メニュー 閉じる

礼拝メッセージ

恵みに生きる(2014.8.31)

宣教 宮崎 浩 師
聖 書 エフェソ1章1~14節
パウロはローマの獄の中でこの手紙を書いています。「獄中書簡」とも呼ばれています。そして、この手紙の箇所は「恵み」について教えています。「恵み」とは、常に信仰と結びついていて、信仰は「恵み」による感謝から来るものです。

1.神の豊かな恵み   4~7節
私たちの信仰にとって大事なことは「恵み」とは何かという認識です。信仰と言いながらキリスト教の信仰とは違うものに変質したり、簡単に信仰から離れていく人が多いのは私たちキリスト者の「恵み」の理解に問題があるのです。「恵み」はギリシヤ語でカリスマと呼ばれ、「賜物・贈りもの」という意味があります。人間が努力したり、働いて得ることのできるものではなく、三位一体の神による一方的なものであり、「恩寵」と呼ばれるものです。そして、その輝かしい恵み、豊かな恵みは、①選び(4節)②罪の赦し(7節)③神の子である身分(5節)です。主イエス・キリストを信じ、従う時に「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に」(ローマの信徒への手紙10章12節)与えられる賜物・贈りものなのです。

2.神の恵みに生きる 8~14節
イエス・キリストを信じる者には豊かな恵みが与えられています。神に選ばれていることのこの上もない喜び、イエス・キリストの十字架で流された血により私たちの罪が完全に赦されていることで恐れからの解放感、心の平安を得ることができたこと、また私たちが神の国に入ることができる相続者であることで将来への希望をもつことができたことです。そして、その恵みは誰も奪うことのできないもの、その保証として神は聖霊による証印を押されたのです(13節)。それらの恵みのなかで私たちが生きるとき、個人の信仰生活、教会生活、家庭生活が輝かしいものとされます。その生活は神が導き、神が共に働き、万事が益となるからです。(ローマの信徒への手紙8章28節)そして、神の栄光がほめたたえられるのです。どうぞ私たちに聖霊が与えられ、心の目が開かれ神を見、神の豊かな恵みが明らかにされ、神との愛の交わりを常に持ちつつ生きることができますように。

信仰の一歩を(2014.8.24)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ19章38~42節 、ローマ10章9節

ここに登場する「アリマタヤ出身のヨセフ」と「ニコデモ」は、ユダヤの社会において指導的な立場の人たちでした。二人に共通することは、これまで「イエス の弟子」であることを公然明白にしてこなかったことでした。そんな彼らが、主イエスが十字架に死なれて葬られることに立ちあった際に、大きく変えられたの でした。

1.人を恐れないで
「ユダヤ人を恐れて」とあるように、人は他人の顔や評判に恐れやすいものです(箴言29章25節)。こうした恐れは、単に弱いからという以上に、その心 の向きがゆがんでいるところから生じるものです(ヨハネ12章42~43節)。そこには、神からの誉れをいただこうと追い求めるよりは、人からの誉れを愛し追い求める心があるのです。それは、神を信頼していないことでもあるのです。
こうした人が恐れる姿は、神の御言葉に背いて、神からその身を隠した人類の最初の人アダムとエバにも見られるものでした(創世記3章10節)。慈しみ深 い神は、そのような人に対して、「あなたは何をしたのか」と問われないで、「あなたはどこにいるのか」と御自身との交わりの回復へと招いておられます(同 9節)。

2.大胆にキリストを信じよう
主イエスは、何と慈しみと慰めに満ちておられるお方でしょうか。弟子たちを最後まで愛し抜いて(ヨハネ13章1節)、彼らを守られました(同18章19節以下)。
ひそかな主の弟子であったヨセフとニコデモは、主イエスが十字架に死んで葬られるに際して公然と主の弟子であることを言い表わしました。彼らは、主イエ スの教えや数々の奇跡によってではなく、十字架の死を通して主イエスに引き寄せられ、用いられることになったのです。
宗教心は信じる態度を大事にしますが、信仰心は信じる対象を大事にします。聖書は、主イエスを信じ、信頼する信仰心をはっきりと持ち、それを公に言い表 すように促がしています(ローマ10章9節)。そうすることによって、人々に影響力を持ち、神の祝福を及ぼすことができるようになるのです。

