メニュー 閉じる

礼拝メッセージ

すべての約束の実現(2015.10.11)

宣教題  「すべての約束の実現」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア23章1~16節 エフェソ6章10~12節

クリスチャンの戦いは、究極的には神の武具によって悪魔の策略に立ち向かうものである(エフェソ6章11~12)。しかし、人間が戦えそうもない相手、そして目の見えない相手とどのように戦うのだろうか。

1. すべての戦いは主の戦い
約束の地の征服のための戦いを終え、年老いたヨシュアは、その生涯を振り返りつつ、これまでの戦いは、すべてイスラエルの神である主が戦われたものであると述べた。イスラエル自身もそのことを見てきた(ヨシュア23章3節)。イスラエルは戦ってきたが、それはあくまでも主の戦いであった。わたしたちの悪魔の策略との戦いも、主の戦いである。

2. 過去の戦いから将来の戦いへ
約束の地での戦いはまだ続く。くじによって各部族に分け与えられた土地を獲得する戦いに向かう必要がある(4節)。主は、過去もそうであったように、これからも戦われると約束してくださっている(5節)。これまでヨシュア記で起こってきたことがこれからも続くからこそ、一人で千人を追い払うことができる(10節)。ところが、主の戦いであっても、イスラエルには、モーセの教えの書に従い、他の神に仕えず、主ののみ信頼することが求められている(6~8節)。彼らがこのようには歩まないとき(12節)、この土地から彼ら自身が滅び失せる危険性があるである(13節)。事実、士師記を見ると、約束の地でイスラエルは危機に瀕していた。

3. すべての約束は守られる
なぜ主はイスラエルの行動に基づいてご自身の戦いを戦われるのだろうか。それは、主がイスラエルを、そして私たちをこの世界におけるご自身のパートナーと見なしておられるからである。そして、パートナーである者たちと共に戦うために主が用意されたのが、主の約束である。主が約束された通り、すべてのよいことはこれまで行われてきたし(15節)、契約を破るならば約束通り、パートナーには滅びがおとずれる(16節)。すべての約束を守られる主だから、パートナーである私たちがどのように応答するかに応じて、主はご自身の戦いを進められる。
だから、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くされ、主に忠実でありつづけるように招かれている(エフェソ6章10節)。主は約束のすべてを守ってくださる方であるからこそ、主の約束を知り、それに忠実に生きていこうではないか。

あなたがた自身で(2015.10.4)

宣教題  「あなたがた自身で」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章10~17節

主イエスは、群衆を深い憐れみの御心をもって恵みの御業をなされました(11節、マルコ6章34節)。続いて主イエスは弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)と恵みの御業に加わるように招かれ、彼らを用いられました。それは、主イエスの憐れみと豊かな恵みに生かされている者が、共通して経験することです。

1.主イエスは仕える力を供給される
主イエスは、弟子たちが五千人の人たちに食べ物を与えることができないことを知っておられ、ご自身がなさろうとされることを腹の中にしまっておいて、弟子たちを試されました(ヨハネ6章5~9節)。このようにして主イエスは弟子たちに、自分たちでは何もできない者であることを、とことん教えようとされたのです。そして、主イエスが五千人に食べ物を供給しようとされていることを明らかにされたのです。
この出来事を通して、主イエスは、福音を伝え福音に仕える者をどのように用いられるかを教えておられます。それは、私たちの無力さを分からせていただき、主イエスの恵みによって砕かれ、恵みの器にさせていただくことなのです。恵みの供給と力は、主イエスからくるのです。

2.主イエスはささげるものを用いられる
何と主イエスは弟子に、「それをここに持って来なさい」と言われました(マタイ14章18節)。そして、五つのパンと二匹の魚は主イエスの手に渡され、祈りのうちに祝福されて、弟子たちを通して配られたのです。
私たちに託されているものが、どんなに小さなものであっても、それが主イエスに渡されると何倍にも祝福され、その結果私たちを通して用いられるのです。ですから、私たちは、主イエスが「あなたがた自身で」と言われるときに、その力は主イエスから来ることを知って、「わたしをささげます」と主イエスにお返しすることが求められているのです。

