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礼拝メッセージ

安心しなさい(2015.6.28)

宣教題  「安心しなさい」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ14章22~33節

主イエスとペトロとの出会いは、ペトロが主イエスに出会いに行く前に、主イエスがペトロに出会いに来てくださっています。その出会いは、繰り返され、深められていっています。この出会いの恵みは、主イエスと私たち一人一人の出会いおいても同じなのです。

1. 主イエスが来てくださるから  25節
ペトロたちは、夜の暗闇に舟を漕ぎ出しましたが、波と逆風に悩まされています。主イエスは舟に乗っておられなかったのです。この時、ペトロたちが主イエスに助けを求めることはなく、主イエスの方から彼らの所に行かれて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られ、ご自身を現しなさいました。
人が恐れを経験するものに、次のようなことがあります。迷信に脅えるということです。人の顔色や評判を恐れることです(箴言29章25~26節参照)。良心の呵責からくる恐れです。そして、死の恐れです(ヘブライ9章27節参照)。十字架に死んで復活された主イエスは、今も「恐れることはない」と解放の道を開いていてくださいます。恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配されているところに安心があるのです。

2. 主イエスのところに行くことによって  28節
「行かせてください」と願うペトロに対して、「来なさい」と主イエスは招かれています。しかし、再度ペトロは、風を見て怖くなり、逆巻く水を見て恐れています。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロを主イエスは諭し、同舟されました。こうして、ペトロたちは、繰り返し主イエスの招きを受ける中から、「本当に、あなたは神の子です」と信仰を言い表わしました。
私たちは、恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配される中で、信仰を言い表わすのです。共に居り続けてくださる主イエスのもとに居り続けるのです。主イエスの方から招いていてくださる確かさに、私たちは身を置くのです。

礼拝の一大原則(2015.6.21)

宣教題  「礼拝の一大原則」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア7章1~15節、ローマ1章25節

1. 主の憤り
エリコの攻略(6章)を終えたイスラエルの民は、荒野を上ってアイへと侵攻を進めようとした。大きな町を滅ぼした安心からだろうか、全軍が出撃する必要などないと彼らは考えた。そして、三千の兵で攻め上った所、イスラエルは敗北し、敵に打ち殺される者もあった(2~5節)。この現実に直面したイスラエルは嘆き、ヨシュアは神に祈った(6~9節)。しかし、この敗北はイスラエルに対する主の憤りの現れであった(1節)。この憤りは、イスラエルの民の油断と見事なまでの敗北に現れていた。

2. 滅ぼし尽くしてささるべきものへの不誠実
敗北の原因は、滅ぼし尽くして献げるべきものに対して、イスラエルが不誠実であったことである(1節, 11~12節)。本来は火で焼き尽くされるべきもの(6章24節)が主から盗み取られ、アカンが所持していた(22節)。彼は、主が命じた契約を破り(11節)、むしろ、「見て、欲しくなって」それを取った(21節)。彼は、主よりも、自らの欲望をより重んじてしまったのだ。皮肉にも、滅ぼし尽くすべきものを自分のものとしたアカンが、その全所有物が火で焼かれ(25節)、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。そして、滅ぼし尽くされるべきものが滅ぼされて初めて、イスラエルの民は、アイと戦い、勝利を得ることができた(8章)。

3. 礼拝の一大原則
礼拝とは、私たちにとって何が一番大切なのかを表す行為である。アカンは、上着と銀と金の延べ板を主よりも大切なのとした。エリコの分捕りもの、すなわち滅ぼし尽くすべきものを礼拝したのだ。そして、滅ぼし尽くすべきものを礼拝したアカンは、滅ぼし尽くすべきものとなってしまった。造り主の替わりに、造られたものを礼拝し、そのようになって滅んでいくのか。それとも、造り主を礼拝し、その結果、神のかたちにある、本物の人間になっていくのか(ローマ1章25節)。私たちは問われている。
神でないものを礼拝することが偶像崇拝である。そして、偶像崇拝の罪の本当の恐ろしさは、最もなりたくないと思っている自分になってしまうことである。だからこそ、毎週の礼拝を通して、造り主を礼拝する者として整えていただき、与えられた使命を全うできる、本物の人間にならせていただこうではないか。

驚くべき光の中に(2015.6.14)