主のことばに従う勇気(2014.8.17)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書: ヨシュア1章1~18節   ヨハネ16章33節

偉大なリーダーの死を迎えた時、どのような組織も危機を迎える。出エジプトを導いてきたモーセの死を迎えたイスラエルもそうであった(1~2)。モーセが 民とともにいたからこそ、主は民とともにおられ、荒野放浪の40年は導かれてきたからだ。しかし、モーセが死んだ今、約束の地を征服するという主の約束は 継続されるのだろうか。モーセの後継者として指名されたヨシュアはその働きを全うできるのだろうか。

1.イスラエルは前に進む
主はヨシュアに、モーセが死んだ今だからこそ、ヨルダン川を渡り、約束の地へ進むように命じた(2)。その際に、ヨシュアには、約束の地は、神が与えて くださるものなのか、それともイスラエルが自分たちで占領するものなのか、という問いが投げ掛けられた。まず、その地は、主がイスラエルに与えようとして いる土地であり(2)、もう与えた、と主が約束されている土地である(3)。しかし、何もしなくても与えられるものではない。「あなたたちの足の裏が踏む 所を・・・与える」(3)とあるように、その土地を自分たちの足で踏む、つまり戦うことが求められている。与えられているという確信に立ちつつ、準備し、 行動するとき、主の約束は継続され、実現していく(10-11)。

2.主のことばに従う勇気
ヨシュアは明らかにモーセとは違う。しかし、主は、モーセに約束されたように(出エジプト33:14)ヨシュアにも「あなたと共にいる」(ヨシュア 1:5)と語る。主がヨシュアとともにいるからこそ、主は民とともにいる。モーセの時と何一つ変わらない。ヨシュアはその使命を果たすことができる。この ときに、ヨシュアに求められていることは、モーセを通して主が命じられ律法を日々味わい、それを実行する勇気である(7?9)。モーセのような偉大な指導 者にならなくても、主のことばを味わい、それに生きるヨシュアとイスラエルの民を通して、神は世界に働き続けられる。モーセの時代になされたことと同じこ とを、ヨシュアの時代にも主はなさろうとしている(12~18)。

 教会はキリストのからだである。イスラエルの民と同じように、主が約束し、与えてくださっていることが、私たちのわざを通してこの世界で実現していく。 それは、すでに十字架と復活において勝利を取られたキリストが、私たちと共におられるからである。だからこそ、みことばを口ずさみ、整えられ、それに生き る勇気をもって、困難が多くあるこの時代に主に従っていこう。

生きた御言葉信仰(2014.8.10)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 7章1~10節

ユダヤ人の長老たちは、「百人隊長」のよい行いを見て尊敬しました(4~5節)。しかし主イエスは、彼の信仰を見られて高く評価されました(9節)。このように主イエスを感心させ驚かせた信仰こそが、生きた御言葉信仰です。

1.御言葉に対する信頼を伴なう信仰
百人隊長は、病気で死にかかっている部下を助けに来てくださるように主イエスに懇願しておきながら、その後で来てくださることを遠慮する発言をしていま す(1~6節)。この矛盾するような発言をしたのは、憐れみ深い主イエスに対する彼の信頼から生じたものと思われます。
続いて、百人隊長が「ひと言おっしゃってください」と主イエスに語ったのは、主が語られる御言葉の権威に対する心からの畏れと尊敬を持っていたからであり、御言葉の力を信じ切った主への信頼があったからです(7~8節)。
御言葉信仰とは、どんな時にも、どんなことにも、どんな人にも、御言葉は必ず答えを持っているということを信じる信仰です。御言葉の重みを知ることが、御言葉に対する信頼につながるのです。