新しく始める人生(2015.9.27)

宣教題  「新しく始める人生」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~19節

復活された主イエスがペトロに三度、「わたしを愛しているか」と尋ねられたことに対して、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。ペトロが主イエスとの変わらない愛の出会いを繰り返すなかから、新しく始める人生を歩み出しています。

1.愛を呼び起こされる人生
主イエスとペトロの出会いは、神の愛の出会いでした。神の愛は、行動を伴なうもので、主イエスの十字架と復活に集約されています(ヨハネ3章16節)。ところでペトロは、主イエスのためならば命を捨てるとまで豪語したにもかかわらず、主イエスの十字架のご受難を前に、三度主イエスを否認しました。そのペトロが、復活された主イエスに自分の罪をお詫びしたとか、改めて主イエスに従っていくとの決意を表明したとは証言されていません。それどころか、主イエスに出会った以前の生活に戻っています。
しかし、復活された主イエスは、ご自身の方からペトロと出会ってくださり、彼の人生のやり直しをさせなさいました。救われるとは、主イエスがもう一度やり直させてくださり、限りない愛を呼び起こしてくださることなのです。

2.愛の証しに招かれる人生
愛を呼びこされた主イエスは、いきなり「わたしに従いなさい」と言われたのではありません。三度も愛の応答を求められています。しかも、その愛の確かさは、ペトロ自身のなかに確信があるというのではなく、「あなたがご存じです」と、どこまでも主イエスに対する信頼に満ちた愛の告白をしています。そして、彼の心を支え、愛する者とされたのです。
信仰とは、主イエスを愛することであり、愛する他者に対して心を砕き、労することです。しかも主イエスのお心に生きることを喜びとすることです(18~19節)。このような愛の生き方に招かれていることに、真剣に応答したいものです。

民をひとつにするもの(2015.9.20)

宣教題  「民をひとつにするもの」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア22章21~29節 エフェソ4章4~6節
クリスチャンは孤独ではない。神の恵みによって、神の民という「ひとつの民」に入れられた者である。しかし、そのことを頻繁に忘れてしまう。

1. 分裂の危機
神の約束された地の土地の分配が終わったので、ヨルダン東岸を所有地とする二部族半の人々は帰還した(9節)。途上、彼らはヨルダン川沿いにひとつの大きな祭壇を築いた(10節)。これを聞いたイスラエルの人々は、驚き、軍を送ろうとした。しかし、まず、祭司ピネハスらをこの二部族半の所有地へと送り(11~14節)、シロ以外にささげものをする祭壇を築くことは主への背信行為であると訴えさせた(15~21節)。一方で、二部族半の人々は、川の東西に別れていても将来にわたってイスラエルがひとつの民であることの証拠とするためにこの祭壇を建てたと語り、ピネハスらを納得させた(22~31節)。

2. 忘れる、思い出す
十二の部族からなるイスラエルが「ひとつの民」であることは、すべてのイスラエルの人々にとって重要であった。ピネハスは、二部族半が主への背信行為を行うとすべての民の上に主の怒りが下ると考えていた(18節)。二部族半の人々は、自分の子どもたちが「ひとつの神の民に属してはいない」と言われ、神の民から離れ、信仰を失うことを恐れていた(24~25節)。自分たちが「ひとつの民であること」を、相手側が忘れるのではないか、その結果、自分たちが主の祝福から離されるのではないか、と懸念した。そこで、「ひとつの民である」ことを忘れないように、ピネハスは失敗した歴史を思い出すように語り(17節, 20節)、二部族半の人々は主という同じ神を礼拝していることを祭壇を通して思い出すように求めた(28節)。
クリスチャンも、自分たちが神の恵みによってひとつの民とされていることをすぐに忘れてしまう。だから、現状がどうであろうとも自分たちはひとつの民であることを常に思い出す必要がある。そのために、聖書が物語る歴史、人の失敗と神のあわれみの歴史を思い出し、希望を共有すること(エフェソ4章4節)、そして、すべてのものの父である神を共に礼拝する、ひとつのバプテスマによって生み出された民であることを思い出し続けること(4章5~6節)が大切である。毎年、毎週、毎日、礼拝を通して、「ひとつの民であること」を心に刻みつけ続けることが私たちの霊的な歩みを強くする。

