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礼拝メッセージ

家族に祝福を(2014.1.1)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録16章31節

今年、私たちの教会は、「祝福の源である家族」を標語に進んでいくように導かれています。私たちは、世界の礎である家族に祝福がもたらされるために、何を大切にしなければならないのでしょうか。

1.家族の大切さ
天地創造、世界の起源、創造の冠として人間を造られたことなど、壮大なスケールから始まる創世記が、その本論に入るとアブラハム家の物語に絞られ、その後の家族が全世界に祝福を及ぼす源となっていったことを語っています(創世記18章19節)。
また、主イエスは、家族を重く見ておられました。その十字架上で、母であるマリアのために配慮された事実にも(ヨハネ19章26~27節)、それを知るこ とができます。そして、パウロは、家族を顧みることの大切さを語っています(1テモテ5章8節)。聖書は意外なまでに家族を大切にしています。
私たちは、家族を大切にして、具体的にどのように家庭を作っているか、また作ろうとしているかが問われています。

2.家族が主の救いに与る大切さ
神の祝福の源である家族であるためには、主の救いに与り、天の喜びに息づく家族に変えられることが大切です。
人類は、その祖であるアダムとエバが神に背いたことによって、神の祝福を失いました。今もなお家族や家庭に見られる混乱や乱れのルーツは、ここにありま す。神の救いの御計画は、神と人との関係の回復だけではなく、それを起点とした人と人との回復、家族の救いを意図しておられます。
フィリピにあった牢の看守一家が、主イエスを信じ、全員洗礼を受けて、喜び溢れる家族になりました(使徒言行録16章16~34節)。彼らは、主イエスに人生の土台を置いて、主に信頼する歩みを始めたのです。
一人の人の救いの祝福は、その家族に及んでいく始まりとなります。私たちの一人一人と家族の「主」が、イエス・キリストなるように祈り願いましょう。

祝福の時と場(2013.12.29)

宣教題  : 「祝福の時と場」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 1テモテ 1章12〜17節

パウロは、自らの信仰の歩みを振り返りつつ、主イエスの恵みに対して深い感謝をしています(12節a)。それは、主の憐れみによって、自分が造り変えられ、造り変えられ続けている祝福の時と場を感謝しているのです。祝福の時と場とは、私たちにとってどのようなことなのでしょうか。

1.憐れみに与った時と場
主イエスは、罪人を救うために、世にまで来てくださいました(15節a)。パウロは、キリスト教撲滅運動の中心人物で、キリスト教会を潰し回った罪人でした(13節a)。しかし、主はそんなパウロを「憐れみ」、ご自身の救いに与らせてくださいました。
神は、パウロが「信じていないときに知らずに行った」ということも、罪は罪として死によって罰せられます。しかし、そうした知らないで行ったことも、主イエスの十字架による贖いによって赦しを与えていてくださるのです(ルカ23章34節)。それこそが、確かな十字架経験です。何という主の憐れみでしょう。
私たちは、この主の憐れみに与った時と場を忘れないようにすることが大切です。

2.憐れみを深く知る時と場
パウロに対する主イエスの恵みは変わることなく、それに信仰と愛が加わって強い確信に至っています(14節)。しかも、彼は、忠実な主の仕え人として主の働きに加わるものとされました(12節b)。そうした中にあっても、彼は、「わたしは、罪人の中で最たる者」との深まりゆく罪意識がありました。彼は、そんな自分を主が「憐れみ」続けていてくださることを深く知る経験をしていったのです。そして、彼は、主の憐れみと忍耐のゆえに、永遠の命に与る者とされる見本であることを告白し続けています(16節)。
私たちは、その信仰の歩みや姿勢また奉仕において、徹底して主の憐れみの見本であることを知って、いつも感謝したいものです。私たちは、主の憐れみなくして生きられないゆえに、主を讃えるのです(17節)。

新しい歩み(2013.12.22)

宣教題  : 「新しい歩み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトス 3章4〜7節

クリスマスは、私たちが生みだしたのではなく、神の慈しみと人間に対する神の愛の現れとしての神の御業です(4節)。
そして、クリスマスは、聖霊による新しい命の奇跡的な誕生でした(マタイ1章18節、20節、ルカ1章35節)。聖霊による新しい奇跡的な御業は、私たちに新しい歩みを造り出してくださいます(5節)。

