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礼拝メッセージ

成熟した日々(2018.7.1)

宣教題  「成熟した日々」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章1~10節

 キリスト信仰者は、神の命をいただいて成長していきます。そのために、御言葉から目を離さないで、成熟した日々を歩み続けていくことが大切です。

1.罪に向かう心から  1~6節
 信仰者が心に留めておかなければならない敵があります。一つは、神を認めない、受け入れない、従おうとしない「世」です(4節)。二つは、神と信仰者に反対して働き、信仰者を陥れようとする「悪魔」です(7節)。三つは、まだ解決していない「罪」を持ち合わせていることです(8節)。罪は、信仰者が神に敵することであり(4節)、心の中にもつ罪があり(3節)、行いに表れる罪があります(1~2節)。
神は、この罪に向かう心がある者に対して、その内に聖霊を住まわせ、深く愛し、豊かな恵みに富ませて導いてくださいます(5~6節)。

2.神に向かう心に  7~10節
 神は、信仰者を愛し抜いて、神に向かうように招いておられます。その招きに応答して、神に従うことです。そうすれば、神は勝利させてくださいます(7節)。神に近づくことです。そうすれば、神は近づいてくださり、主イエスの十字架の血によって心を清くし続けてくださいます(8節)。そして、信仰者自らが深く省み(9節)、主の前にへりくだらせていただくのです。そうすれば、主は高めてくださいます(10節)。信仰者の成長は、下に向かっての成熟です。
 信仰者は、行き詰り、試み、挫折などを経験するものです。その時、神と向き合うことによって、新たに人とも向き合うことができるようにされるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(7.9MB)

主の弟子になる(2018.6.24)

宣教題  「主の弟子になる」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章25~35節

主イエスの大いなる救いの祝宴に招かれた者は、主の弟子として生きるようになります。それは、信仰者一人ひとりに対する主の恵みの招きです。

1.主の弟子になる道  25~27節、33節
信仰者は、「わたしの弟子ではありません」との主からの挑戦に応答する必要があります。それによって、家族よりも主を優先し聖別させていただくことにより、真に家族の絆は祝福を受けるのです(26節)。永遠の救いに招き入れてくださった主と一緒に十字架を負わせていただくことにより、他者の痛みを理解し、それを一緒に負わせていただくのです(27節)。神以外のものが心の王座を占領しているならば、それに別れを告げて神第一に生きるのです(33節)。
このような主の弟子の道を歩んでいるでしょうか。

2.主の弟子とされる祈り  28~32節
主の弟子の道を歩むには、「腰をすえて」主の前に静かに考えて祈ることが大切です(28節、31節)。主が「わたしの弟子ではありません」と言われるものがないかどうかを、神との祈りの交わりの中で明らかにしていただくためです。
腰を据えて静かに考えて祈る中に、主の恵みと祝福が及んでいくのです。

3.主の弟子の使命  34~35節
主の弟子として生かされ、主に従って、主の御心を実現させていただくために、主は私たちを使ってくださいます。すなわち、人々や社会の腐れを止め、味つけしていく塩のような存在としてくださるのです。
私たちの関心が、塩気のある主の弟子また群れでありますように!

メッセージ(11.9MB)

天の父への祈り(2018.6.17)

宣教題  「天の父への祈り」         宣 教  今田好一牧師
聖 書  マタイ6章9~15節
 今日は、父の日礼拝です。日頃のお父さんへの感謝と共に、わたしたちを造られた天の父なる神に、心からの感謝を献げる日とさせていただきましょう。

1.天におられる父
聖書が示す神は、罪ある人間とは遥かにかけ離れた聖なるお方です。もしそれだけなら、わたしたちは神との交わりを持つことはできません。しかし、神はそんなことは望まれませんでした。だからこそ、主イエス・キリストをこの地上に遣わされたのです。

2.憐れみ深い父
 主イエスは、この「主の祈り」(マタイ6:9~15)から、神を「わたしたちの父」と呼びかけるように教えておられます。それは、主イエスが聖なる神を「わたしの父」と呼び、親しい交わりを持たれたように、罪あるわたしたちでも、神との親しい関係を持つことができるからです。何故なら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」(マタイ6:8)だからです。

