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礼拝メッセージ

最大のしるし(2019.11.24)

宣教題 「最大のしるし」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章27~44節

 人は、いつの時代もしるしを求めたがります。そのことをご存知の主イエスは、全ての人に対する救いの最大のしるしとして、死から復活されました(マタイ12章38~40節)。この事実に対して、私たちはどう応答すればよいのでしょうか。

1.生ける復活の主イエスを信じる 
 ユダヤ教の指導者であったサドカイ派の人たちは、死者の復活を信じていませんでした。彼らは、死が究極のゴールだと思って、死に対する不安と恐れを抱く人間を代表するような生き方をしていました(27~33節)。
それに対して主イエスは、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」によって、死者が復活することを明らかにされました(34~38節a)。
確かなことは、すでに主イエスが十字架に死んで復活されたことにより、死は征服されたのです。この生ける復活の主イエスを信じることが、新しい歩みのスタートをすることになるのです。

2.生ける神によって生きる 
 主イエスは、人としてはダビデの子孫でしたが、十字架において人の罪を赦し、死を打ち破って復活し、天に昇って神の右に座して全世界を治めておられる神です(41~44節)。
この主イエスは、「生きている者の神」です。この主イエスに対する信仰をもって、「神によって生きる」歩みをしていくのです(38節)。

主イエスは、一人ひとりに、何に生きているのか、どなたに対して生きているのかを問いかけておられます。十字架の死から復活され、今も生きておられ、永遠までも導かれる主イエスの前を歩み続けていくのです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(10MB)

権威ある方の教え(2019.11.17)

宣教題 「権威ある方の教え」       宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章21~28節

イエスは、ガリラヤ湖の田舎で四人の漁師を弟子にし、都市であるカファルナウムに着いて、安息日に会堂で教え始められた。

1.権威ある者として教える
イエスと比較されている律法学者の教えは、揚げ足を取ること、否定・批判が中心で、自分ができない事を人にする様に求め、持っている知識を私欲のために利用する姿が、福音書には多く書かれている。彼らの理屈やその手法は、当時世界を支配していたローマ帝国も手を焼くものであった。
イエスは律法学者とは違った。その教えには、尊厳があり、威信があった。

2.実行する力
イエスには、尊厳があっただけではない。実際に権限があり、能力があった。そのことを、悪霊を追い出す事で現わした。その力には、神にたてつく、汚れた霊も逆らう事はできなかった。
神は天地を創造するとき、被造物に命じて行った。世界は神の権威によってでき、今もその権威によって支えられている。イエスには、その権威があった。

3.新しい教え
イエスの権威ある新しい教えは、信じた私達にも言われている。「あなたの神である主を愛しなさい。」(12:30)「隣人を自分のように愛しなさい」(12:31)「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15) イエスの教えは、聞くものの人生を豊かにする。そして、行うことが困難なようであっても、行えるようにする力がある。神に逆らう世に遣わされている私達を、イエスはその権威と力で、世に勝利させてくださる。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11MB)

神のものだから(2019.11.10)

宣教題 「神のものだから」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章19~26節

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25節)と語られたことは、神のものを自分のものにしてしまっている者の姿とつながっています(20章9~18節)。それでは「神のもの」になるとは、どういう生き方なのでしょうか。

1.すべてを神にお返しする 
 ここでも、主イエスを陥れようと企てる者たちの問答です。そこで主イエスは、この世にあるさまざまなものの中で、これは神のもの、これは皇帝のもの、これは私(たち)のものというように分別できるものではない、みな「神のもの」と言われたのです(25節)。
 私たちは、税を納めることなどにより国を支えその恩恵に与っています。「神のものは神に返しなさい」とありますが、礼拝を神にお返ししているか、十分の一をもって神にお返ししているかと問いかけつつ、それに応答して歩むことが祝福の人生です。

2.キリストに一切の主導権をお渡しする 
 ところで私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、神のものとしていただきました(1コリント6章19~20節)。そうすることによって、私たちを神の栄光のために用いられ、互いに神のものとして用いられるようになりました。
 そのために私たちは、自らを自分のものとするのではなく、キリストを主としてお迎えし、人生の主導権を主にお渡ししていくのです。そして、家族の一人ひとりまたお互い一人ひとりの主導権をお持ちなのはキリストであり、神のものであることを証ししていくのです。それは、自らが死んで神に生きていただく生き方です。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(8MB)

