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礼拝メッセージ

もっと強いお方(2016.10.16)

宣教題  「もっと強いお方」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章14~26節

洗礼を受けるということは、救われているということです。救われた人は、どのような生き方をするか、日常生活の中でどのような具体的な姿をとるのかが問われます。この聖書箇所からは、「もっと強い者」(22節)と言われている主イエスの救いとは何かを語っています。

1.神の恵みの中に取り戻される
主イエスは、悪霊のものとされて自由を奪われ、言葉を奪われ、交わりを持つことができない状態にいた人を神の恵みによる救いの中に取り戻され、神との交わり、人との交わりを回復されました(14節)。群衆は、それが神に敵対する悪霊の頭によってなされたと思っていましたので、主イエスは、そのような内輪もめによるのでないことを指摘されたのです(15~19節)。
悪霊は罪に捕らわれている人を告発し、神から引き離そうとしますが、主イエスはそこから神のものとするために取り戻してくださるのです(20~22節、黙示録12章9~11節)。悪霊よりも「もっと強い」主イエスの十字架の血のゆえに、人を告発する悪霊の武具は通用しなくなるのです。それゆえに、神の前に不安はないのです。

2.神の側に立ち続ける
主イエスは、全能の愛の力をもって、人を救いに入れてくださいました(20節)。ですから、その救いの中に留まり続けることが大切です。すなわち、悪霊の側に立つのでなく、神の側に立ち続けていることです。そこには、中間の状態また空白の状態はないのです(24~26節)。
主イエスに結ばれて神の側に立ち続ける者は、主イエスに味方し、主イエスと一緒に集める者です(23節)。私たちは、主イエスが流してくださいました十字架の血によって主のものとされていることを喜び、主イエスと一緒に神の民を集める伝道の働きに加えられて歩むのです。

神の言葉が働く(2016.10.9)

宣教題  「神の言葉が働く」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章13~16節

神の福音は、それをゆだねられた人を通して語られます(2章4節)。そして、その福音は、聞いた人によって様々な受け取り方が生じます(同1~2節)。福音を聞いて受け入れたテサロニケの人々には、神の言葉が生き生きと働いていました。私たちは、語られる神の言葉に対して、どう応答したらよいのでしょうか。

1.神の言葉として受け入れる  13節b
神は、聖霊によって御言葉を与えてくださり、それを受け入れた人の内に聖霊が働きかけて信仰へと導いてくださり、励まし、慰め、力づけくださり、軌道修正してくださり、問いかけてくださり、チャレンジを与えてくださいます。何よりも、神の言葉を聞いて、イエスを救い主と信じる信仰を持たせてくださいます。これが、神の言葉として受け入れるということです。
アテネの人たちに見るように、好奇心からの求道者ではなくて(使徒言行録17章19~21節、32節)、テサロニケの人たちのように、真摯な求道者とならせていただきましょう(13節b)。そうすれば、人格的、内面的に変えられる経験するのです。

2.神の言葉として全く信頼する  13節c
テサロニケの信徒たちは、神の御思いと御心、そして神の将来の御計画をも知るようになっていきました。そして、具体的な態度や行動にも変化が見られるようになっていったのです。すなわち、主イエスとその御言葉を信じることにより、聖霊が神の言葉とともに働いて、新しく造り変えられ続けていきました。それに対して、彼らを主イエスから引き離そうとしたり、救いの恵みから落とそうとしたりするサタンの働きが激しくなっていくことを経験したのです(14~16節)。しかし、彼らは、神の言葉に信頼し続けました。
主なる神は、聖書の御言葉を通して、神の言葉を信頼する者の心のうちに働きかけ、その人をご自身の御心に従わせようとあらゆる方法をもって導かれます。

福音を生きる(2016.10.2)

