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礼拝メッセージ

主は心を見られる(2017.3.5)

宣教題  「主は心を見られる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章37~44節
人は、目に見える外側のことがらに気遣いをし、内側とりわけ心の状態に対する気遣いをすることにはおろそかになりがちです。主イエスは、ファリサイ派の人たちだけでなく、全ての信仰者の心が清められ続けることを求められるお方です。

1.あなたの心は汚れていませんか
主イエスは、ファリサイ派の人たちとの交わりを持たれながら、「あなたたちは不幸だ」と三度も語られました(42~44節)。彼らは、「外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちて」いたからです(39節)。十分の一の献げ物をするが、人に対する誠実な態度と、神への真実な信頼の心があるかと問いかけておられます(42節)。虚栄と自己中心の心でないかと問いかけておられます(43節)。気づかないで罪を犯している心の状態を問いかけておられます(44節)。
主イエスは、不幸な姿を告げることによって人を退けられるのでなく、汚れた心の状態であることを気づかせるために促しておられるのです。全ての動機は、主と人への愛からですか、それとも自分自身の欲からですか。

2.清めてくださる主を仰ぎ続けていますか
神は、人の体(外側)をお造りになられました。また人の心(内側)をもお造りになられましたので、汚れている人の内側を造り変え、他者に施しをすることに対しても喜んでさせていただけるように清くしてくださるお方です(40~41節)。人は、それによって成長していくのです。
私たちは、主イエスによって造り変えられ、心を清くし続けていただく必要があります。主イエスが十字架で流された血潮は、私たちの罪を清め続ける力があります(1ヨハネ1章7節)。ですから、私たちは主イエスの十字架を仰ぎ続け、十字架の血潮に信頼し続けるのです。

父の愛あふれて(2017.2.26)

宣教題  「父の愛あふれて」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ15章11~24節
この「放蕩息子のたとえ」は、今日の私たちと関わりのない話が語られているのではなく、私たちの人生そのものが描き出されている物語です。正確に言うならば、「失われた息子のたとえ」なのです。

1.人は自由を求める  11節~16節
弟息子は、自由を求めて旅立っています。ところが、その自由を放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、動物以下の生活を強いられました。
人は、自由を誤らせると、罪の誘惑に陥って本来の自由に生きることを失わせます。善悪を区別する力を失わせます。愛情を弱らせ、良心と理性にしたがって生きることを失わせます。ここに、父なる神を離れて生きる人の失われた姿があるのです。

2.人は本心に立ち返る必要がある  17節~20節a
そこで、弟息子は「我に返って」本心に立ち返り、「天」すなわち父なる神に対する罪と、「お父さん」すなわち共に生きる人に対する罪を告白しています。そして、すがる思いをもって「父親のもとに行った」のです。
ここに、父なる神のもとに立ち返る人の姿が表されています。そのまま、ありのまま、立ち上がって父なる神のもとに立ち返る決断をすることが必要なのです。

3.人は神の愛によって回復される  20節b~24節
そのように立ち返った弟息子に対して父親は、「見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。愛は見分ける力があり、走る力があり、無条件に受け入れる力があるからです。父親は、弟息子のそのままを覆い、息子であるしるしの指輪をはめさせ、新しい出発のための履物を履かせ、子牛を屠って迎え入れました。
ここに、独り子イエスを十字架にかけてくださった神の愛が表されています。愛の神は、自分の存在の価値と意味を見いだして、新たに生きる者を喜ばれるのです。

聖なるもの(2017.2.19)

教題  「聖なるもの」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2テモテ2章14~26節
人は、確かな方に愛され、その方に結びついていたい、確かなことを成し遂げたいと切望しています。その確かな方が主イエス・キリストであることを知るならば、その主のお役に立ちたいと願い、「聖なるもの」とされ続けることを求めるのです。

1.貴いことに用いられることは当然である
主は、私たちが「貴いことに用いられる器」(21節)となり、「主の僕」(24 節)となって、神に用いられることを願っておられます。その主の器は、神の愛と恵みと聖霊に満たされ、それを保ち続け、それを他者と分かち合うために持ち運ばれる者です。
そのことを経験している主の器は、「恥じることのない」熟練した働き手となって、「真理の言葉を正しく伝え」分かち与えることができるようにされるのです(15節)。すなわち、教えることと、その人の生活が聖別されて分離していないということです。語ったように、教えたように生きているかとは絶えざる問いかけです。

