メニュー 閉じる

礼拝メッセージ

向こう岸へ渡ろう(2019.1.13)

宣教題 「向こう岸へ渡ろう」        宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ4章35~41節

わたしたちはイエス様が共におられることを信じて信仰の歩みをします。それがキリスト者です。

1.危機を前にしてのつぶやき
 イエス様に言われて弟子たちは舟を出します。しかし、嵐が起きて舟が沈みそうになり、弟子たちは恐れますが、イエス様は寝ておられた。すると弟子たちはイエス様に非難めいた口調でつぶやき出したのです。同様にわたしたちも困難な状況に陥ると、主が共にいてくださることをいとも簡単に忘れてしまうのです。

2.沈むことのない舟
 この時イエス様は、嵐の中でも平安であられたので眠っておられました。しかし、弟子たちは恐れと不安に支配されていました。イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのです。それは、主が共におられるなら決して舟が沈むことはないということと、嵐を静めて、ご自身が神の子であることを示されるためでした。

3.向こう岸に向かって舟が出る
 弟子たちは舟を出さなければ嵐に遭うこともなかったのです。しかし、そうしていたら嵐を静められるイエス様を見ることはできなかった訳です。そして、そのことによって、益々イエス・キリストというお方を知ることになるのです。

 「向こう岸に渡ろう」とのイエス様の促しに従い、一歩踏み出すのが教会であり、キリスト者です。イエス様はいつもわたしたちと共におられます。だから大丈夫。イエス様はわたしたちと共に向こう岸へと渡ってくださるお方なのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.9MB)

愛による成長(2019.1.6)

宣教題 「愛による成長」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章14~19節、4章16節

パウロは、聖徒たちがキリストの「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」となるように祈っています(3章14~15節)。教会は、そのキリストの愛を知る聖徒たちによって形成され、その愛によって造り上げられていきます(4章16節)。

1.どのような愛なのか  3章16~19節
このパウロの祈りは、今の私たちの祈りです。世の力、悪の力、肉の思い、誘惑は、聖徒の「内なる人」の霊性を弱くします。しかし、そのような者を愛し、赦しきよめてくださる神の恵みによって強められ、「内にキリストを住まわせ」て歩まさせていただくのです(16~17節a)。
それによって、キリストの愛が「人の知識をはるかに超える」ものであることを知ります。それを具大的に経験し続けることが、神の満ちあふれる豊かさにあずかり、満たされることになるのです。このキリストの愛を経験するのは、「すべての聖なる者たちと共に」、教会に生きることによって分かるのです(17節b~19節)。

2.どのように愛に生きるのか  4章16節
さらに一歩進んで、教会を形成する聖徒たちは、その愛をどのように理解し、その愛に対してどう生きていくのでしょうか。キリストの愛に応え続けることです(2章4~5節、10節)。キリストの愛に学び続けることです(4章15節)。キリストの愛に倣い続けることです(5章1~2節)。
聖徒たちが造られていくために、そしてその一人ひとりが属する教会が成長し、造り上げられていくために最も必要なことは、キリストの愛を体験的に知り続け、キリストの愛に生き続けることです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(9.6MB)

愛の大きさが分かる場所(2019.1.1)

宣教題 「愛の大きさが分かる場所」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章17~19節

パウロは、私たちが「キリストの愛を知る」聖徒であり、その群れであることを切に祈り願っています(新改訳2017、聖書協会共同訳を参照)。この祈りの背後には、キリストの愛が分かり、それを計れる場所はどこにあるのかを明らかにしています。

1.キリストの愛に包まれて
まず、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」(17節b)ことです。キリストの愛を知るに際して、自分自身とその生活の根拠と土台をキリストの愛に置くことは、当然のことです(ヨハネ15章5節、7節、9節参照)。それには、キリストの愛に包まれ、その中に招き入れられていることを体験的に知っていることが大切です。
キリストの愛は、すでに完全に現されています(エフェソ2章4~5節)。必要なことは、キリストの愛が増し加えられることではなく、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるかを理解」(18節)することができるように祈ることです。

