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礼拝メッセージ

進み行かれる主(2018.4.1)

宣教題  「進み行かれる主」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章31~35節

私たちは、主イエスが死の闇から復活され、命の輝きをもたらしてくださったことを感謝するとともに、全存在をもって主イエスに向かって生きることが大切です。

1.神の時を進まれる主イエス  31~33節
主イエスご自身の歩みを決定したのは、ヘロデに代表されるこの世の悪の力によるのではなく、父なる神のご計画によるものでした。この時、エルサレムへの旅路を十字架に向かって進んで行かれました。その先には、主イエスが「三日目にすべてを終え」て復活されることにより、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と決意しておられます。
主イエスは、十字架を前にして父なる神の御心だけを求めて歩み進まれ(ルカ22章42節)、復活されてご自身の御働きを進められました(マタイ28章16~20節)。

2.愛の完成へと進まれる主イエス  34~35節
主イエスは、神の御言葉を受け入れようとしない者たちを、何度もご自身の救いの中に招き入れようとされてきました。ご自身の愛を冷ややかに拒む者に対して、苦悶し、嘆いておられます(34節)。しかし主イエスは、そうした中にあっても父なる神のご計画の中を進んで行かれました。ひたすら十字架と復活に向かうことにより、愛の完成を目指して進んで行かれたのです。
このことを知る教会は、今や「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美しつつ、主の再臨の時に向かって進んでいます(35節)。ですから私たちは、一人でも多くの人々が心の底から同じように賛美できる時が来るよう、伝道に励みたいものです。

聖書朗読(0.6MB)

 

メッセージ(6.9MB)

救いの門は開かれている(2018.3.25)

宣教題  「救いの門は開かれている」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章22~30節 2コリント6章2節c

 聖書は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と明言しています。その救いの門は今も開かれています。そのために、主イエスは、十字架にお架かりくださり、復活された場所であるエルサレムに向かって進んていかれたのです(22節)。

1.今や、恵みの時だから 
 主イエスは、「不義を行う者」が悔い改めないままでいるならば、救いの恵みの戸が閉じられる時がくることを語られました(23~28節)。そこで、神が与えてくださる救いを拒み続けないで、「狭い戸口から入るように努めなさい」と、この救いを自分自身のこととして取り組むようにと招かれているのです(24節)。
 忘れないでいたいものです。主イエスは、今も私たち一人ひとりの心の戸をたたき、声をかけていてくださいます。ですから、一人ひとりが自らの心の戸を開いて、主イエスを受け入れることが必要なのです(ヨハネの黙示録3章20節)。

2.今こそ、救いの日だから 
 ところで、救いの入口そのものが狭いのではありません(29~30節)。それを狭くしているのは、主イエスの救いを拒み続ける頑固な心、自分は間違っていないとする傲慢な心のままでいる人の側にあります。人は誰もそのような罪の荷を自分で背負いきれないために、主イエスがその荷を十字架上で身代わりとなって担い切ってくださったのです。その主イエスに対する信仰をいだいて歩みだす者には、救いの入口は狭くなく、堂々と大手を振って入っていくことができるのです(ルカ23章39~43節)。
 私たち一人ひとりが、主イエスにすがる素直さをもって応答していくなら、主イエスの救いの御業は恵みとして現実に起こることなのです。

キリスト者の完全(2018.3.18)

宣教題  「キリスト者の完全」        宣教 大頭眞一師
聖 書  フィリピ3章1~14節

「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)は、真剣なキリスト者たちを悩ませてきました。愛において完全でありたいと願いながらも、「得た」と言い切れないためらいは、だれにもあるからです。パウロはそんなためらいから自由です。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・ひたすら走ること」(フィリピ3:13~14)がなすべきただ一つのことだと言うのです。「キリスト者の完全」は、私たちが神さまと人とに向かう姿勢の完全です。この完全は「今ここで」可能です。
そんな私たちが聖さにおいて成長していくために、いくつかたいせつなことがあります。

(1)信仰体験は多様ですから、他の人の体験と自分の体験を比べることはできません。それぞれに十分な恵みが与えられています。

(2)昨日の完全は、今日の完全ではないかもしれません。私たちの成長とともにさらなる前傾姿勢が可能になっていくからです。

(3) 私たちは力を尽くしてもなお、過ちや罪から逃れることができません。しかしその度ごとに、悔い改めて赦され、神と人との回復していただくなら、キリスト者の完全は保たれていきます。

 教会は、愛の学校であり温泉病院です。罪による病や傷は、みことばの温泉と仲間との交わりというリハビリによって癒されていきます。じっくりと、深いところで。そしてそれぞれが置かれた場所でていねいに生きるのです。

