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礼拝メッセージ

美しい人生(2015.3.15)

宣教題  「美しい人生」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章1~3節 ローマ8章32節

人は故郷を失うと、自分の原点また心の居場所まで失うことがあります。さて、神を信じる者は、約束されている「天の故郷」を目指して生きています(ヘブライ11章13~16節)。そのためには、マグダラのマリアのように、主イエスとの出会いが必要です。美しい人生を送るために、人は必ずしも偉大でなくてもよいのです。

1.主イエスと一緒に生きる喜びを経験する  ルカ8章1~3節a
自分で自分をコントロールできずにいたマリアは、主イエスのもとに連れられてきて、病を癒していただきました。以来、主イエスの一行と行動を共にしています。後に主イエスが十字架にお架かりになられた時には、「イエスの十字架のそばに」立っていました(ヨハネ19章25節)。このように十字架のそばに身を置くことによって、そこから流れ出る慰めと恵みを受け取ったのです。しかも、復活された主イエスのお声を聞くことにより、主イエスと一緒に生きることを喜びとしたのです(同20章11~18節)。
ところで、神は私たちの側に立っていてくださり(ローマ8章31節)、罪と死の恐れの中にある私たちの身代わりとして「御子をさえ惜しまずに死に渡され」ました(同32節a)。ですから、私たち一人一人は、主イエスを十字架に架けた私の罪を覚えて、ただ十字架の主イエスを仰ぐのみです。

2.主イエスの後を歩み続ける  ルカ8章3節b
マリアは、主イエスへの感謝をもって、その後ろからついて行き、一行に奉仕しました。その歩みは、主イエスによって用いられました。
御子をさえ惜しまないで与え尽くしてくださった愛の神は、最後まで一緒に歩んでくださり、神が私たちに必要とされるものを備えて、「すべてのものをわたしたちに」与えてくださいます(ローマ8章32節b)。ですから、私たちは、主イエスを信頼して、天の故郷を目指して歩み続けるのです。そして、今日一日が最後の日であるかのように覚えつつ、主イエスと一緒に歩むのです。

心の底から(2015.3.8)

宣教題  「心の底から」               宣教 池口留都伝道師
聖 書  エフェソ4章17節~5章5節
私たちの生き方、行動、私たち自身を決めるのは、私たちの心の中にあるものです。そして心の中にあるものが、私たちの刈り取る結果を決めます。

1. 古い人と、その心の中
異邦人と書かれている、古い人は、愚かな考えを頼りにし、歩みます。よいものを見ても、それをよいものだと分からず、悪いものを見ても、それをよいものであるかのように思ってしまいます。知性が暗くなっているからです。その原因は、心の中にある、無知とかたくなさです。その結果、態度は無神経、無感覚、鈍感で冷淡、まひした状態になり、行動は醜く、生き方は絶望的です。これは、生まれながらの人の姿、この世の姿そのもので、キリストと神との国を受け継ぐことはできません(5章5節)。

2. 心の底から新たにしてくださる、イエス様
しかし、あなたがたはそのように歩んではいけない、と主は言われます。なぜなら、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだからです(4章21節)。私たちを自由にする、イエス様にある真理。それは、「…古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け…」(4章22~24節)です。私たちは、イエス様の十字架のもとに古い人を脱ぎ捨て、復活されたイエス様によって、新品の、新しい人格、つまり、イエス様の心、人柄、かおり、性質を、着せていただけるのです。表面ではなく、心の底から、私たちを変えてくださるのです。イエス様のように。

3. 新たにされた心で、愛する
心の底から新たにされた歩みは、愛によって歩む生き方です(5章5節)。私たちの心、感情の対処の仕方、言葉、働く意味…すべてが、キリストのからだを建て上げるための有益な賜物として、新たにされ、用いられます。そこにある関係は、「実に、神の国がここにある」…という、私たちの関係です。
心の底から新たにされ続け、愛による歩みをさせていただきましょう。

恵みにふさわしい生活(2015.3.1)

宣教題  「恵みにふさわしい生活」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章13~16節
 
これまで主の恵みを力説してきたペトロは、それを深く味わい(詩編34編9節参照)、その上にしっかりと立ち、それにふさわしい歩みをするようにと勧めています。主の恵みをひたすら待ち望むことと、聖なる者となることとは、私たちの立ち位置です。