宣教題  「福音を生きる」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章1~12節

「福音」は(2、4、8、9節)、主イエスの十字架と復活に対する信仰によって、永遠の滅びから永遠の救いへと導くものです。主イエスは、ご自身が信頼され、信任されて「福音をゆだねられている」(4節a)人を通して福音を語らせなさいます。そして、その福音を生きる人の証しを用いられます。どのように生きるのでしょう。
1.神に喜ばれることを  4節
パウロたちは、激しい苦難の中でも「神に勇気づけられ」福音を語りました(1~2節)。その動機は、「神に喜んでいただくため」ということにありました(4節b)。その結果、福音を語ることが、自分の喜びとなり、人にも喜びを与えることとなったのです。それが生活姿勢にも表れています(5節~7節、9節)。
福音を生きる者は、この動機の心をいただいているか神から吟味されるのです。
2.自分自身を分かち与えることを  8節
パウロは、福音を伝える人々をいとおしく思う母のような心をもって愛し抜きました(7節b~8節)。福音を分かち合うことは、「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどに」というように、福音を生きることにつながるのです。
福音を語り証しする者は、主の愛をいただいて、人に対して自分自身を分かち合うことが必要なのです。
3.きよい生活によって裏打ちされていることを  10節
パウロは、父のような心をもって一人一人に権威ある指導をしました(11~12節)。しかし、それには、主イエスによってきよくされて生きるということに裏打ちされていることが大切です(10節)。それは、欠点がない者であるといっているのではなく、「非難されること」がないという点において、動機と心の願いにおいて純粋で、愛において誠実であるということです。
福音を語る者は、このように福音を生きることが必要なのです。

恵みの風を受けて(2016.9.25)

宣教題  「恵みの風を受けて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ3章1~16節

信仰の人生を帆船にたとえるならば、風は神の恵みであり、信仰はそれを受け止める帆ということになります。
ここに、夜の訪問者ニコデモと主イエスとの対話があります。主イエスはこの対話の中で、信仰の帆を張るために二つの「ねばならない」ことを語られました。

1.人は、新たに生まれなければならない  3節
ニコデモは、道徳的に正しく、指導力があり、旧約聖書に通じ、人生経験に富んでいた人物です(1節、4節、10節)。主イエスは、そのニコデモも「新たに生まれなければ」神の恵みの世界を見ることはできないことを明らかにされたのです。彼は、新たに生まれることを肉体面からしか理解できない限界がありました(4節)。
さて、人はだれでも例外なく、新たに生まれることが必要なのです。これこそが、人が神の恵みの世界に生きるための唯一絶対条件です。肉体の誕生は尊く神秘的です。それ以上に、神の恵みの世界に入れられる霊の命の誕生も尊く神秘的です。私たちは、本来の人間になるために、この二つの誕生が必要なのです。

2.イエス・キリストは上げられねばならない  14節
新たに生まれることができるのは、人の力を超えた聖霊の働きによります(5~8節)。それは、人の目には見えなくても、はっきりと体験できることです。
そのために主イエスは、イスラエルの民が不信仰に陥った際に猛毒の蛇にかまれた者は死に、上げられた青銅で作られた蛇を仰ぎ見た者は生きる者となったように(民数記21章4~9節)、罪の猛毒におかされて死ぬべき罪人に代わって、十字架に上げられた主イエスを仰ぎ見る者は救われることを明らかにされました(14~15節)。
人はだれでも、ただ十字架の主イエスを信じ仰ぐことによって新たに生まれ、神の子とされ、永遠の命を得て生きるのです(16節)。ですから私たちは、主イエスの救いの恵みを受け入れる信仰の一歩を踏み出すのみです。

あらゆる問題の根(2016.9.18)

宣教題  「あらゆる問題の根」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章9節~57章13節 ローマ1章23節

山積みの問題に直面すると、素早く一度に全部解決できる方法に私たちは探す。しかし現実は、問題の根が深いため、簡単に解決できる方法などない。聖書は、あらゆる問題の根は、神が造られたものを神として重んじること、すなわち偶像崇拝だと言っている(ローマ1:23)。本来あるべき位置を逸脱するならば、すばらしいものも問題を引き起こしていくのだ。

1.なすべき働きをとどめる偶像崇拝
神の義のわざである「バビロン捕囚からの帰還」をイスラエルは経験したにもかかわらず、当初思っていたような変化が起こらない。むしろ、国や社会の現状を見張るべき人が、その働きを怠っている。危険の到来を警告すべき人が、その仕事をなまけている(イザヤ56:10)。指導者たちは民を導く知恵を持たず、自分勝手に歩んでいる。誰一人として本来なすべきわざを行えないでいる。自分が得をすることだけを求め、足る事を知らないからであ(56:11)。これも一種の偶像崇拝だ。