生涯のテーマ(2015.9.12)

宣教題  「生涯のテーマ」               宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章18~25節

私たちがキリスト者になるということには、二つの召しがあります。キリストのものとされたという納得と歓喜、キリストのようにならせていただけるという希望と渇きです。それは、キリストを模範として、その足跡に続く歩みをさせていただくという(21節)、卒業のない、生涯のテーマです。

1.キリストのすばらしさにとらえられ続ける  22~25節
ペトロは、いつも弱い立場の人たちに寄り添い、彼らがキリスト者として祝福された生き方をするように勧めています。そして、彼らが、キリストの救いのすばらしい恵みを証しし、その恵みが押し広げられることを促がしています。
そのためには、キリストの苦しみを仰ぎ見続ける者となることです。なぜなら、キリストの十字架の身代わりの死のゆえに(22~23節)、私たちは罪に対して死に、神の前に真っすぐに生きる者とされたからです。そのお受けくださった傷によって、いやされたからです(24節)。しかも、神のもとを離れてさ迷っていた者を、キリストは「牧者」また「監督者」となって、ご自分のもとへと引き戻してくださったからです(25節)。
私たちは、この恵みの主キリストに立ち帰り続けていることが大切です。

2.キリストを模範とし続けて生きる  18~21節
弱い立場にある人たちが、人に仕えることにおいて従順であることと、不当な苦しみを受けても耐え忍び、与えられた使命を全うすることが「神の御心に適う」恵みであると伝えています(18~20節)。彼らが「召されたのはこのためだったのです」(21節)。
そのためには、正しくお裁きになる神にお任せになられたキリストを模範として、キリストの苦しみの足跡に従うことが大切です。私たちが日々に経験するあらゆることがらを全てご存知の神に任せることにより、信仰の領域を大いに広げていただくのです。
私たちは、任せる信仰を働かせる機会を逃さないようにしたいものです。人が一番若い日は、年齢の若さによるのではなく、キリストのように生きる日々です。

キリストと共に労する(2015.9.6)

宣教題  「キリストと共に労する」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章1~6節

私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぎ、受け取り直し、再発見していくことが大切です。クリスチャンは、主イエスの弟子であるということもその一つです。主イエスの弟子は、いつも主イエスと一緒にいて(8章1節)、福音のために主イエスと共に労する者です。

1. 福音を委託されているから
主イエスは、弟子たちを遣わして「神の国を宣べ伝え」(2節)、「福音を告げ知らせ」(6節)なさいました。神の国の福音は、人が造り出すものではなく、主イエスご自身が差し出され、無代価で提供されたものです。それを委託された主の弟子たちは、「福音に共にあずかる」(1コリント9章23節)ことを切に望んだのです。
神の国は、ちょうど家屋の大黒柱のようなもので、主イエスの恵みの支配の中にあるならば、そのもとで支えられ、守られ、強められるという大いなる救いの中に保たれるのです。そこにおいては、人間の霊的な、精神的な、肉体的な弱さを覚えるときにも、救いの恵みに与らせていただけるのです。
主イエスは、私たち一人一人に、教会に、神の国の福音を託していて下さるのです。