2.すべての聖徒たちと共に
キリストの愛に包まれて生活する者たちは、聖徒の交わり、すなわち教会に生きる者です。「すべての聖なる者たちと共に」キリストの愛を知る体験を共有し総合してこそ、初めて「人の知識をはるかに超える」キリストの愛の豊かさをうかがい知ることができるからです(19節)。それは、キリストの愛を知る経験が健全となるためにも大切なことだからです。
キリストの愛を知り続けるために、互いに祈り合いましょう。そして、この愛の中に、なお多くの人々が招かれるように祈りましょう。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(6.5MB)

数えてみよ 主の恵み(2018.12.30)

宣教題  「数えてみよ 主の恵み」       宣 教  今田好一牧師
聖 書  詩編103編1~5節

主の2018年最後の礼拝を迎え、この一年をふり返って、主が与えてくださった恵みの数々を思い起こし、主に感謝を献げさせていただきましょう。

1.わがたましいよ、主をほめよ
全身全霊をもって主をほめたたえなければ、神への感謝を忘れてしまうほど、わたしたちは愚かで鈍い者です。神の恵みは湧き溢れる泉から、わたしたちに注がれ、潤され続けているのだから、そのことを忘れないようにしたい。わたしたちが、神の恵みを何一つ忘れないためには、ひとり静かに神の恵みを思い巡らすことが大切です。その時、感謝と賛美が終わることはないのです。

2.すべての不義を赦された者として
すべての不義を赦された者の神への感謝の理由を以下に六つ記します。
(1)わたしのすべての不義を赦してくださった。(2)わたしの家族のすべての病を癒してくださった。(3)死と滅びからの贖いを成し遂げてくださった。(4)恵みとあわれみとの冠を与えてくださった。

3.一生良いもので満たしてくださる
(5)神が創造主であり、養い主でもあられる。(6)わたしたちと教会を常に新しくしてくださる。わたしたちの肉体は衰えますが、永遠にきよめてくださる霊と共に、永遠の命を宿す栄光の体が与えられる日が来るのです。
わたしたちが、主の恵みを数え、主に栄光を帰し、今年一年の守りと励ましと、救いの恵みの確かさを喜び、新しい年に向かって若々しい命と力を更新していただき、御国を目指して歩みましょう。「数えてみよ 主の恵み」を!

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(10.3MB)

グッド・ニュース(2018.12.23)

宣教題  「グッド・ニュース」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ2章8~20節
救い主の誕生の知らせは、とてつもない「大きな喜び」であり、すべての人々へのグット・ニュースでした(10~11節)。それは、主が知らせてくださった「出来事」です(15節)。

1.神が来訪された出来事  8~14節
「羊飼いたち」は、自分たちの仕事に忠実に励んでいた日常の生活のなかで、大きな喜びの知らせを告げ知らされました。神が彼らを用いられたのは、主イエスが羊飼いのようにして人々を救いに導くことを明らかにするためでした(詩編23編、ヨハネ10章10~11節)。
神が来訪された出来事において、神は羊飼いたちだけでなく、ヨセフやマリアたちも用いられています。私たちは、このことを通して、神が人を信頼していてくださること、イエス・キリストを信じようとする人の信仰を全力で守ってくださることを知ります。

2.人が救い主を探し出した出来事  15~20節
主が知らせてくださった出来事を見るために、急いで出かけた羊飼いたちは、誕生された御子イエスを「探し当て」ます(15~16節)。今も一人ひとりに必要なことは、羊飼いたちのように神の御言葉が出来事となった救い主を探し当てて、その救いに与ることです。
そこから、人の信仰の歩みは変わります。「大きな喜び」となった主イエスの救いが讃えられ、それが伝わっていきます。クリスマスは、この大きな喜びに与る信仰の決起の時であり、また再出発の時です。