2. 偽りの希望に生きるようにさせる偶像崇拝
偶像崇拝をしている人々もいた(57:3)。彼らは、主に対して真実に歩むことによって平和をもたらそうとしていた人をあざけった(57:1~2, 4)。偽りの神々のために自分の子どものいのちさえも犠牲とした(57:5)。「高い山」(57:7)すなわちエルサレムの神殿に上り、そこで自分が選んだ神を礼拝した(57:7~9)。驚く事に、偶像崇拝によって力を得たのだ(57:10)。しかし、いざという時、彼らが拝んでいる存在は彼らの叫びを聞く事はない。むしろ風の一息で失せてしまう(57:13)。彼らは偽りの希望に生きている。その希望は必ず失望に終わる。
あらゆる問題の根に取り組むために大切なのは、主に「身を寄せる」(避け所とする)という応答をもって、神に問題を地道に解決していただくことである。解決のための手段を自分で集めてなんとかすることをあきらめて、神にそれを集めて頂くのだ(56:8)。そのとき、私たちが義と誠実と真実をもって神に対して答えることができるように、問題の根に向き合うことができるように、神は私たちを押し出してくださる。

祈ることをまなぶ喜び(2016.9.11)

宣教題  「祈ることをまなぶ喜び」      宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章1~13節

神との交わりであり会話である祈りが、貧弱なものになってしまっていることがあります。そのような時、「主よ・・・わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と、弟子たちが主イエスに願ったことに立ち止まることが必要です。祈りを教えられ、まなぶことに喜びを見いだすのです。

1.まねる祈り  2~4節
ここで主イエスは、主の祈りを教えておられます。「父よ」と親密な関係をもって、神の御名を賛美し、神の恵みの支配が実現していくように祈ります。そこから始まる実生活が、日々の糧が与えられ、罪を赦していただき、試みからの解放がなされるようにと祈ります。この祈りをまなぶ、まねることから、その祈りの言葉を味わい、祈りを重ねていくのです。
神は、たどたどしい祈りやうめくような祈りを聞き分けてくださいます。それとともに、主の祈りに代表されるように、教会の歴史の中で培われた祈りをまねることを通して、豊かな祈りへと導かれるのです。

2.愛しとりなす祈り  5~10節
ここでのたとえ話は(5~8節)、「しつように」臆面もなくしきりに求める祈りの姿勢を語っています。積極的に求め続け、探し続け、たたき続けて願い続けています(9~10節)。このように、遠慮することなく、積極的であることが必要ですが、それは神を強制して自分の要求を承服させる祈りではありません。その祈り求めることが、神との正しい関係をもって、たとえ話にあるように人と人との愛の関係が成り立つところの祈りであることです。
私たちが、まねる祈り、愛しとりなす祈りをまなぶ喜びへと導かれるために、聖霊を与えていただくことを求めるのです(13節)。聖霊は、どう祈ればよいか分からない弱い私たちを助け、執り成し続けていてくださるからです(ローマ8章26~27節)。

主に結ばれて日々に新しく(2016.9.4)

宣教題  「主に結ばれて日々に新しく」      宣教 細見剛正師
聖 書  2コリント5章13~17節

私どもの魂の故郷は、神戸中央教会です。天幕伝道で救われ、伝道者として形づくっていただきました。今日、引退後もこのように伝道者としてご奉仕させていただき、この度は特に教会創立70周年の栄えある日に、礼拝説教のご用にお招きを受け、言葉に表せない、感激と喜びに溢れています。ありがとうございます。

テレビ番組「大改造!劇的ビフォー・アフター」を見ていると、古いぼろぼろの傾きかかった家が見ちがえる程に改造されて、「何ということでしょう!」と驚嘆の声をあげます。今日だれもがこれと似た、これ以上に必要とされているのは、私たちの内側の霊魂の大改造ではないでしょうか。私たちはこれを成し遂げる力ある匠であるイエス・キリストを知っています。『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた』(2コリント5章17節)。イエス・キリストもまた同じく工事は、土台、基礎から始められます。

