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礼拝メッセージ

あなたを待っておられる主(2017.12.10)

宣教題 「あなたを待っておられる主」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネの黙示録3章14~22節

 私たちは、すでに来てくださった救い主イエスの救いを受け入れました。そして、再び来られる王なるイエスを待望しています。今は、私たちを待っておられる主イエスに対して、新たな思いで信仰の応答をさせていただく時です。

1.真実な愛の主であるから 
 ラオディキア教会に語りかけられた主は、いつも変らずに、約束されたことを必ず成し遂げられる真実を貫き通して(14節、2テモテ2章13節)、愛を現し続けておられます(19節)。この真実な愛の主が、クリスマスの主イエスであり、十字架の救いの道を歩んでくださったのです。
 今も語りかけ招かれる主イエスは、私たちが信仰の戸を開けることによって、交わりが待てることを待っておられます(20節)。

2.真実な愛の主に誠実な応答を 
 主イエスの真実な愛を知ったにもかかわらず、ラオディキア教会がそれに応答しない「なまぬるい」状態でした(15~16節)。彼らは、自分たちの本当の姿が「分かっていな」かったのです(17節)。それに対して、真実な悔い改めと、試みによるテスト済みの信仰をもってキリストを着るものとなり、霊の目を開いていただくよう勧めています(18~19節)。
 主イエスは、十字架に架かられた赦しの御手をもって、私たちの信仰の戸をたたき続けておられます。そして、それを拒むことのないように今なお招き続けておられます。私たちの全存在と全生涯の中に真実な愛の主を招き入れ、誠実な信仰の歩みを続ける勝利者とならせていただきましょう(20~22節)。

思いがけなく来られる神(2017.12.3)

宣教題 「思いがけなく来られる神」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 マラキ3章1~5節

 待降節(アドベント)は、クリスマスを迎える準備を日々に過ごすこととともに、再び来臨されるキリストを待望する備えをする時です。旧約の最後の預言者マラキは、そのことを語っています(1節)。「主は来られる」、それが私たちの信仰です。

1.不信仰が支配する中に 
 「主が来られる」ということが叫ばれる時は、いつも危機的な状況においてです。マラキが預言をした時は、神の民の信仰に深い失望感や無力感が支配していました(2章17 節、3章14~15節)。これは。今日の私たちを取り巻く状況と酷似しています。
 この時に、「主は突如、聖所に来られる」つまり思いがけなく主が来られる、それに先立って「道を備える」主の使者が送られてくると語ったのです(1節)。ここに、救い主イエス・キリストの来臨の事実と、その道備えをしたバプテスマのヨハネのことが預言されています。

2.信仰が回復されるために 
 このように主が来られるのは、主の審きの時でもありました(2節、5節)。この終わりの時が来たら、民は神の憐れみにより赦される以外に頼るものはないのです。そこでは、まず祭司たちが(2~4節)、続いてその民全体が聖別されるのです(5節)。
 今日の私たちに神の憐れみが現わされたのは、救い主イエス・キリストが来臨され、その十字架と復活によって救いの成し遂げられたことです。そして、再び来臨される主を待望しつつ歩んでいます。その間私たちは、主イエス・キリストによる救いの福音を、大胆にお伝えしていくことです(2テモテ4章1~2節)。
 クリスマスは、教会が、そして聖徒たちが新たに立ち上がる時です。

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

解放される道(2017.11.19)

宣教題 「解放される道」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ13章10~17節

 ここに、ただ主イエスの憐れみにすがっている女性がいます。彼女は、十八年の間体がかがんだまま伸ばすことができない病気でしたが、主イエスによってそこから解放されたのでした(10~13節)。

