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礼拝メッセージ

求める者は受ける(2015.8.30)

宣教題  「求める者は受ける」           宣教 岡本宗子師
聖 書  マタイ7章1~12節

1.神の祝福に生きるために
主は何の条件もつけず、ただ「裁くな」と命じておられます(1節)。生まれつきの罪人であるもの同士が神の祝福に生きていく道は、それ以外にないからです。
私たちは、自分の真相には全く気づかず、人の欠けにばかり目が向き、その悪いところを認めさせ正そうとするものを持っています。けれども決して、そのような方法で問題を解決することはできません。
解決のヒントは12節にあります。それは裁きではなくゆるしと祝福を与えるということです。人間は多様ですから、自分にしてもらいたいことが人にもいいとは限りません。けれども、例外なくすべての人間が必要としていることがあります。それはゆるされることであり、愛され受け入れられることです。
主イエスによる罪のゆるしの十字架を通して、私たちは神の愛を知り、罪を悔い改めることができました。主は私たちの罪や過ちをいちいちとがめることなく、すべてゆるし、きよめ続けて、祝福を受け継ぐ者とし祝福の器として立ててくださっています。この主にあって人の罪をゆるし、励ますことが、私たちのなすべき祝福のわざなのです。

2.求める者は受ける
神を愛すること、隣人を自分のように愛することが、聖書がいう最も重要な掟です(マタイ22章37~40節)。しかし、このような愛は、私たち自身の中からは出てこず、聖霊によって神から受けるのでなければなりません。
ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われる主に、愛することができるように求めることです。そのためには、まず自分自身が悔い改めて、主の恵みと平安を新たに受けることができるように、十字架の前にへりくだりましょう。今日も、お互いが赦し愛し合って生きるために、聖霊によって豊かに注がれる神の愛を祈り求めましょう。

信仰の報酬(2015.8.23)

宣教題  「信仰の報酬」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア14章6~15節 ヘブライ11章1節

「信仰の報酬」は、終わりのさばきの時に、主からいただくものとは限らない。今、このとき、私たちに与えられるものでもある。
約束の地へと出発したイスラエルは、カデシュ・バルネアから十二人を探索のために送った。よい地という報告を彼らは携えてきたが、大きな町とアナク人の子孫がいるため敗北するだけだ、と十人が語り、民の心を挫いた。しかし、カレブとヨシュアは、主が与えてくださる、と進言した。民の不信の罪のため、主はイスラエルに40年の放浪を与え、カレブとヨシュアには約束の地での嗣業を約束した(民数記13〜14章、申命記1:19-46)。

1. カレブの信仰
45年が過ぎた。85歳になったカレブはヨシュアに嗣業の地を願った(ヨシュア14:6-12)。彼のことばに彼の信仰の姿を見る。まず、45年前、カデシュ・バルネアで主に従いとおした姿(14:7-8)。次に、主が約束通り、45年間、生きながらえさせてくださったと信じ続けている姿(14:10)。そして、これからも主が共にいてくださって、アナク人を主が追い払ってくださるという確信(14:12)。神への信頼と、神への信頼から生まれる神への忠実さに生きている。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)そのものである。

2. カレブへの信仰の報酬
カレブに主は報酬を与えられた。45年経っても変わらないカレブの肉体的な力(14:11)や彼に与えられる嗣業の土地(14:13)。しかし、これらはだれに対してもそうである訳ではない。年をとれば、弱るし、望んでいたものが必ず与えられる保証はない。しかし、もう一つの主からの報酬があった。45年間、一貫して変わらない彼の信仰そのものである。45年間、主はカレブに信仰を与え続け、年老いてなお、その信仰に生かさせている。
自分の信仰がもっと強くなったら、と自分で自分の信仰を強くできるかのように語る。しかし、信仰は信仰の報酬として神から与えられるものである。与えられたものに生きる毎に、さらに与えられる。だからこそ、偉大な与え主である方を覚え続けたい。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

力尽きる時に(2015.8.9)

宣教題  「力尽きる時に」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章40~56節

ここでは、二つの話しが一つの物語として、引き離すことのできない共通の事柄が語られています。すなわち、自分たちの力は尽きたと思える病と死との戦いの連続の中にあって、なお、主イエスの御言葉を聴き、主イエスを信じ仰いでいます。信じるとは、どういうことなのでしょうか。