2.御言葉に対する服従を伴なう信仰
百人隊長は、御言葉をいただき、そして助けていただければそれでよいという以上の信仰を言い表わしています。すなわち、助けていただいた以上は、次に主 イエスが何を命じられても、その御言葉に従おうとしました。主イエスは、彼の信仰に感心し驚かれ、「これほどの信仰」と言われたのです(9節)。そして、 「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8章13節)と励まされたのです。このように、主イエスが喜ばれる信仰は、御言葉に対して服従 する信仰です。
御言葉信仰は、主イエスが評価してくださる信仰であるからこそ大切なものなのです。それを単なるお題目に終わらせてはなりません。実質の伴なった、生き た御言葉信仰を持たせていただきましょう。「ひと言おっしゃってください。そして」の後に、私たちは何と応答するのでしょうか。

真実で動かされないもの(2014.8.3)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録 28章11~16節

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」(23章11節)との御言葉を主イエスからいただいてから、災難また災難を乗り越えて、ついにローマに 到着しました。そこで彼は、「神に感謝し、勇気づけられた」(15節)のでした。ここには、復活の主によって、真実で動かされないものをいただいている者 たちの証しがあります。

1.復活の主の力を共に知る信仰
難破したパウロ一行は、マルタ島に上陸して三か月を過ごした後、シチリア島のシラクサ、続いてイタリア半島のレギオン、そしてプテオリに入港しました。 そこでは、パウロたちは『兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した』のでした(14節)。この時、聖日礼拝を含む日々を主にある信仰の交わりを深 め合い、祈りと御言葉を共にしたことでしょう。また、パウロたちがローマ近くまで来ていると聞いたローマ在住の信徒たちは、彼らを心から歓迎をしたのでし た。ルカは、その時のパウロを「神に感謝し、勇気づけられた」と語っています。
この感謝と勇気は、復活の主の御言葉から、また復活の主が共におられるとの信仰からくるのであり、聖霊の力によるものでした。周囲が揺れ動く中で、私たちも、真実で動かされることのない復活の主の力を共に知る信仰を抱き続けたいものです。

2.復活の主に共に仕える気概
ルカは、パウロたちがローマに到着したこと、そこで囚人でありながらも伝道する自由を与えられた不思議な摂理を淡々と語っています(14、16節)。そ う語られている背後には、パウロたちの意に反するようなことが起こっていたにもかかわらず、その意に反した事柄の中で復活の主が何をなされておられるのか を汲みとって、復活の主に仕え、宣教の業に勤しむ彼らの気概がありました。
私たちは、その信仰生涯で経験する病や事故、また人々の反対や批判といった困難と思われることも最善に用いなさる復活の主に共に仕える気概をもたせていただき、その自覚に生きることができるよう祈り求めていきたいものです。

傷つくまで愛する愛(2014.7.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ19章17~30節

全ての人に「傷つくまで愛する愛」を注ぎ与え尽くしてくださったのが、イエス・キリストです。それを具体的に現してくださったのが、主イエスがお架かりくださった十字架においてでした。このことを信じることによって、私たちに神の救いがもたらされたのです。

1.愛のあまりに黙された  17~24節
主イエスは、人々の裏切り、離反、嘲笑、ののしりの中にあっても、それらの人々に対して愛を貫かれました(ヨハネ13章1節)。そのために、口を開くことなく黙し続けられました(イザヤ53章7節)。
主イエスがそのようにされたのは、彼らの無知蒙昧さ、愚かさの罪からの救いのためだったのです。そのことが分かると、主イエスが十字架にお架かりくださったのが「私の罪のため」であったことが、はっきりするのです。

2.愛のあまりにとりなされた  25~27節
一方、十字架上の主イエスは、その周りにいる人々に対して、とりなしのわざをなさいました。母マリアと弟子を引き合わせることによって新しい神の家族の 交わりを作られました。そのように忠実に主イエスに従う人たちだけにではなく、悔い改める人のため、悔い改めずにいる人のためにもとりなさいました(ルカ 23章32~43節)。
私たちも、今も変わらずに、主イエスが愛の限りを尽くしてとりなしていてくださる「十字架のそばに」身を置こうではありませんか。

3.愛のあまりに身代わりの死を遂げられた  28~30節
主イエスが十字架の上で「成し遂げられた」ことは、私たちの罪と死の責めを身代わりに受けとめ、救いを完成してくださったことでした。
この時、主イエスは身代わりとなって、罪の審きを体で味わい「渇く」と言われました。それは、神からも人からも捨てられるという苦痛の叫びです。このよ うに主イエスが代わって十字架に死んでくださったからこそ、私たちの魂の渇きが癒されるのです。私たちはこの招きに応答して、ただ信じるのみです(ヨハネ 6章35節)。