1.主イエスは安息日の意味を回復された 
 会堂長は、主イエスが安息日に癒しの業をなされたことを非難しました(14節)。本来安息日は、神が世界の王であることを覚え、すべてのものが休み、すべての人
が神の前に公平とされ、神の約束を覚える日でした。ところが当時、そのことが歪曲
されていたため、主イエスは元に戻して神の愛を知る日とされたのです。主イエス
は、この時解放のメッセージを語られていたと思われます(ルカ4章16~20節)。
主イエスは「捕らわれている人に解放を」告げ知らせ(ルカ4章18節)、解放の御
業をなされるお方です。

2.主イエスは解放の御業をなされた 
 主イエスは、病気から解放された女性が大事な「アブラハムの娘」であるので、「サタンに縛られていた」ところから本来の姿に解放されたのでした(16節)。パウロも同様のことを証ししています(2コリント12章7~10節)。
 主イエスは、「罪と死との法則から」解放されることから始まって(ローマ8章1~2節)、人がもっている深い劣等感などの弱さから解放される道を開いてくださるお方です。ですから、私たちは主イエスを信頼し、主イエスに支えられて、真っ直ぐに立ち続けるのです。この主イエスに出会い、その憐れみに与るのが、私たちの安息日であるこの礼拝の時なのです。

子どもを祝福されるイエス様(2017.11.12)

宣教題 「子どもを祝福されるイエス様」   宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ19章13~15節

 子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されているイエス様の姿は、わたしたちの心を温かくしてくれる。しかし弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱った。

1.子どもたちを退ける
 当時のイスラエル社会では、律法を守ることが何よりも大切である。子どもたちは、律法を理解できず、守ることもできないため、完全な人間として受け入れられずにいた。だから弟子たちは、子どもを連れて来た人々を叱った。しかし、イエス様は子どもたちを前にして、「天の国はこのような者たちのものである」と言われた。

2.条件付きの世界と無条件の世界
 当時、多くの人々が律法を厳守し、「もし~ならば」という条件付きの世界を生きていた。わたしたちはもはや律法を厳守することはしないが、それに共通する姿勢でいることが多いのではないだろうか。しかし、イエス様が言われた「天の国」とは、無条件の世界を指しているのであり、その世界に生きることで、わたしたちは生きる力を得、再び立ち上がっていく力を得ることができるのである。

3.子どもたちを祝福される
 子どもたちにとって何よりも重要なのは、無条件で自分を受け入れてくれる存在であり、そこに信頼が育まれてこそ、子どもたちが活き活きと成長していけるのである。イエス様は子どもたちを、あるがままに受けとめ、祝福されたのである。
 イエス様が親たちに連れて来られた子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたように、わたしたちをその腕で抱き上げ、祝福しておられるのである。そして、『あなたが存在し、生きていてくれることが、何よりの価値である』と言われているのである。

思い違いをしないように(2017.11.5)

宣教題 「思い違いをしないように」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章12~18節

 主イエスを信じた者たちが「試練」の中に置かれることにより、それが「誘惑」となってしまうことがあります。その誘惑に対して「思い違いをしてはいけません」し(16節)、神がどのようなお方かを見通し、見極めることが大切です。

1.神のさばきを見通すように  13~16節
 信仰者として歩んでいこうとすると、誘惑に遭うという経験をします。神が罪の誘惑をされるのではありません。ただし神は、信仰者が誘惑に遭うことを許してはおられます。ですから、誘惑を甘く見るといった思い違いをしてはなりません。
 というのも、誘惑へと誘う「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生」むからです。その死とは、神を離れた状態の霊的な死です。罪の結果である死をしっかり見通すとともに、神は義なるお方ですから、罪を正しくさばかれることを忘れてはなりません。罪と死に対して、人間の側からの解決はないからです。

2.神の賜物と御心を見極めるように  17~18節
 さばきの神を知ることで終わるならば、絶望に陥ります。しかし、そのような思い違いをしてはいけません。神の賜物は、それを贈る動機において不純でなく、良いものであり完全です。この創造者である神は真実であられ不変のお方です(17節)。その神の賜物中の賜物は、主イエスです。