「ローマの信徒への手紙6章」を開きましょう。『あなたがたは知らないのですか』とパウロは大事な点に私たちを注目させます。知っているつもり、でもなおざりにされている信仰生活のそもそもの出発点です。『キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを』(3節)。私たちは、信仰に入りながらなぜ挫折し、燃え尽きてしまうのでしょうか。自我に死んでキリストに生きていない、神だけが出来る神のわざを自分の力でやり遂げようとするからではないでしょうか。皆さん、頑張らなくていいのですよ(広辞苑で頑張るの語源は我を張る)。主に結ばれた日々に新しい三つの姿がここに生まれてきます。(1)新しい動機:キリストの愛(2コリント5章14節)、(2)キリストの目で見る(同16節)、(3)キリストの使者としての自覚(同18~21節)です。神のあなたへの約束、『見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか』(イザヤ43章19節)。

神様の切なる願い、それはリバイバル(2016.8.28)

宣教題  「神様の切なる願い、それはリバイバル」   宣教 犬塚直樹師
聖 書  創世記35章1~15節

神様の御思い、願いは何でしょうか。それは、リバイバルです。リバイバルとは神様があなたを訪ねて下さること。ご自分の民に出会ってくださり、死んでいた魂を甦らせてくださることです。なぜなら私たちの魂は何度も死んでしまうことがあるからです。創世記35章はヤコブの生涯の集大成で、リバイバルが訪れると、どのように目に見える祝福があるか分かります。

1.肉の人ヤコブ
家族さえも陥れ自我丸出し、自分さえよければという人でした。信仰者家庭に生まれましたが、自分で神様に出会った体験がなかったので、自己中心のところがありました。あなたは神様に出会いましたか。あなたは救われましたか。

2.ヤコブの転機
第1のリバイバルはベテル(28章)です。お兄さんに追われ、孤独で危機的な状況で神様に出会いました。神様の方から近づいて下さいました。今までアブラハムの神、イサクの神でした。しかし、ヤコブは主が私の神であることを体験しました。そして3つの請願をするのです。①主を私の神とします②宮を建てます③十分の一をささげますと。けれども彼の信仰は順調ではなく、3つの請願は忘れてしまい、魂は死んでいくのです。
第2のリバイバルはヤボクの渡し(32章)です。再び兄エソウに会うという不安と恐怖に満ちた時も、神様は彼を訪ねてくださいました。ヤコブの家庭を祝福しようと主自ら来られたのです。御使いとの格闘で、もものつがいがはずれ砕かれました。神様が求めておられることは「砕かれた魂。砕かれた、悔いた心」です。

3.ヤコブへの祝福
(1) 神様に出会う、これ以上の祝福はありません。神様は不信仰や失敗を繰り返してきて、もう投げ出されてもいいような彼を愛し彼に出会って下さいました。(2)祝福の約束を受けるのです。主は御言葉を実現するために来られます。問題の解決がそこにあるのです。(3)ヤコブが祝福されたばかりか、その子ヨセフが幻を受けて、やがてイスラエルの民を救いました。こんな祝福が自分や家族、孫にまで広がるのです。
では、リバイバルはどんな人に与えられるのでしょうか。神様を慕い求める人です。

義をもって義に応える(2016.8.21)

宣教題  「義をもって義に応える」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章1~8節  マルコ1章15節

聖書が語る神は、すべての民がご自身ところに集められることを願っておられる。だからこそ、見捨てられたかと思える人々の所に主は人を遣わされた。

1. 集めようとしておられる主
神の民に加わることができない人々がいた。王宮に仕えるために去勢した宦官たちは、子孫など残しえない枯れ木だ(56:3)と考えられていた。しかし、その名は永遠に覚えられると主は約束される(56:5)。主のもとに来たとしても、異邦人は一段低く見られると考えられていた(56:3)。しかし、神殿でささげものをささげる祭司とする、と主は言われている。神の民に入れないはずの人々を、主は新たに集めよう願っておられる。

