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礼拝メッセージ

共に重荷を負い合いつつ(2016.5.1)

宣教題  「共に重荷を負い合いつつ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章1~16節

私たちが負う重荷には、個々人別に負うものと、共通して負うものとがあります。キリスト者の全てが負うのは宣教の重荷であり、それを通して学び続け、内に安息を経験していくのです(マタイ11章28~30節)。神の民の共同体である教会は、この共通の重荷を負って遣わされていくのです(1~3節)。

1.委ねられた福音を共有する
キリストの平和に生きる者は、人々がその平和に与かれるように働きかけます(5~6節、ヨハネ14章27節)。それは、キリストによって神の恵みのご支配がすでに来ているのですから、そのチャレンジにお応えして、キリストの十字架と復活の御業を信じるように勧めます(9節)。ですから、心を頑なにし悔い改めないで、神の国の福音を拒み続けることのないように注意を促しています(10~16節)。
このように委ねられている共通の福音に対して、一人ひとりが応答していくならば、その福音のとおりの人生が始まり、福音を生き続けることになるのです。ここに、キリストによる最大の奇跡があるのです。

2.キリストに信頼する
キリスト者は、キリストに信頼しつつ生きることを証しする生活をするのですが、委ねられた福音を共有することにおいても同様です。すなわち、この福音を証しするに際しては、様々な試練によって不安や恐れを抱くことがあり、また生活事情や心遣いをすることによって振り回されやすいために、キリストに信頼して助けていただく必要があるのです(3へ4節、7~8節)。
キリストは、ご自身を信頼する者たちを「小羊」として遣わされます(3節)。小羊のようになられたキリストによる罪の贖いのゆえに、頑なな心を打ち砕いて、真の謙遜と愛に生きる小羊の心に変えて用いてくださるのです(1ペトロ1章18~19節、2章23~25節)。大いに、この宣教の重荷を負い合いつつ、語り伝えたいものです。

新しいボス(2016.4.24)

宣教題  「新しいボス」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  1テサロニケ1章9~10節

クリスチャンとなるとは、きれいではなく、ずるい世界の真ん中で、きれいでずるくない世界を造り出す人となることである。そのためには、新しいボスの下に付かなければならない。
悪いボスの典型例が、旧約聖書に登場するエジプトの王ファラオである。ファラオという主人のゆえにイスラエルは不幸となり、命を失い、滅びそうになっていた。イスラエルの民の運命をボスであるファラオが握っていたからである。
イスラエルの民をひどいボスから解放するために立ち上がられたのが、世界のすべてを造り、天に住まいながらも、地上におけるあらゆる出来事に深くかかわり続けておられる「生けるまことの神」(9節)であった。十の災いと葦の海を分けることを通して、ファラオを打ち破り、イスラエルを解放した。ただし、イスラエルはファラオのやり方に慣れきってしまっていたために、「生けるまことの神に仕える」(9節)という歩みを簡単に選び取ることはできなかった。
あなたの人生のボスはなんだろうか。あなたのボスは、あなたを通してきれいなもの、ずるくないものを生み出しているだろうか。人を支配しているボスのほとんどが、ファラオのようにあなたを苦しめ、あなたを失望させる。「生けるまことの神」以外のすべてのボスは、あなたをあなたが一番なりたくない人の姿へとあなたを変えていく。すべてのボスが、罪と死という人を苦しめるボスの下に仕えているからである。
生けるまことの神は、2000年前にイエス・キリストを送られて、罪と死に対して十字架で戦われた。力をもって戦われたのではない。あらゆる悪と憎しみと腐敗と破壊を十字架でご自身の身にすべて負われ、もっともきれいではなく、もっともずるいもののすべてを受け入れることによって戦われた。その結果、罪と死の力はその牙を完全に抜かれ。イエスを通して、「生けるまことの神」は完全に勝利され、あらゆるボスに仕えて苦しんでいる人々に奴隷解放令を出してくださった。そして、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるように」(9節)に招いていてくださっている。
新しいボスを選ぶことができる。きれいで、ずるくない世界を造り出すあなたになる道がある。イエスによって勝利された「生けるまことの神」に向かって、「あなたがわたしの人生のボスになってください」と祈り求めることからすべてははじまる。

この小さな者たちの一人にしたのは(2016.4.17)

