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礼拝メッセージ

この恵みにしっかり立って(2016.8.14)

宣教題  「この恵みにしっかり立って」        宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章12~14節

「クリスチャンとしての立ち位置は」との問いに対して、ペトロが「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と語っているように、恵みのうちに立ち続けることです。ペトロがここに至るまで、簡潔かつ力強く「勧告をし」「証しし」てきた恵みとは、どういうものなのでしょうか。

1.神の恵みで満ちている
ペトロが、「あなたがたにこのように短く手紙を書き」と言っているのは、「神のまことの恵み」の豊かさを語り尽すことができないほどに、神の恵みは大きく、偉大であるということなのです(12節)。
この手紙には「恵み(カリス)」との言葉が多用されていますが、「神の御心に適う」とも翻訳されており(2章19~20節)、神の恵みの豊かさを表しています。苦しみもまた神の恵みであり、その時にこそ、ひときわ聖霊なる神はクリスチャンに寄り添い、その恵みを自覚させてくださるのです(4章14節)。神の恵みを立ち位置とするゆえに、「信仰にしっかり踏みとどまって」歩むのです(5章9節)。

2.恵みの交わりに生きている
この手紙が結ばれるに際して、神の恵みに共に生きるペトロの協力者が紹介されています(12へ13節)。シルワノ(シラス)は、パウロと労苦を共にする協力者でした(使徒言行録15章40節、16章19節)。彼は、ペトロが「忠実な兄弟と認めて」おり、洗練されたこの手紙を書いたのです。また、失敗経験のあるマルコを再出発させ、「わたしの子マルコ」と呼んでいます。そのマルコが「福音書」を残したのです。
さらに、ローマにあってペトロと共に戦う人々との祈りによる交わりがありました。ペトロ自身は、「互いに」真実な愛と平和(平安)が保たれた交わりを願って祈っています(14節)。その彼を支えていたものは、主イエスの絶えざる執り成しの祈りでした(ルカ22章32節)。私たちは、この祈りの交わりを重んじるのです。

平安であるように(2016.8.7)

宣教題  「平安であるように」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ14章27節、20章19~20節

教会で広く用いられている言葉の一つに「シャローム」があります。「平和」とか「平安」と訳されており、語感からすると、前者はより外面的な他との関わりを示しており、後者はより内面的な心の状態を表しています。両方の意味を含んでいるのですが、今こそ私たちの心と生活に必要とされるものです。

1.平和をつくるために
主イエスは、何が幸いといって、「平和を実現する人々」すなわち平和をつくる者こそが幸いであると言われました(マタイ5章9節)。私たちの個人の生活、家庭の生活、社会での生活、また国家に関することなど全てにおいて、他者との関わりの中にある平和を積極的に求めて平和をつくり出すことが求められています。
ところが、そうした平和を乱す争いの芽は、私たち自身の中にある争い合う欲望にあります(ヤコブ4章1~2節)。ですから、その自己中心の罪を解決していただき、私たちの内に揺るがない平安をいただくことによって、真に平和をつくり出す道が開かれるのです。

2.キリストの平安を与えられて
主イエスは、十字架にお架かりになる前夜、弟子たちにぜひとも受け取って欲しい、持っていて欲しいと願われたのが「平安」でした(14章1節、16章33節)。それは、キリストの平安であり(14章27節)、復活された主イエスがお与えになる「平安」でもあります(20章19~20節)。
この平安は、「世が与えるように与えるのではない」とあるように、富や、教養や、善行や、運に関係なく、主イエスに対する信仰によってのみ与えられるのです(14章1節)。そこには、主イエスの十字架の身代わりによって罪が全く赦され、復活の主イエスが与えてくださる永遠の命に生きる喜びをともなった平安があります。キリスト信仰者の失うことのない財産は、キリストの平和(平安)です。

必要なことはただ一つ(2016.7.31)

宣教題  「必要なことはただ一つ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章36~42節

「必要なことはただ一つだけである」と語られた主イエスの御言葉は(41~42節)、今のこの社会を駆け巡る様々な情報の中で、行き先を見失いそうになっている私たちに向けられている御言葉である。