1.ひたすら待ち望みなさい  13節
 信仰者は、終わりの時の大いなる救いの完成を(5~9節)、いささかも疑わずにひたすら待ち望んでいます。その望みの根拠は、キリストの十字架と復活に現された過去にあります(21節)。
 この望みが、日々の信仰の歩みにおいて生き生きと現されるために、「いつでも心を引き締め、身を慎んで」いることが求められます。このように語るペトロは、自分を制することのできなかった苦い経験を思い起こしたことでしょう(ルカ22章54~62節)。私たちは、望みの根拠であるキリストの救いを疑わせたり、曖昧にさせたり、またその恵みの豊さを見失わせたり、その恵みに正しく応答することを鈍らせたりすることのないように、ひたすらに恵みの主キリストに望みを置き続けることが大切なのです。

2.聖なる者となりなさい  14~16節
 信仰者は、救いの恵みに与って「聖なる者」とされたのですから、これまでの自分勝手な思いや生き方でなく、「聖なる者」であり続けることが求められます。聖なる者とは、恵みによって神のものとされたことであり、その在り方や生き方の「生活のすべての面で」神のものとして生きる者なのです。
 そのためには、恵みに対し「無知であったころの欲望」に支配されるのではなく、聖なるキリストに倣って「従順な子」として形づくられていくことが大切です。その従順さは、神の御心が最上、最善、最高のものとして受け入れる在り方また生き方となって現れます。私たちは、従順な子として御言葉に聴き従い続けることによって、聖なる者とされたことを軽んじない歩みをしていくのです。

神の出番(2015.2.22)

宣教題  「神の出番」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

ここに登場する中風の人とその仲間たちは、自分たちの力ではなすすべもない課題に対して神の出番を望み、さらに彼ら自身が気づいていない最大の問題の解決に対して、権威ある神の出番の必要を促がされました。

1.主イエスにひたすら依り頼むときに
不自由を覚えていた「中風の人」は、お会いしたいと願っていた主イエスの所に彼の仲間たち四人によって運ばれてきました。彼らは、無礼を承知で、乱暴とも思える方法を用いました。
それに対して主イエスは、中風の人に憐れみの心を抱かれたというよりは、必死になって彼を主イエスの前につり下ろした仲間たちの信仰を見られました(5節)。彼らは、愛に促がされて、主イエスにひたすら依り頼んだのです。この信仰が、神の救いへの導きとなったのです。
このように、一人の人が主イエスに出会うために、その人をめぐる人々の愛と信仰と祈りのあることを知るのです。

2.罪を赦す主イエスの権威に触れるときに
主イエスは、仲間たちの信仰を見られて、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。主イエスは、このことを通して因果応報を教えておられるのではありません。どんな病気をしていようと健康であろうと、どんなに苦難にあろうと幸せな生活を送っていようと、誰もが主イエスによって罪を赦していただくことなしに、神との交わりを回復していただき、本当に健やかに生きることはできないのです。
私たちは、主イエスが十字架上でご自身の命を投げ出して告げてくださった罪の赦しを聴きつつ(ルカ23章34節)、自分の罪の深さに気づくのです。そして、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)との権威ある御言葉に立って、魂も心も体も自由にされて自分の足で歩み始めるのです。

涙の出会い(2015.2.15)

宣教題  「涙の出会い」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ7章36~50節

ここに登場する一人の女性は、主イエスの足を自分の涙でぬらしています(38節、44節)。主イエスは、彼女を泣くに任せられ、その涙を受け入れ、喜んでおられます。この女性が主イエスに出会ったような出会い方で、私たちも主イエスに出会っていくことが大切です。

1.主によって罪の赦しをいただいた出会い
ファリサイ派のシモンが、主イエスを自分の家に招いて食事を共にするという交わりをしています。そこに「罪深い女」が入って来て、最大限の愛の業をしたのです(38節)。その行為は、悔い改める心をもった主イエスへの心からの信頼と、繰り返し尊敬の念を表し続けるものでした(45節)。主イエスがこの女性をどう見ておられたかは、そのたとえ話を通して明らかにされています(40~43節)。
主イエスによって罪が赦されたことを自覚した者は、惜しみない愛を表すようになるのです(47~48節)。主イエスに対する信仰が、私たちの罪を赦し、神に近づき、神と共に歩む新しい人生をつくるのです(50節)。