何を土台に(2014.7.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章46~49節

私たちの歩みまた教会の歩みは、家を建て上げていくようなものです。そこには洪水のような思いがけない苦難や試練が押し寄せてきます。それに耐えられるのは土台しだいです。その土台に関心をもち、揺るがない確かな土台に立つことが大切です。

1.主の御言葉に立つ
私たちは、恒産なければ恒心なしと言われるような目に見えるものを土台とした人生を構築しようとします。しかし、揺るぐことのない確かな土台は、主イエ スが語られた御言葉が神の御言葉であると間違いなく聞きとって、それに生きることなのです。同じように主の御言葉を聞いても、それとは異なった生き方を し、時に間違った生き方をしてしまうことがあるからです(46~47節)。それが、岩の上に土台を置いて家を建てているか、土台なしで地面に家を建ててい るかの相異なのです。
私たちは、「御言葉が与えられた」との信仰に立って歩むという良い伝統をいただいています。しかし、それが神の名を利用し、実は自分の考えや意思を貫こうとするように土台が傾いていたり、土台が無いような状態となったりしていないか、と問いかけることは必要です。

2.主の御言葉を深める
私たちは、思いがけない洪水が押し寄せるような不幸と思える出来事に遭遇します。たとえ平穏無事であっても、罪と死の洪水は全ての人に訪れます。しか し、ここで主イエスが語っておられることは、私たちは、叫んでも泣いても崩れることのない土台である主の御言葉の上に立っているのです。
従って、家を建てるに際して、土台に労力や資材をつぎ込んで元手をかける必要があるように、「地面を深く掘り下げ」る必要があるのです(48節)。すなわち、主の御言葉に立ち続けるには、熱心さと真剣さ、時には犠牲をも必要とするのです。
主の御言葉を聞いて、その御言葉に立って深めていく時に、その御言葉の真実が分かるのです。その御言葉に生きてみて初めて、その強靭な力を味わい知るのです。

喜びに満ちあふれて生きる秘訣(2014.7.13)

宣教:池口留都 伝道師
聖書:1ヨハネ1章5~10節

ヨハネの手紙一が書かれた目的(3、4節)でもある、クリスチャンが喜びに満ちあふれて生きる秘訣は、2つの交わりに生きることです。それは、御父と御子イエス・キリストとの交わりと、互いの交わりです。この2つは切り離せません。

1.御父と御子イエス・キリストとの交わりに生きる
(1)ありのままの自分を受け入れる難しさ
「神は光である」(5節)とあるように、光である神様の前ではすべてが明らかにされます。一方私たちは闇の中にいます。闇の中で自分探しをしますが、現実の自分を受け入れるのは難しいことです。特に、神様の光は、それまで知らなかった、罪深い自分の現実の姿も明らかにします。それを認めて受け入れること に、難しさを感じます。こんな自分は受け入れられないのではないか恐れるからです。
(2)ありのままの自分を受け入れてくださる方
そんな私たちの本当の姿をすべて知った上で、私たちを受け入れてくださる方こそ、イエス様です。イエス様は私たちをそのままで受け止めてくださり、私た ちを闇から光へ招き入れるために十字架にかかってくださいました。もし私たちが、光によって照らし出されるありのままの姿、罪を「その通りです」と認める なら、神様は赦して下さいます(9節)。イエス様の血が私たちを覆い、清め続けてくださるからです(7節)。私たちの恐れは取り除かれ、自由に神様との交 わりを持ち、その中に憩うことができます。そこに、喜びが満ちあふれます。

2.教会の交わりに生きる
愛と赦しを受け取った私たちは、他の人と関わる勇気と、一緒に歩む交わりを与えられます。それが教会の交わりです(3節)。神様との交わりは私たちを教 会の交わりに導き、また、教会の交わりを通して、私たちは成長させていただき、さらに神様との交わりを深めさせていただきます。2つの交わりに生かしてい ただきましょう。