1.新しく生まれる
人は、過去の罪の支配から解き放たれ、現在の自分自身が新しくされ、将来において死を超えた新しい命に生きることを求めています。そのような私たちに、「聖霊によって新しく生まれる」救いの道が開かれています(5節、ヨハネ3章3節、5節)。それは、神の慈しみと憐れみと愛を源として、イエス・キリストの十字架と復活に現わされた神の救いの恵みを信じる信仰によって得られるものなのです。ここには、人を滅びの力、悪しき力、死の力のなすがままにさせない神の強い御意志が込められています。
クリスマスは、新しく生まれることを喜びをもって確認し、確信し、信仰による決断を強めていただく時なのです。

2.新たに造りかえられていく 
このように、新しく生まれた者は、聖霊によって「新たに造りかえ」られていくのです(5節)。それは、聖霊によって繰り返し新たに造りかえられていくことです。それは、私たちが主によって死を超えた永遠の命を受け継ぐまで続けられることです(6~7節)。
聖霊は、私たちにそのことを繰り返し呼び覚ましてくださいます。その時に、私たちは、神に祈りつつ、神からの語りかけを聴いて対話をし、神と格闘しつつ、神を信頼する中から、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1章38節)と、神に自らを委ねることを繰り返すのです。
私たちは、繰り返し繰り返し新たに造りかえられていくことによって、日々クリスマスの御業に与っていくのです。

ちいさなちいさなクリスマス(2013.12.15)

宣教題  :「ちいさなちいさなクリスマス」    宣教:鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカ 2章10〜12節

「大山鳴動して鼠一匹」。日本のクリスマスはこのことわざに近いかも知れない。

1.クリスマスに起こった小さな出来事
クリスマスに関する出来事の中でも、主のみ使いの登場や博士たちの宝といったきらびやかなことばかりに目がとまる。けれども、クリスマスの中心は一人の男の子の誕生である。母親に授乳されなければ生きていけない一人の男の子の誕生である。大きな喜びだ、と言われた羊飼いたちが見出したのは、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(2:12)にすぎない。どこにでも起こりそうな、小さな事しか起こらなかった。大きな喜び、といわれても現実感がない。だから、それに見向きをしようともしない。

2.小さな事が大きくなる
イエスは「からし種のたとえ」(13:18−19)を語っている。小さな種が、植えられ、育てられた時、鳥が枝に巣を作ることができるくらいの木に成長した、という話である。クリスマスの出来事はからし種のように小さいけれども、やがて、驚くほど大きな何かを生み出す。「民全体のためのすばらしい喜び」(2:10)を生み出す。クリスマスにこの種は植えられ、礼拝に集っているあなたのうちにもこの種は植えられている。

3.期待して待つ
もちろん、小さな種が大きな木になるまでには時間がかかる。イエスの生涯もそうである。クリスマスから30年ほど過ぎたときに、十字架と復活によってイエスの生涯はクライマックスを迎えた。そこで生み出されたのは、弟子たちの小さな群に過ぎなかった。しかし、そんな小さな変化がやがてうねりのような大きな変化となった。そして、神のご支配が世界中へと広がっていった。
イエスは私たちのうちにわざを始めて下さっている。それはあまりにも当たり前で、どこにでもあるようで、気づかないほどの小さな変化かもしれない。すぐに実現する、派手な出来事ばかりを追い求めているならば、そんなイエスのわざを見過ごしてしまう。しかし、小さな変化に気づき、私たちのうちでそれが大きくなるのを待つことが、クリスマスのほんとうの意義を知る者の生き方である。小さな種が大きな木になるのを期待して待つような信仰に生きる者たちに対して、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」のみことばは、真実となる。

時を生かし用いよ(2013.12.8)

宣教題  :「時を生かし用いよ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テモテへの手紙二 4章1~5節

私たちは、将来において、主イエスが「出現」される再臨を待ち望んでいます(1節)。この再臨待望信仰に生きる私たちに主が命じられていることは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」です(2節)。私たちは、主の再臨に備えつつ、今の時を生かして用いることが大切なのです(エペソ5章16節)。