2.主を愛することを知った出会い
主イエスを迎え入れたシモンには、罪深い女がいただいていた信仰と真実さが欠けていました。その心は冷めたものでした(39節)。それゆえに、主イエスは、彼に多く愛することを語られ、また問いかけられたのです(40~43節)。
主イエスは、誰かを多く赦し、誰かを少なく赦しておられるのではありません。どんなに多く赦していただいているかを身にしみて分かっているか、そのように自覚していないかだけなのです。この罪が赦された喜びと感謝の思いをもって、愛の業に励むのです(44~47節)。
実に愛の源泉は、イエス・キリストを主と信じ、その十字架の贖いによって罪の赦しをいただいたところにあるのです。

神のわざを記憶し続ける(2015.2.8)

宣教題  「神のわざを記憶し続ける」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア4章1~24節、2テモテ2章8節

毎週、なぜ礼拝に来るのだろうか。祈るため、きよくされるため、安心のため、単なる習慣?。イエス・キリストを思うため(2テモテ2章8節)に集められている。では、具体的に何を思い出すのだろうか。

1. ヨルダン川を渡る
イスラエルの民がヨルダン川を渡り、十二の石の記念碑を建てることがヨシュア4章には記されている。ヨルダン川を渡る途中で、主はヨシュアに、十二人の男が十二の石を担ぎ、それを宿営の地に据えることを命令した(4章1~9節)。祭司たちは民が渡る間、ずっとヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた(4章10節)。ヨルダン川の東岸に嗣業の地を得た部族も、民の先頭に立って川を渡り(4章11~13節)、この出来事を通してヨシュアは大いなる者とされた(4章14節)。そして、主の命に従って祭司たちが川から上がった時、川は元の状態に戻った(4章15~18節)。ヨシュアは、対岸のギルガルに宿営した民に十二の石の記念碑の意味を語った(4章19~24節)。

2. 十二の石の記念碑の意味
なぜ、このような記念碑を作ったのだろうか。ヨルダン川の流れが主の箱の前でせき止められたことを記念するためである(4章7節)。しかし、単なる自然現象が起こったのではない。これは、イスラエルの神が全イスラエルのためになされたわざである。そのような神のわざを記憶し続けるために、出エジプトの時と同じようにご自身の民を自由にし、民を回復する神に目を向けるために記念碑は作られた(4章23節)。そして、主のわざを記念し、それを記憶し続ける時、世代が変わっても同じように働かれる神を民は知り、恐れ敬いつつそのような神に従うようになる。そして、そのような神の民の姿を見た世界中の人々は、川や海を自由に動かすことのできる神とその力を知るようになる(4章24節)。記憶し続ける民は、宣教のわざに与るようになる。
礼拝は、十二の石の記念碑を見ることに比べられよう。イエス・キリストの十字架を思い、神が私たちを自由にし、回復したことを思い出す。そのような素晴らしい神を恐れ敬い、この方に従って行こうと改めて心に決める。そして、私たちの姿を見て、世界中がこの神の素晴らしさを知るようになる。礼拝という恵みは、私たちを世界へと宣教に遣わす。

伝えられる恵み(2015.2.1)

宣教題  「伝えられる恵み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章9~12節

ペトロが証言するように、私たちは、福音を告げ知らせていただき、今も生きておられる主イエスを信じ受け入れ、主イエスと共に生きるのです。それほどに、主イエスは私たちに近い存在となってくださったお方なのです。ペトロは、そのことを生き生きと語り伝えています。

1.福音が伝えられる
「福音をあなたがたに告げ知らせた」(12節)との御言葉が響いています。それは、「この救いは」(10節)とあるように、ただ神の恵みによる「魂の救い」(9節)であり、今現に受けているもので、「終わりの時に」(5節)完成される救いの福音です。
なお、この魂の救いとは、単に心の救いを述べているだけではなく、主イエスを信じる人の生き方が大きく変えられる救いです。その人のうちに、愛と信頼と喜びが満ち溢れ、試練をも神への全き信頼へと純粋なものに変えていくのです(6~8節)。
この福音が今日まで告げ知らされてきたことは、大きな恵みでした。ですから、この魂を救う福音が、もっと早く、多くの人々に伝えられることが、私たちの切実な願いなのです。