宣教題  「驚くべき光の中に」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章9~10節

この手紙が執筆された当時は、迫害などによる混乱が教会にも影響をあたえかねない状況にありました。そこでペトロは、周囲の状況に左右されるのではなく、周囲に福音の感化を与え、「かつて」の「暗闇の中から」、「驚くべき光の中へと招き入れ」られている「今」を自覚して生きるように勧めているのです。

1.神のものとされている
神の憐れみを受けた神の民とは、主イエスの十字架と復活に表された救いに与った信仰者の群れのことです。それは、ちょうど旧約の出エジプトという神の救いに与った神の民たちに通じるものです(出エジプト記19章5~6節、申命記7章6~8節)。主イエスの贖いの目的は、神の所有とするためでした。そして、そのように神に選ばれ、祭司としての使命に生きるところの聖なる者とされるためでした。
私たちは、神に背を向けて罪と死との暗闇の望みのないところから、主イエスの愛のゆえに選ばれ、神のものとされて神を礼拝するものとなり、神に仕え、他者の救いのために執り成す使命を託されています。このような驚くべき光の中に招き入れられているのですから、その歩みを最後まで全うさせていただくのです。

2.神の救いを証しする
神の所有の民とされた聖徒とその群れである教会は、神の救いの御業を広く伝えるために、神のものとされたのです。その伝える福音の内容は、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」にほかなりません。
私たちは、主イエスによって神のものとされた新しい立場にどれだけ感謝し、世に対する証しの使命を果たしているかを問い直してみることが必要です。そのためには、普段から祈りを通して神との交わりをさせていただき、神の語りかけを聴き、神御自身とその御心を知ることから始めるのです。そうする中から、驚くべき主イエスの御業を証しさせていただくことができ、救いを届けることができるのです。

起き上がるキリスト(2015.6.7)

宣教題  「起き上がるキリスト」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章22~25節

眠ることと目覚めることとは、私たちの人生の重要なことがらです。それを主なる神が支えていてくださるとの自覚は大切なことです(詩編3編6節参照)。主イエスと弟子たちが一緒に舟に乗っておられたとき、途中突風が起こり、今にも舟は沈みそうになりましたが、主イエスは熟睡しておられました。弟子たちは、どうだったでしょうか。

1.主イエスに向かって叫ぶ
弟子たちは、突然の突風に不安を抱きました。それだけではなく、主イエスが眠ってしまわれて何もしてくださらないことに、より一層の不安がつのりました。弟子たちは、「私たちはおぼれて死にそうです」(新改訳聖書)と信仰のない叫びをしました。その叫びに答えられた主イエスが、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったのです。このように信仰を失った者の叫びに、主イエスは耳を傾けてくださるのです。
天地の創造主であり、自然界を治められる主なる神は、苦難に際して助けを求めて叫ぶとお答えくださいます(詩編107編28~31節参照)。この主イエスを体験的に知る者は幸いです。そして、このお方に叫び求めることができる人は幸いです。

2.主イエスを深く信頼する
起き上がってくださった主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と弟子たちの信仰を目覚めさせようとされました。それに対して弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろうか。命じれば風も波も従うではないか」と語り合うほどに、主イエスを深く信頼するよう導かれました。
主イエスと共に舟に乗る姿は、聖徒たちの人生と彼らが集められた教会が歩んでいく象徴的な姿と受けとめられています。その歩みの途上において、多くの荒波や問題の中を通されますが、絶えず共におられる主イエスから目を離さないで信頼する歩みを形づくっていくことが大切です。主イエスに対する深い信頼は、主イエスが持たれている静けさの支配をいただく歩みとなるのです。

開かれた道(2015.5.31)

宣教題  「開かれた道」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ4章18~22節

主イエスが開かれた救いへの道は、狭い道です(マタイ7章13~14節参照)。それは、自分一人しか通れない狭さであり、神の前に一人になることを意味していると言えるでしょう。主イエスは、私たち一人一人に対して、ご自身が開かれた道について来ることを求めておられます。

1.主イエスに招かれている道
主イエスは、ペトロたちをご覧になり、お呼びになりました。彼らが、この招きを受けたときの詳しい状況や経緯や理由について何も語られていません。しかも、礼拝で説教を聞いていたとき、祈っていたときといったような場面ではなくて、主イエスは彼らがその職業に就いていた日常生活のただ中において招かれています。
主イエスは、十字架を通り、墓を通り、墓を打ち破って、永遠の命への道を、私たちのために歩き抜いてくださいました。そして、一人一人の全てをご存知の上で、ご自身を賭けたこの恵みをもって、私たちの現実に踏み込んで来られるのです。私たちは、この招きにあずかっているのです。