1.時を生かして  1~2節
「折」とは、ただ漠然と続いていく時というのではなくて、内容のある、人の人生において欠くことのできない危機的な時ということです。それは、神の救いがもたらされる恵みの時です。その時を買い占めるように自分のものとするかしないかによって、人の人生が決まってきます。
私たちは、再臨の主イエスを思いつつ、今の自分の在り方や生き方を捉え直して、進むべき道を確認し、また改める決断をしたいものです。それは、受胎告知を受けた主の母マリアが、神の御言葉どおりに神の御計画が自分の身に成るように、大胆に決断したことに通じるものです(ルカ1章38節)。彼女は、神の時を生かしたのです。

2.時を用いる  2~5節
主イエスの出現に思いを集中することから生まれてくるものは、「御言葉を宣べ伝えなさい」と命じられることに忠実であることです。御言葉とは、聖書に証言されている福音であり、その中味はイエス・キリストのことです。
御言葉を宣べ伝えるとは、御言葉によって養われて生かされている自分自身を(2テモテ3章16節)、そのまま他者に提供し差し出すときに、自分の内に生きている御言葉の力が他者にも伝わるということです。その時、御言葉は大きな実を結ぶのです。ただ、私たちは、「忍耐強く」寛容な心で、他者に向かうことが大切です。
あらゆる時を用いて、私たちが御言葉を宣べ伝えることを可能にしてくださるのは、神ご自身です(ルカ1章37節)。

大いなる救い(2013.12.1)

宣教題  : 「大いなる救い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトスへの手紙 2章11~15節
教会では、待降節のことをアドベントと呼んでいます。アドベントには、神の独り子イエスの降誕の出来事を表す場合と、主イエスの再臨を表す場合とがあります。このことを、ここでは「現れ」と表現しています(11節、13節)。
私たちは、主イエスの初臨と再臨の間に生きる者として、日々に信仰の応答をしつつ生きることが求められています。

1.すべての人への神の恵み 11節
神の救いは、「すべての人に」等しく差し出されたのであり、それを受け取ることに一人の例外もありません。それは、人の世に存在する様々な相違をもたらすものとは違って、すべての人に届けられた神の恵みです。
世界で最初のクリスマスの喜びの知らせは、主の天使によって羊飼いたちにもたらされました(ルカ2章8~11節)。そこでは、「民全体に」「今日」「あなたがたのために」と告げられています。このメッセージは、今の私たち一人一人に対しても同様に告げられている神の恵みです。この神の恵みは、自分には必要ない、自分には関係ないと退けるならば、それは神の愛を拒絶することなのです。

2.完全な永遠の救い 12~14節
「救い」という言葉が、二度繰り返されています(11節、13節)。ここでいう救いとは、神と人との歪みや破れが回復される神の救いを語っています。すなわち、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、私たちを罪と汚れから「贖い出し」(14節)、聖別された神のものとしての歩みにしてくださるのです(12節)。そして、私たちが、主イエスが再臨される時にあずかる完全な永遠の救いを首を長くして待ち望みつつ、日々に「良い行いに熱心な民」(14節)にしていただくのです。
私たちの日常は、主イエスの再臨に備える日々であることが大切です。主イエスによって、永遠の滅びから永遠の救いに与っていることを感謝して、良い行いに熱心で、ささげる生き方をさせていただきましょう(マルコ14章6節)。

確かな道しるべ(2013.11.24)

宣教題  : 「確かな道しるべ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ 14章1~6節

私たちは、喜びや楽しみ、また憂いや悲しみや不安を経験します。しかし、主イエスは、如何なる時であっても、私たちの人生の「確かな道しるべ」となってくださる神であり、自らが「道」となってくださいました。

1.見失っている確かな道 
主イエスが、「心を騒がせるな」と弟子たちに語られたのは、死に直面しておられた時のことでした。それを予感していた弟子たちは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(13章36節、14章5節)と不安な気持ちを述べています。
このように、心が騒ぎ不安になるのは、主の弟子たちだけではなく、私たちも同様です。その一番の原因は、揺るがない、確かな道を見失っているからです。この確かな道は、最初から私たちが持っているものではなく、人の知恵や努力で知ることができるものでもありません。ただ、神から知らされ、主イエスご自身が「道」となってくださったことによって得ることができるのです(6節)。