1.主イエスに任せる  40~42節、49~56節
人々にとって、主イエスの魅力は、このお方は必ず自分たちの願いを聴き届けてくださるお方であるということでした。会堂長ヤイロは、死にかけている一人娘を救いたいとの切実かつ緊急の必要から、「イエスの足もとにひれ伏した」のでした。その行為は、主イエスの権威にすべてを任せるとの信仰の表れでした。
ところが、主イエスが向かわれる途中で娘は死んだとの知らせが届きます。その報告を受けられた主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は救われる」と語られました。そして、生死の権威を手中に治めておられる主イエスは、娘を死の状態から解き放たれたのです。
わたしに任せなさい、と招かれる主イエスこそ、私たちの望みです。

2.主イエスを告白する  42~48節
12年間も出血が止まらなかった女性は、家庭や社会から隔離され、ユダヤ人の礼拝にも出席できませんでした。彼女の苦痛と悩みは、望みを失わせるものでした。
ところが、彼女が主イエスに近づき、「後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」のです。「わたしに触れたのはだれか」との主イエスの問いに、彼女は「震えながらひれ伏し」、事の次第を皆の前で言い表わしました。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」との救いに与かる新たな信仰の歩みを始めました。
主イエスをひそかに信じているだけでなく、そのことを公に言い表すことが求められているのです。

主のために(2015.8.2)

宣教題  「主のために」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章13~17節

わたしたちは、この世では「旅人であり、仮住まいの身」(11節)として歩んでいます。だからと言って、この世に対して無関心であり、無責任であってよいのではありません。国家に対して、社会に対して、家族をはじめ他者に対して、積極的に愛をもって仕えていくのです。その生き方の大原則が、「主のために」生きることです。

1.わたしたちの服従  13~15節
神のものとされた者は、人がつくった社会のきまりや仕組みを軽んじることなく、為政者やその務めに従事する者を重んじて従うことが勧められています。それが「神の御心」だからです。神の愛をいただいて、良い業に励むことによって、キリストとキリスト者に対する批判の言葉は沈められます(15節)。しかし、神の御心に反してまで服従することは求められていません(使徒言行録4章19~20節)。
わたしたちが、服従することに難しさを覚えるときにこそ、キリストが服従された事柄を深く思い、「主のために」という視点をいただいて、この世におけるわたしたちの立ち位置、立ち振る舞いを選ばさせていただくのです(19~21節)。

2.わたしたちの自由  16~17節
さて、神のものとされた者の服従は、自発的なものであり、そこには喜びと自由が伴います。ですから、「自由な人として生活」するのです。しかし、その自由は、悪事を行なう言い訳や欲望からくる行いを正当化するために用いてはなりません。「主のために」用い、「神の僕として」の言動をするのです。
神の僕として仕えることが自由な生き方ですが、具体的にそれを貫く生き方があります。すべての人を敬い、重んじることです。教会の交わりにおいて、兄弟姉妹を愛することです。神を畏れる信仰を抱き続けることです。神が立てられた為政者を正当に評価し、神の御心に従った社会の秩序維持に努めることです。そのようにして、神に仕える自由を用いさせていただきましょう。

命を生きる(2015.7.26)

宣教題  「命を生きる」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ16章13~28節

今回は、主イエスがペトロに問いかけられるという形で出会いをされています(26節)。ペトロを招かれた主イエスは(24~25節)、同じようにして群衆をも招かれました(ヨハネ12章25~26節)。主イエスは、私たちにどういう問いかけをもって招かれるのでしょうか。

1.自分の命の重さを見い出していますか
「何の得があろうか」(26節)と問いかけています。主イエスの福音は、私たちに本当の利益をもたらしてくださいます。それは、かけがえのない価値のある「命」です。それを見い出しているかと問いかけておられるのです。
主イエスは、ペトロにそのことを気づかせるために、ご自身が救い主であることを言い表わせるように導かれ、罪と死に勝利をもたらすものであることを明らかにされました(13~20節)。そして、そのことが実現するために、主イエスご自身が「必ず」十字架の死を遂げられ、そこから復活されることを明らかにされました(21~23節)。
主イエスのペトロに対するこのような問いかけは、私たちにもなされています。自分の命の重さと、その命を生きる道に気づかせるためにです。

2.主イエスに任せる生き方をしていますか
さて、自分の思うままに生きる、自分の欲望を満足させるように生きることは、「自分の命」を失うことになるのです。そうではなくて、「自分を捨て」て、すなわち自分にしがみつかないで、十字架に死んで復活された主イエスにしがみついて、その救いに与らせていただくことが大切なのです。主イエスに信頼していくならば、「わたしのために命を捨てる」と言われたように、主イエスに合わせて「命を生きる」ことができるのです(24~25節)。
私たちが真に自分に生きる道は、主イエスの十字架と復活の救いを信じ、このお方に任せて生きることなのです。