2.聖霊に導かれた人を通して伝えられる
ペトロは、救い主がまだ訪れていなかった旧約時代を振り返っています。預言者たちは、やがて訪れる救いの時を待ち望みつつ、それが誰を意味し、どういう時を指しているかを探求し、注意深く調べたのでした。そして、彼らの「内におられるキリストの霊」によって、キリストの十字架の苦難と復活の希望の光を示してきたのです(10~11節)。しかも彼らは、それが自分たちの時代に実現するのではなく、やがてその福音によって救いにあずかる人々のために仕えているとの自覚を持っていました(12節a)。
福音は、今に至るまで、聖霊に導かれて福音を告げ知らせる人々によって届けられてきました。その恵みは、天使たちも見たいと切望しているのです(12節b)。そして、この福音を告げ知らせることは、私たちにも託されています。そのためにも、私たちは、まず福音の恵みをしっかり味わい、大切に見つめ直すことが必要なのです。

仰ぎ見て生きる(2015.1.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~23節
「ヨハネによる福音書」は、真実な神の愛が響き渡っています。その神を仰ぎ見ることが信じることであり、そこから神と私たちとが響き合う間がらとしての人生がつくられていくのです。それは、どのように生きる日々となり、人生となるのでしょうか。

1. 主体的に生きる
復活された主イエスは、ペトロにこれからの生涯の生き方について話されました。ペトロが、仲間のヨハネを見て、「主よ、この人はどうなのでしょうか」と尋ねました。それに対して、主イエスは「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われました(20~22節)。それは、人がどう見ているか、何と言っているかでなく、神がどう見ておられるか、何といっておられるかに関心を持つようにということです。
このように、主イエスは、ご自身を仰ぎ見て、主体的に生きることを一人一人に勧められるのです。主イエスは、一人一人の魂のために十字架にお架かりくださり、救いの道を開いてくださることによって愛を現してくださいました。人を見てがっかりしたり、逆に威張ったりして振り回されるのではなくて、一人一人を神は愛してくださり、期待しておられることを知って歩み出したいものです。

2. 使命に生きる
ペトロは、主イエスの十字架を前にして裏切ったことを悩み、心痛み悔いていました。主イエスは、ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけられたとき、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えていますが、それを三度も繰り返されています(15~17節)。主イエスを信じることは、変わらずに愛し抜いてくださる主イエスを愛することなのです。
続いて、主イエスは、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託し、「わたしに従いなさい」と招かれたのです(15~19節)。このようにして、主イエスはペトロを信頼され、ペトロもまた主イエスを信頼したのです。
十字架で身代わりの死を遂げられ、復活された主イエスを仰ぎ見るならば、私たちの生き方は変わってくるのです。

試練の中での喜び(2015.1.18)

宣教題  「試練の中での喜び」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章6~9節
聖書は、試練は逃れるべきものではなく、積極的に受けとめ、それを生かし、そこから希望を見つめていくことを勧めています。ペトロは、試練を経験している人たちと喜びにおいて一つとなり、喜びに支えられていることを語っています(6節、8節)。その喜びは、どこから生まれてくるのでしょうか。
1.神の栄光にあずからせていただいているから  6~7節
ペトロは、神からの生き生きとした希望、天に蓄えられている財産、準備されている救いの恵みの偉大さに圧倒されています(3~5節)。彼は、それにあずかっている喜びを人々と分かち合いたいと願っています(6節a)。
一方、ペトロは、必然としての、今しばらく間の、色々な試練という現実にも人々の目を向けさせています(6節b)。その試練は、決して不必要であり、無駄であるというものではありません。なぜなら、その試練のただ中にあって、信仰が試されることによって純粋な信仰が残こり、キリストの再臨のときに神の栄光にあずからせていただけるからです(7節)。
試練と悩みは切り離すことができません。しかし、キリストご自身が私たちの悩みを共感してくださり、私たちの傍らで支えていてくださるのです(ヘブライ4章15節)。
2. 魂の救いを受けているから  8~9節
このようにペトロは、キリストが再臨されるときに神の栄光にあずからせていただけるという救いが、いかに確かなものであるかを知っていました。さらにペトロは、キリストを直接に見ていない人々が彼と同じようにキリストの確かな救いにあずかって、キリストを愛し、キリストを信じ、歓喜していることに感動しています(8節)。それは、彼らがキリストによる全人格的な救いをいただいていたからであって、彼らの信仰の実りによるのです(9節)。
このように、試練の中にあっても、キリストに自分の全存在をゆだねることによって歓喜が生まれてきます。私たちの教会は、試練の中で、喜びに満ちあふれた力ある信仰者の群れであらせていただきましょう。