2.主イエスについて行く道
ペトロたちは、「わたしについて来なさい」と先立たれる主イエスの背を見つめるようにして歩み出しました。彼らは、主の招きに応えたのです。これが、主イエスを信じることであり、従うことなのです。
さらに、主イエスの招きは、ペトロたちの人生を新たにし、新たな使命を与えて遣わされるものでした。彼らに対する使命は、「人間をとる漁師にしよう」と語りかけられたもので、主イエスはその後も繰り返し語り、それを更新し続けられました。
主イエスは、ご自身について来る一人一人を各々の持ち場に遣わされます。それは、人生の最後に至るまで更新し続けられます。私たちは、主イエスの招きに応え、新たにされて、各々の生活の場へと遣わされて行くのです。

霊的代謝を盛んに(2015.5.24)

宣教題  「霊的代謝を盛んに」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章1~8節

キリスト者生活の醍醐味は、「主が恵み深い方だということを味わい」知り続けることです(3節)。キリストの味は、生きた命の味で(1章3節、23節、2章4節)、「霊的な」ものです(2章2節、5節)。聖書がいう霊的とは、聖霊の導きを喜びとして、聖霊に従っていることであり、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

1.聖徒が霊的に成長する  1~3節
私たちの信仰が成長し、最終的な救いに至る秘訣の一つは、霊的な新陳代謝を盛んにすることです。
自分に捨てるべきものがあるにもかかわらず、それを平気でそのままにしながら成長しようと願うのは無理な相談です。霊的な健康を損なう捨てるべきものが自分にあることを気づいたなら、聖霊の力をいただいて捨てることです。
そして、それに代えて新しく慕い求める者は、「霊の乳」すなわち魂を育てる御言葉の糧です。そうすることによって、聖霊の導きの中で物事を考え、対応するという霊的習慣を身につけ、祈り、御言葉に親しみ、聖徒の交わりを大切にするのです。

2.聖徒の群れが霊的に造り上げられる  4~8節
キリストは十字架に捨てられ、復活され、栄光の座に着かれて「尊い、生きた石」となられました。このお方が、「霊的な家」である教会の命を支える土台となられ、このキリストを信じて結び合わされた聖徒を「生きた石」として教会を造り上げるために用いられるのです。そのようにされている聖徒は、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して神に献げ」るのです。すなわち、礼拝を献げ、広くは日常の生活が神に献げられた歩みとして造り変えられ続けていくのです。
私たちは、キリストにどう向き合い、どう関わっていくかを問われています。「選ばれた尊いかなめ石」であるキリストにより頼むならば、いかなる危機の中にあっても、「決して失望することがない」のです。そこには聖霊の支えがあるからです(4章14節)。

主の戦い方(2015.5.17)

宣教題  「主の戦い方」             宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア6章1~21節 マタイ5章16節

エリコを攻略しようとするイスラエルの民にとっての正しい戦い方とはどのようなものだろうか。

1.ヨシュアの命令に民が従う(6章1節, 6~21節)
城門を閉ざしていたエリコとの戦い方について、ヨシュアは民に命令を下した。一日目、祭司たちには契約の箱を担ぐ者と、角笛を吹き鳴らす先導者を備えることを、民にはその後を進んで町の周りを回るのとともに、主の箱の前を武装した兵士たちが進むように命じた(6~7節)。さらに、鬨の声を上げるように命じるまではことばを発しないようにとも命じた(10節)。彼らは忠実にその命を六日目まで守った(12~14節)。七日目には、七度同じように町を回った後、祭司が角笛を吹く際に、鬨の声を上げ、町のものをことごとく滅ぼし尽くすように命じた(15~19節)。民はヨシュアの命令に従った(20~25節)。契約の箱を担いで、城壁の周りを回るという奇妙な行動を求める命令に、民は最後まで従った。

2.ヨシュアを介して伝えられた主の命令に民が従う(6章3~5節)
ところが、ヨシュアの命令は、彼自身のものではない。主から受けた命令を民に伝えたに過ぎない(3~5節)。ヨシュア自身も、主の命令に従うひとりの人である。つまり、エリコでイスラエルが行ったのは、主の命令を一言たがわずに守る、上意下達という戦争の基本的な戦い方であった。