賢明な計略(2015.7.19)

宣教題  「賢明な計略」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア9章16~26節 1コリント3章18節

数ある選択肢の中から何を選ぶかで、その人が賢明であるか、明白になる。イスラエルの連戦連勝のしらせにどのように対応するかで、人々の知恵が試された。

1. 賢明そうな計略
イスラエルが攻略したアイからそう遠くない場所に住んでいたギブオンの民は、生き残りのために計略を立てた。古びた袋、靴、外套、干からびたパンを準備して、遠くからの旅人を装い、イスラエルの所に向かった。和を講じ、自分たちが滅ぼされることがないようにと願って行動した。彼らの虚偽をイスラエルは見破ることができず、契約を結んでしまった。三日後にギブオンの民の嘘に気づいたが、時すでに遅く。契約のゆえに、彼らを滅ぼし尽くすことはできなくなった。奴隷の身分ではあるが、ギブオンの民は命が保たれた。失うものも多くあったが、彼らなりの賢明な計略は、それなりに功を奏した。

2. 愚かな計略
ギブオンの民とは対照的なのが、彼ら以外の住民たちである(1~2節)。戦闘によってイスラエルに対抗しようと考えて、諸国連合を結成した。これは愚かな計略であった。10章以降に描かれているように、彼らはイスラエルの前に無残にも敗北する。いのちさえも失った。
彼ら同様に愚かさであったのは、イスラエルの民自身である。旧来の住民たちを滅ぼし尽くすように主から命じられていたのだが、ギブオンの民の計略を見抜くことができず(疑問には思ったが)、主の指示を求めることもなかった(14節)。善かれ悪しかれ、ギブオンの民との共存が彼らの運命となった。

3. 賢明な計略
最も賢明であったのは、2章に登場したラハブである。主のなされたわざを聞いて、主を神として認めた一方で、ギブオンの民のような策略を立てることはしなかったからだ。彼女は、イスラエルの神とその民を信頼することを選び取り、その結果、命が救われ、イスラエルの一員となる。
自分の知恵が神の偉大なみわざを見えなくしてしまうことがある(1コリント3章18節)。不安は確かに残る。しかし、「神を信頼する」選択を「あえて」行うとき、ラハブが味わったように主の真実を体験することができる。神を「あえて」信頼することこそ、最も賢明な計略である。

解き放たれて(2015.7.12)

宣教題  「解き放たれて」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章26~39節

ここに登場する「悪霊に取りつかれている男」の姿は、特別な状況に置かれた人のことを語りつつ、罪と死と滅びにつながれた人の生き方を表しています。そして、主イエスは、そのような人たちをトータルにいやされることを証言しておられるのです。

1.人と人の関係をいやされる
この男は、衣服を身に着けないで墓場を住まいとし、昼夜わめき叫んで自らをコントロールできないでいました。悪魔は、こうしたことを通して、当人だけでなく、周りを傷つけ、破壊しようとしてくるのです。その結果、人間関係がうまくいかない状態にしてしまうのです。しかし、主イエスは、そのような所からこの男をいやされました。
私たちは、主イエスの十字架のもとで、人と人の関係をいやしていただき回復していただけることを信ずるのです。

2.私自身をいやされる
この男は、自分で自分の体に傷をつけていたとあります(マルコ5章5節)。主イエスは、その男の悲惨さに身を置いていやされました。その時彼は、静かにいやし主イエスと向き合って座っています(35節)。
私たちは、善をする力のない惨めな罪人ですが、主イエスの十字架の救いによって解き放っていただけると信ずるのです(ローマ7章24節~8章1節参照)。

3.正しい神理解に変えられる
いやされる前のこの男は、主イエスを高く聖なる神と言い表わしつつも、自分に関わらないでほしと願っていました(28節)。ところが、いやされた後は、イエスの足もとに座っています(35節)。彼は、苦しめる神ではなく、救いの神を知るという正しい神理解に変えられたのです。
私たちは、いかなる時も、救いの神である主イエスにより頼む生き方をするのです。
私たちは、こんなに大きなことをしてくださった主イエスを言い広めていくのです。

美しい生き方(2015.7.5)