2.備えられている確かな道
私たちが最も不安を抱くのは、死に対してではないでしょうか。それは、私たちを八方塞がりにさせます。その行き詰まりを打ち破って、永遠に「住む所」を備えてくださっているのが、主イエスです。主イエスは、その所を「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)と言われているように、主の弟子たちだけではなく、私たちのためにも、すでに備えられているのです。
そして、主イエスは、そこに導かれるための道を備え、ご自身がその道そのものとなられたのです(3節、6節)。それは、主イエスが十字架に踏みつけられて死んでくださり、その死から復活されたことによって開かれた永遠の救いの道です。私たちがしなければならないことは、このイエスを信じ受け入れ(1節)、主イエスとその愛にとどまり続けることです(15章5節、9節)。

選ばれた人生を選ぶ(2013.11.17)

宣教題  : 「選ばれた人生を選ぶ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師

聖    書  : ルカ 6章12~19節
私たちは、主イエスの12弟子と同じように(13節)、主の弟子として選ばれ、生かされているのです(ヨハネ15章16節)。そのような選びの中に招かれているのですから、私たち自らが、それに応答して選び取っていく歩みをすることが必要です。

1.主イエスの祈りのうちに選ばれたのである 12~16節
主イエスは、ご自身の弟子たちを選ぶに際して、夜を徹して祈られました(12節)。主は、徹夜の祈りをすることを決心して祈られたのではなく、ひたすら祈りに打ち込んでおられたら夜が明けていたのでした。それほどに深い祈りをされたのです。ところで、主が、他に夜を徹して祈られた場面として、ゲツセマネの祈りがあります(ルカ22章39~46節)。この祈りが決定的で大切な祈りであったように、ご自身の弟子を選ばれる時も、祈らずにはおれない決定的で大切な時だったのです。
主イエスは、選ばれた弟子たちを「使徒と名付けられ」、主の十字架と復活の証人としての使命を委ねられました。同様に私たちは、主の十字架と復活の証人として選ばれているという歩みをするのです。たとえそれが試練の場であっても、そこに踏みとどまるならば祝福があるのです。

2.主イエスと一緒に歩むことを選ぶのである 17~19節
主イエスが山に登って行かれたのは、山から下りて来られるためでした。山の下は、主の教えを聞くことや主の救いの御業に与ることを願う大勢の人がいました。主は、弟子たちと一緒に山から下りてこられて、「平らな所にお立ちになった」のです。このように、主の弟子として選ばれるということは、主と一緒にこの世に遣わされるという歩みをすることを選ぶことなのです。
私たちの信仰の歩みは、悩み、苦悩、試練、戦いを避けてとおれません。その信仰の営みから逃げないで、主イエスと一緒に遣わされていくことを選ぶならば、人を生かし、教会を生かすという祝福をもたらすのです。

確かな神のことばに立つ(2013.11.10)

宣教題  :「確かな神のことばに立つ」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 40章1~11節
神の言葉を聞く者が、それを語る者へと変えられる。そのきっかけはなんだろうか。

1.語られ、慰められ、招かれる(40:1−5)
バビロン捕囚という悲劇の中にいた人々に神が慰めを語っている(1)。苦しみからの救いという慰めが主の具体的行動によって彼らの上に実現する。捕囚はイスラエルの罪ゆえに受けた罰であったが、その期間の終わりが心優しく神から語りかけられている(2)。
「わたしたちの神」が栄光をもって現れることによって新しい事がはじまる(5)。それは王である神の自分の都へと入城である。この入城に備えるように、苦しみの中にある者に語られる(3)。なぜならば、慰めの言葉を聞いた者は神の働きの参加者になるように招かれているのだ。彼らだけではない、すべての被造物が神の栄光の現れの備えに招かれている(4)。そして、神が語られたからこそ、このことは起こる(5)。