2.「聖なるもの」となることを求めることは当然である
続く聖書箇所には、20にものぼる罪のリストが述べられていますが(3章1~9節)、自己愛や高慢や腐敗しているクリスチャンの心の状態が語られています。そうした罪の状態がきよめられて「聖なるもの」となることを求めることは、当然なことなのです。
まず、卑しいものから離れ去り、また避けることを決断し(16~19節)、「正義と信仰と愛と平和を追い求め」続けることが大切です(22~26節)。主ご自身は、そのような者をきよめ続けてくださって、主に役立つ者として用いてくださいます。それは、自分のためというよりは、主の働きのために、どうしても必要なことなのです。
主は、有能な器ではなく、主のために有用な器を用いてくださるのです。

あなたは私に何をしてほしいのか(2017.2.19)

宣教題 「あなたは私に何をしてほしいのか」 宣教 スティーブ・ブレディ師
聖 書  ルカ18章 35~43節
答えがはっきりしている質問を投げかける人がいる。主イエスが盲人の物乞いに、何が必要なのかと尋ねたとき、主イエスの投げかけられた質問はそのようなものであったのだろうか。同じように、主イエスは、われらの必要についての質問をわれらに投げかけられたのだろうか。

1.あなたは主イエスに何をしてほしいのか
何もしてほしくないのか。何かしてほしいのか。すべてをしてほしいのか。

2.どれだけ本気にそうしてほしいのか
バルティマイは、本当にそうして欲しいと切願していたし、自分の必要が何であるか、明確に分かっていた。われらもそうあるべきだ。

3.それらが与えられたとき、あなたは何をするのか
与えられたとき、バルティマイは主イエスに従った。あなたはその意志があるか。あなたはそうするか。

主はシオンに来られる(2017.2.12)

宣教題  「主はシオンに来られる」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ59章15b~21節 マルコ1章14~15節
神はこの世界を見られたら、どのように判断されるのだろうか。
主は捕囚から帰還した民の姿を見、そこで正しいさばきが行われていないのを見た(15節)。流血、虚偽、不正が満ち、平和などない。社会の問題の原因は、神の民自身にある(1~8節)。民も、自分たちが暗やみの中を歩んでおり、正義も、救いも、まこともない世界を作りあげてしまったことを自覚している(9~15節)。そんな神の民が神のわざをなすことなど、不可能である。

1. 正しいさばきのために介入される主
世界の現実を見られた神は、それを放置なさることはされない。主は、戦いに長けた勇士として、その世界に介入されて、そこに正しいさばきをもたらす。正義も救いもないところに、それをもたらす勇士として介入され、それぞれにそれぞれのわざにふさわしい報いをもたらすのである(16~18節)。世界を破壊するためではなく、修復するためにそれを行われる。そして、主の霊の働きのゆえに、世界中の者たちは、主の介入を認めるに至る(19節)。

2. 主はシオンに来られる
そして、主はシオンに来られる。問題だらけのシオンに、エジプトからイスラエルを救い出した「贖う者」(20節)として来られる。背く者には、それにふさわしい報復が与えられる。しかし、かたくなな心を解き、罪を悔いる者、つまり、主に立ち帰る者には、救いと再生を与えられる(20節)。シオンは造り変えられ、契約は更新され、神のなさる正しいさばきという介入を証しする者として世界へ遣わされる。神の聖霊とみことばが共に働いて、世界は彼らを通して修復されていくのである。
この世界を見られた主は、イエスを通してこの世界に介入され、世界を修復し、修復のわざを行う民を生み出された。イエスはイスラエルに来られ、シオンに来られ、私たちのところに来られた。罪を悔い、主に立ち帰るところから私たちのこの世界における働きは始まる。

拡がる祈り(2017.2.5)

宣教題  「拡がる祈り」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ3章10~13節
教会に生きる私たちは、熱心に祈る仲間です(使徒言行録2章42節参照)。ここに、テサロニケの信徒たちへの愛と配慮にあふれて祈り続けるパウロがいます(10節)。その祈りは、「どうか」と繰り返されてこだましています。

1.熱烈な祈り  10~11節
テサロニケの信徒の「信仰と愛について、うれしい知らせ」を聞いたパウロは(6節)、喜びと感謝にあふれました(9節)。しかし彼は、彼らの信仰とその歩みが盤石なものとなることを願って、「信仰に必要なものを補いたい」と継続した熱心な祈りをしています(10節)。
そこでパウロは、これまでテサロニケへの再訪を妨げられてきたために(2章18節)、神であられる主イエスが「道を開いてくださるように」と祈っています(11節)。ただ、それが実現したかどうかを聖書は明らかにしていません。
ともあれ、主なる神が開かれる道を歩むことが、信仰者の信仰者たる歩みです。