宣教題  「この小さな者たちの一人にしたのは」     宣教 岩上 祝仁師
聖 書  マタイ25章31~46節
トルストイはこのたとえ話をもとに「愛のあるところに神はいる」という小説を書いた。靴屋のマルティンとして有名な動画である。愛の業の大切さを教えている。
マタイは主イエスのたとえ話を主の最後の説教として書いて、重要さを現した。

1. このたとえの中心は単に行ったか行わなかったかではなく、心から出て来る行動に主イエスは注目しておられる。
このたとえには、どちらも・・・・してくれた。・・・・してくれなかったという表現で、私たちの行動が問われている。しかし、良くたとえを読んでみると、行った者も、行わなかった者もどちらも「いつ、わたしは しましたか?(しませんでしたか?)」と語っている。それは無意識の行動、もう少し言い換えると私たちの普段のあり方そのものが問われている。私たちの心と性質が主の前に問われている。「木のよしあしはその実によって知られる。」今朝、まず私たちが罪を悔い改め、主イエスにつながることによって、良き実を結ぶ者とされていることを確認しよう。

2. 主イエスは、この言葉で私たちの生き方そのものを変えようとされた。
私たちは小さい者と相手を認識した時点で、その人を見下し、自分を高めてしまう傲慢の誘惑に陥っている。そして、小さい者のために何かが出来ることで、自己満足してしまう。さらに小さい者から見返りがない時には不平不満が出て来ることにもなる。そんな私たちに対して、主イエスは、最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのですと語られる。主イエスの愛に応答して、愛の業に励む様にと変えられるからこそ出来るようになる。自分のためでもなく、相手のためでもなく、主イエスのために愛に生きる様にとの主の招きである。
最後に、この神の愛に生きるためには、自らのもっている人間的な愛では到底間に合わない。自らの汚れた愛を主イエスの十字架によってきよめて頂き、聖霊によって私たちの心に注がれ、満たされる神の愛がこれを可能にする。そして、真実に愛を求め、愛に生きる者に主は永遠の御国を継がせて下さるお方である。

主の真実のゆえに(2016.4.10)

宣教題  「主の真実のゆえに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章12~19節

「真実であられる創造主」は、創造されたもの全てを治め、保っておられます。何よりも創造の冠である人間の救いのために、十字架と復活の御業を通して永遠の救いに与らせてくださいました。私たちは、このように真実の限りを尽くしておられる主を見失うことなく、今の現実や苦しみと向き合うことが必要です。

1.苦しみを受ける中で
いろいろな試練の中には、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」があります(12節)。このように語られる背後には迫害と殉教の歴史がありますが、今日の私たちとは直接関係のないこととして読み過ごすことはできません。
ここに、「キリストの苦しみにあずかる」(13節)、「キリストの名のために非難される」(14節)、「キリスト者として苦しみを受ける」(16節)、そして「神の御心によって苦しみを受ける」(19節)とあります。いかなる時にも、このように生きることが、キリスト者の生活なのです。この苦しみを受けることが間違っているのでもなければ(12節)、決して恥じることでもありません(16節)。キリストに倣うこととして、幸いなことなのです(マタイ5章10~12節)。真実な主のために担う苦しみは、敗北ではないのです。

2.信仰に生きることを学ぶ
恵みにより神のものとされることによって、今の苦しみは喜びとなり、将来の歓喜の先取りとなります(13節)。聖霊によって励まされ、助けられているからです(14節)。それゆえに、神をあがめ、神に栄光を帰するのです(16節)。そして、真実であられる創造主に自分の魂をゆだね、信頼するのです(19節)。
私たちは、苦しみや試練を経験する様々な状況の中で、神の真実を疑ったり、そうしたことに耐えられるだろうかと思ったりします。しかし、人は、信念で苦しみや試練に耐えることができるのではありません。真実なキリストが戦っていてくださるのですから、このキリストにゆだねて歩み続けるだけなのです。

真実なキリストに向かって(2016.4.3)

宣教題  「真実なキリストに向かって」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章57~62節

ここで語られている三つの対話は、一貫した「従う」という主題を持っています。
それは、バプテスマの恵みに与った者が、終生変わらないでキリストに従う信仰に生きるようになるためです。ものを考える時にも、事を行う時にも、「これがキリストに従う生き方か」という問いを持ち続けるようになることです。

