受け入れ、主イエスのもとに飛び込んでいくほどの信頼を抱いています。「イエスはその信仰を見て」おられたのです。
そうした中にあって、群衆や家の主人は、この突然の予期しない出来事によって自分たちの願いが中断されても、また犠牲を強いられても、中風の人に協力しています。
私たちは、福音を求めるものであり、それに与かろうとする人たちのために協力するものでありたいと願います。

2.福音は「キリストによって」与えられる
神の祝福の根本は、人が罪を赦されることを通して神と和解し、神との交わりに入れられることです。
ところで、聖書が言う罪は、神を欺き、神を悲しませることです。この罪を自覚するならば、主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」との宣言を受け入れることができるのです。主イエスは、罪の赦しを十字架で完成するので、それを受け取ってほしいと願っておられるのです。
福音は、私たちを前向きにさせます。主イエスの十字架によって罪の赦しが完成されていると信ずるからです。身が震える思いで、過去に決別し、喜びをもって立ち上がらせていただきましょう。

自由と愛(2013.7.7)

宣教題  : 「自由と愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章17~26節 1コリント9章23節
パウロは、いかなる時にもキリストを中心に置いて、ぶれない生き方をしました。そのパウロが、福音にあずかって真に自由な者とされ、かつ福音に共にあずかるためには、その自由が制約されてもキリストの愛に生きることを選んだのです。

1.福音にあずかる
パウロ一行はエルサレムに到着したとき、教会の人々の歓迎を受け、教会代表のヤコブや長老たちに挨拶をしました。そして、パウロを通して福音が異邦人に届けられたことの報告をするなかで、同行してきた異邦人教会の代表者を紹介し、献金がささげられた経緯や趣旨を語りつつそれを手渡したと思われます(17~19節)。この時パウロは、それらは「神が」なされた神の業であることを謙虚に証ししています。ここに、福音によって自由とされた者の生き方があります。
キリストの十字架と復活によって、私たちは永遠の滅びから永遠の救いにあずかることができたのです。この福音にあずかった者は、罪と死に支配されない自由な生き方をするようになるのです。

2.福音に共にあずかる
エルサレム教会の人々は報告を聞いて「神を賛美」しました。続いて彼らは、教会内にパウロを誤解して受け取っているユダヤ人信徒がいることを伝えつつ、その誤解を解くための対応策と(23~24節)、かつてのエルサレム教会会議で決定したことを守るべきことを提案しました(25節)。パウロは、異議を唱えることなく、間違えば命を奪われかねない危険な提案を受け入れたのです(26節)。彼をしてそうさせたのは、自由を制約されても、敵対する同胞を愛する愛からでした。愛のゆえに同化したのです。
パウロは、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と証ししています(1コリント9章19~20節、23節)。私たちは、福音に共にあずかるために、祈りを、奉仕を、献金をもって神にささげる生き方をするのです。

キリストの願い(2013.6.30)

宣教題  : 「キリストの願い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章12~16節
この聖書箇所には、二つの願いが明らかにされています。人の願いと(12節)キリストの願い(13節)です。「御心ならば」、「よろしい(わたしの心だ)」は、その意志や願いを表わしています。人の願いが、キリストの願いと一つになる時に、神の御業がなされます(2コリント5章20節)。

1.人の願い
「全身重い皮膚病にかかった人」は、主イエスの御前にひれ伏しています。この謙る姿勢は、真実かつ真に勇気ある姿です。しかも主イエスがなされることを期待しつつ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、自分の願いを切実に祈り願っています。彼の願いは、主イエスに委ねつつも、筋の通った嘆願の祈りだったのです。
私たちは、祈り願っても現実が変わらない時、いつしか嘆願の祈りをしなくなるということがあります。そうした時にこそ、主の恵みのご支配があることを信じて、主の御心を伺いつつ、真実に祈り願う歩みであり続けたいものです。

2.キリストの願い
主イエスは、この人の願いをそのまま受け入れてくださいました。彼に触れることにより一体となられ、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。主イエスは、彼を憐れみ(マルコ1章41節)、彼の痛みを御自分の身に背負って、癒してくださったのです(イザヤ53章4節)。このようにして、彼は、神に受け入れられて神のものとされることにより神との関係が回復され、自立した生活を送ることによって社会での生きる道が開かれました。これがキリストの願いでした。
キリストが全ての人のために願っておられることは、主イエスの十字架と復活によって罪赦されて神との和解をいただき、神のために生きるとともに、他者のために生きる自立した者となることです。そこからは、人間相互の関係の回復も生まれてきます。