人の子は安息日の主(2018.3.11)

宣教題  「人の子は安息日の主」        宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章23~28節
イエス様とファリサイ派の人々との間で起きた安息日を巡っての論争から、わたしたちがどのように歩めば良いのかを見ていきましょう。

1.安息日
 当時、安息日には234項目のしてはならないことがありました。それによって、二度とバビロン捕囚のような目に遭わないようにしっかり律法を守り、神の民として歩むことを心に刻んだのです。彼らは、まさに命がけで律法を守ろうとしました。しかし、ここには、『真面目な罪人』というものがあります。

2.安息日の主
 安息日に麦の穂を摘んで食べたイエスの弟子たちの行動をファリサイ派の人々は咎めました。それに対してイエス様は3つのことを語られました。

(1)「ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(26節b)。
(2)「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)。
(3)「人の子は安息日の主でもある」(28節)。主イエス・キリストの到来と十字架と復活の出来事こそが、新しくされた安息日の意味なのです。
 そして、わたしたちが神との平安の中に生きること、それがわたしたちに与えられた真の安息であり、この安息を与える為にイエス様は来られたのです。
 わたしたちは今、イエス様によって与えられている安息を心に刻み、イエス様の十字架の贖いによって与えられた新しい命を受け、真の安息を与えられた者として、ここから新しい歩み、天の御国への歩みへと踏み出して行きましょう。

私たちの雄々しさ(2018.3.5)

宣教題  「私たちの雄々しさ」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章1~13節

 ヤコブの手紙は、教会の大切なあり方を繰り返し語っています。信仰者の雄々しさは、何か華やかな活動をすることにまさって、極めて身近な信仰のあり方にあるということです。

1.栄光に満ちた主を信じるゆえに  1~4節
 ヤコブは、十字架に死んで復活され、今も生きておられる「栄光に満ちた」主イエスを信じ、礼拝をささげることの重みを忘れないでほしいと懇願しています。そういう信仰を持っているのですから、富や能力や男女の違いなどによって「人を分け隔てしてはなりません」と語るのです。
 こうした人を分け隔てることは、歴史の中においてのみならず、今も変らずに教会が直面することです。そのことは、「誤った考えに基づいて判断を下したことに」よることを知って、絶えず栄光に満ちた主イエスに光をあてていただいていることが大切です。

2.神の御国を受け継ぐために  5~13節
 神は、分け隔てなく信仰に富む者としていてくださり、神の御国を受け継ぐことのできる者にしてくだいます。そして、主が見ておられるように見、主が考えておられるように考え、主が取り扱われるように取り扱う者に造り変えてくださいます。
主イエスが、「憐れみは裁きに打ち勝つ」ことによって救いを全うしてくださいました。ですから信仰者は、決めつけて人を分け隔てするという罪を犯すことなく、隣人を自分のように愛するのです。このようにすることによって、信仰者の群れは雄々しく進んでいくのです。

永遠に渇かない水(2018.2.25)

宣教題  「永遠に渇かない水」        宣教 今田好一牧師
聖 書  ヨハネ4章7~15節
今日の御言葉から、神の救いが、すべての人に分け隔てなく及んでいることを見ていきたいと思います。

1.イエス様との出会い
 サマリアのシカルという町の井戸のそばで休まれたイエス様は、人目を避けて昼に水をくみに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と語りかけます。彼女は、この言葉に驚きます。何故なら、当時ユダヤ人はサマリア人を見下していたからです。しかし彼女は、それによって、この男性に少しずつ関心を持ち始めたのです。

2.永遠に渇かない水
 イエス様は彼女に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。すると女は「その水をください」と求めます。そして、イエス様に五人の夫について言い当てられた時、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って、イエス様に心を開いたのです。

3.出会いは人生を変える
 自分の過去を言い当てられた女は、宗教的な話をイエス様にします。しかしイエス様は、「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われました。それは、キリスト教ではなく、キリストご自身を信じるように言われたのです。彼女は、今話しているこの人が、キリストと呼ばれるメシアだと知ったのです。そして、この方こそが「永遠に渇かない水」の与え主だと信じ受け入れた時、彼女の人生は大きく変えられたのです。
 わたしたちも、イエス様が与えてくださる永遠に渇かない水を、直接イエス様ご自身に祈りを通して求めていきたいと思います。

生きて働く信仰(2018.2.18)