3.わたしたちの父
 天の神を父と認める者たちが「わたしたちの父」と呼びかけることができるのです。しかしそれは、罪も汚れもない主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架に死んでくださったからに他ならないのです。
 主イエスを十字架に架けるほどにわたしたちを愛してくださった天の父なる神が、最もわたしたちに望んでおられることは、主イエスの十字架の贖いが、わたしの罪のためであった。そして主イエスがわたしの救い主だと信じることです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.6MB)

祝福への招き(2018.6.10)

宣教題  「祝福への招き」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章12~24節

 「あなたは幸いだ」(14節)「なんと幸いなことでしょう」(15節)とは、幸いがいつまでも続いている状態を言っています。ここで譬えられている「宴会」は、その幸いな祝福への神の招きです。

1.祝福への招きの原点を忘れるな  12~14節
 ここでの「宴会」の譬えは、神は「お返しをする」人ではなく、「お返しのできない」人を招くようにと言っています。つまり、その招きは、神の恵みによる一方的なものであり、何ら人の功績などを求められないということです。ですから、主イエスによる救いの恵みは、お返しもできない罪深い者に、無代価で与えられるのです。そして、主なる神の報いを期待する生き方をするのです。
私たち一人ひとりは、この神の祝福への招きの原点を忘れることなく、神の恵みに立ち続けているようにしたいものです。

2.祝福への招きを拒むな  15~24節
 神は、「盛大な宴会」と言われる救いの祝福に人を招き入れるために、様々な形で呼びかけて来られましたが、遂に神の僕である主イエスをお送りくださいました(16~17節)。ところが、その招きに対して様々な理由をつけて拒む人たちが次々に起こったのです(18~20節)。そこで、主イエスは、罪と汚れのゆえにどんなに卑しくて貧しい者をも招き入れてくださることを明らかにされたのです(21~24節)。
 私たち一人ひとりは、神の救いの招きを拒むことなく、それを後回しにすることなく、拒んだままの生活を送ることなく、「神の国で食事をする」すなわち、主イエスの十字架と復活に表された愛の中に留まり続ける生き方をするのです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8.7MB)

上からの知恵(2018.6.3)

宣教題  「上からの知恵」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章13~18節

 聖書がいう「知恵」は、人の心を支配し、その人の考え方や生き方の判断を司り、かつ感化を与えるものです。ここに、その「知恵」の出所が二つあり、それがどのように「行い」や「生き方」となっていくかを語っています。

1.豊かな知恵である  14~18節
 人の心が「ねたみ深く利己的である」と、自分を誇って、真理であるキリストに逆らい、自分を欺くものとなります(14)。そのような知恵は、神から出たものではなく、自己中心的なものであり、混乱やあらゆる悪い行いを生じさせます(15~16)。
 しかし、人の心が、御言葉と聖霊の光に照らされることによって、神から与えられる「上から出た知恵」のご支配をいただくようになります。すなわち、主イエスの血によってきよめられ、神と人との関係が平和となり、温和で、優しく、従順で、憐れみに満ち、良い実を結ばせていただくのです(17~18)。ここに、豊かな知恵があります。

2.美しい生き方となる  13節
 人が、上から出た知恵を持っているかどうかは、その人の生き方によって明らかになります。それは、日常的に、神に対して、教会に対して、他の人に対して、ごく普通の人間関係の中で表れてきます。
 「知恵にふさわしい柔和な行い」は、神に信頼を置いて、神の御意志を行おうとするものです(マタイ11章28~30節参照)。そして、それを「立派(美しい)な生き方によって」示していくのです(マルコ14章3~9節参照)。主イエスの十字架の贖い抜きに、美しい生き方はありません。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.9MB)

人を引きつける魅力(2018.5.27)

宣教題  「人を引きつける魅力」        宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章7~12節

 イエス様は、わたしたちが経験するすべての苦しみや悲しみを知っておられ、御自分のこととしてその人に寄り添い、内側から癒してくださるお方なのです。

1.神の与えられる恵みとは
神は、私たちの求めとは違う方法で解決される時がありますが、そこには必ず神の最善がなされます。神の恵みは、日常生活の中に溢れています。わたしたちがそのことに気づき目が開かれると、神の愛の中に置かれている自分を知ることができます。