2. 義をもって義に応える民
「恵みの業」(56:1)は「義」と一般的に訳される。イスラエルと契約を結ばれた主は、契約に則ったわざ、すなわち義をなされ、民を敵の手から救われた。一方的な神の恵みのわざ、義のゆえに、イスラエルも神との契約にふさわしい形で応えるように招かれている。律法にふさわしい歩み、義こそその応答である(56:1-2)。感謝と喜びのゆえに、心を込めてひとつひとつの正しいわざをなす。このようなイスラエルの義を用いて、主は更に多くの民を自らのところに集めようとしておられる。

3. 集められる者はすでに集められた者のように
さまざまな人が主のもとに集められる。しかし、彼らには一つだけ共通点がある。神の契約を固く守ることが求められている点である(54:2, 4, 6)。つまり、イスラエルのみならず、すべての人に義をもって義に応えることが求められている。そのような意味で、主が新たに集める人は、すでに集められた人々に似た者となる。
イエスのわざによって、神の国は到来した(マルコ1:15)。さらに多くの人を集めようとしておられる神の意図、義をもって神の義に応える私たちという神の手段、私たちの影響力の三つを知ることは大切である。更に多くをご自身のところに集めようとする神は、私たちを通してその義のわざをなされるのだから。

この恵みにしっかり立って(2016.8.14)

宣教題  「この恵みにしっかり立って」        宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章12~14節

「クリスチャンとしての立ち位置は」との問いに対して、ペトロが「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と語っているように、恵みのうちに立ち続けることです。ペトロがここに至るまで、簡潔かつ力強く「勧告をし」「証しし」てきた恵みとは、どういうものなのでしょうか。

1.神の恵みで満ちている
ペトロが、「あなたがたにこのように短く手紙を書き」と言っているのは、「神のまことの恵み」の豊かさを語り尽すことができないほどに、神の恵みは大きく、偉大であるということなのです(12節)。
この手紙には「恵み(カリス)」との言葉が多用されていますが、「神の御心に適う」とも翻訳されており(2章19~20節)、神の恵みの豊かさを表しています。苦しみもまた神の恵みであり、その時にこそ、ひときわ聖霊なる神はクリスチャンに寄り添い、その恵みを自覚させてくださるのです(4章14節)。神の恵みを立ち位置とするゆえに、「信仰にしっかり踏みとどまって」歩むのです(5章9節)。

2.恵みの交わりに生きている
この手紙が結ばれるに際して、神の恵みに共に生きるペトロの協力者が紹介されています(12へ13節)。シルワノ(シラス)は、パウロと労苦を共にする協力者でした(使徒言行録15章40節、16章19節)。彼は、ペトロが「忠実な兄弟と認めて」おり、洗練されたこの手紙を書いたのです。また、失敗経験のあるマルコを再出発させ、「わたしの子マルコ」と呼んでいます。そのマルコが「福音書」を残したのです。
さらに、ローマにあってペトロと共に戦う人々との祈りによる交わりがありました。ペトロ自身は、「互いに」真実な愛と平和(平安)が保たれた交わりを願って祈っています(14節)。その彼を支えていたものは、主イエスの絶えざる執り成しの祈りでした(ルカ22章32節)。私たちは、この祈りの交わりを重んじるのです。

平安であるように(2016.8.7)

宣教題  「平安であるように」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ14章27節、20章19~20節

教会で広く用いられている言葉の一つに「シャローム」があります。「平和」とか「平安」と訳されており、語感からすると、前者はより外面的な他との関わりを示しており、後者はより内面的な心の状態を表しています。両方の意味を含んでいるのですが、今こそ私たちの心と生活に必要とされるものです。

1.平和をつくるために
主イエスは、何が幸いといって、「平和を実現する人々」すなわち平和をつくる者こそが幸いであると言われました(マタイ5章9節)。私たちの個人の生活、家庭の生活、社会での生活、また国家に関することなど全てにおいて、他者との関わりの中にある平和を積極的に求めて平和をつくり出すことが求められています。
ところが、そうした平和を乱す争いの芽は、私たち自身の中にある争い合う欲望にあります(ヤコブ4章1~2節)。ですから、その自己中心の罪を解決していただき、私たちの内に揺るがない平安をいただくことによって、真に平和をつくり出す道が開かれるのです。