 神は「御心のままに」、主イエスとその福音によって私たちを新たに生まれさせ、神の子としてくださり、神のものとしてくださいました。そのことが、神が造られた被造物の「初穂となさる」ためであったとは驚くべきことです(18節)。
私たちは、この神の賜物と御心をしっかりと見極めた信仰の歩みをするのです。

主の十字架と共に歩む(2017.10.29)

宣教題 「主の十字架と共に歩む」      宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ1章40~45節

 イエス様の愛の御業によって、重い皮膚病を患っている人がいやされたという記事から、わたしたちがどうあるべきかを見ていきたいと思います。

1.イエス様の御心ならば
 当時、重い皮膚病を患った人が置かれていた状況は悲惨で、自ら「汚れている者」と叫び、町の外でしか住めませんでした。その人イエス様の所に来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ます。それは彼が、この方なら自分の病をいやしてくださると確信したからです。ただ彼は、自分のような者をイエス様が憐れんでくださるかどうかが不安でした。

2.だれにも、何も話さないように
 そんな心配をよそに、イエス様は彼をいやされました。そして「だれにも、何も話さないように」と命じられました。しかし彼は、町に入り多くの人々に告げ、広めます。人々は、イエス様の告げられた悔い改めの福音ではなく、いやしの力を求めたのです。その結果、イエス様は町に入ることができなくなりました。

3.イエス様の犠牲によって
 彼は、自分の身に起きたいやしと清めの出来事を言い広めましたが、それはイエス様の十字架による犠牲抜きの証しだったのです。しかしわたしたちは、十字架抜きの救いも、十字架抜きのいやしも知りません。私たちが救われるのも、いやされるのも、ただイエス様の十字架による犠牲のみです。
 私たちも、この思い皮膚病よりも恐ろしい罪から救われたことを感謝し、多くの人々に証しし、主の十字架と主に歩む者とならせて戴きましょう。

知恵を求めて(2017.10.8)

宣教題 「知恵を求めて」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章5~11節

 いろいろな試練に会うとき、信仰が試されることで忍耐を生じさせ、霊的に成長した者として造り上げられていきます(2~4節)。そのような試練に際して必要なのが、神からの賜物としての知恵です。それを切に祈り求めることが必要です。

1.神はどのようにして与えてくださるのか  5節
 神からの知恵は、信仰によって「だれにでも」与えられるもので、誰一人例外がありません。しかも神の賜物として「惜しみなく」、「とがめだてしないで」すなわち過去を挙げ連ねて、見下すようなことをなさらずにお与えになります。
 それに対して、信仰者は、神からの「知恵の欠けている」という自覚を持つことが必要です。パウロは、試練のただ中にあって死の宣告を受けた思いでいたことに対して、「人間の知恵によって」対処することなく「神の恵みの下に行動」してきたと証ししています(2コリント1章8~12節)。
私たちも信仰の試練に遭ったときに、神の賜物である知恵を願い求めるのです。

2.神にどのような信仰姿勢で願うのか  6~11節
 信仰者は、へりくだって「いささかも疑わず、信仰をもって」願い求めることが大切です。そこには、神への信頼と不信が同居していることはありません(6~8節)。
神に対する深い信頼があるならば、神からの知恵が与えられるのです。
 キリストは、全ての人のために十字架に死んで救いの道を開いてくださったゆえに、いかなる人も価値ある者として受け入れてくださったのです。従って、貧しい者はキリストにあって高くされ、富んでいる者はキリストによって低くされることを勝ち誇るほどの喜びとされるのです(9~10節)。
 ですから私たちは、謙虚にへりくだった信仰をもって、神に信頼して神からの知恵を受け取るのみです。

真の平和の確立を(2017.10.1)