もう一つの命(2013.6.16)

宣教題  : 「もう一つの命」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ヨハネ10章10~11節
聖書が明らかにしている「命」には、二つの異なった言葉が用いられています。一つは、肉体上の自然的な命で、この地上の一時的な命を意味するものです。もう一つは、肉体を超えた本質的な命、永遠の命を表わすものです。後者こそが、私たちが与かる必要のある「もう一つの命」です。

1.溢れる命を 10節
主イエスが来臨されたのには、目的がありました。羊のように無力で弱い私たちが、もう一つの命を受け、しかも豊かに受けるためでした。
豊かな命は、溢れる命です。溢れる命からは、喜びが満ち溢れ(1ヨハネ1章4節)、主への感謝が満ち溢れ(2コリント4章15節)、主の慰めが満ち溢れ(2コリント1章5節)、主の愛から引き離すものからの勝利に満ち溢れ(ローマ8章37節)、主の業に満ち溢れるのです(1コリント15章58節)。
私たちが受ける溢れる命は、他者を生かしつつ、周囲を祝福します。そして、地上の終わりの向こう側に向けての備えをしつつ、人生の終わりを迎えるのです。

2.命はキリストに 11節
このような約束の御言葉を語られた主イエスが、本当に命なるお方なのでしょうか。
主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを明らかにしておられます。主イエスは、何の罪も犯しておられないお方なのに、私たち一人一人の罪を背負い、十字架に架かられて死なれました。同じように十字架に架けられた犯罪人の一人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(ルカ23章41節)と言っていますが、その当然の座が、罪の赦しと永遠の命に与かる恵みの座となったのです。
十字架の死から復活された主イエスは、今も変わらずに永遠の命を与え続けていてくださいます。命のキリストに信頼して歩み出し、また歩み続けましょう。

神はわたしたちの味方(2013.6.16)

宣教題  : 「神はわたしたちの味方」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章7~16節 ローマ8章31節b
もともと神と敵対していた私たちを、神は惜しみなく愛し、イエス・キリストの十字架の死を通して和解の道を開いてくださいました(ローマ5章10節)。それゆえに、神が私たちの味方となっていてくださるのです。神が私たちの側に立っていてくださることの実例を、本日の使徒言行録の箇所に見ることができます。

1.厳かな使命に立つ中に
ここに見るパウロは、死を覚悟して使命に生きる強い姿勢があります(13節)。
パウロは、異邦人教会からエルサレム教会に感謝の献金を届けるとともに、両教会の信仰の一致が見られることを祈り願って、エルサレムに向かったのでした。パウロは、ルカたちと共に、ティルスからプトレマイス、さらにカイサリアと航海を続けました。カイサリアのフィリボの家で泊まっていた彼らの所に、あのアガポが訪れ(11章27~28節)、エルサレムでパウロが苦難を受けることを予告しました。それを聞いたルカたちは、しきりにパウロのエルサレム行きを反対したのです。
それに対してパウロは、動揺しながらも、祈り、確信し、覚悟した信仰を貫きました。その根底には、神は私たちの側に立っていてくださるとの信仰があったからです。

2.豊かな愛の交わりの中に
教会は、使命に立って進む厳かな部分と、愛の共同体としての豊かな交わりに生きる部分の両輪があり、それをしっかりと持ってこそ健全な歩みが展開されます。
パウロ一行は、プトレマイスで兄弟たちと(7節)、カイサリアのフィリボの家の者たちと(8節)、互いの交わりを深めています(ヘブライ13章1節参照)。さらに、カイサリアの弟子たちと一緒にエルサレムへ行く途中、ムナソンの家に泊まっています。そこでは、くつろぎ、やすらぎの時を過ごしたことでしょう。死という危機を分かち合う覚悟を持った彼らには、驚きとともに慰められます。このような愛に満ちた交わりを通して、神は私たちの側に立っていてくださるという恵みを体験させていただけるのです。