2. 福音を伝える力が備えられているから
続いて主イエスは、「旅には何も持って行ってはならない」(3節)と言われました。神の国の福音を伝えるために必要なものは、神が備えていてくださるので、神を信じる信仰を持って行くように勧められたのです。ないものに目を留めるのではなく、その時その時に必要なものを備えてくださる神に目を留めて信頼することです。そのために、主イエスは、ご自身がお持ちの力と権威をもって、主イエスの弟子たちを教え、訓練し、造り上げてくださるのです(1節)。
主イエスの愛に駆り立てられ(1ヨハネ4章10節、2コリント5章14節)、福音を恥としないで(ローマ1章16節)、神の国の福音を語る力を与えられ、用いていただきましょう。

求める者は受ける(2015.8.30)

宣教題  「求める者は受ける」           宣教 岡本宗子師
聖 書  マタイ7章1~12節

1.神の祝福に生きるために
主は何の条件もつけず、ただ「裁くな」と命じておられます(1節)。生まれつきの罪人であるもの同士が神の祝福に生きていく道は、それ以外にないからです。
私たちは、自分の真相には全く気づかず、人の欠けにばかり目が向き、その悪いところを認めさせ正そうとするものを持っています。けれども決して、そのような方法で問題を解決することはできません。
解決のヒントは12節にあります。それは裁きではなくゆるしと祝福を与えるということです。人間は多様ですから、自分にしてもらいたいことが人にもいいとは限りません。けれども、例外なくすべての人間が必要としていることがあります。それはゆるされることであり、愛され受け入れられることです。
主イエスによる罪のゆるしの十字架を通して、私たちは神の愛を知り、罪を悔い改めることができました。主は私たちの罪や過ちをいちいちとがめることなく、すべてゆるし、きよめ続けて、祝福を受け継ぐ者とし祝福の器として立ててくださっています。この主にあって人の罪をゆるし、励ますことが、私たちのなすべき祝福のわざなのです。

2.求める者は受ける
神を愛すること、隣人を自分のように愛することが、聖書がいう最も重要な掟です(マタイ22章37~40節)。しかし、このような愛は、私たち自身の中からは出てこず、聖霊によって神から受けるのでなければなりません。
ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われる主に、愛することができるように求めることです。そのためには、まず自分自身が悔い改めて、主の恵みと平安を新たに受けることができるように、十字架の前にへりくだりましょう。今日も、お互いが赦し愛し合って生きるために、聖霊によって豊かに注がれる神の愛を祈り求めましょう。

信仰の報酬(2015.8.23)

宣教題  「信仰の報酬」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア14章6~15節 ヘブライ11章1節

「信仰の報酬」は、終わりのさばきの時に、主からいただくものとは限らない。今、このとき、私たちに与えられるものでもある。
約束の地へと出発したイスラエルは、カデシュ・バルネアから十二人を探索のために送った。よい地という報告を彼らは携えてきたが、大きな町とアナク人の子孫がいるため敗北するだけだ、と十人が語り、民の心を挫いた。しかし、カレブとヨシュアは、主が与えてくださる、と進言した。民の不信の罪のため、主はイスラエルに40年の放浪を与え、カレブとヨシュアには約束の地での嗣業を約束した(民数記13〜14章、申命記1:19-46)。

1. カレブの信仰
45年が過ぎた。85歳になったカレブはヨシュアに嗣業の地を願った(ヨシュア14:6-12)。彼のことばに彼の信仰の姿を見る。まず、45年前、カデシュ・バルネアで主に従いとおした姿(14:7-8)。次に、主が約束通り、45年間、生きながらえさせてくださったと信じ続けている姿(14:10)。そして、これからも主が共にいてくださって、アナク人を主が追い払ってくださるという確信(14:12)。神への信頼と、神への信頼から生まれる神への忠実さに生きている。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)そのものである。