約束の地の保証(2015.1.11)

宣教題  「約束の地の保証」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア3章1~17節  エフェソ1章13~14節

約束の地に数多くの民が住んでいることをイスラエルの民は知っていた。だからこそ、彼らを完全に追い払うことができるのか、不安であった。しかし、彼らの神は、約束の地の保証を与えられる。

1. エジプトを打ち破られた神があなたがたの間におられる
ヨシュアたちがヨルダン川の岸に着く時から遡ること40年前、主は、エジプトの葦の海を乾いた地に変え、イスラエルの民にそこを渡らせた。そして、同じ海の水を神は用いて、追い迫るエジプトの軍隊を完全に打ち破られた。イスラエルの民たちの真ん中で、レビ人の祭司たちが担いでいた契約の箱は(3:6)、出エジプトの際にモーセと共にいた主が、ヨシュアやイスラエルの民と今、共におられることの証ししている(3:7)。そして、この方が、驚くべきことを行われる(3:5)。

2. 水がせき止められることが約束の地での勝利の保証である
ヨシュアは、契約の箱を担ぐ祭司たちに対して、ヨルダン川の水際に行き、川の中で立ち止まるように命じた(3:8)。祭司たちが契約の箱を担いで民の先頭を進み、ヨルダン川にその足を浸けた時、川の水は壁のように立ち止まった。そして、民たちは干上がった川床を渡ることができた(3:14−17)。この出来事こそが、約束の地に住む諸国民を主が完全に追い払うことの保証である(3:10−13)。40年前、大国エジプトとその強力な軍隊を水をもって打ち破った方が、確かに今、イスラエルの民と共にいることをこの出来事は証言しているからである。どのような強大な敵もおそれるに足らない。

3. 新天新地における復活のいのちの保証
私たちクリスチャンには、死に打ち勝つ復活のいのちの保証が与えられている。イエスの十字架と復活を通して神が死に打ち勝たれたことを福音が私たちに告げているからであり、イエスを死人のうちから復活させた聖霊が私たちに信仰を与えて下さっているからである。つまり、私たちの復活の約束の証印であり、新天新地が私たちに与えられることの保証は、私たち教会に与えられている聖霊である(エフェソ1:13−14)。そのような保証が与えられているのだから、激流に一歩踏み出す勇気の源である方に信頼しつつ、死の恐れに惑わされることなく、歩み続けていこう。

真実な愛を生きる(2015.1.4)

宣教題  「真実な愛を生きる」          宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ヨハネ15章13~15節

私たちは、キリストの捨て身の愛の中におり、聖霊によって神の愛を注いでいただいて愛に生きる者とされました(1ヨハネ3章16節)。そのような私たちが歩む信仰の道は、主の弟子たちが歩んだように、「友のために自分の命を捨てる」というキリストの道を歩むことです(ヨハネ15章13節)。

1.真実な友を持つ
私たちは、貧・病・争・死といった人生の問題の受けとめ方を大きく変えてしまうほどの感化を与える友を持っているか、と問われています。また、他者に対してどれだけ友であり得るかとも問われています。誰もが、ご自分の命を捨ててくださったキリストの中に真実な友の姿を見い出し、キリストを真実な友として受けて入れ、信じ、信頼することが必要です。
私たちは、キリストを真実な友として歩む中にも人生の問題を抱えるでしょう。しかし、その意味合いは変わってきます。それらが、キリストの愛から私たちを引き離すことはなく、私たちを愛してくださるキリストのゆえに勝利を収めているからです(ローマ8章35~37節)。ですから、キリストの愛の勝利に委ねていけるのです。

2.真実な友と共に生きる
キリストを真実な友とした者は、そのキリストと共に生きるのです。キリストが私たちを友としてくださるのですから、私たちもキリストのお心、思い、願いに生きる友とさせていただくのです(ヨハネ15章14~15節)。
そして、キリストと共に他者の友になるのです。何よりも「福音に共にあずかる」友となるのです(1コリント9章23節)。共に福音にあずかるとは、いい所だけをいただくのではなくて、キリストが捨て身の愛をもって命を投げ出してくださったのですから、自分だけではなく友の救いのために命を投げ出すことなのです。
新しいこの年に、私たちは、一人の友の救いのために、喜んで執り成しの祈りをし、奉仕をし、献げて仕えていきましょう。真実な友と共に生きる教会であれ!