宣教題  「生きて働く信仰」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ1章26~27節
 信仰者にありがちなことは、信じるだけで救われることが分かっていても、律法を守ることに心を向けてしまったり、信じればよいということに傾き過ぎて、行いを軽んじ過ぎてしまうということがあります。生きて働く信仰とは何なのでしょうか。

1.自分の心を欺かない  26節
 信仰とは、主イエスを信じ信頼するという内面的なことであり、信心とは、その信仰が見える形で表される礼拝などのことを言っています。本来、この信仰と信心とは切り離すことのできないものです。
 ですから「自分は信心深い者だと思っても」、舌を制することができないで人を言葉で傷つけて平気でいることがあれば、「自分の心を欺く」ことになり、その信心はむなしいものになります。主イエスが、一人ひとりを愛して仕えていてくださることを覚えて、人を生かす言葉を用いることが、生きて働く信仰の証しです。

2.神の御前に生きる  27節
 神の御前に生きることは、決して窮屈なことではありません。信仰者には力が必要です。その力は、きよさにあります。その力の源は神ご自身です。サタンが最も恐れるのは、信仰者のきよさです。ですから信仰者は、避けるべきものは避けて「世の汚れに染まらないように自分を守ること」により、「清く汚れのない信心」をもって生きるのです。
 そのように神の御前のきよさと、実際的かつ具体的な助けを必要とする人々に仕えていくこととは、切り離せないことです。私たちの信仰が、無意味なむなしいものではなく、生きて働くものであることが大切です。

新しい革袋として(2018.2.11)

宣教題  「新しい革袋として」        宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章18~22節

ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は断食していましたが、イエス様と弟子たちが断食していないことで、彼らの間に断食問題を巡る論争が生じたのです。

1.古いぶどう酒と古い革袋
古いぶどう酒とは、ファリサイ派の人々が厳格に律法を守って救われようとする信仰の在り方で、古い革袋とは、その考えに基づく信仰生活です。イエス様は婚礼の客と花婿のたとえをもって、そうではないと言われました。それはイエス様ご自身を花婿にたとえることで、わたしが真の救い主だと言われたのです。

2.新しいぶどう酒と新しい革袋
 新しいぶどう酒とは、救い主が来られた祝いの酒であり、主の十字架による罪の赦しを示します。それを入れる新しい革袋とは、救われた者の喜びと感謝を示しています。わたしたちには、新しいぶどう酒を注がれた、新しい革袋としての新しい信仰の歩を整えていくことが求められているのです。

3.新しい革袋として
 キリスト者とされた者の生活とは、第一に、礼拝が喜びの日となり、第二に、毎日祈るようになり、第三に、神と人に仕える者とされることです。この礼拝と祈りと奉仕という点においてわたしたちは新しい革袋へとされ続けるのです。
 わたしたちも、新しいぶどう酒を注がれた者として、主に向かって喜びと感謝と賛美をもって主をほめたたえ、新しい革袋としての信仰の歩みをしていきましょう。

成長させる神(2018.2.4)

宣教題  「成長させる神」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章18~21節
 主イエスは、人々からの拒絶に遭いながらも「神の国」のことを宣ベ伝えられ、その御業を進められました。その結果、神の恵みのご支配は、人々の不信仰を越えて発展していきました。

1.拡大していく  18~19節
 小さなからし種を庭に「蒔く」ことにより、芽を出し、やがては大きな木となり、その枝には空の鳥が宿るほどになります。そういう命をからし種は持っています。
 このからし種のように、神の恵みの支配が及ぶ「神の国」は、福音の種が蒔かれることにより、それが拡げられ、全世界を覆うようになりました。最初は「小さな群れ」でしたが(ルカ12章32節)、神は人を造り変え、社会をも変革させて、著しい成長を与えられました。この「神の国」が拡がっていく御業に、私たちも参画させていただいているのです。

2.造り変えていく  20~21節
 わずかなパン種を粉に「混ぜると」、パン種が活発に働いて膨らんでいきます。そのように膨らませていく実態は目に見えません。
 「神の国」においては、主イエスの救いに与った者たちを神の恵みのご支配のうちに生かし、豊かに成熟させていかれます。愛を動機として生きる人格が形成され、信仰による価値観を確立させ、試練をも踏み越えさせ、死の世界をも打ち破って進ませまるほどに造り変えられます。この「神の国」の最もよく目に見える実として「教会」が生み出され、建て上げられました。私たちの教会は、「神の国のために共に働く」僕とさせていただいているのです(コロサイ4章11節)。

御言葉に生きる(2018.1.28)

宣教題  「御言葉に生きる」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ1章19~25節

 神は、私たちを初々しい信仰者とするために召し出してくださいました(17~18節)。その神の御業がさらに進んでいくために、私たちが御言葉に生きることを求められています。