2. カレブへの信仰の報酬
カレブに主は報酬を与えられた。45年経っても変わらないカレブの肉体的な力(14:11)や彼に与えられる嗣業の土地(14:13)。しかし、これらはだれに対してもそうである訳ではない。年をとれば、弱るし、望んでいたものが必ず与えられる保証はない。しかし、もう一つの主からの報酬があった。45年間、一貫して変わらない彼の信仰そのものである。45年間、主はカレブに信仰を与え続け、年老いてなお、その信仰に生かさせている。
自分の信仰がもっと強くなったら、と自分で自分の信仰を強くできるかのように語る。しかし、信仰は信仰の報酬として神から与えられるものである。与えられたものに生きる毎に、さらに与えられる。だからこそ、偉大な与え主である方を覚え続けたい。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

力尽きる時に(2015.8.9)

宣教題  「力尽きる時に」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章40~56節

ここでは、二つの話しが一つの物語として、引き離すことのできない共通の事柄が語られています。すなわち、自分たちの力は尽きたと思える病と死との戦いの連続の中にあって、なお、主イエスの御言葉を聴き、主イエスを信じ仰いでいます。信じるとは、どういうことなのでしょうか。

1.主イエスに任せる  40~42節、49~56節
人々にとって、主イエスの魅力は、このお方は必ず自分たちの願いを聴き届けてくださるお方であるということでした。会堂長ヤイロは、死にかけている一人娘を救いたいとの切実かつ緊急の必要から、「イエスの足もとにひれ伏した」のでした。その行為は、主イエスの権威にすべてを任せるとの信仰の表れでした。
ところが、主イエスが向かわれる途中で娘は死んだとの知らせが届きます。その報告を受けられた主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は救われる」と語られました。そして、生死の権威を手中に治めておられる主イエスは、娘を死の状態から解き放たれたのです。
わたしに任せなさい、と招かれる主イエスこそ、私たちの望みです。

2.主イエスを告白する  42~48節
12年間も出血が止まらなかった女性は、家庭や社会から隔離され、ユダヤ人の礼拝にも出席できませんでした。彼女の苦痛と悩みは、望みを失わせるものでした。
ところが、彼女が主イエスに近づき、「後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」のです。「わたしに触れたのはだれか」との主イエスの問いに、彼女は「震えながらひれ伏し」、事の次第を皆の前で言い表わしました。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」との救いに与かる新たな信仰の歩みを始めました。
主イエスをひそかに信じているだけでなく、そのことを公に言い表すことが求められているのです。

主のために(2015.8.2)

宣教題  「主のために」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章13~17節

わたしたちは、この世では「旅人であり、仮住まいの身」(11節)として歩んでいます。だからと言って、この世に対して無関心であり、無責任であってよいのではありません。国家に対して、社会に対して、家族をはじめ他者に対して、積極的に愛をもって仕えていくのです。その生き方の大原則が、「主のために」生きることです。

1.わたしたちの服従  13~15節
神のものとされた者は、人がつくった社会のきまりや仕組みを軽んじることなく、為政者やその務めに従事する者を重んじて従うことが勧められています。それが「神の御心」だからです。神の愛をいただいて、良い業に励むことによって、キリストとキリスト者に対する批判の言葉は沈められます(15節)。しかし、神の御心に反してまで服従することは求められていません(使徒言行録4章19~20節)。
わたしたちが、服従することに難しさを覚えるときにこそ、キリストが服従された事柄を深く思い、「主のために」という視点をいただいて、この世におけるわたしたちの立ち位置、立ち振る舞いを選ばさせていただくのです(19~21節)。

2.わたしたちの自由  16~17節
さて、神のものとされた者の服従は、自発的なものであり、そこには喜びと自由が伴います。ですから、「自由な人として生活」するのです。しかし、その自由は、悪事を行なう言い訳や欲望からくる行いを正当化するために用いてはなりません。「主のために」用い、「神の僕として」の言動をするのです。
神の僕として仕えることが自由な生き方ですが、具体的にそれを貫く生き方があります。すべての人を敬い、重んじることです。教会の交わりにおいて、兄弟姉妹を愛することです。神を畏れる信仰を抱き続けることです。神が立てられた為政者を正当に評価し、神の御心に従った社会の秩序維持に努めることです。そのようにして、神に仕える自由を用いさせていただきましょう。