聖書朗読

メッセージ

こんな所に(2018.12.16)

宣教題  「こんな所に」
宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ2章1~7節

主イエスのご降誕は、何と質素で、単純ですが、また崇高なことでしょうか。主イエスは喜んで「飼い葉桶に」宿られました(7節)。なぜ、「飼い葉桶」だったのでしょうか。

1.そこに神の導きを見い出すから
世俗の権力に弄ばれるかのように、ヨセフとマリア夫婦は、ナザレからヨセフの故郷ベツレヘムに帰っていきました。そこでの住民登録は、強いられてのことでしたが、そこに神のご計画が進められたのです。それは、預言者を通して約束されたことが(イザヤ9章1節、5節、ミカ5章1節)成就した出来事です。
このベツレヘムという世界の片隅での出来事が、皇帝の支配を超えて、神のご計画の中にあったことを知ります。同じように、私たちに起こっていることが、神の導きの中にあって起こっていると捉えることができるのです。

2.そこで真に主イエスと出会うから
「飼い葉桶に」寝かせられた御子イエスのお姿を通して、憐みの神が私たちのために低く、貧しくなってくださったことを知ります。さらに、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあるように、主イエスを迎え入れようとしない、閉め出している人の姿を知ります。そして、「飼い葉桶」に象徴されるように、主イエスは罪と汚れの中にある人のうちに宿られるお方であることを知ります。
私たちは、十字架の死から復活をされた主イエスを、自分の全存在と全生涯に迎え入れるという出会いを経験することが大切です。そこから、主イエスが、一人ひとりに輝きわたるお方として臨んでくださるのです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(9MB)

お言葉通り、この身に(2018.12.9)

宣教題  「お言葉通り、この身に」      宣 教  今田好一牧師
聖 書  ルカ1章26~38節

天使は、神の目的を果たすためにわたしたちに近づいてきます。しかし、わたしたちは、必ずしも天使の訪問を歓迎するとは限らないのです。

1.恐れないで信じなさい
突然現れた天使から、「…あなたは身ごもって男の子と産む…」(30~31節)と言われて、まだ男の人を知らないマリアは益々不安に陥ります。しかし、このことは、わたしたちの人生に神が介入されるということです。それはわたしたちにとって、願ってもないことである場合と、逆に平穏無事な生活が壊されかねない場合があります。しかし、神がわたしたちの内にイエス様の命を与えてくださるとき、わたしたちの古い命、古い心を粉々に砕いてくださるのです。

2.打ち砕かれた心
恐れと不安で心が打ちのめされていたマリアに天使は、「聖霊があなたに降り、…生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)と答えます。マリアはこの言葉をすべて理解したわけではありませんが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(38節)と答えたのです。このマリアの『神のなさることに、わたしはもう何も申し上げることはありません。』という素直な信仰をもって、神は御子をその身に宿らせられたのです。
わたしたちがどんなに考えても神の御計画のすべてを知り尽くすことはできません。しかし、神はどんなことも成し遂げる力をもって、わたしたちの人生に関ってくださるのです。ですから、そのことを素直に信じることが大切なのです。わたしたちも、心に神の命、御子イエスを宿す者とならせていただきましょう。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(7.5MB)

主の救いを待ち続けて(2018.12.2)

宣教題  「主の救いを待ち続けて」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ17章22~37節

 待降節は、誕生された主イエスを私たちの内に信仰をもって迎え入れる時です。同時に、全ての終わりの時に再臨される主イエスを待望し、備えをする時です。「人の子の日」(22、24、30節)に向け、どのように備えるのでしょうか。

1.平静な心で待つ  22~25節
 主イエスの再臨を静かな心で待望することが勧められています(23節)。思いがけない時突然に、必ず主イエスの再臨があります。主イエスの大いなる救いが完成されるまで(24節)、主イエスの十字架の贖いの御業を想起しつつ、それを基点として信仰の歩みをするのです(25節)。
 ルカはパウロと一緒に主イエスに仕えることによって、終りの時を生きる聖徒の生きざまを教えられました(使徒言行録)。そこで学んだことは、主イエスが再臨されることを計算に入れて、平静な心で生きることでした。