1.主イエスを見失わない
ここでは、「もてなし」という言葉に表されている奉仕を限定して、御言葉に聴従することを推奨しているのではありません。それは、先回の箇所での勧めにあったことからしても明らかです(25~37節)。主イエスは、マルタが「思い悩み、心を乱して」もてなし奉仕していることに対して(41節)、必要な一事を欠いていると言われたのです。それが、マリアを不満に思い、非難し、あげくは「何ともお思いになりませんか」と主イエスを非難することとなって表れています(40節)。
その原因は、マルタが、主イエスに心を配りながらも、イエスが「主」であることを見失って、自分が主人となっていたことにありました。私たちは、その信仰の歩みにおいて「主」イエスを見失わないようにすることが必要です(ローマ14章9節)。

2.御言葉に聴くことが乏しくならない
主イエスは、マルタとマリアからもてなされることを心からお受けになっておられます。先立って主イエスは、彼女たちが御言葉のもてなしに与るよう招いておられます。そこで、マリアが「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)ことを必要な一事と言われたのです。御言葉に聴き続けることによって、どう生きていくかが造り出されていくからです(ローマ10章17節)。
信仰の歩みは、日々のあらゆる礼拝の場において、ありとあらゆる機会において、御言葉に聴き続ける経験をしながら、主イエスへの「もてなし」にいそしむことができるのです。主イエスが恵みによって選んでくださったので「マリアは良い方を選んだ」のです(42節)。御言葉に聴き続ける信仰の歩みは、その行動を大胆にします。

新しいヒーロー(2016.7.24)

宣教題  「新しいヒーロー」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  1テサロニケ1章9~10節

聖書にはイエスというヒーローが登場する。ヒーローの取り巻き(弟子)の中でもその筆頭はペトロであった。漁師であった彼は網を捨て、イエスに従っていった。イエスがイスラエルを復興してくれると期待していたからであり、イエスの王国でより力ある立場に立ちたいと願っていたからである。過ぎ越しの祭において、自らはこれから十字架に架けられる、そして弟子たちはみな裏切る、と予告したイエスに対して、自分は最後まで裏切らないと語った。

1.自分の生き方に気づく
捕らえられたイエスは逃げず、反論もしなかった。ペトロは裁判にかけられているイエスの所に残った。しかし、イエスの仲間だ、と言われた時、イエスなど知らない、と三度も否んだ。ペトロが、この世界を支配しているのは力であると信じていたからであり、死をもって脅かされれば、それに従う人であったからである。ペトロは、自分がヒーローにはなれないことに気がつかざるを得なかった。

2.自分の生き方がゆるされる
死という脅かしに屈しなかったイエスは、それゆえに死に対して十字架で勝利した。生けるまことの神はイエスを三日の後に死人から復活させられ、十字架が罪と死に対する勝利であることを明らかにされた。それだけではない。自分を裏切ったペトロをイエスはゆるされた。責めず、受け入れた。イエスというヒーローは、ひたすらに与えつづけるヒーローであった。ペトロは、ゆるしを受け入れ、ゆるされた者として、イエスをヒーローとして歩みはじめた。死と罪と力という偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるものとして、神のわざに加わっていった。
イエスに出会うことによって、イエスを知り、自分の姿を知る。ヒーローである方を裏切るような自分であることに気がついたわれらにイエスはゆるしと方向転換を与えてくださる。新しいヒーローに出会い、自分の姿に気づき、ゆるしをいただこうではないか。

聖霊に信頼して(2016.7.17)

宣教題  「聖霊に信頼して」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ1章2~10節
私たちの教会は、霊的に健全な教会であるか、と問われています。霊的とは、信仰者や教会が聖霊との関わりの中に生きているかということです。ですから、私たちは、聖霊に信頼して、聖霊の導きを喜びとして、「力と、聖霊と、強い確信とによっ」て歩んでいくことが大切なのです(5節)。