1.真実を貫かれたキリスト
キリストは、十字架と復活の時が近づくのを覚えられ、エルサレムへの道に向かわれました。そこには、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」(ルカ9章51節、口語訳)と、キリストは父なる神に全面的に明け渡してその御心に委ねられ、贖罪者としての使命を成し遂げようとされる決意が表れています。この平静さをもたれた輝きは、十字架上の最後の祈りに結集しています(同23章46節)。そして、「必ず」と言われたキリストの十字架と復活の御業に集中しています(同9章22節)。
ここに、キリストの真実な愛を見ます。キリストは、約束されたことは「必ず」成し遂げられることにおいて、御自身を否むことはなさらないという真実を貫かれました(2テモテ2章13節)。私たちは、この恵みをしっかり受け取るのです。

2.真実な心をもって従う
キリストを受け入れ、キリストに結ばれて歩む者は皆、キリストに学び、キリストに倣う、キリストの弟子です。そこで、キリストは、御自身に従うときに犠牲を払うことができるか、と問いかけておられます(57~58節)。また、従うのは今です、と命じておられます(59~60節)。そして、条件をつけないで福音に生きることを勧めておられます(61~62節)。これらは、真実の限りを尽くされたキリストに対して、真実な心で従うことの大切さを語られたのです。この福音書の著者ルカが、そのように生きた証人です(2テモテ4章11節)。
キリストは、「わたしに従いなさい」と私たちを召し出していてくださいます。キリストの真実な御心の分かるキリストの弟子としていただきましょう。

大いなる逆転(2016.3.27)

宣教題  「大いなる逆転」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1コリント15章50~58節

キリストの十字架と復活の出来事は、過去の歴史ではなく最新のニュースであり、今も生きて働いている福音です。従って、死者の復活は揺るぐことのない希望です。
そこでパウロは、復活されたキリストによってもたらされる勝利の叫びを上げています(57節)。さらに、生き方が変えられたことを明らかにしています。

  1. 死に勝利して生きる 50~56節
    ここには、死の力の前に無力を知らされるばかりの私たちに、決して死がすべての終わりではないことを告げています。地上の有り様は過ぎ去り、朽ちていきます。しかし、終わりの日すなわちキリストが再臨されるときには、「この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」との神の御業がなされるからです(52~53節)。このことを信仰の目でしっかりと見るようにと告げています(51節)。
    そして、死に対する勝利が宣言されています(54節b~56節)。死は罪の結果であり、その罪に対するさばきが死です。しかし、キリストの十字架と復活によって、罪と死は完全に滅ぼされ、「死は勝利にのみ込まれた」のです。この世の命に望みをおかず、復活信仰に生きるところに勝利があります。

2. 主の業に溢れて生きる  57~58節
さて、復活信仰に生きる者は、死に勝利させてくださった神に感謝する生涯へと変えられます(57節)。そして、「主の業」に常に励む歩みに繋がっていきます。それは、いかなる時も、いかなる状況にあっても、キリストの十字架と復活によって成し遂げられた福音をこの世に証しすることに溢れる生き方です。信仰によってキリストに結ばれている者には、その主の業がどれほどの苦労であったとしても、決して「無駄」にはならないのです。
キリストの復活のゆえに、私たちの信仰も宣教も「無駄」にはなりません(15章14節)。また、そのキリストの恵みに徹して生きる者は、神の恵みを「無駄」にはしません(15章10節)。復活信仰がもたらす大逆転に生きる群で在り続けたいものです。

十字架が生み出す祝福(2016.3.20)

宣教題  「十字架が生み出す祝福」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ガラテヤ3章6~14節

十字架を麗しいと思う。しかし、二千年前、十字架は忌まわしい、呪われたものであった。呪いの十字架が麗しいものへと変わったのだ。それには理由がある。
天地を創造された神は、人を通してご自身の祝福を世界に満たそうと願われた。人はそれを拒絶した。しかし、神はそこからの回復の道を計画された。アブラハムとその子孫イスラエルを祝福し、彼らを通して世界のすべての民を祝福しようとされたのだ(8節)。そのために、イスラエルが神とともに歩み、世の光として生きることができるように律法を与えた。ところが現実はどうだろうか。神の祝福は世界の民には及ばなかった。むしろ、祝福の民であるイスラエルは呪いの下にあって苦しんでいた。「呪い」という大きな重荷が壁となって祝福を止めていた。そうであるのに、人々はいまだに「呪い」しか生み出さないものを慕い求めていた。