宣教題 「真の平和の確立を」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章49~59節

 これまで主イエスは、目を覚ましていなさいと語ってこられました。続けて、真の平和が確立されていくために、漫然として今の時を過ごすことがないように勧められています。

1.主の十字架のもとで  49~53節
 主イエスがご来臨された目的の一つが、「地上に火を投ずるため」でした。その火は、聖霊の火です(49節)。聖霊なる神は、主イエスの苦難のバプテスマである十字架による救いを明らかにされ、主イエスを信じさせてくださるお方です(50節)。
 この主イエスの前に頭を垂れて謙虚になるときに、真の平和が私たちの魂と心と体の全存在に臨むのです(マタイ9章2節、ヨハネ14章27節、20章19~21節)。
 ところが、主イエスが来られたのは「分裂」をもたらすためでもありました(51 ~53節)。しかしその分裂は、イエスを主と受け入れるか、拒絶するかによってもたらされるものです。私たちは、分裂に対しても心の備えをし、そうした状況にあっても真の平和が確立されていくことを祈り求めていくのです。

2.主が再び来られるまでに  54~59節
 主イエスは、二つの譬えをもって語られました。一つは、今の時を見分けることができないために、主イエスを信じる信仰の応答をしない人々に呼びかけています(54~56節)。二つは、その時が分かっていながら、ずるずると判断も決断もしないで最後まで主イエスを拒むことへの警告です(57~59節)。
 私たちは、聖餐の制定をされた主イエスを想起しつつ(1コリント11章23~26節)、確かな永遠の弁護者イエスとその贖いの十字架をいつも拠り所とし、主が再び来られる終わりの時を覚えて、聖霊の促しによる決断と導きをいただいて歩み続けるのです。そこに、真の平和がもたらす交わりが生まれるのです。

主イエスの癒しと救い(2017.9.24)

宣教題 「主イエスの癒しと救い」        宣教  今田好一牧師
聖 書 マルコ1章29~34節

わたしたちは、神の守りの中で歩んでいます。しかし、わたしたちは弱く小さな者です。ですから、イエス様に助けを求めなければならないのです。

1.主イエスのいやしと救い
イエス様はシモンの家に行きしゅうとめの病気をいやされます。このことは、今日教会に集ったわたしたちとわたしたちの家族にもイエス様の救いがなされるということを意味しています。『家族伝道は難しい』と言われていますが、それは、神の愛を言葉で伝えようとするからです。愛は、その人を愛することによってしか伝わらないのです。愛は、一緒に生活する中で伝えていくものです。今日わたしたちがイエス様の愛をしっかりと受け止めて、わたしたちも家族を愛し、家族に仕え、心を交わすことのできる者とならせていただきましょう。

2.主イエスの愛に応えて
安息日にはいやすことが禁じられていたため人々は日が沈み、安息日が終ってからイエス様の所に来ました。イエス様のいやしは今もわたしたちのうちに続けられています。イエス様はわたしたちに聖霊を与えてくださり、わたしたちの中にある神の御心に適わないあらゆる熱を冷まし、何が神の御心に適うことなのか、何のためにわたしたちが生かされているのかということをきちんと受け止めることができる者にしてくださるのです。
わたしたち一人ひとりが、主に愛され、罪赦された者として、その愛に応える者とならせていただき、ただ主を崇め、主に仕え、主に頼り、いやし主なるお方、救い主イエス・キリストと共に歩ませていただきましょう。

試練の効用(2017.9.17)