2.成熟を求めての祈り  12~13節
テサロニケの信徒の信仰に必要なものを補うためにというパウロの祈りは、深まっていきました。苦難の中にあっても信仰者相互の愛が深められ、迫害する人たちだけでなく福音を必要とする「すべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(詩編23編5節参照)。それはパウロ自身がテサロニケの信徒を愛することにおいても同じであり、それらの愛の源は常に主なる神ご自身です(12節)。そして、主の再臨の時に備えて、聖なる者として整えられていく歩みであるようにと祈っています(13節)。
主の再臨待望の信仰に生きることは、愛と聖さに生きることであり、今も変わることのない教会の大切な祈りです。

福音の光に照らされる(2017.1.29)

宣教題  「福音の光に照らされる」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章33~36節
主イエスが、「今の時代の者たちはよこしまだ」(29節)と指摘されましたが、そのような悪い時代だからこそ、キリストの光すなわち福音の光に照らされて、光輝くようにと命じられたのです(ヨハネ8章12節参照)。

1.光であるキリストを心の中に保ち続ける  33~35節
家に入って来る人のためには、光が見えるように、明々と灯されたともし火が用意されます(33節)。このことは、私たちが光であるキリストの招きに応じて、キリストのもとに来ているかどうかを問うておられるのです。
さらに、体のともし火であり光である目が澄んでいるか濁っているかによって、その人の存在そのものが明るくなるか暗くなるかを語られています(34節)。このことは、目が健やかで見るべきキリストを一筋に見ているかどうかによって、その人自身が明るいかどうかが分かるということを言われたのです。
そして、「あなたの中にある光が消えていないか」と問いかけておられます(35節)。そのためには、ご自身の命を投げ出された十字架のキリストを仰ぎ見て(ヘブライ12章1~2節参照)、キリストを心の中に保ち続けていることが必要なのです。

2.キリストの光を輝かせ続ける  36節
このように、内に光であるキリストを保ち続けるならば、その人自身の存在と生涯の歩みを通して、キリストを輝かせ続けていきます。
今日まで、光であるキリストがさまざまな暗闇の領域に臨まれて、個々人の生活と社会を変貌させてこられました。もし、光が暗闇に代わってしまっていることがあるとするならば、私たちは悔い改めて、もう一度光であるキリストの中に歩み直すことが必要です。私たちが、どんなに小さな存在であっても、キリストの中に歩み続けることにより、他者とその周囲を明るく輝かせていくのです。

支配から解き放たれる(2017.1.22)

宣教題  「支配から解き放たれる」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マルコ10章35~45節
1.だれかを支配し、なにかに支配されている人間
私たちはさまざまなものの影響を受け、それに支配されている。それは、イエスの弟子たちも同じであった。政治を司る多くの人たちは、他の人を支配する立場に立とうと懸命な努力をしてきた。イエスの弟子であったヤコブとヨハネも、イエスが王となった時に他の人たちを支配したいと願い、それを実現しようと一生懸命であった。他の弟子たちは、彼らの抜け駆けに腹を立てたが、それは彼らと同じことを願っていたからだ。皮肉なことであるが、イエスの弟子たちはみな、「だれかを支配する者になりたいという願いに支配されていた」。そして、当時の多くの政治家たちがそうであったように、そのような彼らに待っているのは、権力闘争という、地獄のような歩みであった。
このようにして、だれかを支配している人、そしてだれかを支配したいという欲求に支配されている人は、最終的には罪という借金に支配され、やがて自分から壊れて行くのだ。他人事ではない。

2.人を自由にする、自由なイエス
イエスは全く自由な方であった。だから、「仕えられるためではなく仕えるため」(45節)に来られ、仕えることによって、だれかに従属することを選ぶことができた。自由だからこそ、自ら進んで、十字架にかけられたのだ。すべての人間の罪という借金を帳消しにするため(「贖いの代価」)にそのことを選ばれた。その結果、私たちの罪の借金はイエスの十字架によって帳消しにされたのだ。
借金の棒引き宣言、つまり罪からの解放宣言がイエスから出されている。これを受け入れるならば、私たちはだれかを支配しようとする罪からも、だれかに支配されている奴隷状態からも自由となる。罪がゆるされるのだ。そのために必要なのは、このことばを語られたイエスを信頼すれことだけ。この信仰によって「すべてのものの上に立つ自由な主人」となることができる。だからこそ、「すべてのものに仕えることのできる僕」となって、自由に生きることができる。地上で天国を味わう人生へと変わるのである。