2.群衆が引きつけられた魅力とは
 神の御心を伝え、病を癒し、神の愛を示されたイエス様に、おびただしい群衆が集まります。しかし群衆は病の癒しという魅力にのみ引きつけられたのです。彼らが求めたのは自分や家族の病の癒しだけでした。確かにそれもイエス様の魅力の一つですが、そこには、イエス様がこの地上に来られた本当の理由とのズレがありました。

3.人を引きつける真の魅力とは
 汚れた霊がイエスを見て、「あなたは神の子だ」と叫びます。もしその叫びを許せば、イエス様の魅力が病の癒し、ローマの支配から解放する英雄に留まり、イエス様の十字架と復活の必要もなく、語られる福音が人々に届かなくなります。だからイエス様は厳しく戒め、誘惑を退けられたのです。イエス様の人を引きつける真の魅力とは、わたしたちの心の奥底にある自分ではどうすることもできない悩みや苦しみからの解放、そして何よりも罪からの救いと永遠の命を与えてくださることなのです。
 イエス様はあなたのために十字架にかかり、血潮を流されたのです。この方の魅力に引き寄せられ、この方こそがわたしの神、わたしの救い主と信じて歩みましょう。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.8MB)

大いなる委託(2018.5.20)

宣教題  「大いなる委託」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ24章44~49節

 復活された主イエスが人々と食事を共にしながら語られることに、人々は耳を傾けています(36~43節)。それは、新しい夜明けへの備えの時でした。主イエスは、ご自身の証人として人々を遣わすに際して大切なことをされました。

1.心を開かれる  44~48節
 主イエスは、すでに旧約聖書で預言されていた十字架と復活による罪の赦しを得させる救いの真理を分からせるために、人々の心を開かれました。そのように、主イエスに心を開いていただいた者は、人々に福音を宣べ伝える主の証人となるのです。
 主の証人は、福音を「エルサレムから始めて」地の果てに至るまで、そして今日の私たち一人ひとりにまで届ける働きをしてきました。主の証人とされている一人ひとりは、その恵みと特権に与っていることを忘れないようにしたいものです。

2.聖霊を注がれる  49節
 主イエスは、かつて地上で始められた働きを、今なお継続しておられます。しかし、その働きを委託された弟子たちは、それにふさわしくなかった者たちでした。そこで、主の働きは、聖霊を注いでいただいた弟子たちを主の証人として遣わすことによって進められ、教会は前進していきました(使徒言行録2章32~33節)。
そのためには、弟子たちが「都にとどまって」、聖霊が注がれるのを待ち望むことが必要でした(使徒言行録1章3~5節)。そこでは、一人ひとりの弟子たちが、祈り合う中で心探られ、砕かれた心をいただいて不純なものが除かれ、謙虚な心にされた時に聖霊が注がれたのでした(使徒言行録1章14節)。私たちは、このようにして聖霊を注いでいただくことによって、主の証人としてふさわしい者とされるのです。

聖書朗読(10.9MB)

お祈りとメッセージ(0.4MB)

恵みによる飾りを(2018.5.13)

宣教題  「恵みによる飾りを」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章7~11節

 主イエスは、「へりくだる者」を祝福され、その信仰の歩みに恵みによる飾りを装させてくださいます(11節)。

1.主イエスの前に低くされる 
 ここにある婚宴の席での席順のたとえ話は、礼儀作法の美徳や利口な処世術を教えているのではありません。ここで主イエスが求められていることは、人が自分のうちに高められるものは持ち合わせていないことを知って、真に低くされていることです。そこで見えてくるものは、十字架に死んで復活された主イエスの救い恵みの豊かさです。この主イエスの謙遜が私たちを救いに導き、主イエスの救いが私たちを謙遜へと導くのです。
 このように主イエスの前に低くされることにより、主イエスの心をもって他者を尊敬し、信頼する関係が生まれてくるのです(フィリピ2章3節)。