元気を出しなさい(2014.7.6)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録27章13~38節

パウロのローマ行きという神の御計画は変わらず、度重なる困難を経て実現されていきました(13~20節)。彼は、暴風で荒れ狂う海に漂流する船の中で、神の必然を信じつつ、同船者に「元気を出しなさい」と語り続けたのでした(22節、25節)。

1.愛の励ましをもって  21~26節
暴風が激しく吹きすさぶので、「ついに助かる望みは全く消え去ろうとしていた」(20節)時、同船者たちはパウロの救いの言葉を聴くことができたのでした。彼は、絶望と無力のどん底にある彼らに、「元気を出しなさい」と励ましたのです。
パウロは、なぜこのように並はずれの寛容と愛をもって人々を励まし、助けようとしたのでしょうか。彼がローマに行って福音を語ることは、神からの必然的 使命だったからです。神は、航海中の全ての人を彼に任せておられたからです。神が彼に告げられたことは、必ずそのとおりになるとの御言葉信仰に立っていた からです。彼は、死をも乗り越えさせる復活信仰に立って、最後まで諦めなかったからです(24~26節)。このように、いかなることが起こったとしても、 それを神の恵みへの応答のチャンスとしようという捉え方で歩む生き方が求められます。

2.愛の連帯感をもって 27~38節
漂流中の船か浅瀬に乗り上げようとした時、船員たちは乗船員を助けようとしないで逃げ出そうとしたのをパウロは阻止しました(27~32節)。そして、 すでに全員が助かると語っていたパウロは(22~26節)、疑心暗鬼になっている乗船員に、信仰の確信に立って元気づけたのです。それは人々の心を奮い立 たせました(33~34節)。
さらに、復活の主イエスが共におられ、人々に元気を与えてくださることを分かち合うために、パンを裂いて共に食しました。自分たちだけ助かろうとした船員 を排除することなく、愛の共同体として受け入れ合ったのです(35~37節)。そこにいた全ての人が、同じ苦難を経験した者として、愛の連帯感の中に導か れたのです。
このように、神の御業は、日々に御言葉を聴き従いつつ歩む信仰者を通して展開されていくのです(23章11節、27章23~24節)。

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。

どうしても伝えられなければならない福音(2014.6.22)

宣教 :宇井英樹 宣教師
聖書 :ルカ4章43節

貧しさや弱さ、社会的不公平や抑圧の中にいる人々、またそのような状況により壊れた家族、愛を経験していない人々に間近に接するなか、福音宣教とは何かについて考えさせられる。
人は「神のかたち」に造られた(創世記1章27節、口語訳聖書)。しかし、それが壊れている。その回復こそが、福音宣教の本質である。福音が良い知らせであるのは、神の国の訪れ、つまり神の義と神の愛の支配が、生活の中に具現化されていくからである。

1.誘惑 (ルカ4章1~12節)
(1)パンをあげる:一時的に物質的な必要に応える。「与える側、受ける側が定着する時、人間としての尊厳が失われる」(本田哲郎)。
(2)政治的な権威:軍事力、経済、科学などの人間的な支配力、影響力で変えようとする。「富や権力によっては人も社会をも救済できない」(本田哲郎)
(3)神をコントロールしようとする:自分たちの思い描く理想を立てあげようとする。そして、神の愛、あわれみ、助けを疑う。

2.神の国の具現
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)。
悔い改めとは、神の視点で物事を見る。神の国のパースペクティブ(展望)で生きること。福音宣教は神によってなされる。神と心一つにする人々を通して進められる。
一般的な人々と強い立場の人々は、悔い改めの実として、公義を行うようになる、神の国と神の義を求めて生きるようになる(ルカ3章10~14節)。
神は、神の国を具体化するために、弱い立場にいる人々、貧しい人々を用いる(イザヤ26章6節)。彼らも悔い改めが必要。彼らに意識の転換が起ことなし に、彼らの「神のかたち」は回復されない。彼らが自分たちを神の視点で見ることなしに、彼らの社会のなかに神の国は具現化されない。(ルカ14章34節) 「世が腐ってきた、光が失われたと、クリスチャンが文句を言うときは、自分たちが世の光、地の塩としての責任があることに目覚めるべき時」(ジョン・ス トット)。