3. すでに勝利をとられている主の戦い方(6章2節)
主の命令に完璧に従ったから、イスラエルはエリコを攻略することができたか。そうではない。なぜならば、これは主の戦いであるからだ。まず、祭司たちが担いだ契約の箱は、主ご自身の臨在そのものである。この箱が町の周りを回ることを通して、主はエリコを着々と攻略された。さらに、主は「わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」(2節、新改訳)と語っている。主は戦いの前にすでに勝利をとっておられる。民は、主の勝利を目に見えるかたちにしたにすぎない。不完全で、失敗の可能性のあるイスラエルを通して、主はご自身の戦いを戦われる。これこそが、主が選ばれた戦い方である。
主の戦い方は、ヨシュアの時代も、今も、変わらない。主はすでに勝利をとっておられる。すでにご自身の光を輝かしておられる。そして、弟子たちという弱く、だめな人間を通して、主の光をこの世界で輝かそうと願っておられる(マタイ5章16節)。私たちも主の戦い方に加わらせていただこうではないか。

御言葉によるつながり(2015.5.10)

宣教題  「御言葉によるつながり」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章16~21節

私たちは、御言葉によって足元を照らしていただいて歩む生活をしています(詩編119編105節)。ですから、日々に祈りつつ、一歩一歩御言葉の光の中を踏み出すのです。
私たちは、主なる神に信頼して、忍耐しつつ実を結ぶ生活に招かれています(8章15節)。そのためには、受けた御言葉をどうしていけばよいでしょうか。

1.受けた御言葉を語る 16~18節
「ともし火」のたとえをもって語られていることは、御言葉をどう聞くかということを表しています。これは、聞き洩らさないで一所懸命に聞くというよりむしろ、御言葉を聞いたなら、それを他の人が分かるように語り聞かせるようにと勧めているのです。
すなわち、聞かされて御言葉が、一人一人の個人の中で照り輝くだけではなく、語る人と同じ渇き・求め・救い・必要・望みを持つ他の人に光となり命となるのです。主イエスは、それこそが、御言葉を聞いたということであると語られたのです。「主よ。私はともし火がついているのですが、心と生活の隅っこに追いやっています。どうか、部屋の真ん中に置けますように」と祈ろうではありませんか。
2.受けた御言葉に生きる 19~21節
群衆が主イエスの話される種を蒔く人のたとえやともし火のたとえに夢中になって聞いていたときに、母マリアと兄弟たちがイエスに会いたいとやって来ました。そのとき、主イエスは、彼らが肉親であることには違いないが、「神の言葉を聞いて行なう人」こそが真の母であり兄弟であることを明らかにされました。母マリアは、すでにそのような人として備えられていました(ルカ1章26~38節)。
血筋によるつながりは、この世における最高のつながりですが、御言葉による霊的つながりは、永遠のつながりと言えましょう。御言葉による霊的つながりこそが、親子や夫婦の家族関係の基本であり、家族のなかにある様々な課題や問題の解決は、贖い主イエスとの交わりを通してなされるのです。

日々成長していくために(2015.5.3)

宣教題  「日々成長していくために」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章22~2章3節

私たちは、主イエスを信じて「新たに生まれた」ときから(1章23節)、救いの完成に至る全過程において、霊的に成長していくのです(2章2節)。そのために、「霊の乳を慕い求めなさい」と勧められています。私たちが、日々に備えるものは何でしょうか。

1.主の御言葉を慕い求める 
 罪に死んでいた者が新たに生まれさせられたのは、人の力や業によるのではなく、「神の変わることのない生きた言葉」すなわち「福音」によるのです(1章23節、25節)。私たちが、主の御言葉である福音を聞いて、キリストの救いに信仰によって結び合わされたときに、私たちのうちにも新生の御業がなされるのです。
 さらに、主の御言葉は、人に命を与え、その命を養い育て、永遠の救いに与らせるのです(2章2節)。そのためには、人との関係を壊す結果をうむ「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」をきっぱりと思いっきり捨て去り、偽りのない「霊の乳」である主の御言葉を一生涯慕い求め続けるのです。私たちは、日々に生きた御言葉経験をいただきつつ歩むのです(詩編119編130節)。

