宣教題 「憐れみに生きる」 宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ルカ10章25~37節
この譬え話に登場する祭司やレビ人は、旅の途中で傷ついた人を見つけながら避けて通りました。他方サマリア人は、傷ついた人の隣人になって、その重荷を負い愛のわざをしています。私たちが、憐れみに生きるとは、どういうことなのでしょうか。
1.憐みの心に生きる
律法の専門家は、主イエスと問答しています(25~29節)。彼は、永遠の命を継ぐのは、神への愛と隣人への愛に生きることであると知っていました。続いて主イエスがそれを実行するように言われたことに対して、彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」と自分を正当化するように問い返しています。
それに答えるように主イエスが語られた譬え話は、誰が自分にとって隣人かではなくて、助けを必要としているその人にとって誰が隣人なのかを問われているのです(30~35節)。「その人を助けた人です」と答えた律法の専門家に、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました(36~37節)。今日まで、このような隣人を憐れむ心をもったグッド・サマリタン運動が展開されてきました。
2.主の憐れみによって生かされる
私たちには、祭司やレビ人を非難できない現実があります。人の痛みを察する想像力の貧しさ、愛の思いの貧しさを知っているからです。
しかし、私たちは、神を愛する前提として、神に無条件で愛されていることを知っています。主イエスの中に神の愛が明らかにされていることを見聞きしています(10章23~24節)。この譬え話に登場する憐れみに生きるサマリア人こそ、主イエスご自身を表していると言えます。
主イエスの十字架における無限の愛によって、私たちは救われたのです。ですから私たちは、主イエスの憐れみに生かされて、限りある仕方で憐れみに生きる者にされるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と聴き続けるのが教会です。