宣教題 「試練の効用」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章1~4節
 
 キリストの復活の証人であり(1コリント15章7節)、ペンテコステ後のエルサレム教会の指導者の一人として奉仕した(使徒言行録15章13節)ヤコブは、迫害下にあった各地の教会の人々に手紙を送りました(1節)。この手紙には、キリスト信仰に生きる人々に心の在り方また生活や行いについて具体的に語られています。
Ⅰ.試練は一様ではない  2節
 迫害を受けるという困難にあった人々に、まず「試練」について筆を執っています。信仰を持てば、試練がなくなるというのではありません。聖書が教える信仰は、その信仰の結果として、「いろいろな試練に出会う」という経験をするのです。
 試練には、健康面で弱さを覚えたり、経済的に困難を覚えたり、人間関係で難儀することもあり、信仰の迫害にも会います。若いときの試みがあり、老年特有の戦いもあります。だれの目にも明らかな困難があるかと思えば、人知れず悩むこともあります。困難が重なることもあったりと、一様でない試練です。
Ⅱ.試練を喜びとする  2~4節
 人の生まれながらの性質からすれば、試練を喜ぶことはできません。ところが、その試練を「この上ない喜びと思いなさい」というのです。
 試練を通されることによって、信仰が本物に近づけられます。そのように「信仰が試される」者となる喜びです。その試練を通して「忍耐が生じ」、その忍耐という品性が与えられるゆえに、試練が喜びとなります。そして、あらゆることにおいて、神の御心を正しく捉え、それに全力を注いで歩む「完全で申し分」のない者とされていくという喜びが生まれます。
 試練、信仰の試し、忍耐、完全な者にされるのは、深められていく恵みです。

主との憩いの中で(2017.9.10)

宣教題 「主との憩いの中で」      宣教 今田好一牧師
聖 書 ゼカリヤ8章1~8節

わたしちがいくら歳を重ねても、その人の存在価値が変わることはありません。なぜならイエス・キリストの贖いによって私たちは神の子どもとされているからです。

1.神の恵みに満ちた平安
神は、ペルシアの王キュロスやダレイオスを用いてユダヤの人々に神殿を再建させます。神殿再建には若い人材が適しています。しかし、ゼカリヤは、「エルサレムの広場には再び老爺、老婆が座するようになる」と語ります。つまり、そこは人々の憩いの場であり、神の恵みに満ちた平安で覆われている場所だったのです。

2.憩いの場所としての教会
わたしたちの祈りの中に、子どもたちへの信仰継承があります。そして、家族や友人との憩いの場の提供の実現として、子どもからお年寄りの方々が集う教会という祈りも込められていると思います。まさにゼカリヤが語っていることです。子どもやお年寄りが神様からすっぽりと守られて生きている姿を通して、周囲の人々は自分のことのように心休まり、平安な気持ちになる。それが憩いの場所としての教会なのです。

3. キリスト者は生涯現役
歳を重ねるということは御国への引っ越しを始めることです。それが老いるということです。しかし、仕事を引退するということはあっても、人生を引退するということはありません。まして神の子どもであるわたしたちにとって、キリスト者を引退するということはないのです。だから、すべてのキリスト者は生涯現役だということなのです。
教会は、そこに集うすべての人々のエルサレムです。この神の恵みの中に生かされていることを覚え、主との憩いの中を歩ませて戴きましょう。

 

目を覚ましていなさい(2017.9.3)

宣教題 「目を覚ましていなさい」   宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章35~48節

教会の完成は、「人の子は思いがけない時に来る」(40節、46節)というその時です。ですから教会は、その時を意識しつつ、再臨される主キリストを待望しつつ、「目を覚まして」備えている歩みをするのです。

1.喜びに輝いて  35~40節
「神の国」の恵みに与り続けながら歩む信仰者は、やがて再臨される主によって完成されるのです。その再臨される主は、突然やって来られるので、それがいつであっても良いように備えている必要があります(36節、38~39節)。
まず、「腰の帯を締め」とあるように、主が喜んでくださるような日々の生活を送ることです。「ともし火をともしていなさい」とあるように、不必要なものを取り除いていただいて聖霊の火によって輝いていることです(35節、ローマ12章11節)。そのように「目を覚ましているのを見られる」者たちに対して、再臨の主が「給仕して」くださるように最高の祝福を与えてくださるのです(37節)。