2.主の恵みを味わい知る 
 ペトロは、主の御言葉を慕い求める以上に、もっと広い意味での霊的必要を慕い求めることを勧めています。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」(2章3節)と語るように、御言葉を語られた主ご自身とその恵みを味わうことです。
 それによって、具体的な歩みが造られていきます(1章22節)。すなわち、福音の真理を信じ受け入れることによって、神のものとされ、聖なる神の御前に生きる者となるのです。それはまた、他者へと関心を向かわせ、真実な兄弟愛を抱かせ、清い心をもって互いに愛し合う生き方に集中していくのです。
 主イエスは、日々変わることのないお方です。主が恵み深い方であることを覚えて、日々に成長する者とならせていただきましょう(詩編34編9節)。

恵みの仕組み(2015.4.26)

宣教題  「恵みの仕組み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ1章41~42節

 ここでは、シモンという人物が主イエスと出会ったときに、どう変えられたかということが語られています。主イエスが言われた御言葉は、神の恵みを彷彿とさせ、私たちにも同じことがなされることを知るのです。

1.あなたはシモンである 
 主イエスの鋭くも恵みに満ちた視線がシモンに注がれています。その視線は、弱い者の中に強い者を、不義なる者の中に義を、死んだ者の中に命を見るものでした。同じ主イエスの視線が、今この瞬間においても、私たちの上に注がれています。
 そして、主イエスは開口一番、「あなたはヨハネの子シモンである」と言われました。このように主イエスは、シモンのみか私たちが持っている罪深さや弱さや醜さという人間の正体を診断されるのです。ここから、恵みの御業がなされていくのです。

2.あなたをペトロと呼ぶことにする 
 続く主イエスの御言葉は、「ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」でした。シモンにとっては全く思いもよらない言葉でした。しかし、主イエスが大きな憐れみをもって、「岩と呼ぶことにする」すなわち「ペトロにする」と言われたからには、
そうしていただくために、彼が主イエスを信じ、信頼し、自分の何もかも主イエスにかけてみようと受け入れたのです。
 同じように私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死と復活のゆえに、それを信じる信仰によって新しく造り変えられる恵みに生きることができるのです。

3.あなたはシモン・ペトロである 
 この後、「シモン・ペトロ」と呼ばれ続けたのは、シモンでありながら、主イエスによってペトロとされ続けていることへの感謝があったからです。ここに主の恵みの仕組みがあります。主イエスは、このことを忘れないで歩む者を、恵みの器として用いてくださるのです。

御言葉に生きる(2015.4.19)

宣教題  「御言葉に生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章4~15節

 主イエスは、人がふさごうとする耳を押し開くかのように、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で叫ばれています。実を結ぶように聞くことを求めておられるからです。そのために、どのように御言葉に生きるかを語られています。

1.確信と忍耐をもって 
 ここに語られているたとえは、御言葉すなわち福音が語られたとき、聞く者の心の状態によって、実を結ぶかどうかが明らかになるということです。聞いた御言葉に対して無関心になったり、始めは喜んで御言葉を受け入れても試練に遭うとすぐに御言葉から離れてしまったり、思い煩いや富みや快楽といったものによって御言葉が塞がれてしまっては、いずれも実を結ぶことはできません。しかし、主なる神は、人の心がどのような状態であっても、御言葉を語り続けてくださる大きな憐れみをお持ちです。
 まず、実を結ぶには、聞いた御言葉を「よく守り」、御言葉をしっかりと握りしめることです。御言葉を離さないで、心にいつも蓄えておくことです。そのためには、「忍耐」することが大切です。御言葉が私たちの心の中でしっかりと保たれて実を結んでいくのに必要なことは、変わることのなく御言葉にとどまり続ける忍耐です。

2.善い心をもって 
 私たちは、御言葉に対して確信を持ち、忍耐を働かせて、歯をくいしばって保ち続けるのではありません。「立派な善い心で御言葉を聞」くことによってこそ、実が結ばれていくのです。神が私たちに対して善を行ってくださるという信仰が、「善い心」なのです(ローマ8章28節参照)。神は恵みによって、私たちの心に御言葉を素直に受け入れやすいように耕してくださるので、神ご自身と御言葉に対する信頼の心を持たせていただけるのです。
私たちは、神が最善になされることを信頼して、御言葉に生きることにより実を結ばせていただくのです。

理不尽な戦闘準備(2015.4.12)

宣教題  「理不尽な戦闘準備」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア5章1~12節 エフェソ6章10~13節