2.主イエスによって高められる 
 「へりくだる者は高められる」ようにされるのは、人がとても及びもつかないほど高く、そして聖なるお方である主イエスご自身です。この主イエスが、心砕かれて、へりくだる者と共にいて、命を得させて、生かし続けてくださるのです(イザヤ書57章15節)。
 この主イエスの恵みの中に生かさている時に、その恵みの高さ、大きさを見させてくださり、「低くされ、へりくだる者が高められる」ことを経験させてくださいます。ここに、主イエスにある特等席があります。一人ひとりは、この恵みの特等席に招かれているのです。

聖書朗読(0.4MB)

お祈りとメッセージ(11.5MB)

歓喜する力(2018.5.6)

宣教題  「歓喜する力」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章1~12節、コロサイ3章16節

 神の創造の業に忠実に存在している自然界の草木は、世界に歓喜をもたらします。同じように、神を賛美し、人々に祝福を語るために造られた人の舌は、周囲に歓喜をもたらします。それに対して、信仰上の問いかけがなされています。

1.言葉が制御されているか 
 ここには、言葉を使うことの責任の大きさを述べており、その言葉を発する「舌は小さな器官」であるにもかかわらず、次のような問題を生じさせ、時に悲劇をもたらします。小さな舌の大きな失敗(1~4)、小さな舌の大きな表現(5節)、小さな舌の大きな影響(5~6節)、小さな舌の大きな悪(7~8節)、小さな舌の大きな欺き(9~12節)と指摘されています。お互いの舌はコントロールされているでしょうか。
 とりわけ、神の御言葉の証人として立てられた教師に対しては、その責任の重いことを教えています(1~5節)。ですから、教師はいつも御言葉に従って生きることを通して、主の御業がなされる働きに加わっていくのです(イザヤ書50章4節参照)。

2.キリストの御言葉が宿っているか
 信仰者が言葉で失敗しないために、どのような備えをしたらよいのでしょうか。ヤコブは、俄然、内側の「内心」に光を当てています(13節以降)。言葉は、結局心の表れであり、心に「毒」があると、それが言葉に表れてきます(8節)。ですから、主イエスによって心から毒を取り除き、心を造り変えていただく必要があるのです。
 主イエスが信仰によって私たちの心に生きていてくださり、主の御言葉がいつも心に宿っているならば、互いに祝福を語り合い、主への賛美に溢れる信仰の歩みとなります(コロサイ3章16節)。ここに、小さな舌がもたらす大きな祝福があります。

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(11.5MB)

イエス様はわたしの羊飼い(2018.4.29)

宣教題  「イエス様はわたしの羊飼い」  宣 教  今田好一牧師
聖 書  ヨハネ10章1~15節

 イエス様はここで、羊飼いと羊との関係をたとえて、ご自身が人々を導くまことの羊飼いであり、羊を守る囲いの門であることを示そうとされたのです。

1.イエス様は良い羊飼い
 イエス様は、ご自身が「良い羊飼いである」と羊飼いと羊のたとえを用いて語られました(1~5節)。しかしその話が分からないファリサイ派の人々に、ご自身が「羊の門」であると、更にたとえを用いて話されました(7~10節)。このたとえはどういう意味なのでしょうか。第一に、イエス様こそが正しい救いの門であることを、第二に、永遠の命を与えるお方であることを示しています。そして更に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)と、イエス様が羊であるわたしたちのために命を捨てられることを預言されました。このたとえ通り、イエス様はわたしたちの罪の身代わりに十字架にかかり死なれたのです。

2.わたしたちは羊
 人間は、羊のように一人では生きていけない、目標も分からず、迷いやすい弱い存在です。だから、そんなわたしたちを養い、守ってくれる羊飼いが必要なのです。 聖書は、わたしたちに「良い羊飼い」が誰であるかを教えています。それがイエス・キリストです。イエス様は、神について、永遠について完全に教えてくださるお方、わたしたちを罪から救い、死に勝利させてくださるお方、わたしたちを正しく導くことのできるお方です。何故ならイエス様は、わたしたちを愛し、わたしたちの罪を赦すために十字架にかかってご自身の命を献げられた「良い羊飼い」だからです。そして、三日目によみがえり、わたしたちに永遠の命を与えてくださるお方なのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11MB)