命を生きる(2015.7.26)

宣教題  「命を生きる」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ16章13~28節

今回は、主イエスがペトロに問いかけられるという形で出会いをされています(26節)。ペトロを招かれた主イエスは(24~25節)、同じようにして群衆をも招かれました(ヨハネ12章25~26節)。主イエスは、私たちにどういう問いかけをもって招かれるのでしょうか。

1.自分の命の重さを見い出していますか
「何の得があろうか」(26節)と問いかけています。主イエスの福音は、私たちに本当の利益をもたらしてくださいます。それは、かけがえのない価値のある「命」です。それを見い出しているかと問いかけておられるのです。
主イエスは、ペトロにそのことを気づかせるために、ご自身が救い主であることを言い表わせるように導かれ、罪と死に勝利をもたらすものであることを明らかにされました(13~20節)。そして、そのことが実現するために、主イエスご自身が「必ず」十字架の死を遂げられ、そこから復活されることを明らかにされました(21~23節)。
主イエスのペトロに対するこのような問いかけは、私たちにもなされています。自分の命の重さと、その命を生きる道に気づかせるためにです。

2.主イエスに任せる生き方をしていますか
さて、自分の思うままに生きる、自分の欲望を満足させるように生きることは、「自分の命」を失うことになるのです。そうではなくて、「自分を捨て」て、すなわち自分にしがみつかないで、十字架に死んで復活された主イエスにしがみついて、その救いに与らせていただくことが大切なのです。主イエスに信頼していくならば、「わたしのために命を捨てる」と言われたように、主イエスに合わせて「命を生きる」ことができるのです(24~25節)。
私たちが真に自分に生きる道は、主イエスの十字架と復活の救いを信じ、このお方に任せて生きることなのです。

賢明な計略(2015.7.19)

宣教題  「賢明な計略」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア9章16~26節 1コリント3章18節

数ある選択肢の中から何を選ぶかで、その人が賢明であるか、明白になる。イスラエルの連戦連勝のしらせにどのように対応するかで、人々の知恵が試された。

1. 賢明そうな計略
イスラエルが攻略したアイからそう遠くない場所に住んでいたギブオンの民は、生き残りのために計略を立てた。古びた袋、靴、外套、干からびたパンを準備して、遠くからの旅人を装い、イスラエルの所に向かった。和を講じ、自分たちが滅ぼされることがないようにと願って行動した。彼らの虚偽をイスラエルは見破ることができず、契約を結んでしまった。三日後にギブオンの民の嘘に気づいたが、時すでに遅く。契約のゆえに、彼らを滅ぼし尽くすことはできなくなった。奴隷の身分ではあるが、ギブオンの民は命が保たれた。失うものも多くあったが、彼らなりの賢明な計略は、それなりに功を奏した。

2. 愚かな計略
ギブオンの民とは対照的なのが、彼ら以外の住民たちである(1~2節)。戦闘によってイスラエルに対抗しようと考えて、諸国連合を結成した。これは愚かな計略であった。10章以降に描かれているように、彼らはイスラエルの前に無残にも敗北する。いのちさえも失った。
彼ら同様に愚かさであったのは、イスラエルの民自身である。旧来の住民たちを滅ぼし尽くすように主から命じられていたのだが、ギブオンの民の計略を見抜くことができず(疑問には思ったが)、主の指示を求めることもなかった(14節)。善かれ悪しかれ、ギブオンの民との共存が彼らの運命となった。

3. 賢明な計略
最も賢明であったのは、2章に登場したラハブである。主のなされたわざを聞いて、主を神として認めた一方で、ギブオンの民のような策略を立てることはしなかったからだ。彼女は、イスラエルの神とその民を信頼することを選び取り、その結果、命が救われ、イスラエルの一員となる。
自分の知恵が神の偉大なみわざを見えなくしてしまうことがある(1コリント3章18節)。不安は確かに残る。しかし、「神を信頼する」選択を「あえて」行うとき、ラハブが味わったように主の真実を体験することができる。神を「あえて」信頼することこそ、最も賢明な計略である。