宣教題  「美しい生き方」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章11~12節

ペトロは、「神のもの」とされた者に対して、「愛する者たち、あなたがたに勧めます」と、どう生きるべきかを語りだしています。この勧めは、一見厳しいように見える生き方ですが、そのような生き方をする中から慰めを得ていくことができます。

1.永遠の今を生きる  11節
この手紙の受信人は、各地に離散し、仮住まいをしている選ばれた人たちでした(1章1節)。それは、自分たちの本国が天にあると告白する人々のことで(フィリピ3章20節)、永遠の故郷である天国を目指して、救いの完成を待望しつつ、一歩一歩と確かな歩みをする「旅人」です。
彼らの信仰の旅路は、まだ終わっていないとの自覚をもって今を生き、この世に置かれていますがこの世のものではなく、この世のことに対して正しい距離を持って歩みます。ですから、この世へと引きずり込もうとして「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧められているのです。私たちは、神と共に在って、敵前にあるとの自覚を持って生きるのです(詩編23編5節a)。

2.真実な愛に生きる  12節
この世のことに対して正しい距離を持つ生き方は、この世の一切のことに無関心で冷淡になることではありません。この世に遣わされ「異教徒の間で」生きるのです。キリスト者は、「悪人呼ばわり」されるような迫害下にあっても、「立派な行ない」すなわち美しい生き方をするように召されているのです。すなわち、贖い主イエスに倣って、真実な愛をもって主イエスを証しすることを通して、非難し誤解する人々が「神をあがめるように」なることを願うのです。
このような生き方は、ベタニアで主イエスに香油を注いだ一人の女性の「良い行い」であり、主イエスを指し示す真実な愛の生き方です(マルコ14章3~9節)。主イエスの愛に応答する生き方、そしてその愛に服従する生き方ことが、美しい生き方なのです。

安心しなさい(2015.6.28)

宣教題  「安心しなさい」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ14章22~33節

主イエスとペトロとの出会いは、ペトロが主イエスに出会いに行く前に、主イエスがペトロに出会いに来てくださっています。その出会いは、繰り返され、深められていっています。この出会いの恵みは、主イエスと私たち一人一人の出会いおいても同じなのです。

1. 主イエスが来てくださるから  25節
ペトロたちは、夜の暗闇に舟を漕ぎ出しましたが、波と逆風に悩まされています。主イエスは舟に乗っておられなかったのです。この時、ペトロたちが主イエスに助けを求めることはなく、主イエスの方から彼らの所に行かれて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られ、ご自身を現しなさいました。
人が恐れを経験するものに、次のようなことがあります。迷信に脅えるということです。人の顔色や評判を恐れることです(箴言29章25~26節参照)。良心の呵責からくる恐れです。そして、死の恐れです(ヘブライ9章27節参照)。十字架に死んで復活された主イエスは、今も「恐れることはない」と解放の道を開いていてくださいます。恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配されているところに安心があるのです。

2. 主イエスのところに行くことによって  28節
「行かせてください」と願うペトロに対して、「来なさい」と主イエスは招かれています。しかし、再度ペトロは、風を見て怖くなり、逆巻く水を見て恐れています。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロを主イエスは諭し、同舟されました。こうして、ペトロたちは、繰り返し主イエスの招きを受ける中から、「本当に、あなたは神の子です」と信仰を言い表わしました。
私たちは、恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配される中で、信仰を言い表わすのです。共に居り続けてくださる主イエスのもとに居り続けるのです。主イエスの方から招いていてくださる確かさに、私たちは身を置くのです。

礼拝の一大原則(2015.6.21)

宣教題  「礼拝の一大原則」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア7章1~15節、ローマ1章25節

1. 主の憤り
エリコの攻略(6章)を終えたイスラエルの民は、荒野を上ってアイへと侵攻を進めようとした。大きな町を滅ぼした安心からだろうか、全軍が出撃する必要などないと彼らは考えた。そして、三千の兵で攻め上った所、イスラエルは敗北し、敵に打ち殺される者もあった(2~5節)。この現実に直面したイスラエルは嘆き、ヨシュアは神に祈った(6~9節)。しかし、この敗北はイスラエルに対する主の憤りの現れであった(1節)。この憤りは、イスラエルの民の油断と見事なまでの敗北に現れていた。