2.無頓着にならずに待つ  26~37節
 人が、主イエスの再臨に対して無頓着であることを戒めています。ノアの時代の人々に臨んだ洪水やロトの時代に罪深いソドムの町が滅ぼされたように、「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」からです(26~30節)。その時は、救いの完成の時であり、また審きの完成の時です(31~37節、信徒信条参照)。
 主イエスは、ここで脅しておられるのではありません。警告されているのです。主イエスを信頼し、その再臨を忍耐して待つことを求めておられるのです。見通しがきかなくても、苦しみがあるとしても、主イエスの十字架の贖いが支えてくださるからです(1コリント11章26節)。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(8.8MB)

感謝の生活(2018.11.25)

宣教題  「感謝の生活」           宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ17章11~19節

 どんなことにも感謝できるようになるのは、一人ひとりが主イエスとの出会いを通して開かれていく世界です。ここに、「重い皮膚病」を患っていたひとりのサマリア人が、「イエスの足もとひれ伏して感謝」する人に変えられています。

1.壁を破ってくださる主イエスであるから  11~14節
 サマリア人は、人種的かつ宗教的な壁(11節)、病気がもたらす壁(12~13節)をもっていました。彼は、このような壁を破ってくださる主イエスの憐れみを慕い求め、そして主イエスの言われたとおりに信じ進んで「行く途中で」いやされました(14節)。
 私たちは、自分自身で様々な壁を作り出しますが、とりわけ、主イエスの救いの招きに対して壁を作ってしまっていることがあります。それに対して、見ないで進む信仰が大切です(ヨハネ5章24節)。

2.感謝を与えてくださる主イエスであるから  15~19節
 いやされたサマリア人は、「大声で賛美しながら」主イエスのもとに戻って来ました。そして、主イエスが、大切なひとりとして関わってくださったことの嬉しさと驚きで、その「足もとにひれ伏して感謝」したのです(15~16節)。
 私たちは、愛の神がしてくださる様々なことに対して感謝します。その中で、誰もが感謝することは、主イエスの十字架によって、一人ひとりに神に近づく道を開いていただいたことです。主イエスは、この事実を信じる「信仰があなたを救った」と宣言してくださるのです(19節)。主イエスを信じる者の歩みは、主イエスが与えてくださる感謝の生活です。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11.3MB)

神の国はここにある(2018.11.18)

宣教題  「神の国はここにある」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ17章20~21節

神の国は、神の恵みで満ちています。その神の国を子どものように受け入れることによって、神の恵みに与るのです(18章16~17節)。なお、神の国は、見える形で、場所を限定して指し示すことができるものではありません(20節)。

1.あなたがたのただ中に 
 人は、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰によって救われることにより、神の恵みの支配に入れられ、その恵みに生きる者とされます(マルコ1章15節)。そこには、神の無条件の赦しの愛が満ちています。そして、主イエスを信じて罪が赦されたという喜びの実感、本当に罪のない者とされたとの平安の確信が与えられるのです。
 このように、見えない神の国は、ただ信仰によって、一人ひとりのただ中に、すなわち心の深いところに実現していくのです。

2.あなたがたの間に 
 主イエスを信じるということは、今ここに主イエスがおられ、神の恵みの支配を信じて生きることです。それは、神の国を私たちの心の中に閉じ込めてしまって終わることではありません。「あなたがたの間にある」のです。すなわち、主イエスによって集まる教会に、神の招きによって礼拝をささげているところに、主にある交わりのあるところに、神の恵みの支配が始まっており、神の国の現実があるのです。
 私たちは、神の恵みの支配の中に置いていてくださることを信じ、信頼することに集中して生きていくのです。