1.福音が継承されている  4節、6節、9~10節
テサロニケ教会は、福音の一石が投じられ、そこから福音の波紋が拡がっていったことにより誕生し形成されました(使徒言行録17章1~9節)。そして、模範的な教会として成長していきました(1テサロニケ1章2~3節)。神に愛され神に選ばれた彼らは(4節)、聖霊による宣教が展開されていく中から、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」たのでした(6節、ルカ10章20~21節参照)。
その救いの実際は、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」(9節)のであり、再臨の主の御前に立つ望みをいただいているものでした(10節)。私たちは、この聖霊による救いを受け継いでいるのです。

2.福音が共鳴している  2~3節、5~8節
福音によって、テサロニケ教会だけが誕生し形成されただけでなく、周囲の地方全体に波及して行きました(7~8節)。テサロニケの信徒たちは、主イエスとパウロに倣う者となって、信仰と愛と希望とに満たされた実を結び、周囲の人々に感化を与えて行ったのです(3節、6節)。このようにして、聖霊のなされる働きの結果が、見本となって人々の前に陳列されたのです。
いつの時代であっても、どこの地域であっても、教会は聖霊による福音に生きる共同体であり、それが周囲に響き渡る聖霊による福音の共鳴体です。聖霊に信頼して、聖霊の導きをいただくことを心から願い、それが私たちの教会の現実となっていきますように!

苦難の中で輝く信仰(2016.7.10)

宣教題  「苦難の中で輝く信仰」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章8~11節

聖書は、キリスト信仰を持てば困難や苦しみがなくなるとは言っていません。むしろ、信仰を持ったがゆえの試練があることを教えています。しかし、いかなる中にあっても、神は信じる者を守り、支え、倒れそうになる時に起こされる「力」をお持ちです(5章6節、10~11節)。

1.敵前の生活  8~9節
神の子とされた者が、神の召しに応じて、神の御心に従って歩んでいこうとする時に、そこに絶えず霊的な戦いがあります。神が主であることを見失わせたり、神への信頼を揺さぶらせたり、神が導いておられることを疑わせたりするのです。ですから、身を慎んでいなさい、目を覚ましていなさいと命じています(8節、マタイ26章40~41節参照)。
そして、妥協することなく、逃避の道を選ぶのでもなく、執拗かつ巧妙に挑んでくる「悪魔に抵抗しなさい」と命じているのです。その抵抗の底力となるのが、「信仰にしっかり踏みとどまって」神を信頼することです(9節a)。そこにおいて、信仰の交わりが培われていくのです(9節b、詩編23編5節a参照)。

2.御前の生活  10~11節
そのような敵前の生活にあって、「あらゆる恵みの源である神」の御前の生活を送るのです。恵みの神は、「永遠の栄光」にふさわしく繕って整え、堅く立たせてくださり、強さに満たしてくださり、揺らぐことのないようにしてくださり、恵みの力を体験させてくださるからです(10節)。すべてを計画し、確かな約束を与えてくださる神は、すべてを成し遂げる力を持っておられるのです(11節)。
信仰の目を開いて、苦しみの背後に働く敵を見極めながら、同時に永遠の神の御支配を見つめつつ、私たちの必要を恵みのうちに備えてくださる神に信頼し、期待し、「しばらくの間」の苦しみを乗り越えさせていただくのです。

憐れみに生きる(2016.7.3)

宣教題  「憐れみに生きる」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章25~37節

この譬え話に登場する祭司やレビ人は、旅の途中で傷ついた人を見つけながら避けて通りました。他方サマリア人は、傷ついた人の隣人になって、その重荷を負い愛のわざをしています。私たちが、憐れみに生きるとは、どういうことなのでしょうか。

1.憐みの心に生きる
律法の専門家は、主イエスと問答しています(25~29節)。彼は、永遠の命を継ぐのは、神への愛と隣人への愛に生きることであると知っていました。続いて主イエスがそれを実行するように言われたことに対して、彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」と自分を正当化するように問い返しています。
それに答えるように主イエスが語られた譬え話は、誰が自分にとって隣人かではなくて、助けを必要としているその人にとって誰が隣人なのかを問われているのです(30~35節)。「その人を助けた人です」と答えた律法の専門家に、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました(36~37節)。今日まで、このような隣人を憐れむ心をもったグッド・サマリタン運動が展開されてきました。