2. 滅ぼし尽くしてささるべきものへの不誠実
敗北の原因は、滅ぼし尽くして献げるべきものに対して、イスラエルが不誠実であったことである(1節, 11~12節)。本来は火で焼き尽くされるべきもの(6章24節)が主から盗み取られ、アカンが所持していた(22節)。彼は、主が命じた契約を破り(11節)、むしろ、「見て、欲しくなって」それを取った(21節)。彼は、主よりも、自らの欲望をより重んじてしまったのだ。皮肉にも、滅ぼし尽くすべきものを自分のものとしたアカンが、その全所有物が火で焼かれ(25節)、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。そして、滅ぼし尽くされるべきものが滅ぼされて初めて、イスラエルの民は、アイと戦い、勝利を得ることができた(8章)。

3. 礼拝の一大原則
礼拝とは、私たちにとって何が一番大切なのかを表す行為である。アカンは、上着と銀と金の延べ板を主よりも大切なのとした。エリコの分捕りもの、すなわち滅ぼし尽くすべきものを礼拝したのだ。そして、滅ぼし尽くすべきものを礼拝したアカンは、滅ぼし尽くすべきものとなってしまった。造り主の替わりに、造られたものを礼拝し、そのようになって滅んでいくのか。それとも、造り主を礼拝し、その結果、神のかたちにある、本物の人間になっていくのか(ローマ1章25節)。私たちは問われている。
神でないものを礼拝することが偶像崇拝である。そして、偶像崇拝の罪の本当の恐ろしさは、最もなりたくないと思っている自分になってしまうことである。だからこそ、毎週の礼拝を通して、造り主を礼拝する者として整えていただき、与えられた使命を全うできる、本物の人間にならせていただこうではないか。

驚くべき光の中に(2015.6.14)

宣教題  「驚くべき光の中に」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章9~10節

この手紙が執筆された当時は、迫害などによる混乱が教会にも影響をあたえかねない状況にありました。そこでペトロは、周囲の状況に左右されるのではなく、周囲に福音の感化を与え、「かつて」の「暗闇の中から」、「驚くべき光の中へと招き入れ」られている「今」を自覚して生きるように勧めているのです。

1.神のものとされている
神の憐れみを受けた神の民とは、主イエスの十字架と復活に表された救いに与った信仰者の群れのことです。それは、ちょうど旧約の出エジプトという神の救いに与った神の民たちに通じるものです(出エジプト記19章5~6節、申命記7章6~8節)。主イエスの贖いの目的は、神の所有とするためでした。そして、そのように神に選ばれ、祭司としての使命に生きるところの聖なる者とされるためでした。
私たちは、神に背を向けて罪と死との暗闇の望みのないところから、主イエスの愛のゆえに選ばれ、神のものとされて神を礼拝するものとなり、神に仕え、他者の救いのために執り成す使命を託されています。このような驚くべき光の中に招き入れられているのですから、その歩みを最後まで全うさせていただくのです。

2.神の救いを証しする
神の所有の民とされた聖徒とその群れである教会は、神の救いの御業を広く伝えるために、神のものとされたのです。その伝える福音の内容は、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」にほかなりません。
私たちは、主イエスによって神のものとされた新しい立場にどれだけ感謝し、世に対する証しの使命を果たしているかを問い直してみることが必要です。そのためには、普段から祈りを通して神との交わりをさせていただき、神の語りかけを聴き、神御自身とその御心を知ることから始めるのです。そうする中から、驚くべき主イエスの御業を証しさせていただくことができ、救いを届けることができるのです。

起き上がるキリスト(2015.6.7)

宣教題  「起き上がるキリスト」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章22~25節

眠ることと目覚めることとは、私たちの人生の重要なことがらです。それを主なる神が支えていてくださるとの自覚は大切なことです(詩編3編6節参照)。主イエスと弟子たちが一緒に舟に乗っておられたとき、途中突風が起こり、今にも舟は沈みそうになりましたが、主イエスは熟睡しておられました。弟子たちは、どうだったでしょうか。

1.主イエスに向かって叫ぶ
弟子たちは、突然の突風に不安を抱きました。それだけではなく、主イエスが眠ってしまわれて何もしてくださらないことに、より一層の不安がつのりました。弟子たちは、「私たちはおぼれて死にそうです」(新改訳聖書)と信仰のない叫びをしました。その叫びに答えられた主イエスが、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったのです。このように信仰を失った者の叫びに、主イエスは耳を傾けてくださるのです。
天地の創造主であり、自然界を治められる主なる神は、苦難に際して助けを求めて叫ぶとお答えくださいます(詩編107編28~31節参照)。この主イエスを体験的に知る者は幸いです。そして、このお方に叫び求めることができる人は幸いです。