2.神の言葉の力を聞き、神の姿を伝える(40:6−11)
招かれても、人はすぐには参加しない。神の言葉を信じることは簡単ではないからだ。神は説得を続ける。人の誠実さは確かなものではない。草のように、枯れ、しぼむ(6)。しかし私たちを選んで下さった神の語る言葉は「とこしえに立つ」(8)。誠実に、語られたことは必ず実現する。その言葉の確かさが、慰めと希望と喜びの到来の保証である。
神の言葉を聞き、招かれた者は、王である神の行列の先頭に立って、良い知らせを世界中に告げる(9)。神の御腕は、困難を打ち砕き、時代を切り拓いていくという知らせを告げる。出エジプト同様に、時代を造りかえる力がある(10)。さらに、神の御腕は、優しく包む、羊飼いの手として、弱り果てた者を包み、癒し、慰める(11)。このようなすばらしい神の到来が告げられる。
私たちは神の言葉の確かさをすぐに疑う。それは、「聖書も神の力も知らない」から思い違いをしているのだ(マタイ22:29)。だからこそ、神の言葉の確かさを信じる者へと回心させて頂きたい。そして、神の言葉を聞き、それゆえに語るものとされたい。

心をあわせ、声をそろえて(2013.11.3)

宣教題  :「心をあわせ、声をそろえて」   宣教:  鎌野 直人 協力牧師
聖     書  : ローマ 15章1~13節
ローマ14-15章のテーマは、「心を合わせて声をそろえることの大切さ」である。これは、強い者が、強くない者の弱さを担い(15:1−2)、互いが相手を受け入れることによって(15:7)実現する。しかし、現実はそう簡単ではない。そのために、どのように進んで行けばいいのだろうか 。

1.イエスのように生きる 
パウロは、イエスのように生きるように招いている。他人の泥を自らかぶり、大損をされたイエスの姿に倣う生き方である(15:3[詩編69:9])。短期的な損得勘定で考えるとそんな歩みはできないが、死人の中からの復活を通してイエスに正しい裁きを神が下されたことを覚えるとどうだろうか。神のこの業をおぼえる時、私たちは忍耐と慰めを学び、希望を持ち続けることができる(15:4)。

2.イエスのおかげで生かされている
アブラハムの子孫を通じて異邦人を祝福するという神の約束(15:8−9、創世記12:1−3)は、ダビデの子孫であるメシアを通して実現した(15:12[イザヤ11:10])。
イエスの十字架を通して、全世界の民が神の民に加えられたからだ。このようにして、異邦人は受け入れられ、神の計画は完遂し、神の真実は明らかにされた。つまり、私たちはお互いを受け入れ合うこと(15:7)、全世界の民が一つとされて、ともに神をあがめるようになるために(15:9−11)、神はこの世界に働き続けられ、その計画を完成された。このようにして、イエスのおかげで私たちは神の民とされたことを覚える必要がある。
心をあわせ、声をそろえた礼拝での讃美を通して、私たちが一つの歌をもってひとりの神をほめたたえる一つの民であることを世界に示すことができる。さらに、あらゆることにおいて、聖霊に力をいただき、祈りつつ、具体的に心をあわせ、声をそろえて行動していこう。すばらしい音楽に人々が魅力を感じるように、「心をあわせ、声をそろえる」教会に人々は魅力を感じる。

戻るべき所(2013.10.27)

宣教題  : 「戻るべき所」   宣教:   長田 栄一 牧師
聖    書  : 1ペトロ2章21~25節
あなたがたは…戻って来た」と記されています(25節)。おるべき所から外れて、おるべき所でない場所にいるとき、そこには不安があります。落ち着かなさがあります。おるべき所に戻ったとき、「帰ってきた。ここが自分のいるべき場所だ」と、心に安息が回復します。本来の自分自身の姿に帰ることができます。

1.迷える羊
「あなたがたは羊のようにさまよっていました」(25節)。聖書には、人間の現実の姿を「迷える羊」として描いている所が幾つかあります(イザヤ53章6節他)。おるべき所から彷徨い出て、帰るべき場所、その道も分からなくなった存在として描かれています。

2.戻るべき所
私たちが戻るべき所はどこでしょうか。それは、単なる場所ではなく、人格ある神、創造者にして私たちの人生を正しい祝福の道へと導いてくださるお方。「魂の牧者であり、監督者である方」こそ、私たちが戻るべき所です(25節)。このお方は、私たちがご自身のもとへと戻って来るのを待ち続けておられます。

3.戻るための道
戻るための方法、その道筋はどこにあるのでしょうか。「十字架」「そのお受けになった傷によって」(24節)とあります。この個所は、苦難を耐え忍ぶことについて教える個所です。キリストは私たちに模範を示されました。その生涯は罪なき生涯。ののしられてもののしり返さず、神様に自らをお任せになっておられました。しかし、その苦難は何のためだったでしょうか。私たちのためでした!その十字架は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださ」ったもの。「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。ここに、私たちが戻るべき所へと帰って行くための道があります。