 約束の地に入ったイスラエルの民たちはどのようにして来たるべき戦闘の準備をしたのか。

1. 理不尽な戦闘準備
 エジプトを脱出し、四十年の荒野の放浪の中で死に絶えた者たちは戦士であったが、カナンの地で戦おうとしている彼らの息子たちは、荒野で生まれた者であり、戦士ではなかった(4-6)。彼らは、戦いの備えをすることなく、むしろ、主の言葉に従い、自らに割礼を施した(2-3)。さらに、彼らは過越祭を祝い、酵母を入れないパンの祭を守った(10-11)。彼らの行動は、戦闘の準備としては明らかに理不尽である。彼らは勝つことを放棄したのだろうか。

2. 割礼と過越
 割礼は、創世記において主がイスラエルの先祖であるアブラハムに命じられたものである(創世記17章)。主は、アブラハムに数多くの子孫を与え、さらにはカナンの地を与えると約束をされた。自分たちは荒野で生まれた新しい世代の民だが、父たち同様に主の約束を継承していることを、民は割礼を通して確認した。次に、過越は、エジプトに奴隷となっているイスラエルの民を主が解放したことを思い起こす祭儀である(出エジプト12章)。これまでと同じように、主はこれからも救い出し続けてくださり、すべての必要を与えて、養って下さることがこの祭儀を通して思い起こされる。主がなしてくださったわざによって、これまでも、そしてこれからもイスラエルは存在することを、割礼と過越を通してイスラエルは確認した。

3. 理に適った戦闘準備
 だから、割礼も過越も、実は理に適った戦闘準備である。主がイスラエルの真ん中を歩まれているから、彼らはヨルダンを渡ることができた。カナンの王たちが恐れていたのは、イスラエルではなく、彼らのために戦われる主であった(1)。つまり、主が戦われるならば、イスラエルの勝利は確定している。これからの戦いも主の戦いであると確認することこそ、彼らにとっての最善の戦闘準備であったのだ。
 キリスト者の生涯は、「暗やみの世界の支配者」との戦いの日々である(エフェソ6:12)。この戦いに必要なのは、「神の武具」(11)、すなわち「神が戦われる」武具を身に付けること。礼拝は、これが私たちの戦いではなく、主の戦いであることを思い起こさせ、この武具を身に付けさせてくれる。主に戦っていただく、つまり、「主の依り頼む」(10)ならば、勝利は確定している。

恵みの再発見(2015.4.5)

宣教題  「恵みの再発見」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章17~21節
 
十字架に死んで復活された主イエスの救いの御業が、繰り返し語られています(1章1~12節、18~21節)。ペトロは、「知ってのとおり」と語ることにより、信仰者が救いと信仰の歩みに対する自覚を失うことないように、主イエスの恵みの再発見をするようにと勧めています。

1.こんなに大きく救われている  18~21節
 神は、「終わりの時」に主イエスによって救いの御業を具体的に始められました(20節)。その目的は、罪に捕らわれ、死に脅かされ、滅びを前にしてなすすべもなく、虚しい生き方をしていた私たちを、十字架の尊い血によって贖うためでした(18~19節)。そして、主イエスの復活に基づく希望をもたらすためでした(21節)。そのようにして、永遠の滅びから、永遠の救いに与らせてくださったのです。こんなに大きな神の恵みによって、こんなにも大きく救われていることを想起せざるをえません。
 ですから、私たちは、日常の平凡な歩みにおいても、困難な状況や激しい試練に見舞われるときであっても、主イエスの恵みのご支配を覚えて歩むのです。

2.こんなに偉大な「父」を知っている  17節
 このような神の恵みに基づく歩みは、神を畏れて生活するようになります。それには、神をどのようなお方として理解しているか、ということに関わりがあります。
「父」なる神は、主イエスによる救いのゆえに、信じる者を惜しみなく赦し、もはや罪を問われず、さばかないと宣言してくださいました。私たちは、その神を「父」と呼び、神の子とされた人格的な交わりに生かされています。愛と憐れみに満ちた神は、ご自分との交わりから一人たりとも失いたくないために、威厳と権威をもって導かれます。ですから、私たちは、それにふさわしい父なる神への畏敬の念をもった歩みをするという自覚が必要なのです。この恵みを噛みしめつつ、信仰の歩みを形づくらせていただきましょう。

十字架の勝利(2015.3.29)