福音はどうしても伝えられなければならない。貧しい人々、弱い人々にも、一般の人々にも、強い立場の人々にも。福音のみが、神のかたちを回復し、そこに神の国をもたらすのである。

この喜びを地の果てまで(2014.6.18)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ24章44~53節

キリストは、十字架に死んで3日目に復活され、その後40日目に昇天されました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)とありま す。これは、キリストが弟子たちと一緒におられた地上の生活とは異なる在り方になられて、いつでも、どこでも私たちと共にいてくださるということです(マ タイ28章20節b)。

1.それで十分なのか  50~53節
「ルカによる福音書」を締めくくる記述は、この福音書の続編とも言うべき「使徒言行録」に受け継がれています。ここには、弟子たちがキリストから祝福を受け、「大喜び」で神殿の境内で神をほめたたえていた幸いが語られています。
キリストは、「祝福しながら」共にいてくださるお方です。弟子たちは、そのキリストのご支配にあることを覚えて伏し拝みました。そして、故郷のガリラヤ ではなく、いかなる困難が待ち受けていても「大喜びでエルサレムに帰り」、いかなる時にも「神をたたえていた」のです。
ここに、キリストの福音の喜びに与かっている人々の姿があります。では、これでもう十分であり、この上何も必要ないのでしょうか。

2.なお必要を  47~49節
キリストは、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節、使徒言行録1章3~5節)と命令されています。ペンテコステの日に、聖霊が降り、聖霊に満たされる必要があったのです(使徒言行録2章1~4節)。
確かに、弟子たちは、神をほめたたえていましたが、その信仰は個人的な領域にとどまっていたものでした。神の計画は、彼らが教会を形成し、地の果てまで 福音を宣べ伝えるキリストの証人となることでした。その意味で、信仰が個人の幸せにとどまっていてはならないのです。そのためには、困難をも乗り越えさせ る聖霊の力が必要だったのです(使徒言行録1章8節)。
私たちは、救いの喜びを与えられています。しかし、ルカによる福音書で終わらずに、今もなお、使徒言行録に生きる必要があるのです。

主のもとへ立ち返れ(2014.6.15)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: ホセア14章2~10節 ルカ15章22~24節

父親と子どもとの関係は、結構難しい。その関係が崩れてしまったとき、その回復には非常に時間がかかる。ルカによる福音書15章に登場する弟息子とその父 との関係もそうだった。父の財産を生前に受け取り、自分の村から都会へ出た息子は、父を裏切ったという思いを持ちながら生きていただろう。父は自分に対し て憤っていると考えたに違いない。息子は落ちぶれて、間違いに気付いたが、父のもとにすぐに帰ろうとはしなかった。父は自分など受け入れてくれない、と 思っていたからだ。この息子と同じような状況にあったのが、ホセアの預言のことばを聞いたイスラエルである。そして、彼らにとっての父とは、イスラエルの 神であった。

1.もう憤ってはいない(ホセア14章5~9節)
神はイスラエルになんと語るのだろうか。「わたしの怒りは彼らを離れさった」(5節)。神がもう憤ってはいない。裏切り、背いたイスラエルを神はいや す。憤りではなく、喜んで愛し、関わる。神の癒しは、「露のようにわたしはイスラエルに臨」(6節)む。真夏の夜に降りる露によって、雨など一滴も降らな い地にも命を保持されるように、主はイスラエルの命を回復し、その美を回復する。そこは麗しい楽園となる(6~8節)。命が回復されたイスラエルが神に求 める時、神は彼らに答え、彼らを見守る(9節)。イスラエルは確かに裏切ったが、彼らへの神の憤りは終わっている。