2.忠実な心配りをもって  41~48節
真実な主は、信仰者が「忠実な賢い管理人」として歩むことによって、信仰が枯れてしまわないようにと願っておられます。それは、主の前に態度を変えないで、主を第一にして生きる忠実さと、思慮深くて細やかなことに気づく心をもった賢さをもつということです(42~43節)。もし、主の御心と御思いを知っていながら、自分が主となって自分の思うとおりに生きていこうとする「不忠実」さがあるなら、悔い改めたいものです(45~47節)。
主は忠実な者を信任され、多くのものを任されます(44節、48節)。ですから、再臨の主の前に立つ時まで、主に忠実であり続けることです(黙示録2章10節de)。

あなたは大切な人です(2017.8.27)

宣教題 「あなたは大切な人です」   宣教 尹 善鎬 師
聖 書 マタイ3章13~17節

神はイエスに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節)と言われた。これはイエスに対する神からの最高の愛の言葉です。それは神にとってイエスが最も大切な独り子であり、かけがえのない存在だからです。

1.神は私たちに神の子となる資格をお与えになった(ヨハネ1章12節)
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1章12節)。イエスを信じる者は、神にとってイエスと同じく、大切な者、かけがえのない者とされます。なぜなら「ローマ8章15~17節」によると、私たちは「キリストと共同の相続人」だからです。私たちは、神にとって、キリストほど大切な人です。

2.神は独り子をお与えになったほどに、私たちを愛された(ヨハネ3章16節)
父なる神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。その愛はどんな愛でしょうか。死に渡されるほどの愛です。与えるほどの愛です。貸すのではありません。お与えになったのです。そのイエスは、独り子です。最も大切な方をおあたえになったというならば、私たちにはそれほどの値打ちがあるからです。100円を支払って買った物には100円の値打ちがあります。神の独り子の命という値打ちが支払われて贖われた私たちには、神の独り子ほどの値打ちのある者なのではないでしょうか。
私たちにはこれほどの値打ちがあるのです。しかもその値打ちは、私たちが何か素晴らしい事をしたから、つけられた値打ちではありません。父なる神は、私たちの存在そのものを愛しておられます。あなたは神にとって最も大切な人であることに気づいておられるのでしょうか。

小さな群れよ、恐れるな(2017.8.20)

宣教題  「小さな群れよ、恐れるな」   宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ12章32~34節
 
 「恐れるな」(ルカ12章4節、7節、32節)と繰り返し語られています。恐れるとは、逃げること、また大きくそれるという意味合いがあり、人間の弱さが最も正直に現れる場面です。では私たちは、なぜ恐れなくてよいのでしょうか。

1.神の恵みに生きる  32節
 「小さな群れ」には、福音のために選ばれて召された主の弟子たちが加わっていました。その神の恵みのご支配は、主イエスご自身だけにとどまることなく、主の弟子たちの間にも、続く教会にも継承され拡大していくために、父なる神が喜んで与えてくださったのです。そして、今日まで世界のあちらこちらに展開されているのです。
 私たちは、「小さな群れ」であると謙虚に自覚することから始める必要があります。そう自覚することは、決して恥ずかしいことでも、不安なことでもなく、主イエスの赦しによって立つ勇気を与えてくれます。小さな群れは、私たちの父なる神の恵みによって、大きな力となっていくからです。

2.恵みの神を覚えながら生きる  33~34節
 主イエスは、持ち物や富についての正しく賢い使い方として、「尽きることのない富を天に積みなさい」と勧められています。そうすることによって、富が神の賜物であり、それを備え与えてくださった「あなたの神、主を思い起こし」(申命記8章17~18節)、その主への感謝として「施し」をするからです。
人の心が一番関心を寄せているものが、その人の宝となっているものです。私たちは、主イエスと共に、「あなたがたの父」である神の御業に参加させていただくための元手を授けてくださった恵みの神を思い起こし、また覚えながら生きることが大切なのです。