キリストの愛を知って(2015.1.1)

宣教題  「キリストの愛を知って」   宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ヨハネ3章16節

私たちの神は、一つの所にその愛を集中させ、独り子をお与えくださいました(ヨハネ3章16節)。一所懸命に神が私たちを愛してくださったのです。今年の教会標語である「福音にあずかる」とは、キリストの愛の現れである救いを体験的に知ることです(1ヨハネ3章16節)。

1.キリストの捨て身の愛の中にいる 
キリストの捨て身の愛は、夫婦の愛、親子の愛、教友の愛、友人の愛といった互いの愛とは比べることはできないほどの犠牲を伴うものでした。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」とあるように、そのご降誕から地上の生涯の全てにわたって命を投げ出し、十字架の死にまで至ってくださいました。
私たちは、キリストの愛の中に安んじて生きることに、不安になることがあります。自分の救いを実際の神の御業よりも小さく考えてしまうからです。私たちは、自分が知っているよりも、もっと大きく救われているというキリストの愛を体験的に知って、その愛の中に生きる者とさせていただきましょう(1ヨハネ3章19~20節)。

2.聖霊によって神の愛が注がれている 
神の愛は、キリストの十字架と復活という救いの御業によって実現され、聖霊によって私たち一人ひとりに具体的に注がれています(ローマ5章5節)。
この聖霊によって神の愛が注がれ続けているなら、愛が愛を生む力となって言動に表れてきます。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」との豊かな永遠の命に生きる者とされるのです。このことが、互いに愛し合い(1ヨハネ3章11節)、兄弟を愛する(同14節)という教会の交わりの中で培われているかと問われています。さらに、教会の枠を越えて、家庭における夫が、妻が、子どもが、両親が兄弟となってキリストの愛の対象となっているかと問われています。
私たちは、その日常の日々の生活の中において、キリストの愛を体験的に知ることが大切なのです。

天地が共にほめたたえる(2014.12.28)

宣教題 「天地が共にほめたたえる」    宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 詩編148編、ルカ2章20節

教会暦によると、クリスマスを祝う季節はクリスマスから公現節(1月6日)である。年越しでクリスマスを祝う方法のひとつに主を賛美することがある。事実、ルカによる降誕の記事は、天の賛美(2:13-14)からはじまり、地での羊飼いたちの賛美(2:20)で終わっている。これは決して偶然ではない。

1. 天地のあらゆるものが賛美する
詩編148編においては、まず、神の領域である天の被造物が主を賛美するように招かれている(2~4節)。続いて、人が住む領域である地に置かれている被造物が賛美へと招かれている(7~12節)。最後に招かれているのが人である(11~12節)。だから、この世界で賛美しているのは人だけではない。天地の被造物がすべて主を賛美している。そして、それに声を合わせないでいるのが、実は人である。
天地の被造物が賛美するのは、主がことばをもってすべてを創造し、秩序が崩れることなく堅く支え、そこを正しく治めているからであり(5~6節)、被造物が他でもなく主によって治められることを喜んで受け入れているからである(13節)。つまり、賛美するとは、単に「主は素晴らしい」と歌うことではない。イスラエルの神である創造者を主として受け入れ、それによって自分のいのちを再構成することである。この方以上に大切な存在はないと信じて、生かされつつ、生きていくことである。

2. 共に賛美することを可能とする方
天地の被造物が主を共に賛美することを乱しているのは人である。人がこの賛美に加わることができるように、主はイスラエルを選ばれた(14節)。そして、これを実現したのは、イエスである。だからこそ、天と地が、イエスの誕生の場面で共に賛美をし、詩編148編が現実となり始めたのだ。天地を結びつけ(エフェソ1章10節)、人にいのちをあたえ、共に賛美ができるようにしてくださった方への信頼から、本当の意味での賛美、いのちの再構成は始まる。
人を含めた天地が共に賛美できるようにされた方は、分断されているあらゆるもの(ユダヤ人と異邦人、夫婦、親子、奴隷と主人)が共に賛美できるように願っておられる。イエスを信頼する私たちには、イエスのわざをこの地上で行う使命が与えられている。家族の年を終えるに当たって、この一年の自らの歩みをふり返りつつ、ビジョンと勇気をいただこうではないか。