1.御言葉に聞く必要がある  19~21節
 御言葉を「聞くのに早く」とは、素直に、従順に、へりくだって聞くということです。「話すのに早く」とは、聞いた御言葉を思慮深く受け止め、正しく理解し、語ろうとする相手にふさわしく話すことです。そして、御言葉が自分の考えていることと合わないとか、自分の本当の姿が明らかにされているので受け入れられないということで、神に対して怒りを覚えることに「遅いようにしなさい」と勧められています。
その怒りから生まれる言動は、神の御心に適うものではありません。ですから、御言葉を受け入れなくさせる汚れや悪を素直に捨て去り、魂を救うことができる御言葉が語りかけることを聞き続けることが必要です(詩編119編130節)。

2.御言葉を行うことである  22~25節
 御言葉に聞くことから始めたならば、「御言葉を行う」ことがそれに結びついていきます。すなわち、御言葉に人格を傾けて注意深く聞くならば、それに従って行動が起こり新しい生き方が生まれてきます。ですから、御言葉に真実に向き合わず、御言葉に聞くことを忘れて、自分を欺かないことです。どこまでも、御言葉を「一心に見つめ」て生きるのです。

 一人ひとりが、御言葉の前に謙遜でありたいものです。そして、一人ひとりにふさわしく、御言葉を行う幸いに生きるものとならせていただきましょう。

罪人を招くために(2018.1.21)

宣教題  「罪人を招くために」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章13~17節

イエスは、再び湖のほとり出て行き群衆を教えられ、通りがかりの道でレビが収税所に座っているのを見かけて声をかけました。それは何のためだったのでしょうか。

1.わたしに従いなさい
レビは、イエス様からの召しを受けた時、すぐに従います。ここで重要なのは、レビがすぐに従ったということです。彼は徴税人であり、当時は罪人の代表者的存在として、決して救われることはないと思われていました。しかし、そのレビをイエス様が弟子として召されたのです。彼には、何も誇りとするものがなかったのです。

2.罪人の最たる者から主の弟子に
罪人から主の弟子になった人物の代表的存在にパウロがいます。彼はテモテに、「わたしは、その罪人の中で最たる者」と言っています。そんな彼が復活のキリストと出会い回心し、主の弟子となります。 パウロも神の御前に誇るべきものなど何一つ無く、ただ主の十字架によって救われた。その恵みと神の愛に生きた人物でした。

3.罪人を招くために来られた主イエス
主の弟子とされたレビはイエス様を食事に招きます。それを見たファリサイ派の律法学者は、イエス様を非難しました。そこでイエス様は、「わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである」と言われました。彼らは、自分の正しさに固執するあまり、罪人をも赦して招く大きな神の憐みを認めることができなかったのです。
わたしたちも、ただイエス様に招かれた罪人に過ぎません。レビやパウロのように、わたしのような者さえ招かれたことを心から感謝し、イエス様の愛と憐みと恵みを受けた者として歩ませていただきましょう。

あなたの罪は赦される(2018.1.14)

宣教題  「あなたの罪は赦される」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

イエス様が中風の人を癒された出来事から、わたしたちには何が最も大切なのかを見ていきましょう。

1.子よ、あなたの罪は赦される
 イエス様が町に入られると、そこに中風の人が運ばれてきました。するとイエス様は、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。罪を赦すことのできるのは神だけです。イエス様は神としての罪の赦しを宣言されたのです。それは、神の国は既に来ているのだから、神の子として、新しい命に生きなさい、ということを人々に告げようとされたのです。

2.イエスとは誰か
 イエス様の言葉に律法学者たちは心の中で神を汚す言葉だと論じます。しかしイエス様は続いて、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。それによってイエス様は、自分には罪を赦す権威があり、自分が誰であるかを示されたのです。そして神の国が既に来ており、神に近くあることの幸いに生きる者となるように告げようとされたのです。

3.その人たちの信仰を見て
 イエス様は、中風の人の信仰ではなく、彼を運んできた人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。確かに癒される人の信仰は大切ですが、その人の良き業によって罪が赦されるのではなく、イエス様の憐れみ、イエス様の執り成しによるのです。
 わたしたちにとって最も大切なのは、隣人への愛とイエス様への信頼です。そこに神の御業が現わされていくのです。そのことを求めて共に祈りましょう。

愛が分かった(2017.1.7)