祝福の本当の源泉(2013.10.20)

宣教題  : 「祝福の本当の源泉」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書2章4~25節
「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)に登場するのは、父から離れていって身を持ち崩した息子であった。ホセア書には「放蕩夫人」が登場する。イスラエルが、他の神々という愛人たちを恋い慕ったからである。

1.衣食住の祝福の源泉
紀元前8世紀のイスラエルではバアル崇拝が広がっていた。衣食住の必要は嵐と雨をもたらす肥沃の神バアルが備えると信じていたからである(7)。しかし、祝福を与えてくれるバアルを探し求めても、見つけ出すことはできない(9)。衣食住の祝福の源泉は、バアルではなくイスラエルの神である主だからだ(10)。主が祝福を惜しみなく与えられたからこそ、放蕩夫人は放蕩に身を持ち崩すことができた。しかし、彼女は知らなかった。

2.神を知る祝福の源泉
イスラエルは主を忘れ(15)、愛人バアルを求めた。しかし、彼らは主を知るようになる(22)。主がそのために働かれる。彼らがバアルの所へ行く道をふさぎ(8)、その衣食住を奪い取り(5、11)、世界にその恥をさらさせ(12)、季節の祭りの楽しみを奪い取り(13)、バアルの贈り物だと誤解していた楽園を荒らす(14)。主は彼らが蒔いた種を刈り取らせる。しかし、荒野へと彼らを導き、そこで懇ろに語り、祝福と苦悩の中の希望を与えるのも主である(16-17)。主に信頼する以外に道がない荒野で出エジプトの神を思い起こした彼らは、主の下に立ち返り(18)、主を知るようになる(22)。神を知る祝福の源泉も主である。

3.世界を治める祝福の源泉
イスラエルが祝福の本当の源泉を知る時、天と地は結び合わされ、天から与えられる祝福を、地は豊かに実らせる(23-24)。彼らがその使命を果たし、地を正しく治め、あらゆる被造物がお互いに呼応しあうからである。このようにして、彼らが地上で主のみこころを行い、その結果、被造物が生かされ、戦いが止められるために、彼らと契約を結ばれるのも主である(20-22)。放蕩夫人が主の下に立ち返り、その使命を果たすためのあらゆる必要は主が備えてくださる。祝福の源泉である方を覚えよう。

良心に従って(2013.10.13)

宣教題  : 「良心に従って」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章22節~23章5節
神が私たちに与えていてくださる「良心」は、大切な賜物です。しかし、人が良心的に生きると言いつつも、全てが良い心であるとは言えないようです(マルコ7章20~23節)。だからこそ、パウロのように、「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前に生きてきました」(23章1節)と言える人は、何と幸いなことでしょうか。

1.新しく造り変えられた良心
聖書では、信仰と良心の関わりの深さと大切さを明らかにしています。そこには、「正しい良心」を持つように勧められていますが(1テモテ1章19節a)、健全な状態にない良心についても語られています。それは、良心が鋭い感覚を失ってしまい、罪を罪と感じなくなってしまったり(同4章2節)、良心を意識的に捨ててしまったりすることです(同1章19節b)。ですから、神の御業や御言葉に対して素直に応答する「正しい良心」をもたせていただくことが大切なのです。
パウロは、教会を迫害することが罪であることを復活の主イエスから知らされた時、聖霊によって良心の導くところに従って回心しました(22章6~11節)。主イエスの語りかけに対して、良心が忠実となり、新しく造り変えられることか大切です。

2.神の前を生きる良心
ここでの迫害に対しては、パウロが持っていたローマの市民権が用いられ、救出されました。彼に与えられた異邦人伝道の使命が果たせなくなってはいけなかったからです(22章22~29節)。彼は、翌日の大祭司アナニアの前で、堂々と落ち着いて、気迫あふれた発言をしています(23章1~5節)。このように、パウロは、神の前に、神に向かって、神から与えられた使命に従って生きていこうとしたのです(24章16節)。
私たちが、その良心を死んだ業から清められて、神を礼拝し、神に仕える者となるために、主イエスが十字架で血を流して永遠の救いを全うしてくださったことを覚え続けたいものです(ヘブライ9章14節)。