安息の中に憩う(2018.4.22)

宣教題  「安息の中に憩う」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章1~6節

 主イエスが、安息日の食事の席に行かれたときでした(1節)。そこには、水腫を患っている人、イエスの様子をうかがっている人々がおり、緊張した食事であったと思われます。そのような中で、主イエスは、安息の中に憩えるように導かれました。

1.安息に招かれる主イエス 
 ルカによる福音書には、主イエスが安息日にいやす御業をなされ、それが人々の反感をかうという出来事が語られています(6章6~11節、13章10~17節、14章1~6節)。それらは、時間の経過とともに、着実に主イエスが勝利されていくお姿が分かります。この場面では、人々が一言も語ることができなかったという状態でした。
安息日の主であるイエスは、安息日が「元気を回復するため」にあることを明らかにされたのでした(出エジプト23章12節)。安息に招かれる主イエスが、私たちを新たに立ち上がらせてくださるのです(マタイ11章28節)。

2.いやし安息を与える主イエス 
 主イエスは、ご自分の前に水腫を患ったまま放置されていることに心を痛められ、いやされました(4節)。人が病んでいる姿は、今も変らず、神との関係が正しくない状態であったり、男女の関係や社会における人間関係の倫理が失われていたりする状態となって表れます。その状態をそのまま放置しておけない主イエスは、ご自身の救いの恵みをもっていやし、安息を与えられます。
 一人ひとりがそのいやしに与るためには、自らの無力を認めて、主イエスに対する信仰を持つことです。そして、主イエスが心に手を置いていやされる恵みの御業に委ね、与えてくださる安息にあずかることです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(10MB)

力ある信仰(2018.4.15)

宣教題  「力ある信仰」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章14~26節

 主イエスの救いに与るのは、どのような善行も必要ではなく、ただ信仰によります
(エフェソ2章8~9節)。その救いに与ったのには目的があり(同10節)、信仰者の生活に変化が起こります。それをヤコブは、力ある信仰として表れると言っています。

1.信仰が生きている  14~19節
 親しみをこめて「わたしの兄弟たち」と語りかけるヤコブは、祝福された信仰者の歩みについて述べています。行いの伴った信仰こそ、生きたものであり、役に立つということです(14、17、20、26節)。それは、信仰と行いが、ひとりの人格の中で一緒になってバランスがとれていることです。
 私たちの行いが、口だけをもってのものではなく(15~16節)、聖霊によって一人ひとりの心に注がれている神の愛をもってなされるときに、その信仰は本物といえるのです(1コリント13章3節)。

2.神を信頼して生きる  20~26節
 信仰によって義と認められた者の歩みは、神を信頼して生きる行いが伴ってきます。それは、アブラハムのように(21~23節、創世記22章参照)、またラハブのように(25節、ヨシュア記2章参照)、確かな神の助けと最善の導きがあるとの信仰のともなった行いです。信仰は行いの原動力であり、行いによって信仰が表され、さらに行いによって信仰がまっとうされるのです(22節)。
 私たちの信仰が、今までより以上に生活の中で行いとなって溢れていくことにより、主イエスご自身とその恵みをさらに豊かに知ることができるという経験をさせていただけるのです。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(9.8MB)

主の御心はどこにあるのか(2018.4.8)

宣教題  「主の御心はどこにあるのか」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章1~6節  レビ19章18節b

イエス様が会堂に入って礼拝を守られました。しかし、この日、会堂に集まった人々のまなざしは天に向けられていませんでした。

1.神を愛し、人を愛する
 安息日の礼拝に片手の萎えた人が来た時、イエス様はこの人を癒されました。それは人々に律法を守ることで、神の御前にその正しさを主張する信仰が根本的に間違っていることを示すためでした。そして、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を全うするために律法は機能しているのだということを示されたのです。