2.主の憐れみによって生かされる
私たちには、祭司やレビ人を非難できない現実があります。人の痛みを察する想像力の貧しさ、愛の思いの貧しさを知っているからです。
しかし、私たちは、神を愛する前提として、神に無条件で愛されていることを知っています。主イエスの中に神の愛が明らかにされていることを見聞きしています(10章23~24節)。この譬え話に登場する憐れみに生きるサマリア人こそ、主イエスご自身を表していると言えます。
主イエスの十字架における無限の愛によって、私たちは救われたのです。ですから私たちは、主イエスの憐れみに生かされて、限りある仕方で憐れみに生きる者にされるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と聴き続けるのが教会です。

自分が変われば(2016.6.26)

宣教題  「自分が変われば」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ2章1~11節、2コリント5章17節

私たちが生活していく上でいちばん難しいことは、人と人との関係と言われます。それを難しくしている原因が、自分を取りまく人や状況にあると思ってしまっていることにあります。私たちは、自分自身を変えることが至難のわざであることを知って、主イエスによって変えられることから始めてみてはどうでしょうか。

1.人生の喜びをもたらされる主
婚礼の席において水がぶどう酒に変えられた奇跡は、主イエスの「最初のしるし」でした。これは、万物を創造されて支配される神にとって、たやすいことでした。それは、泥水から美味しいフルーツの実を結ぶように、神が日常茶飯事に絶え間なく続けておられる奇跡です。
主イエスは、苦しみや失望の時の救い主であるとともに、婚礼のような幸福に満ちた時の救い主でもあられます。私たちは、そのようないかなる時であっても、主イエスを救い主としてお迎えすることにより、人生に喜びをもたらしてくださるように招かれているのです。

2.人の心と生涯を新しくされる主
婚礼の席における主イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われましたが、後に「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(12章27節)と言われました。この「わたしの時」とは、主イエスが十字架で身代わりの死を遂げくださる時のことでした。それによって主イエスは、人の心と生涯を変えて「新しく創造」してくださったのです。そのためには、一人ひとりが「キリストと結ばれ」、主イエスの中に植え替えられ、根付くことです(2コリント5章17節)。
奇跡と言えば、人の心と生涯が新しくされて変えられることほどに大きな奇跡はありません。そのために、主イエスが十字架にかかられて後に復活されたのです。主イエスに新しく創造され、その奇跡にあずからせていただきましょう。

神のあわれみを知る(2016.6.19)

宣教題  「神のあわれみを知る」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ4章1~11節、マタイ20章15節

自分以外のだれかを、それも自分に敵対するようなだれかにあわれみを示される神をあなたはどう思うか。

1. ヨナの怒り(1~4節)
神がニネベを滅ぼすことを思い直したのを知って、ヨナは不愉快に思い、怒った。当初、ニネベに行こうとはせずタルシシュへ逃げたのは、ニネベに行って語ったならばきっと神は思い直すと知っていたからだ。さらに、神が思い直したら、偽りを預言した者として、自分が恥を被ることも知っていた。思ったとおりになったので、ヨナは死ぬ方がましだ、とつぶやいた。

2. 惜しむヨナ(5~9節)
不機嫌なヨナは、熱さの中、ニネベがどうなるのか、見届けようとしていた。小屋を建て、日差しを避けた。主はとうごまの木を準備し、それはすぐに成長して、陰をつくり、ヨナを暑さから守った。不機嫌だったヨナが喜んだのもつかの間、翌日、神は虫を備えて、この木を枯れさせた。頭上から照りつける太陽と焼けつく東風のために、ヨナは苦しみ、再度、不機嫌になり、「死ぬ方がましです」(8節)と言いきり、「怒りのあまり死にたい」(9節)とさえ語るようになった。とうごまの木を惜しんだヨナは、それが奪われた時、不機嫌になり、怒った。