二千年前の受難日、神はこの「呪い」そのものを用いられた。ご自身の独り子であるキリストを十字架につけられたのだ。キリストは呪いそのものとなられ、イスラエルの上にある呪いと世界中の呪いをひとり、その身に負われた(13節)。キリストが重荷を負われ、取り去られたので、神の祝福がイスラエルから世界へと流れるのをとどめる壁が取りのけられた。その結果、神の霊が神の民の上に留まり、神の祝福が異邦人へと広がっていった(14節)。

本当に祝福は広がっているだろうか。私の目の前には、呪いが満ちているばかりではないだろうか。どうしたら、アブラハムの祝福が私にまでの及ぶのだろうか。アブラハムと同じ信仰に生きることによってである(7節, 9節)。神がなされたこと、そしてこれからなされることへの信頼、「呪いの十字架」によってあらゆる呪いの重荷が取り去れたと信じる信仰によってである。今までの方法を繰り返し用いても、律法がそうであったように、呪いをもたらすだけである。神がなされたこと、そしてこれからなされることに信頼する。信仰とは、無理やり「信じます」で生まれるものではない。祈り求める者に神が与えてくださるものだ。そして、アブラハムの信仰が与えられたとき、呪いの十字架は、祝福を生み出す麗しい十字架となる。

祈りへの集中(2016.3.13)

宣教題  「祈りへの集中」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章7~11節

この手紙は、「万物の終わりが迫っています」(7節)と切迫感がみなぎっています。そこには、キリストの再臨を意識しつつ、祈りを優先させ(7節)、キリストに栄光を帰している教会の姿があります(11節)。このように教会が祈りを集中させることは、何に向き合って生きることが大切なのかを教えています。

1.「終わり」に備えて生きる  7節
ペトロは、御言葉を通して聖霊によって神の時について教えられました(使徒言行録2章16~21節)。そこには、神の永遠の救いの世界が現実のこの世に突入してきたので、人がそこに織り込まれていることを明らかにしています(1ペトロ1章5節)。ですから、万物は永遠ではなく、人間を含めたこの世のすべてのものが、神によって造られ、生かされ、保たれ、締めくくられるのですから、「思慮深く」冷静に見極め、「身を慎んで」目覚め、祈りに向かっていることが大切なのです(マタイ26章36~46節参照)。
この祈りへの集中によって、私たちの信仰の領域は拡げられ、神を知ることが豊かにされ、神への信仰と信頼が確かにされていくのです。

2.キリストにある命を分かち合う 8~11節
祈りへの集中は、相互の分かち合い築き上げていきます。何よりもまず、聖霊によって神の愛を注ぎ続けていただくことにより(ローマ5章5節)、心を込めて、深く愛し合うことを貫き、多くの罪を覆うことをさせていただくのです(8節)。そして、神の愛とキリストの忍耐をいただいて、不平を言うことなくもてなし合うのです(9節)。そのためには、各々が神から与えられているそれぞれの賜物を差し出して、互いに仕え合うのです。神の言葉を語るにはふさわしく、奉仕するにおいても力に応じて、「恵みの善い管理者として」用いさせていただくのです(10~11節ab)。
ただ、これらの分かち合いは、私たちを祈りの場へと追いやっていただくことによって可能となります。そして、キリストの愛と力を覆っていただいていることを讃えるのです(11節cd)。

受け入れる力(2016.3.6)

宣教題  「受け入れる力」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章46~56節

主イエスは、どのような人でも受け入れてくださいます。人は、その主イエスを受け入れ、また他者をも受け入れ、互いに受け入れ合うことによって生きていくことができるのです。弟子たちの心と主イエスの心を比較することによって、受け入れることの大切なことを知るのです。

1.弟子たちの心
弟子たちは、だれがだれよりも偉いかとの議論をしています(46節)。そのような議論に至ったのは、弟子たちの間で比較し合ったり、その違いを意識し過ぎたりしたことによったと思われます。主イエスは、そのような彼らの心の内にある傲慢を見抜いておられます(47節)。
さらに、弟子たちは、自分たちの仲間になっていない者たちが主イエスのお名前を使って悪霊を追い出し、自分たちと関わりのない所で御業をしていることを非難しています(49~50節)。また、サマリア人が主イエスを歓迎しなかったことに怒っています(52~56節)。彼らの心には、自分たちのことを自慢する誤ったエリート意識があったのです。
弟子たちのこのような心は、主イエスに受け入れていただいていることを忘れた思いあがりから生じてくるものでした。