聖書朗読(0.2MB)

メッセージ(8.4MB)

豊かな収穫を待ち望む(2018.11.11)

宣教題  「豊かな収穫を待ち望む」        宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ4章26~34節

神の国がどのように発展するのかを、弟子たちに、そしてわたしたちに教えるために、イエス様はこの二つのたとえ話を語られたのです。

1.神の恵みと導きの中で
 蒔かれた種が成長するのは、蒔いた人の力ではなく、神の力によって芽を出し成長して実を結びます。神の国もそれと同じように、わたしたちは神の御言葉を宣べ伝えます。それは、神の国の種を蒔くようなものです。しかし、わたしたちが蒔いた神の国の種は、神の恵みと導きの中で成長するのです。

2.神の国は前進し続ける
からし種は、ごく小さな種ですが、その葉の陰に鳥が宿るほどに成長します。神の国は、このからし種のようなものであり、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所となります。言い換えれば、イエス様ご自身を指していると言えます。
わたしたちがイエス様と結び合わされて、イエス様をわたしたちの拠り所として、共に生きることによって、神の国の前進を体験していくのです。

3.豊かな収穫を持ち望む
「聞く力」(33節)とは、イエス様に聞き従おうという姿勢で御言葉を聞く耳のことです。自分の小さな秤が御言葉によって打ち砕かれ、変えられて行くことを受け入れ、御言葉の恵みを大きな秤で汲み取ることができるのです。
わたしたちの日々の生活、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の豊かな収穫を待ち望みつつ共に歩まさせていただきましょう。

聖書朗読(0.4MB)

礼拝メッセージ(9.5MB)

確信のある人生(2018.11.4)

宣教題  「確信のある人生」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章13~17節

 神は謙遜な者に恵みを与え、主の前にへりくだる者を高めてくださいます(4章6節、10節)。私たちは、へりくだって僕となられた主イエスの御心に従い、御心を行って生きるならば、確信のある人生を過ごすことができるのです。

1.主の御心に従って生きる  13~15節
 人は、たとえどんなにこの地上で栄えていても、活力に満ちて大きな仕事をしていたとしても、今の歩みが自分の思い通りに進んでいたとしても、誰にも「明日のことは分からない」し、「自分の命」がいつ取られるか分かりません(13~14節、ルカ12章16~20節参照)。
 自分が自分の主人となって、過去も現在も将来も自分の力で生きていけると考えているならば、それは「高慢」です。しかし、主イエスが自分の主人であるとの信仰をもって、「主の御心」に従って生きていくという謙遜さがあるならば、神は恵みをもって、大胆な人生の歩みをさせてくださいます(15節)。

2.主の御心を行って生きる  16~17節
 先にあったように、神を忘れて自分の思いだけで計画を立てて動き回るのは、主の前にへりくだっていないからです。それは、神の前に「悪いこと」であり、「罪」なのです。ですから、「なすべき善を知りながら、それを行わない」歩みではなく、「わたしに良いことをしてくれた」(マルコ14章6節)と言われる主の御心を行って生きることが大切です。
 主の前にへりくだるとは、自分がへりくだっているという意識すらなく、主の恵みで十分、これで良いとうなずかせていただけることです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8MB)

感謝の生活(2018.10.28)

宣教題  「感謝の生活」           宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ17章11~19節

 どんなことにも感謝できるようになるのは、一人ひとりが主イエスとの出会いを通して開かれていく世界です。ここに、「重い皮膚病」を患っていたひとりのサマリア人が、「イエスの足もとひれ伏して感謝」する人に変えられています。

1.壁を破ってくださる主イエスであるから  11~14節
 サマリア人は、人種的かつ宗教的な壁(11節)、病気がもたらす壁(12~13節)をもっていました。彼は、このような壁を破ってくださる主イエスの憐れみを慕い求め、そして主イエスの言われたとおりに信じ進んで「行く途中で」いやされました(14節)。
 私たちは、自分自身で様々な壁を作り出しますが、とりわけ、主イエスの救いの招きに対して壁を作ってしまっていることがあります。それに対して、見ないで進む信仰が大切です(ヨハネ5章24節)。