解き放たれて(2015.7.12)

宣教題  「解き放たれて」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章26~39節

ここに登場する「悪霊に取りつかれている男」の姿は、特別な状況に置かれた人のことを語りつつ、罪と死と滅びにつながれた人の生き方を表しています。そして、主イエスは、そのような人たちをトータルにいやされることを証言しておられるのです。

1.人と人の関係をいやされる
この男は、衣服を身に着けないで墓場を住まいとし、昼夜わめき叫んで自らをコントロールできないでいました。悪魔は、こうしたことを通して、当人だけでなく、周りを傷つけ、破壊しようとしてくるのです。その結果、人間関係がうまくいかない状態にしてしまうのです。しかし、主イエスは、そのような所からこの男をいやされました。
私たちは、主イエスの十字架のもとで、人と人の関係をいやしていただき回復していただけることを信ずるのです。

2.私自身をいやされる
この男は、自分で自分の体に傷をつけていたとあります(マルコ5章5節)。主イエスは、その男の悲惨さに身を置いていやされました。その時彼は、静かにいやし主イエスと向き合って座っています(35節)。
私たちは、善をする力のない惨めな罪人ですが、主イエスの十字架の救いによって解き放っていただけると信ずるのです(ローマ7章24節~8章1節参照)。

3.正しい神理解に変えられる
いやされる前のこの男は、主イエスを高く聖なる神と言い表わしつつも、自分に関わらないでほしと願っていました(28節)。ところが、いやされた後は、イエスの足もとに座っています(35節)。彼は、苦しめる神ではなく、救いの神を知るという正しい神理解に変えられたのです。
私たちは、いかなる時も、救いの神である主イエスにより頼む生き方をするのです。
私たちは、こんなに大きなことをしてくださった主イエスを言い広めていくのです。

美しい生き方(2015.7.5)

宣教題  「美しい生き方」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章11~12節

ペトロは、「神のもの」とされた者に対して、「愛する者たち、あなたがたに勧めます」と、どう生きるべきかを語りだしています。この勧めは、一見厳しいように見える生き方ですが、そのような生き方をする中から慰めを得ていくことができます。

1.永遠の今を生きる  11節
この手紙の受信人は、各地に離散し、仮住まいをしている選ばれた人たちでした(1章1節)。それは、自分たちの本国が天にあると告白する人々のことで(フィリピ3章20節)、永遠の故郷である天国を目指して、救いの完成を待望しつつ、一歩一歩と確かな歩みをする「旅人」です。
彼らの信仰の旅路は、まだ終わっていないとの自覚をもって今を生き、この世に置かれていますがこの世のものではなく、この世のことに対して正しい距離を持って歩みます。ですから、この世へと引きずり込もうとして「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧められているのです。私たちは、神と共に在って、敵前にあるとの自覚を持って生きるのです(詩編23編5節a)。

2.真実な愛に生きる  12節
この世のことに対して正しい距離を持つ生き方は、この世の一切のことに無関心で冷淡になることではありません。この世に遣わされ「異教徒の間で」生きるのです。キリスト者は、「悪人呼ばわり」されるような迫害下にあっても、「立派な行ない」すなわち美しい生き方をするように召されているのです。すなわち、贖い主イエスに倣って、真実な愛をもって主イエスを証しすることを通して、非難し誤解する人々が「神をあがめるように」なることを願うのです。
このような生き方は、ベタニアで主イエスに香油を注いだ一人の女性の「良い行い」であり、主イエスを指し示す真実な愛の生き方です(マルコ14章3~9節)。主イエスの愛に応答する生き方、そしてその愛に服従する生き方ことが、美しい生き方なのです。