2.主イエスの心
主イエスは、当時の人々が何の役にも立たないと思っていた「子供」を受け入れておられます
(47節)。このことは、主イエスが、この子供に等しい存在であることを認める者を受け入れていてくださることを教えておられるのです。この主イエスを受け入れる者が、主イエスをお遣わしになった父なる神を受け入れる者なのです(48節)。主イエスは、価値や有用性によっておしはかられるのではなく、ただ罪によって失われていく命をいとおしんでいてくださるのです。そのために、十字架に向かって決然と歩み出されたのです(51節)。
主イエスを受け入れた者は、他者を受け入れるのです。ちょうど、主イエスが弟子たちの足を洗って彼らを受け入れられたように(ヨハネ13章1~20節)、私たちも互いに受け入れ合うことにより、新しい関係を造りだしていくのです。

主を賛美するのはだれか(2016.2.28)

宣教題  「主を賛美するのはだれか」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ2章1~11節 ローマ15章9節a

1.ヨナの祈りと賛美
ヤッファへ、船へ、船底へ下って入ったヨナは、ついに海へと下っていった。そのまま海の藻くずとなるのかと思った時、主は魚を備えてヨナを救われた(1節)。ヨナはこれこそ自分の叫びへの主の答えであると思った(3節)。なぜなら、海の中、地の底まで下ったために、神に追放されたと思ったヨナは(4~7節a)、主を覚えて祈ったところ、主はその祈りに対して、聖なる神殿で聞き、答えられたからだ(7b~8節)。それゆえ、ヨナは感謝の声をあげ、いけにえをささげ、誓いを果たすと語る(9~10節)。主に頼る素晴らしい祈り、救いの主にふさわしい賛美である。

2. ヨナにふさわしくない賛美
けれども、ヨナの祈りと賛美は実に歯が浮くようなものだ。彼は追放されたのではなく、逃げた者である。聖なる神殿を見たい、と語りつつ、主から逃げようとした。主が聞かれたのは船乗りたちの祈りであり、いけにえをささげ、誓ったのも彼らだった。主への忠誠を捨てたのはヨナであり、主をおそれて賛美をささげたのは、偽りの神々に従っていた者たちだった。ヨナの賛美はどこかちぐはぐな印象を与える。ここまでのヨナの姿がこの賛美と調和していないからである。

3.主のあわれみ
ヨナは、異邦人の船乗りたちが歌うべき賛美を歌っていた。そして、愚かにも、自分の本当の姿のみならず、主をおそれるようになった異邦人たちの姿にも気づかなかった。しかし、船乗りたちのように、主のあわれみに気がついた異邦人たちは主を賛美するようになる(ローマ15章9節a)。主はそのことを願い、ヨナの気づかない所であらゆる民にあわれみを施し続けられた。
異邦人の祈りにさえ答えられる主は、いつくしみ(忠誠)に富んだ方であり、ご自身のあわれみに気がついたものを救出される方である。さらに、ヨナのように心かたくなで、悟らない者にさえ、そのあわれみのゆえにチャンスを与えられる(11節)。心が頑固な者にさえ忍耐強く関わり続けられる神こそが、私たちの唯一の希望である。

傷ついた葦を折ることなく(2016.2.21)

宣教題  「傷ついた葦を折ることなく」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  マタイ12章17~21節 1ヨハネ4章9節

人は、本来真っすぐに神に向かって生きるように造られたのですが、いつの間にかそうでない複雑な考え方をするようになりました。しかし、私たちは、今日開かれた聖書の御言葉に対して、真っすぐに応答するようにしたいものです。ここには、二つの問いかけがあります。

1.何を見ていますか。 18節a
「見よ、わたしの選んだ僕」との一言には、大切なメッセージがあります。
私たちの周囲には様々な宗教があります。それらの多くが、信仰の名のもとに何かをすることを求めたすることや、何か思いがけない不幸なことなどが起こると供養が足りないなどとの考え方をします。しかし、聖書は、私たちが何かをするのではなく、私たちに「見よ」と見上げることを求めています。それが信仰です。
そして、ただ漫然と見上げるのではなくて、「わたしの選んだ僕」を見よと言われます。この僕こそ、人の子として誕生してくださり、十字架の身代わりの死を遂げてくださり、復活されたイエス・キリストです。すなわち、信仰している私にではなく、イエス・キリストが大事であり、このお方に焦点を置くように招いておられるのです。