2.感謝を与えてくださる主イエスであるから  15~19節
 いやされたサマリア人は、「大声で賛美しながら」主イエスのもとに戻って来ました。そして、主イエスが、大切なひとりとして関わってくださったことの嬉しさと驚きで、その「足もとにひれ伏して感謝」したのです(15~16節)。

 私たちは、愛の神がしてくださる様々なことに対して感謝します。その中で、誰もが感謝することは、主イエスの十字架によって、一人ひとりに神に近づく道を開いていただいたことです。主イエスは、この事実を信じる「信仰があなたを救った」と宣言してくださるのです(19節)。主イエスを信じる者の歩みは、主イエスが与えてくださる感謝の生活です。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(9.7MB)

生ける信仰(2018.10.21)

宣教題  「生ける信仰」           宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ17章1~10節

 信仰とは、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われた主イエスの真実に対して信頼することです(5~6節、2テモテ2章13節)。その生きた信仰は、信仰者の歩みの力となり、生き方や考え方と物事の受けとめ方が変わってきます。
1.健全な人間関係を建て上げる  1~4節
 主イエスの救いの恵みに対する生きた信仰は、人々を「つまずかせる」ことのないようにとの配慮と導きを与えてくれます。ところが、誰も「つまずき」を与えないほどに完全な人はいません(1~2節)。そこで、それに気づいた時には、自分自身が主イエスの赦しの恵みに与っているという信仰に徹底することにより、赦す力を持たせていただくのです(3~4節)。
 ここに、人と人の間に働く生きた信仰があります。これこそ、受け継いでいる教会の財産です。

2.神への奉仕を生み出す  7~10節
 仕える僕の心を持つことができるように、主イエスご自身が模範を遺されました(7~8節、マルコ10章45節)。ですから、主イエスのものであるということは、主が命じられたように仕える僕となることです。
 このように、真実な主イエスを信頼する生きた信仰は、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と告白できる人生へと導きます。「からし種一粒ほどの」生きた信仰を持つ聖徒一人ひとりと教会は、さまざまな出来事に対応していくなかで、本当の強さと豊かさを経験していきます。これもまた、教会が受け継いでいる財産です。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(9.4MB)

聞く耳のある者は聞きなさい(2018.10.14)

宣教題  「聞く耳のある者は聞きなさい」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ4章21~25節

 イエス様の語られた二つの譬え話にはどのような意味があり、「聞く耳のある者は聞きなさい」とは、一体どういうことなのでしょうか。

1.ともし火とは何か
「ともし火」とは、イエス様の語られた御言葉であり、わたしたちに与えられた神への信仰と愛です。イエス様はここで『わたしが与えたともし火は、圧倒的な力と輝きをもって、あなたがたと全世界を照らし続ける。』と、イエス様が来られることによって今まで隠されていた神の国の奥義が明らかにされました。事実イエス様は、力ある業によって神の国を現わされたのです。

2.自分の秤が変えられる
 わたしたちには自分の経験や世の常識等によって作られた秤があります。しかし、この秤がイエス様の求めておられる秤に変わると語られた譬えの意味が分かるようになるのです。この秤が変えられるためには、『わたしは罪人だ』と知ることです。それによってイエス様の十字架の死が、わたしの罪のためであったと分かるようになります。その時に、自分の秤が変えられるのです。

3.聞く耳のある者は聞きなさい
 語る者が伝えようとしていることと、聞く者が聞こうとしていることがずれていたら話は通じません。イエス様はそのことを指して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。わたしたちがイエス・キリストの福音を、本気で聞こうとしないならば、自分の耳が変わらなければ、決して分からないのです。
主の救いの御業に仕え、聞く耳のある者とならさせていただきましょう。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8.7MB)