うれしい知らせ(2017.1.15)

宣教題  「うれしい知らせ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ3章1~10節
信仰者は、「苦難」の中でこそ、信仰によって生きることが大切です。パウロは、テサロニケの信徒たちに対して、「あなたがたの信仰」と繰り返し語る中に(5節、6節、10節)、彼の心が伝わってきます。

1.信仰を気づかう  1~5節
テサロニケの信徒たちは、苦難を受けるように定められていることが何度も予告され、事実その通りになりました(3~4節)。とはいえ、人はその事態に直面した時ほど気弱になって、そこにサタンが巧妙に働きかけてきます。信仰をもって生きることを後悔させようと様々の出来事を引き起こしてきます。
そこで、パウロは「協力者テモテ」を派遣したのです(1~2節)。それによって、テサロニケの信徒たちが動揺することなく、苦難から乗り切れる道が開かれることを願ってのことでした。彼の働きは、彼らの信仰を強め、励まし(2節)、その信仰に必要なものを補うためでした(10節)。こうした信仰の気づかいが、愛の実践となって表れてくるのです(5節)。

2.生きた信仰を喜ぶ  6~10節
アテネからコリントに来ていたパウロは(使徒言行録18章5節)、テサロニケから帰ってきたテモテより「うれしい知らせ(福音)」を聞きます。テサロニケの信徒たちは、苦難が激しくなればなるほど信仰の火が燃えあがっていました。また、愛が溢れていました。それが、互いに再会することを切望することに表れています(6節)。
そのようにして、パウロは彼らの信仰によって励まされました(7節、2コリント1章3~4節)。そのキリストへの信仰ゆえに、生きた心地がしたというのです(8節)。この大きな喜びゆえに、神に感謝をささげ、その御前にひれ伏しいています(9節)。お互いが、このような「うれしい知らせ」を持ち運ぶ者とさせていただきましょう。

神の臨在に触れて(2017.1.8)

宣教題  「神の臨在に触れて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ6章1~13節

ここには、神の臨在に触れたイザヤが、預言者として立ち上がるに至った恵みと召命の経験が語られています。人は、神とどういう関わり方をしたかによって、その人の神を見る見方、その人の信仰の在り方と生涯を決めると言えるでしょう。
1.聖なる神を見る経験  1~4節
ウジヤ王が死んだために、民は悲嘆にくれ、南ユダ王国全体が不安定になって激動の時代を迎えようとしていました(7章1~2節)。そのような時に、イザヤが民を祝福するために神殿を訪れ、神との出会いを経験したのです。
それは、イザヤが神を見るという出会いでした。そこには生きておられる神の臨在がみなぎっており(1節、4節)、イザヤは「栄光の主」を見ています(3節)。さらに、超越しておられる「聖なる神」を見ています(3節)。そして、「王なる万軍の主」を見ていました(5節)。このような神が、私たちが信じるイエス・キリストであり、この方に私たちの存在の根拠を置いて、信仰の歩みをしていくのです。

2.聖なる神の恵みの御業を見る経験  5~13節
こうした神との出会いの経験は、自分の真相を見る経験となります。聖なる神の御前に「ああ、わたしは、もうだめだ」(5節、新改訳聖書)と告白する者となるのです。神が分かるということは、自分の罪と汚れが分かるということです。そのようなイザヤに、神は恵みによって「汚れた唇」がもたす罪と汚れをきよめられたのです(6~7節)。それは、罪と汚れの中にある者を主イエス・キリスト十字架の血と聖霊によって罪を赦しきよめてくださる恵みの御業を表しています。
続けて神は、罪と汚れのゆえに苦しみ、御言葉に聴き従おうとしない頑固な人たちに(9~13節)、イザヤと同様な神の恵みに与った者を遣わして用いてくださいます(8節)。「わたしを遣わしてください」との召しに応答する者とされましょう。

主に信任されて(2017.1.1)

宣教題  「主に信任されて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録2章41~47節
初代教会から今日に至るまで、神の子とされた「仲間」たちは、神の家族としての生きた歩みをする場を教会とし、そこが主に信任されて拡充してきました。その教会は、どのような群なのでしょうか。