2.キリストの平安を与えられて
主イエスは、十字架にお架かりになる前夜、弟子たちにぜひとも受け取って欲しい、持っていて欲しいと願われたのが「平安」でした(14章1節、16章33節)。それは、キリストの平安であり(14章27節)、復活された主イエスがお与えになる「平安」でもあります(20章19~20節)。
この平安は、「世が与えるように与えるのではない」とあるように、富や、教養や、善行や、運に関係なく、主イエスに対する信仰によってのみ与えられるのです(14章1節)。そこには、主イエスの十字架の身代わりによって罪が全く赦され、復活の主イエスが与えてくださる永遠の命に生きる喜びをともなった平安があります。キリスト信仰者の失うことのない財産は、キリストの平和(平安)です。

必要なことはただ一つ(2016.7.31)

宣教題  「必要なことはただ一つ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章36~42節

「必要なことはただ一つだけである」と語られた主イエスの御言葉は(41~42節)、今のこの社会を駆け巡る様々な情報の中で、行き先を見失いそうになっている私たちに向けられている御言葉である。

1.主イエスを見失わない
ここでは、「もてなし」という言葉に表されている奉仕を限定して、御言葉に聴従することを推奨しているのではありません。それは、先回の箇所での勧めにあったことからしても明らかです(25~37節)。主イエスは、マルタが「思い悩み、心を乱して」もてなし奉仕していることに対して(41節)、必要な一事を欠いていると言われたのです。それが、マリアを不満に思い、非難し、あげくは「何ともお思いになりませんか」と主イエスを非難することとなって表れています(40節)。
その原因は、マルタが、主イエスに心を配りながらも、イエスが「主」であることを見失って、自分が主人となっていたことにありました。私たちは、その信仰の歩みにおいて「主」イエスを見失わないようにすることが必要です(ローマ14章9節)。

2.御言葉に聴くことが乏しくならない
主イエスは、マルタとマリアからもてなされることを心からお受けになっておられます。先立って主イエスは、彼女たちが御言葉のもてなしに与るよう招いておられます。そこで、マリアが「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)ことを必要な一事と言われたのです。御言葉に聴き続けることによって、どう生きていくかが造り出されていくからです(ローマ10章17節)。
信仰の歩みは、日々のあらゆる礼拝の場において、ありとあらゆる機会において、御言葉に聴き続ける経験をしながら、主イエスへの「もてなし」にいそしむことができるのです。主イエスが恵みによって選んでくださったので「マリアは良い方を選んだ」のです(42節)。御言葉に聴き続ける信仰の歩みは、その行動を大胆にします。

新しいヒーロー(2016.7.24)

宣教題  「新しいヒーロー」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  1テサロニケ1章9~10節

聖書にはイエスというヒーローが登場する。ヒーローの取り巻き(弟子)の中でもその筆頭はペトロであった。漁師であった彼は網を捨て、イエスに従っていった。イエスがイスラエルを復興してくれると期待していたからであり、イエスの王国でより力ある立場に立ちたいと願っていたからである。過ぎ越しの祭において、自らはこれから十字架に架けられる、そして弟子たちはみな裏切る、と予告したイエスに対して、自分は最後まで裏切らないと語った。

1.自分の生き方に気づく
捕らえられたイエスは逃げず、反論もしなかった。ペトロは裁判にかけられているイエスの所に残った。しかし、イエスの仲間だ、と言われた時、イエスなど知らない、と三度も否んだ。ペトロが、この世界を支配しているのは力であると信じていたからであり、死をもって脅かされれば、それに従う人であったからである。ペトロは、自分がヒーローにはなれないことに気がつかざるを得なかった。

2.自分の生き方がゆるされる
死という脅かしに屈しなかったイエスは、それゆえに死に対して十字架で勝利した。生けるまことの神はイエスを三日の後に死人から復活させられ、十字架が罪と死に対する勝利であることを明らかにされた。それだけではない。自分を裏切ったペトロをイエスはゆるされた。責めず、受け入れた。イエスというヒーローは、ひたすらに与えつづけるヒーローであった。ペトロは、ゆるしを受け入れ、ゆるされた者として、イエスをヒーローとして歩みはじめた。死と罪と力という偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるものとして、神のわざに加わっていった。
イエスに出会うことによって、イエスを知り、自分の姿を知る。ヒーローである方を裏切るような自分であることに気がついたわれらにイエスはゆるしと方向転換を与えてくださる。新しいヒーローに出会い、自分の姿に気づき、ゆるしをいただこうではないか。