3. 惜しむ神(10~11節)
とうごまの木の件で怒っているヨナに主は、「お前はとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)と語った。自分が育てたわけでもないし、成長するのに時間がかかるわけでもないものが奪われて、怒っている、と諭した。そして、ヨナに主のニネベに対する思いを想像するように求めた(11節)。大いなる都、十二万以上の人、無数の家畜がいるこの地が滅びたとしたら、この町を育ててきた主はどれほど不機嫌になるだろうか。神はニネベを惜しんでいる。だから、すぐに怒らず、わざわいをくださず、むしろそれを思い直した。
私たちは、自分に敵対する者に対して神が気前よく振る舞う時、それをねたむ(マタイ20章15節)。自分の都合のいいように神を用いたいからである。しかし、神があわれんだのは、ニネベだけではない。理解しようとしないヨナさえもあわれみ、とうごまの木を備えられた。私たちの敵をあわれむ方だからこそ、私たちをあわれんでくださるのだ。

神の心配(2016.6.12)

宣教題  「神の心配」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章6~7節

信仰者の歩みは、さまざまな試練に悩む中にあっても、主イエスによって「生き生きとした希望」が与えられています(1章3~6節)。そして、いかなる時にも「神の力強い御手の下で」、神が「心にかけて」心配してくださる中を歩み続けるのです。

1.自分を低くしなさい  6節
神は「謙遜な者には恵みをお与えになる」(5章5節)との確かな約束を与えていてくださいます。この約束の根拠の上に「自分を低くしなさい」、すなわち低くされなさいと勧めておられます。そして、低くされる仕方として「なにもかも神にお任せしなさい」と言われています(7節)。
そのように、信仰者が低くされる場は「神の力強い御手の下で」、との信仰の確信に生きることができます。そして、この神の力により、信仰によって守られているゆえに(1章5節)、「かの日には高めていただけ」るとの期待があるのです。この確信と期待をしっかり受けとめることを通して、信仰者の内に「低くされる」との真の謙遜が生まれてくるのです。

2.お任せしなさい  7節
私たちは、こうした確かな約束をいただく中にあって、さまざまな試練の中に身を置くときの思い煩い、また教会の交わりの中での思い煩いがあることを認めざるを得ません。しかし、そこにおいて、神が心配し、配慮して、「心にかけていてくださる」という確かな支えがあるのです。
ですから、さまざまの思い煩いの事柄を自分で背負わないで神に背負っていただき、神の御力の上に丸投げするように委ねることを勧めています。ここに、「低くされる」との真の謙遜があるのです。このように、私たちは、遠慮することなく、また無理に自分の思いを殺すことなく、さまざまな思い煩いを自分だけのものにせず、神の領域に属することとして、神の配慮の内に任せ切ることです。

喜びの転換(2016.6.5)

宣教題  「喜びの転換」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章17~24節

喜びは、人が生きていくうえでの原動力となります。また何を喜びとしているかによって、その生き方が決まってきます。ですから信仰者は、主イエスがお持ちであった「聖霊による喜び」が私たちの喜びとなるという喜びの転換が必要です。そうすることによって、神に喜ばれる者となるのです。

1.天に結ばれた喜び  17~20節
主イエスに遣わされた72人は、主の御業をなす権威を授けられ、主の御名によって使命を成し遂げることができたことを喜びました(17節)。そのとき主イエスは、背後で祈りつつ、彼らを思いやる御心を持って、彼らの労苦を見守っておられたのです(18~19節)。
しかし、主イエスは、そのように主の御業がなされたことの結果としての喜びだけで終わるのではなく、状況や条件や立場によって左右されることのない天に結ばれていることを喜ぶように勧められました(20節)。この天に結ばれた喜びは、逆境や失敗や試練の中にあってもなお失われることなく、望みをもって歩ませる力となります。この喜びに生きるとき、真に神の期待に応えることができるのです。