2.何によって生かされていますか。  18節b~21節
イエス・キリストがお持ちの「正義」は、私たちの弱い心、はかなく見える魂を生かし用いてくださいます(18節c~20節)。それは、神の愛の現れであるイエス・キリストによって「わたしたちが生きるようになる」ことです(1ヨハネ4勝9節)。このようにして、人が自分で神から遠い者であると思い込んでいる者に希望を与えてくださるのです(21節)。
イエス・キリストは、神と断絶して死んでいた者を生かしてくださり、失敗した人生に対して見捨てることなく生かしてくださり、その人を有用な人として持ち味を生かしてくださり、永遠まで生かしてくださいます。私たち一人ひとりは、自分自身が「傷ついた葦」「くすぶる灯心」であることを自覚して、正義と愛に満ちて生かしてくださるイエス・キリストを信じ受け入れ、信頼することから始めさせていただきましょう。

心の武装を(2016.2.14)

宣教題  「心の武装を」             宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ペトロ4章1~6節

神の御心に喜んでお応えしていこうとする生き方を貫くためには(3章21節)、心の武装をして歩む必要があります。洗礼を受けてからの「残りの生涯」は、付け足しではなく、本番そのものです(2節)。その歩みは、どういうものなのでしょうか。

1.一筋の心を保ちながら  1~2節
「苦しみ」には孤独がつきものです。しかし、私たちには十字架の上に死に、復活されたキリストがおられます。このキリストに結ばれている者は、キリストの苦しみにあずかる特権をいただいているのです。それゆえに、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と命じられているのです(1節)。同じ心構えとは、父なる神の御心に一切ゆだねきったキリストの柔和と忍耐と従順に倣うことです。
私たちは、神の御心に従うことにおいて、一筋の心を保つことができるのです。それは、私たちの心を裂き、思いを分断する「欲望」に従うことではありません(2節)。十字架の死に至るまで従順であられたキリストを小さく見くびることなく、神の御前に謙り続けるならば、神の御心に従って生きることができるのです。

2.一筋の道を走り抜く  3~6節
キリストに結ばれた者は、やがて生ける者と死ねる者とをさばかれる方を畏れる生き方をします(5節)。彼らがキリストの再臨を前に死を迎えて、それが罪の刑罰としての死のさばきを受けたように見えても、生きている間に福音を聴いて信じているゆえに、キリストにあって永遠に生きる者とされているのです(6節)。
今、キリストに結ばれた者は、「かつて」の自分に戻ることのないように造り変えられたのです(3節)。ですから、かつての乱行に加わるような生き方をするのでなく、新たな価値観をいただいてキリストと共に走り抜き、信仰の戦いをするようになったのです(4節、ヘブライ12章1~2節)。このような一筋の道を走り抜く生き方が、人の心を動かし、キリストを証しすることになるのです。

まっすぐに生きる(2016.2.7)

宣教題  「まっすぐに生きる」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章37~45節

主イエスが、山の上で変貌されるという高く引き上げられた世界から下りてこられると、途方にくれている群衆及び悪霊に取りつかれた子とその父親の苦しみと悲しみの中に生きる世界が待ち受けていました。主イエスは、そのような状態を「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われて、神の偉大な御業をなされました。主イエスは、どのような方なのでしょうか。

1.顧みられる主  37~40節
「よこしまな時代」とは、主イエスに対してまっすぐに生きていない曲がった時代です(41節)。罪や汚れそして弱さと言ったものを持っている人間は、神との関係が曲がって不信仰な状態にあるのです。そのような中から救われて、神との関係がまっすぐにされる必要があるのです(使徒言行録2章38~41節)。
主イエスは、「見てやってください」(38節)と懇願する父親に対して、「あなたの子供をここに連れて来なさい」(41節)と招かれました。このようになさる主イエスは、曲がった不信仰な状態にある者に目を留めてくださり(ルカ1章48節)、惜みなくそして限りなく顧みてくださる方です。