聖霊に信頼して(2016.7.17)

宣教題  「聖霊に信頼して」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ1章2~10節
私たちの教会は、霊的に健全な教会であるか、と問われています。霊的とは、信仰者や教会が聖霊との関わりの中に生きているかということです。ですから、私たちは、聖霊に信頼して、聖霊の導きを喜びとして、「力と、聖霊と、強い確信とによっ」て歩んでいくことが大切なのです(5節)。

1.福音が継承されている  4節、6節、9~10節
テサロニケ教会は、福音の一石が投じられ、そこから福音の波紋が拡がっていったことにより誕生し形成されました(使徒言行録17章1~9節)。そして、模範的な教会として成長していきました(1テサロニケ1章2~3節)。神に愛され神に選ばれた彼らは(4節)、聖霊による宣教が展開されていく中から、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」たのでした(6節、ルカ10章20~21節参照)。
その救いの実際は、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」(9節)のであり、再臨の主の御前に立つ望みをいただいているものでした(10節)。私たちは、この聖霊による救いを受け継いでいるのです。

2.福音が共鳴している  2~3節、5~8節
福音によって、テサロニケ教会だけが誕生し形成されただけでなく、周囲の地方全体に波及して行きました(7~8節)。テサロニケの信徒たちは、主イエスとパウロに倣う者となって、信仰と愛と希望とに満たされた実を結び、周囲の人々に感化を与えて行ったのです(3節、6節)。このようにして、聖霊のなされる働きの結果が、見本となって人々の前に陳列されたのです。
いつの時代であっても、どこの地域であっても、教会は聖霊による福音に生きる共同体であり、それが周囲に響き渡る聖霊による福音の共鳴体です。聖霊に信頼して、聖霊の導きをいただくことを心から願い、それが私たちの教会の現実となっていきますように!

苦難の中で輝く信仰(2016.7.10)

宣教題  「苦難の中で輝く信仰」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章8~11節

聖書は、キリスト信仰を持てば困難や苦しみがなくなるとは言っていません。むしろ、信仰を持ったがゆえの試練があることを教えています。しかし、いかなる中にあっても、神は信じる者を守り、支え、倒れそうになる時に起こされる「力」をお持ちです(5章6節、10~11節)。

1.敵前の生活  8~9節
神の子とされた者が、神の召しに応じて、神の御心に従って歩んでいこうとする時に、そこに絶えず霊的な戦いがあります。神が主であることを見失わせたり、神への信頼を揺さぶらせたり、神が導いておられることを疑わせたりするのです。ですから、身を慎んでいなさい、目を覚ましていなさいと命じています(8節、マタイ26章40~41節参照)。
そして、妥協することなく、逃避の道を選ぶのでもなく、執拗かつ巧妙に挑んでくる「悪魔に抵抗しなさい」と命じているのです。その抵抗の底力となるのが、「信仰にしっかり踏みとどまって」神を信頼することです(9節a)。そこにおいて、信仰の交わりが培われていくのです(9節b、詩編23編5節a参照)。

2.御前の生活  10~11節
そのような敵前の生活にあって、「あらゆる恵みの源である神」の御前の生活を送るのです。恵みの神は、「永遠の栄光」にふさわしく繕って整え、堅く立たせてくださり、強さに満たしてくださり、揺らぐことのないようにしてくださり、恵みの力を体験させてくださるからです(10節)。すべてを計画し、確かな約束を与えてくださる神は、すべてを成し遂げる力を持っておられるのです(11節)。
信仰の目を開いて、苦しみの背後に働く敵を見極めながら、同時に永遠の神の御支配を見つめつつ、私たちの必要を恵みのうちに備えてくださる神に信頼し、期待し、「しばらくの間」の苦しみを乗り越えさせていただくのです。