2. 生きるために帰る(14章2~4節)
息子が父のところに帰るように、イスラエルは自分の神である主のもとへ帰れ、と預言者は招いている(2節)。もうゆるされているから、他の神のもとでは なく、自分が帰るべき神のもとに帰るのだ。元気になったから帰るのではない。つまずき、倒れているそのままで帰るのだ(2節)。彼らが神のもとに帰ったな ら、神の癒しがそこで現実となる。ゆるされ、よいものが与えられ(3節)、新しい生活、神のあわれみに満ちた生活がそこで始まる(4節)。
放蕩息子は、勇気を出して父の家に帰った。父は憤ってはいなかった。むしろ、走り寄り、最大の祝いの場を準備した(ルカ15章22~24節)。イエスが 十字架に掛かられたゆえに、父である神はもう憤ってはいない。むしろ、最大の祝宴を準備して待っていて待って折られる。父である神のもとに帰る父親にも、 子どもにも、神は新しい生涯、新しい関係を備えておられる。

天からの光(2014.6.1)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録26章1~23節

使徒言行録には、パウロの回心の証しが3回記されています(9章、22章、26章)。その回心は、決して人間の思索の積み重ねによって生まれたのではあり ません。「天からの光」によるのであり(13節)、パウロは「天から示されたことに背かず」、「光を語り告げる」ことに専念しました(19節、23節)。

1.人生を変革する  1~15節
回心するまでのパウロは、律法を重んじ、律法に生きることが何よりも第一のことと考えていましたので、復活のキリストを信じる信仰によって生きている 人々の群れがあることを受け入れることができませんでした(9節)。そこで、彼らを壊滅させることに熱心になったのでした(11節)。キリストは、そんな パウロの行く手を「天からの光」で遮られたのでした(12~13節)。
キリストは、キリスト者の群れの傍らに身を置いて一つになっておられるので、「なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけられ、「わたしは、あなたが迫害し ているイエスである」と語りかけて、パウロを捕らえられたのでした(14~15節)。このように、キリストは、様々な状況にある一人一人に出会ってくだ さって、その全生涯を変革されるのです。

2.周囲に波及する  16~23節
キリストは、人生を変革されたパウロに、「起き上がれ、自分の足で立て」と命じ、キリストの証人として遣わされました(16~17節)。それは、キリス トを信じる人々を大いなる救いの祝福に与らせるために、福音を宣べ伝えるためでした(18節)。かくして、パウロは天から示されたことに忠実で、福音の光 を語り告げたことにより、それが周囲に波及して行ったのです(19~23節)。
このようにキリストは、キリスト者がその言動と存在をもってキリストを証しするように遣わされるのです。私たちは、いかなるところであっても、その置か れたそこを足場として、復活のキリストの証人となるのです。そこにおいて、福音の光が放たれ、波及して行くのです。

最高の愛の犠牲(2014.5.15)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ17章15~19節

主イエスのこの時の祈りの中には(ヨハネ17章)、父なる神が主イエスを通して、弟子たちに、そして今も変わらずに私たちに与えてくださったものが語られ ています。それには、「永遠の命」(2節)があり、「(御)言葉」(8節)があり、「栄光」(22節)があります。さらに、次のようなものを与えていてく ださっています。

1.特別な身分を  15節、19節
私たちは、イエスを救い主として信じて行こうと願いつつも、不安や疑いが生じることがあります。そこで、主イエスは、神の愛から離れることのないように 私たちを守ってくださいます(11節、15節)。さらに、主イエスは、私たちが神のものとされ、「真理によってささげられた者となる」という特別な身分を 与えてくださるのです(19節b)。
実は、このことのために、主イエスは、「わたしは自分自身をささげます」(19節a)と言われました。すなわち、罪のないお方が十字架に架かられるとい う、全く理屈に合わないことを一身に負ってくださった、最高の愛、最高の決意、最高の犠牲を表してくださったのです。このようにして、神のものとされると いう特別な身分に与ると、自分の心の現実とはっきりと向き合うことができるようになります。

2.新たにされた使命を 16~18節
そして私たちは、この世から逃避して生きるのではなく、この世の現実の中で生活しながら、神のものとされた者として生きていくのです。それを主イエス は、「彼らも世に属していないのです」(16節)、そして「わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)と言わたのです。
ここで礼拝を共にした私たちは、聖書の御言葉によって整えていただき(17節)、新たにされた使命をもって、職場に、学校に、家庭にと赴いて行きます。私 たちは、御自身を献げ尽くしてくださった主イエスの最高の愛の犠牲に立って、日々新たにされた歩みをさせていただきましょう。