宣教題 「キリスト者の完全」 宣教 大頭眞一師
聖 書 フィリピ3章1~14節
「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)は、真剣なキリスト者たちを悩ませてきました。愛において完全でありたいと願いながらも、「得た」と言い切れないためらいは、だれにもあるからです。パウロはそんなためらいから自由です。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・ひたすら走ること」(フィリピ3:13~14)がなすべきただ一つのことだと言うのです。「キリスト者の完全」は、私たちが神さまと人とに向かう姿勢の完全です。この完全は「今ここで」可能です。
そんな私たちが聖さにおいて成長していくために、いくつかたいせつなことがあります。
(1)信仰体験は多様ですから、他の人の体験と自分の体験を比べることはできません。それぞれに十分な恵みが与えられています。
(2)昨日の完全は、今日の完全ではないかもしれません。私たちの成長とともにさらなる前傾姿勢が可能になっていくからです。
(3) 私たちは力を尽くしてもなお、過ちや罪から逃れることができません。しかしその度ごとに、悔い改めて赦され、神と人との回復していただくなら、キリスト者の完全は保たれていきます。
教会は、愛の学校であり温泉病院です。罪による病や傷は、みことばの温泉と仲間との交わりというリハビリによって癒されていきます。じっくりと、深いところで。そしてそれぞれが置かれた場所でていねいに生きるのです。