2.沈黙という拒否の末に
 人々はイエス様の問いに「黙っていた」のです。彼らは、イエス様が言われるようには変わりたくなかったのです。しかし、イエス様が求めておられるのは「変わる」ことです。それは、今のわたしたちにも『あなたは変わらなければならない。』と言われているのです。この時、人々はイエス様の招きを拒否し、黙ってしまいました。その結果、彼らは、イエス様を殺すというところに至ったのです。

3.イエス様の招きに応える
 イエス様が、神を愛し、人を愛し、人に仕えることを明確に示されたのが十字架です。イエス様は今も「わたしに従って来なさい」とわたしたちを招いておられます。この招きにわたしたちが応えた時、神に向かって、隣人に向かって踏み出して行くことができるのです。そこに神の国への道が開かれるのです。
 自分のことしか愛せないようなわたしたちですが、イエス様の招きに応えて、神と隣人とを愛する者へと踏み出させていただきましょう。そこに主の御心があるのです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(7.7MB)

進み行かれる主(2018.4.1)

宣教題  「進み行かれる主」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章31~35節

私たちは、主イエスが死の闇から復活され、命の輝きをもたらしてくださったことを感謝するとともに、全存在をもって主イエスに向かって生きることが大切です。

1.神の時を進まれる主イエス  31~33節
主イエスご自身の歩みを決定したのは、ヘロデに代表されるこの世の悪の力によるのではなく、父なる神のご計画によるものでした。この時、エルサレムへの旅路を十字架に向かって進んで行かれました。その先には、主イエスが「三日目にすべてを終え」て復活されることにより、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と決意しておられます。
主イエスは、十字架を前にして父なる神の御心だけを求めて歩み進まれ(ルカ22章42節)、復活されてご自身の御働きを進められました(マタイ28章16~20節)。

2.愛の完成へと進まれる主イエス  34~35節
主イエスは、神の御言葉を受け入れようとしない者たちを、何度もご自身の救いの中に招き入れようとされてきました。ご自身の愛を冷ややかに拒む者に対して、苦悶し、嘆いておられます(34節)。しかし主イエスは、そうした中にあっても父なる神のご計画の中を進んで行かれました。ひたすら十字架と復活に向かうことにより、愛の完成を目指して進んで行かれたのです。
このことを知る教会は、今や「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美しつつ、主の再臨の時に向かって進んでいます(35節)。ですから私たちは、一人でも多くの人々が心の底から同じように賛美できる時が来るよう、伝道に励みたいものです。

聖書朗読(0.6MB)

 

メッセージ(6.9MB)

救いの門は開かれている(2018.3.25)

宣教題  「救いの門は開かれている」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章22~30節 2コリント6章2節c

 聖書は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と明言しています。その救いの門は今も開かれています。そのために、主イエスは、十字架にお架かりくださり、復活された場所であるエルサレムに向かって進んていかれたのです(22節)。

1.今や、恵みの時だから 
 主イエスは、「不義を行う者」が悔い改めないままでいるならば、救いの恵みの戸が閉じられる時がくることを語られました(23~28節)。そこで、神が与えてくださる救いを拒み続けないで、「狭い戸口から入るように努めなさい」と、この救いを自分自身のこととして取り組むようにと招かれているのです(24節)。
 忘れないでいたいものです。主イエスは、今も私たち一人ひとりの心の戸をたたき、声をかけていてくださいます。ですから、一人ひとりが自らの心の戸を開いて、主イエスを受け入れることが必要なのです(ヨハネの黙示録3章20節)。

2.今こそ、救いの日だから 
 ところで、救いの入口そのものが狭いのではありません(29~30節)。それを狭くしているのは、主イエスの救いを拒み続ける頑固な心、自分は間違っていないとする傲慢な心のままでいる人の側にあります。人は誰もそのような罪の荷を自分で背負いきれないために、主イエスがその荷を十字架上で身代わりとなって担い切ってくださったのです。その主イエスに対する信仰をいだいて歩みだす者には、救いの入口は狭くなく、堂々と大手を振って入っていくことができるのです(ルカ23章39~43節)。
 私たち一人ひとりが、主イエスにすがる素直さをもって応答していくなら、主イエスの救いの御業は恵みとして現実に起こることなのです。