2.主イエスを深く信頼する
起き上がってくださった主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と弟子たちの信仰を目覚めさせようとされました。それに対して弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろうか。命じれば風も波も従うではないか」と語り合うほどに、主イエスを深く信頼するよう導かれました。
主イエスと共に舟に乗る姿は、聖徒たちの人生と彼らが集められた教会が歩んでいく象徴的な姿と受けとめられています。その歩みの途上において、多くの荒波や問題の中を通されますが、絶えず共におられる主イエスから目を離さないで信頼する歩みを形づくっていくことが大切です。主イエスに対する深い信頼は、主イエスが持たれている静けさの支配をいただく歩みとなるのです。

開かれた道(2015.5.31)

宣教題  「開かれた道」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ4章18~22節

主イエスが開かれた救いへの道は、狭い道です(マタイ7章13~14節参照)。それは、自分一人しか通れない狭さであり、神の前に一人になることを意味していると言えるでしょう。主イエスは、私たち一人一人に対して、ご自身が開かれた道について来ることを求めておられます。

1.主イエスに招かれている道
主イエスは、ペトロたちをご覧になり、お呼びになりました。彼らが、この招きを受けたときの詳しい状況や経緯や理由について何も語られていません。しかも、礼拝で説教を聞いていたとき、祈っていたときといったような場面ではなくて、主イエスは彼らがその職業に就いていた日常生活のただ中において招かれています。
主イエスは、十字架を通り、墓を通り、墓を打ち破って、永遠の命への道を、私たちのために歩き抜いてくださいました。そして、一人一人の全てをご存知の上で、ご自身を賭けたこの恵みをもって、私たちの現実に踏み込んで来られるのです。私たちは、この招きにあずかっているのです。

2.主イエスについて行く道
ペトロたちは、「わたしについて来なさい」と先立たれる主イエスの背を見つめるようにして歩み出しました。彼らは、主の招きに応えたのです。これが、主イエスを信じることであり、従うことなのです。
さらに、主イエスの招きは、ペトロたちの人生を新たにし、新たな使命を与えて遣わされるものでした。彼らに対する使命は、「人間をとる漁師にしよう」と語りかけられたもので、主イエスはその後も繰り返し語り、それを更新し続けられました。
主イエスは、ご自身について来る一人一人を各々の持ち場に遣わされます。それは、人生の最後に至るまで更新し続けられます。私たちは、主イエスの招きに応え、新たにされて、各々の生活の場へと遣わされて行くのです。

霊的代謝を盛んに(2015.5.24)

宣教題  「霊的代謝を盛んに」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ2章1~8節

キリスト者生活の醍醐味は、「主が恵み深い方だということを味わい」知り続けることです(3節)。キリストの味は、生きた命の味で(1章3節、23節、2章4節)、「霊的な」ものです(2章2節、5節)。聖書がいう霊的とは、聖霊の導きを喜びとして、聖霊に従っていることであり、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

1.聖徒が霊的に成長する  1~3節
私たちの信仰が成長し、最終的な救いに至る秘訣の一つは、霊的な新陳代謝を盛んにすることです。
自分に捨てるべきものがあるにもかかわらず、それを平気でそのままにしながら成長しようと願うのは無理な相談です。霊的な健康を損なう捨てるべきものが自分にあることを気づいたなら、聖霊の力をいただいて捨てることです。
そして、それに代えて新しく慕い求める者は、「霊の乳」すなわち魂を育てる御言葉の糧です。そうすることによって、聖霊の導きの中で物事を考え、対応するという霊的習慣を身につけ、祈り、御言葉に親しみ、聖徒の交わりを大切にするのです。

2.聖徒の群れが霊的に造り上げられる  4~8節
キリストは十字架に捨てられ、復活され、栄光の座に着かれて「尊い、生きた石」となられました。このお方が、「霊的な家」である教会の命を支える土台となられ、このキリストを信じて結び合わされた聖徒を「生きた石」として教会を造り上げるために用いられるのです。そのようにされている聖徒は、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して神に献げ」るのです。すなわち、礼拝を献げ、広くは日常の生活が神に献げられた歩みとして造り変えられ続けていくのです。
私たちは、キリストにどう向き合い、どう関わっていくかを問われています。「選ばれた尊いかなめ石」であるキリストにより頼むならば、いかなる危機の中にあっても、「決して失望することがない」のです。そこには聖霊の支えがあるからです(4章14節)。