真の安息(2013.10.6)

宣教題  : 「真の安息」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ6章1節~11節
私たちは、旧約時代の土曜安息日ではなくて、主イエスが復活された「週の初めの日」(使徒言行録20章7節)とも呼ばれている「主の日(聖日)礼拝」を大切にしています。この日に、真の安息への道を開かれた主イエスの御心を知って、自らの信仰と生活を導いていただくのです。

1.神の恵みを喜ぶ
主なる神は、6日間で全てを創造され完成されたことに満足されて、7日目に安息され祝福されました(創世記2章1~3節)。従って、「安息日」は、造られた人間にとって神と共に安息することが当然の恵みなのです。私たちは、神が全てを良いものに造ってくださったことに、喜びと感謝をささげるのです。
さらに、出エジプトという神の救いの恵みに与かった神の民が、「安息日」の祝福に生きることを命じられています(出エジプト20章2節、8~11節)。私たちは、神の民がエジプトを脱出して約束の地へと導かれたように、主イエスの十字架と復活によって罪と汚れに満ちたこの世から脱出して、約束に御国へと導き入れられることを大いに喜ぶのです。

2.神の恵みを分かち合う
主イエスは、安息日に弟子たちの飢えを満たして生かし(1~5節)、また生活の糧を得るのに必要な右手が萎えている人をいやして生かされました(6~11節)。
安息日は、神とその恵みを忘れないことと、人々へのあわれみを忘れないことのためにあります。すなわち、安息日に神の救いの約束が変わらないことを思い起こし、永遠の救いの神を忘れないことです(出エジプト31章16節)。また、一人一人が神に分け隔てなく招かれていることを忘れないことです(申命記5章14節)。
私たちは、礼拝において深い安息を経験するのですが、それを自分だけのもので終わらせることなく、隣人のためにも与えられていることを覚えて、お互いの喜びとさせていただきましょう。

それでも主は見捨てない(2013.9.29)

宣教題  : 「それでも主は見捨てない」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書1章1節~2章3節
必ず裏切ると分かっている人と結婚することができるだろうか。紀元前8世紀、繁栄に沸く北王国イスラエルに住むホセアに、主は「淫行の女をめとれ」(1:2)と命じた。妻から生まれる子どもたちを自分の子として受け入れるようにも命じている。それを実際に行ったホセアは、なんと愚かだろうか。どれほどの痛みを経験しただろうか。ホセアの愚かさと痛みは、イスラエルの神でありつづける主の愚かさと痛みである。イスラエルは、古代から幾度となく血が流されてきたイズレエルの地で、また流血を繰り返している(4)。主を捨て、武器や偶像を頼っている(2、5)。契約によって「淫行の民をめとっている」のは他でもない、イスラエルの神である主だ。

1.だから、主は責任を問われる
ホセアは、結婚という契約のゆえに、自分を裏切った妻にその責任を問える。主も、自分を裏切ったイスラエルの責任を問う。だから、一人目の子、イズレエルの名にちなみ、流血の罰をイスラエルに下す(4)。二人目の子、ロ・ルハマの名にちなみ、イスラエルにあわれみをかけることはせず、その罰をゆるさない(6)。三人目の子、ロ・アンミの名にちなみ、イスラエルはもはや主の民ではなくなり、主はイスラエルの神ではなくなる(9)。自分たちを生み出した主との関わりが切れ、イスラエルはすべてを失う。イスラエルの王家はその支配を終える(4)。すべてが止まる。

2.それでも、主は見捨てない
これほどひどいイスラエルなのに、それでも、主は見捨てない。すべてが止まったのは回復のためである。その後、イズレエルが栄光の日となり、イスラエルが主の民となり、その上に憐れみが注がれる(2:2-3)。それは、アブラハムとの契約のゆえ(創世記22:17)ダビデとの契約のゆえである(2サムエル7:16)。
ホセアとよく似た名前のイエスも、「淫行の女」、取税人、罪人、娼婦の所へ行かれた。そして、その出会いを通して、彼らは「アブラハムの子」(ルカ19:9)へと回復された。主は見捨てない。だから、裏切り者にも希望がある。