大いなる慰めの日(2014.12.21)

題   :「大いなる慰めの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ2章25~35節

私たちは、クリスマスを祝う人から、クリスマスの主イエス・キリストとその出来事に感謝する人になりたいものです。
ここに、大いなる慰めを経験したシメオンが登場します。彼の頭上には神がおられ、そのくちびるには賛美があり、その腕には幼子イエスがおられ、その目は天国を仰いでいます。

1.慰めを待ち望む
人の慰めの言葉は、寂しさや悲しみを抱いている人を励まし、勇気づけ、希望を与えます。そうすることによって、その人々と同じ位置にたって、一緒に悲しみを担うのです。しかし、その慰めの言葉には限界があります。
シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望」(25節)んでいました。この慰めは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に」(37節)とあるように、救いを意味しています。慰めの最も根源的なものは救いであり、救いなしに本当の慰めは与えられません(イザヤ40章1~2節参照)。そして、この本当の慰めは、救い主イエス・キリストを受け入れることでしか得られません。私たちは、イスラエルの真の慰めを待ち望んだシメオンのように、静かに真の慰めを待ち望む者となりましょう。

2.慰め主にお会いする
慰めを持っているということと、慰め主にお会いすることとは別のようです。イスラエルの人々は、救い主がダビデの子孫から現れるという期待をもって、その来臨を待望していました。ところが、イエスが降誕された時、多くの人々は受け入れませんでした(ヨハネ1章9~11節)。
そうした中にあって、シメオンがイエスにお会いできて、救い主がもたらされる慰めが分かったのには理由がありました。彼には、神を畏れ敬う信仰とその生き方や生活との間に食い違いがなかったからです(25節)。そして、聖霊によって神が語られることを受け取り、聖霊の導きを日常生活のただ中で受け取っていたからです(26~27節)。このようにして、救い主に出会い、この方の十字架の死によって救いが成し遂げられることを見い出したのです(30~35節)。
このように慰め主にお会いした者は、日々の生活の中で、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)と証しし続けていくのです。

大いなる喜びの日(2014.12.14)

題   :「大いなる喜びの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ2章8~20節

神が人となられた出来事がクリスマスです。それは、イエス・キリストが飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子として誕生されたことによって、神の方から人に近づいてくださったのです。このことを通して、人は神との出会いを経験できるようになったのです。

1.「恐れ」を伴なう出会い
クリスマスの出来事に登場する人々は、何らかの形で不安や恐れを持っていました(ルカ1章12節、1章30節、マタイ1章20節、2章3節)。ここに登場する羊飼いたちも「非常に恐れた」(9節)のでした。これらの不安や恐れは、個人的な事情というよりも、神ご自身が彼らに近づき、彼らの生そのものに介入されたことにより生じたものでした。それは、恐怖といった恐れであったり、畏敬の念の恐れであったりしました。こうした不安や恐れは、神が私たちに近づかれて語りかけられ、それに対して信仰の決断を促されるなど、何らかの形で神が私たちと関わりを持たれる時に覚えるものです。
イエス・キリストは、私たちの人生の生き方を中断させ、変更を求められます。そうすることによって、私たちの人生の主が私たち自身ではなくて、イエス・キリストであることを明らかにされるのです。

2.「喜び」に変えられる出会い
恐れを抱いた羊飼いに「大きな喜び」が告げられました(10~11節)。しかも、聞かされただけでなく、救い主を見せていただいた喜びでした(12節)。これは、不安や恐れを抱くすべての人に与えられる喜びです。このようにして、初めは恐れを引き起こす神の接近が、実はすべての人にとっての大きな喜びの接近であったことを明らかにされたのです。
羊飼いたちは、「今日」救い主がお生まれになった出来事を見るために、急いで出かけ、探し当て、他の人にも知らせています(15~17節)。こうして、彼らは救い主を受け入れる喜びを経験したのでした(20節)。「今日」との招きは、ザアカイも(ルカ19章9節)、十字架上の犯罪人も(同23章43節)経験しました。同じ喜びは、私たち一人一人が「今日」イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時に経験するのです。クリスマスこそ、この決断をする新しい出発の時なのです。