2.聖霊による喜び  21~24節
続いて主イエスは、「天地の主である父」に祈られました。その祈りには、父なる神が讃えられることを喜び、父なる神の御心が成ることを喜び、父なる神との深い信頼を喜んでおられることが表れています。それが、「聖霊によって喜びにあふれて」というご経験でした(21~22節)。その喜びは、主イエスとその恵みのすばらしさを見聞きしていた弟子たちの喜びの経験でもあったのです(23~24節)。
それは、私たちの喜びでもあります。私たちは、主を賛美できることを喜ぶ以上に、主が賛美されることを喜ぶのです。さらに、主を信頼して、主の御心がなることを喜ぶのです(ローマ14章17~18節)。

野の花を見よ(2016.5.29)

宣教題  「野の花を見よ」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ6章25~34節

造り主なる神は、悠久なる大自然、大宇宙を造られ、それを支えておられます。そればかりか、「野の花」とりわけ小さな花のひとひらに至るまで、まことに緻密で用意周到に造られました。この「野の花」を注意して見ることにより、愛の神を知り、自らの生き方を問い直したいものです。

1.造り主を信頼する
造花には命がなく、生花には命があります。命を創造することは、人間の科学の世界には許されていないのです。真似はできても、命を創造することは、造り主の独壇場です(29節)。野の花が花を咲かせて精一杯生かされているように、人は神から与えられた命を精一杯生きるのです(30節)。ここに、生きる喜びがあります。
よく考えてみるならば(28節)、野の花が造り主によって育てられ、運ばれるままに生きるように、人は造り主に信頼して生きるのです。ですから、自分のことだけでなく他人のことまで心配したり、今日だけのことでなく将来のことまで思い悩んだりしないで(31~32節)、神を第一として神に信頼して歩むのです(33~34節)。

2.備えてくださる主を信頼する
花は人生の無常さも教えています(30節、1ペトロ1章24節)。確かに、人にはいつ何が起こるか分からないという世のはかない現実があり、また人生の終わりの時が必ず来ます。さらに、神に造られた被造物は、様々な弱さがあることにも気づきます。その弱さを最も覚えるのが、罪の解決を得ていない状態にある時であり、自らの死を覚える時です。
しかし、そこでこそ神の愛に触れ、主イエスの救いに出会う時なのです。主イエスの十字架の愛を信じる者の罪を消し去って罪を責め立てることなく、復活の主イエスを信頼している者が死の恐怖で追い立てられることはありません。ですから、備えられた神の恵みの中を生き、神の前にまっすぐに生きることです(33節)。

思い直される神(2016.5.22)

宣教題  「思い直される神」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ書3章1~10節 ルカ18章14節b

キリスト教の確かさは、その神の確かさに依存する。
1. 変わらない神と思い直すヨナ
主はヨナをニネベに送ろうとした。ところが、ヨナはそれを拒絶し、逆方向のタルシシュへと逃げようとした。しかし、主はヨナを捕らえた上で、魚を用いて海へほうり込まれたヨナを救い出した。そして、ヨナを再度、陸地へと送られた(1〜2章)。主は、前回同様、ヨナをニネベに送る。思い直したヨナは、今回は主の命令どおりニネベへ行き、語るべきことばを一日だけ語った(4節)。神はご自身の計画を変えない一方で、ヨナは思い直してニネベで務めを果たした。

2. 思い直すニネベと思い直す神
ヨナのことばは大きな影響をニネベに与えた。あらゆる階層の人々が、警告を与えた神のことばを信じ、来たるべき災厄を覚えて悲しんだ。その知らせは王にまで届き、王も悲しんだ(6節)。そして、家畜を含めたすべての民に、断食して悲しみ、神へと祈願の声をあげ、あらゆる悪と暴力から離れるように訴えた(8節)。ニネベは悪から離れ、立ち返った。滅ぼすことを決めた神であっても、万が一つの可能性でも、自らの決定を思い直すかもしれない、とニネベの民は信じ、自らの過ちを認め、へりくだった(9節)。すると、神は立ち返った彼らの姿を見て、思い直し(悔い改め)、災いを下すのをやめた(10節)。