2.忍耐し担われる主  4Ⅰ~45節
さらに主イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました(41節)。これは、付き合ってはいられないと、投げ捨てておられるのではありません。忍耐して、支え、持ち運ばれるという意味で言われたのです。そのようにして、主イエスは子供を癒して回復させられたのです。それを見て驚く人々に、主イエスは再びご自身の受難の予告をされました(44節)。
主イエスは、十字架の身代わりの死によって曲がった時代を変え、そして人を担い、持ち運び救われる方です(イザヤ46章3~4節)。ですから、神の前に曲がった歩みをしている私たちは、まず主イエスの前に膝をかがめて砕かれ悔いるとき、まっすぐに生きる者とされるのです。そのように生きる者の群れが、教会です。

聖なる主をあがめよ(2016.1.31)

宣教題  「聖なる主をあがめよ」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ペトロ3章13~22節

私たちは、キリスト信仰のゆえに苦難を経験することがあります。しかし、天の御国の視点
に立ってそれを見るならば、キリストと共に勝利する者とされていることを知ります(13~14節)。ですから、恐れたり心乱したりすることなく、「心の中でキリストを主とあがめ」るように勧めているのです(15節a)。それは、どのような信仰の歩みなのでしょうか。

1.希望の弁明  15節b
ペトロは、キリストを主と告白することが「希望」であると言っています。なぜならば、キリストは十字架の苦しみを通して罪の支配下にある者を神のもとに導かれ、その死から復活されて勝利されたからです。そして、復活されたキリストは、昇天されて神の右に着座され、今も変わらずに尊厳と栄光と権威をもってすべてをご支配しておられるからです。人が洗礼に与るのは、このキリストご自身と御業を正しい良心をもって応答することなのです(18~22節)。
私たちは、この与えられた希望について説明を求める人には、「だれでもいつでも」(新改訳聖書)弁明できるように備えておくことが必要です。このようにして、この希望を語り伝え、また見せ、そして一緒に与ることが大切なのです。

2.弁明の態度  16節
弁明するものに求められる姿勢があります。自己主張せずまた尊大ぶらずに「穏やかに」語ることです。神への畏れと「敬意」をもって語ることです。「正しい良心」をもって、自分の生活態度が弁明することと矛盾することのなく生きることです。これらの三つが結ばれるとき、弁明は効果的に働くのです(16節a)。
福音の光は、敵対する人の目と心とを開きます(16節b)。その良い証しが、ステファノです
(使徒言行録7章54~60節)。彼は人々の激しい怒りや憎悪の中にあって、神の栄光と復活のキリストを見ていました。そして、その復活のキリストを証言し弁明しました。そこには、苛立つことなく落ち着いた姿がありました。
同じように私たちは、キリストをきよめてくださる主として心の中にお迎えしましょう。

この日を正月としなさい(2016.1.24)

宣教題  「この日を正月としなさい」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  出エジプト12章1~14節 2コリント5章17節

聖書に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)とありますが、この時はイスラエルの民の歴史にとって、転機的な時であり、新たな歩みが始まった時でした。
それは、私たちが神の子として自覚的な誕生をし、そこから新たな歩みをすることがいかに大切であるかを語っています。

1.イスラエルの正月とは
イスラエルにとってこの転機的な出来事は、二つの意味がありました。一つは、エジプトに住む家畜をも含むあらゆる初子を撃つという神の審きがなされるに際して、屠った小羊の血を取って家の柱と鴨居に塗っておけば審きが過ぎ越すということでした(6~7節)。もう一つは、酵母を入れないパンと苦菜を添えて屠られた小羊の肉を食べたイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から解放され、身軽になってそこから旅人として新たな出発したことでした(11~12節)。このようにして、新生イスラエルの歴史が始まったのです。
この神の御業には、大切なメッセージが語られています。神が血を見られられたことにより、神は過ぎ越されるという救いをなされたことです(13節)。

2.あなたの正月は
すべての人は罪を犯しているので、神の審きを受けなければならなくなりました(ローマ3章23節)。そこから逃れる道は、ただ一つです。私たちの身代わりとして十字架に血を流して死んでくださった神の小羊であるキリストを信じることです(ローマ3章24~25節)。神は、このキリストの血を見られ、神の前に悔い改めてキリストご自身を信じる者を救われるのです。ここから神が備えていてくださる新しい歩みが始めまるのです。
キリストを信じるとは、「キリストと結ばれる人はだれでも」とあるように(2コリント5章17節)、キリストを信頼し、キリストと命の結びつきをもつことです。それによって初めて、新しく造り変えられた人生の正月がおとずれるのです。私たち一人ひとりは、それを「この日」にさせていただきましょう。