2.基本に忠実な聖徒の群  41~45節
教会は、「仲間に加わった」人々によって形成されていきました(41節)。そこにどんなに人が加えられても、どんなに忙しくても、主から委ねられた権威に基づいて、主の教えに基づいて一糸乱れず教会は導かれていきました。
その秘訣は、基本に忠実であったからです(42節)。聖徒たちは、主の教えをしっかりと握った使徒たちを通して伝えられた教えに信仰生涯の基礎をおいていました。礼拝を通しての交わり、それが具体的な姿となった愛の交わりをもって恵みを分かち合いました(44~45節)。聖餐や愛餐を通して心を開いていました。そして、祈りに忙しくしていました。彼らは、このようなこと以外に関心を奪われていなかったのです。そこには、神の臨在が分かるほどに、神への畏敬があったのです(43節)。

2.一つ心にされている聖徒の群  46~47節
その結果、「心を一つにして」いる一致した群が生まれていきました。そして、順境であれ、逆境であれ、喜びが満ち溢れていました(46節)。
「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と、教会が成長し、成熟していったのです(47節)。私たちは、このことにいつも心を用いていることが大切です。
一致し、成熟し、安定した教会は、用いられていきます。その群は、神にとっても、聖徒たちにとっても、そして教会を取り巻く社会にとっても有益な群れとなっていくのです。主に信任される聖徒一人ひとりであり、聖徒の群であるように!

クリスマスの驚き(2016.12.25)

宣教題  「クリスマスの驚き」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨハネ1章14節
クリスマスのストーリーには驚きが満ちている。マリヤに神の使いガブリエルが受胎を告知すること、ベツレヘムでの誕生、羊飼いたちに表れた神の使いたち、占星術の学者たちの登場。普通では起こらないようなことが連続して起こる。

1.言が肉になることの驚き
クリスマスの最大の驚きはなんだろうか。それは、言が肉となること(14節)、神である方が人となられた事実である。限界だらけで、何かに頼らなければ生きていけず、死が訪れる人に、限界などなく、弱ることもなく、完全な方、死ぬ事などない方がなられたのだ。神が極限まで、自ら進んで低くなられた姿に驚きを覚える。そして、この方はわたしたちの間に宿られたのだ(14節)。人には近づくことなどできないはずの方を、実際に見て、その方に触ることができるようになった。そして、私たちは神がどのような方であるか知ることができるのだ。

2.神のわざを知る驚き
神が人となって私たちの間に宿られたのは、なぜだろうか。それは、「神が人となられた」ことが生み出す大きな衝撃波がこの地上のあらゆる場所、あらゆる時代に行き渡らせるためである。事実、イエスは社会的弱者、貧者、病人のところに行き、自己欺瞞の人々に徹底的に反対し、自分を殺そうとしている人をゆるし、全世界のすべての悪をご自身の身に負い、死に、三日目に死人のなかから復活された。その生涯を通して大きな衝撃を与えた。そして、世界を変えられた。
「世界はなにも変わっていない」と思われるかもしれない。それは、あなたがイエスの生涯に表された驚きに気がつかず、そのあと、二千年間でこの世界に起こった驚きに気がつかないからだろう。この驚きに気がつかないから、あなたの人生は変わっていない。だからこそ、このクリスマスに、もう一度、その驚きに目を向けようではないか。神が人となられた驚きに気がついたあなたの人生は特別なものとなる。

神の子とするために(2016.12.18)

宣教題  「神の子とするために」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ガラテヤ4章1~7節

「時が満ちると」とは(4節)、神ご自身がご計画の中で最善と思われた歴史の一点であり、すでに旧約の時代から預言されてきた救い主の来臨の時が満ちたということです。それが、クリスマスの時であり、キリストが私たちを「神の子となさるため」(5節)に遣わされて来られたのです。

1.キリストの贖いによって
人は、被造物を神として、それらに縛られまた依存して、その奴隷となっていました。そこから解放するために、神は御子イエス・キリストを遣わされたのです(3~4節、8節)。この御子は、人とおなじように「女から」生まれなさり、罪を除いて、すべての弱さ、痛み、悲しみを人と共に背負われたのです。ここにも、私たちは神の愛を見るのです。
それだけではなく、御子は、十字架において律法の裁きを人に代わって背負ってくださったことにより、「わたしたちを神の子」としてくださったのです(5節)。この事実を自覚しつつ、信仰の歩みをすることが必要です(7節a、3章26節)。