宣教題 「愛が分かった」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 1ヨハネ3章11~18節

 パウロは、キリストこそが命そのものであると告白しています(フィリピ1章21節)。そのキリストをどのように知ることができるのでしょうか(14節、16節)。

1.死から命へと移してくださる主  11~15節
 キリスト者の生活は、「互いに愛し合うこと」を大切にしています(11節)。ところが、カインが弟を殺した姿に見るように(12節)、殺人は憎む心から生まれるものです(13節、15節)。今日の世界が「カインのように」なっているのではないか。また、私たちの心が憎しみに駆られ、心のうちに密かな殺人を犯すことになっていないか。そして、教会が本当に「互いに愛し合う」群れになっているか、と問われます。
 ところで、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを」事実として知らされ、信仰をもって受け止めています(14節、ヨハネ5章24節)。キリストによって死から永遠の命に移されるならば、愛に生きる者に変えられるのです。

2.命を捨てる者へと変えてくださる主  16~18節
 そのために、キリストは十字架にお架かりくださって命を捨ててくださいました。その事実のゆえに「愛を知りました」と告白しています。ヨハネは、家族愛をはじめ多くの愛を経験していましたが、キリストの十字架のもとに身を置いたことによって初めて神の愛が「分かった」のであり、地上の使命を終えるまで続いた経験でした。
 私たちを兄弟を愛する者に、命を捨てる者に変えてくださるのは、キリストご自身です。そこからは、兄弟に対して誠実な同情を寄せる愛が生まれてきます(17~18節)。何よりも、他者の救いと必要のために命を注ぎ出す者とされます(フィリピ1章22~26節)。これこそが、キリストの十字架の愛に生かされている者の生き方です。

生きることはキリスト(2018.1.1)

宣教題 「生きることはキリスト」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 フィリピ1章20~21節

 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益です」との告白は(21節)、パウロのひたむきな心構えが伝わってきます。それは、私たちの生活の試金石でもあります。

1.私たちの生涯の中心は  21節
 パウロは、「わたしにとって、生きるとは」キリストに仕えることですとも、キリストのようになるとも言っていません。キリストが、彼の信仰と生活と奉仕の動機であり、目標であり、生涯であったからです。それは、彼がキリストにすべてをお任せし、明け渡して、キリストがその生涯の主となっていてくださった証しです。そこで彼は、古い自我性に死んでキリストに生きていただいている、肉体の死をも永遠の命に生きるものとされているゆえに、「死ぬことは利益なのです」と喝破しています。
このようにキリストを中心にして生きることが、私たちの共通のそして共有すべき人生観また死生観です。

2.私たちの切なる願いは  20節
 このような信仰者としての在り方また生き方は、パウロがどんなに厳しい環境にあっても福音を前進させる動力となり、内に燃える切願となったのです。それは、どういう場合にも、キリストによって贖われて聖霊の宮とされている自分の身によって、キリストが誰の目にもハッキリと見えるほどに拡大されるようになることです。しかも、キリストが、特別なときだけでなく普段の生活の中で、大胆に証しされるようになることです。
 これこそが、私たち一人ひとりの、そして教会の切なる願いです。

恵みによって、今の私に(2017.12.31)

宣教題 「恵みによって、今の私に」     宣教 今田好一牧師
聖 書 1コリント15章3~10節

 復活の主が人々の前に現れたリストの最後に、パウロは自分を挙げて、神の恵みを感謝しています。

1.今のわたしに導いた惠み
 パウロは自分を「月足らずで生れたようなわたし」と表現し、更に神の教会を迫害した張本人として描きます。しかし神は、そんなパウロに主の十字架による全き赦しを与え、復活の主イエスを宣べ伝える者として用いられます。神は、パウロが弱い時に強くし、迫害に遭った時に助け、心挫ける時に新しい力を与えて下さいました。

2.恵みによる多くの働き
 パウロは、自分の働きが誰にも負けなかったと告白をします。それは神の恵みが溢れているから、共にいて下さった神の恵みによって多くの働きができたと語ります。神の恵みを深く感じたパウロは、その恵みを決して受けっ放しにはしませんでした。

3.内側で働く神の恵み
 パウロは、神の恵みを感じ、一生懸命働く者になった自分が偉いのではなく、素晴らしいのは私の内で働かれる神の恵みなのだと語ります。すべてが神の恵みであり、その恵みの与え主だけが褒め称えられるべきなのです。神の愛が欲しくて奉仕するのではなく、神への感謝が自然の表れとしてなされる奉仕のみが貴いのです。
 今年、与えられた恵みに感謝し、来る年のためにも、主は更に優る恵みを私たち一人ひとりに備えておられることを信じて歩みましょう。そして、今のわたしがあるのは主の十字架のゆえであることを心に覚えましょう。