宣教題  「十字架の勝利」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マルコ10章32~45節

十字架は愛のしるしだとよく言われる。しかし、人々の面前でいじめられ、辱められ、見せしめにされ、苦しめられる十字架刑のどこが愛だろうか。その十字架でイエスは勝利を取られた、と言って、だれが信じるだろうか。

1. 敗北のしるし?
イエスと一緒に旅をしていたその弟子たちも、十字架を勝利のしるしだとは信じていなかった。むしろ、これからエルサレムへの上ろうとしているイエスは、そこを占拠している異邦人であるローマ軍を追いだし、王として即位すると信じていた。そのようにしてイエスが栄光を受けるとき、自分たちもイエスと一緒に支配者となり、敵どもに権力を振るおうと考えていた。だから、イエスの予告(33~34節)など理解できなかった。十字架に架けられるメシアなど、敗北者にほかならなかったからだ。

2. だれと、どのようにして戦うのか
イエスと弟子たちと、何が違っていたのだろうか。弟子たちにとって敵は、エルサレムを占拠している異邦人ローマであった。しかし、イエスは、人々を突き動かしているサタン、罪そのものと戦うべきだと考えていた。そして、背後で牛耳っている罪とイエスは戦った。弟子たちは、敵を、敵が用いてきた武力で打ち破ろうとした。しかし、イエスは、敵が想像できない方法、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(45節)ことを通して戦った。そして、罪の最も醜い姿を十字架で世界にさらし、悪すべてを自らの身に負われた。

3. 十字架の勝利に生きる
イエスは十字架で、罪と戦い、確かに打ち勝たれた。三日の後の復活(34節)こそ、十字架の勝利の証拠である。イエスは、弟子たちには想像できない方法で、世界を支配している最大の敵である罪に打ち勝ち、王となられ、世界の秩序をひっくり返した。力ある者ではなく、仕える人やすべての人のしもべを通して、神はこの世界でご自身のわざを進めておられることが明らかになった。
十字架の勝利で世界が変わった、などと信じることのできない世界に私たちは生きている。しかし、イエスを信じるとは、見るだけでは信じることのできないこの世界の変化を受け入れることである。そして、イエスに従うとは、十字架の道、神のみわざの道を選び続けることである。神は、十字架を負う者たちを通して、世界を変え続けてくださっている。

あなたがたのなかにおられる方(2015.3.22)

宣教題  「あなたがたのなかにおられる方」         宣教 小菅 剛師
聖 書  ヨハネ1章19~34節

荒れ野で叫ぶ声としてのヨハネは、人々の中に立っておられるイエスを指し示している。人々は、知らない、気づかないでいた。ヨハネは、人々に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と語っている。ヨハネは自分も消え、人々も消えて、一人立っておられた方だけに人々の目を向けさせた預言者である。では、このイエスを、ヨハネはどのように証しをしたのか。

1.イエスを世の罪を取り除く神の小羊と証しした  29節
ヨハネは、人々の罪を鋭く指摘した。人々は、彼のもとに来て罪を悔い改めて洗礼を受けていた。それが救いではない。ヨハネは祭司の子として儀式宗教、小羊が献げられて罪が赦され、神を礼拝するレビ記教育を受けた人であった。しかし、ヨハネは旧約の生けにえ宗教で人の罪は取り除かれないことを知っていた。
神の子であられるイエスは、神の小羊として十字架で献げられたことにより、人は神に赦されることを明らかにされた。御子イエスの血がすべての罪からきよめるのである(1ヨハネ1章9節)。イエスは、罪を告白するそこに立っておられる。

2.イエスは聖霊のバプテスマを授ける方である 33節
イエスは、罪の力をきよめる聖霊の満たしを与えてくださる方であると証言されている。生まれ変わったクリスチャンは犯した罪で苦しむが、それ以上に内側から起こってくる罪の傾向性に苦しむ。自我であり、古き肉の性質と呼ばれるものである。パウロは、欲する善は行なわないで憎む悪を行なうと言って、自分の内に宿る罪の力に嘆いた。その厄介な内なる自我をキリストは共に十字架につけてくださり、聖霊が支配して罪の力から解放してくださる。
聖霊のバプテスマは、明け渡しに続く聖霊の支配であり、イエスの賜物である。イエスは、弟子たちを世に遣わすに「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と言われた。罪からの解放と宣教の力は、聖霊のバプテスマによるのである。