2.父なる神への全面的な信頼をもって
神の子とされた者は、神の愛を信頼して、神と共に歩むようになります。それは、父なる神を「アッバ、父よ」と全面的な信頼を込めて呼びかける関係に生きることなのです。この恵みは、今の私たちの心にも聖霊を遣わしてくださっていることによって、同じように「アッバ、父よ」と信頼して祈ることができるのです(6節)。
しかも、神の子として「神によって立てられた相続人でも」あり(7節b)、「神の国を受け継ぐ」(5章21節)者なのです。神の子とされた者は、このことを支えとして、そこに望みを置きつつ、地上の人生を歩むのです。このように、私たちは神との交わりを親しくさせていただきつつ、神への全面的な信頼に生きるのです。

主の貧しさと私たちの豊かさ(2016.12.11)

宣教題  「主の貧しさと私たちの豊かさ」       宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2コリント8章1~9節

クリスマスの主の誕生は「飼い葉桶の中に」(ルカ2章12節)おいてでしたが、ここに「身を無にし」(フィリピ2章6~7節)、「貧しくなられた」(2コリント8章9節)お姿が現れています。それによって、わたしたちが「豊かになるためだったのです」。これが「主イエス・キリストの恵み」です(9節、2コリント13章13節参照)。

1.キリストの貧しさ
本来、「主は豊か」なお方です。キリストこそが、万物一切の創造者、所有者、支配者であられ(ヨハネ1章3節)、愛と恵みをお持ちの神であられます(同18節)。
このお方が、「あなたがたのために貧しくなられた」のでした。すなわち、天地の主なる神の独り子が、処女の胎に宿られてこの世に生まれてくださいました。罪を他にして人が経験する同じことを経験してくださいました。地上の最後においては十字架に架けられて命を与え尽くし、すべての人の罪の身代わりになって神に捨てられてくださいました(マタイ27章46節)。キリストは、これほどまでの貧しさの極限にまで至ってくださったのです。このキリストご自身を知っているかと問われています。

2.私たちの豊かさ
このような驚くべき犠牲は、ひとえに私たち罪人のためでした。一人ひとりが自ら罪人であることを認め、その罪を悔い改めてキリストを信じるならば、罪は赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられ、永遠の栄光にあずかるという神の豊かさをいただいた新しい歩みが始まるのです。
このキリストの恵みが本当にわかったならば、「慈善(恵み)の業においても豊かな者」とされるのです(7節)。それは、私たちの献身の表明である献金の恵みです(5節)。私たちが、キリストの恵みに富み続けるならば、その心から出る感謝と喜びをもって献金や奉仕に恵まれ続けていくのです。

キリストを着る(2016.12.4)

宣教題  「キリストを着る」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ローマ13章11~14節

クリスチャンは、キリストを信じ受け入れ、キリストに結び合わされ、キリストを着て歩む生き方をします(ガラテヤ3章27節)。このキリストを着るとは、どういう生涯なのでしょうか。

1.神の時を知る  11~12節a
待降節は、すべての最後に再臨されるキリストを待望する備えをする時です。この時は、全世界に分かるように来られます(1テサロニケ4章16節)。人は、死を迎える時、人間社会や自然界にさまざまな変化が起こる時を知っています。あわせてクリスチャンは、キリストが再臨される神の時すなわち救いが完成する時を知って、「今がどんな時であるかを知って」いるのです。
私たちは、様々な課題、問題、困難、苦難、試練に遭遇します。神の時を知る者は、それらにがんじがらめにされて、動きがとれないようになるのではなく、それらの真っただ中に身を置きながらも、神の救いの世界を仰ぎ見るのです。

2.神の御前に立つ備えをする  12節b~14節
また、神の時を知る者は、罪の支配する世界において「闇の行いを脱ぎ捨て」、信仰とその生き方において無感覚にならず、男女の在り方において恥ずかしい生き方をせず、人と争うことをしません(12節b、13節b、14節b)。そして、「光の武具を身に着け」て、この世と妥協することなく「品位をもって」正直でつつましく歩むようにします(12節b、13節a)。このようにキリストを着て生きるのが、最も安全であり、そこに本当の平安と喜びがあるのです。
そのためには、十字架に死んで復活された「主イエス・キリストを身にまといなさい」との招きに応答して、終わりの裁きの時に義とされ、神の御前に立つ者とさせていただきましょう(マタイ22章1~14節)。