3. 変わらない神
神は一度決めたことでもそれを変えられる。そんな神は確かな方だろうか。気まぐれな方では、と疑う。そうではない。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18章14節)という原則に従って、神は思い直す。神が善い方であるという可能性に賭けている人々がご自身に立ち返るのを見、ご自身に叫ぶ声を聞いて、必要ならば思い直される。たとえそれが長く神に敵対していた人であってもである。人に最善をもたらすために、神は思い直す。「へりくだる者」に対して神は思い直す。善い方であるという点において、神は変わらない方、確かな方である。

聖霊による心のきよめ(2016.5.15)

宣教題  「聖霊による心のきよめ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録15章6~11節

ペンテコステに聖霊の降臨を経験し、力強い前進を見た初代教会は、ほどなくして様々な課題に直面することになりました。それは、聖霊の働きが一方的なものではなく、人の側の在り方と無関係でないことを明らかにしているのです。神が聖霊を与えて人々の心をきよめてくださるのも、信仰によるのです(8~9節)。

1.心がきよくされる必要
異邦人も割礼を受けるべきだと主張したユダヤ人たちは(5節)、きよめられる必要のあるクリスチャンの姿を表していると言えます。それは、彼らの心にあったもので、差別意識あるいは優越感(8~9節)、律法主義あるいは無慈悲さ(10節)、神を試みる思い(10節)が問題なのです。
これらは、クリスチャンの心にもあり得るもので、きよめられる必要があります。そのままであったら、自分自身が自由でないし、人を苦しめることにもなるし、教会を混乱させることにもなって、神の栄光を現すことができないのです。聖書は、人の心がきよくされることの幸いを強調しています。

2.心がきよくされる道
クリスチャンは、主イエス・キリストによる救いの恵みを信仰によって受け取った者です(11節、エフェソ2章8~9節)。その心がきよめられ続けるのも同じです(1ヨハネ1章7節)。それを可能にしてくださるのが、聖霊なのです。クリスチャンは、自分の姿に気づかせられて、そこからきよめられることを祈り求め、扱われ、悔い改め、示さけるままに従うのです(使徒言行録5章32節)。
私たちは、「人の心をお見通しになる神」であるからこそ(9節)、きよめられる必要のある性質、とりわけ「かたくなな心」(マルコ3章5節)を聖霊によってきよめていただき、聖霊に満たされて歩むことが求められています。
あなたの「ペンテコステ」は!

互いの謙遜(2016.5.8)

宣教題  「互いの謙遜」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章1~5節

キリストの謙遜が私たちの救いとなり、キリストの救いが私たちを謙遜にします。
ペトロ、長老たち、若い人たちを含む信仰者が、「皆互いに謙遜を身に着け」続けているにはどういう霊的備えが必要なのでしょうか。

1.謙遜に人を導くように  1~4節
キリストの十字架の血によって贖われて神のものとされた一人ひとりが、結ばれて「神の羊の群れ」となっているのが教会です。ペトロと共に長老である者たちは、「キリストの受難の証人」であって終末の栄光にあずかる望みに生きていました(1節)。その彼らが、神の羊の群れとしてふさわしく形造り、養い育てるように命じられています(2節a)。また、神の召しに応えて、喜びをもって自発的に群を身守るように命じられています(2節b、ヨハネ21章15~17節参照)。そして、恥ずべき利益を求めることなく、熱く心が燃えていることが求められています(2節c)。
このように、キリストの僕として(ヨハネ13章12~17節参照)、謙遜に人を導くことによって輝いてくるのです(3~4節)。

2.謙遜に人に導かれるように  5節
続けて、「同じように、若い人たちも、長老に従いなさい」と勧めています。若い人たちは、同じように謙遜を身に着けて、キリストとその御言葉に対して、取り次がれる勧めに対して聴き従うことが大切です。人は服従の勧めに対して、最も不服従になりがちです。ですから、繰り返し、謙遜を身に着け続けることを体験的に学び続ける必要があるのです。
このように、導く人も導かれる人もキリストの謙遜によって神の羊とされたのですから、お互いが謙遜を身に着け続けさせていただいていることが大切です。謙遜に人を導く装い、謙遜に人に導かれる装いを身に着けさせていただくことにより、神の羊の群れは生きるのです。