一つの希望に招かれて(2019.11.3)

宣教題 「一つの希望に招かれて」     宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ4章1~6節

 「主に結ばれて」いる私たちは、キリストの体である教会を形造らせていだいている一人ひとりです。そして、「一つの希望にあずかるように招かれて」います(4節)。どこにその根拠があるのでしょうか。

1.復活の主のご支配に置かれているから 
 「一つの希望に」あずからせていただいているのは、主キリストを信じる信仰によって神への信頼を抱き、洗礼によって主キリストと結ばれることによって、神の家族として受け入れられているからです(5~6節)。
 聖なる者たちが受け継ぐべきものは、十字架の死から復活されて、全てのものを支配しておられるキリストに拠り所を置いた歩みをします。それこそが、揺るぎない希望です(1章18~20節)。キリストは、死に勝つ命に生かしてくださり、私たちを力強いみ手をもって捉えていてくださいます。

2.キリストの体に結び合わされているから 
 キリストの体を造るように招かれている一人ひとりは、欠けてはならない、かけがえのない存在です。その一人ひとりは、キリストの体である教会につながって、キリストの命と支えと導きをいただきなが生きていくのです。
 ですから、教会の仲間のお互いが共に支え合い、補い合って歩むように招かれているのです。そのためには、一人ひとりの信仰のあり方が問われます。キリストの救いのゆえに、謙遜へと導かれていることです(2節a)。お互いが、キリストの愛のみ手によって捉えられ、互いに愛をもって受け入れ合い、平和の絆で結ばれ、聖霊による一致を熱心に保ち続けていることです(2節b~3節)。
 このようにして、違いを遥かに凌駕する同じ「一つの希望」にあずかるのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(9MB)

神の愛と忍耐(2019.10.27)

宣教題 「神の愛と忍耐」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ20章1~18節 2テサロニケ3章5節

キリストは、本当の権威を知らいない人々に(ルカ20章1~8節)、愛と忍耐をもってそれを現してくださいました(同9~18節)。このキリストこそ真の権威ある方だからです。

1.神の愛に基づく権威
登場する「ぶどう園の主人」こそ愛なる神を、その「愛する息子」こそキリストを、「農夫たちこそ」ユダヤ人を含む私たちひとり一人のことを語っています。
神は人に、生きる場を与え、そこを治めるようにされました(創世記1章27~30節)。にもかかわらず、人は恵み深い神を拒み、神のものを自分のものとする罪の人生を築き上げてきました。そこで神は、聖書に登場する神の僕たちを用いて語りかけられましたが、人は拒み続けました。そして遂には、キリストを遣わされましたが、十字架に架けて、その罪の身代わりの死を遂げさせたのです。
キリストを十字架に架けた罪人は、私たちひとり一人のことです。しかし愛の神は、罪人を拒むことはありませんでした。捨てられることはありませんでした。

2.キリストの忍耐を現わされた権威
キリストは、十字架の救いを通して、忍耐の限りを尽くされました。その極みが、「罪を赦す権威」です(ルカ5章23~24節)。神が赦されるとは、罰することができる権限をキリストの十字架によって捨てられたことです(同23章34節)。
罪の赦しは、救われた者が持つ確かな経験です。そして、その経験をした者は、互いに赦し合うことを当然のこととする力をいただくことができるのです。

私たちひとり一人は、このような「神の愛とキリストの忍耐」に与り続けることが大切です(2テサロニケ3章5節)。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(10.2MB)

愛する者のための祈り(2019.10.20)

宣教題 「愛する者のための祈り」    宣 教  矢島志朗勧士
聖 書 フィリピ1章1~11節

人は「神にかたどって」造られ、交わりに生きる者とされている。牢獄にいるパウロから送られたこの手紙からは、人間関係について多くを教えられる。

1.キリスト・イエスに結ばれている者(1~2節)
「聖なる者たち」という言葉には「他のものと異なっている」「分離している」
という意味がある。「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉をある学者は、「絶えずキリストにある大気の中で、キリストの御霊の中で生きること」と述べる。私たちは神様によってこの世の者とは異なる者とされ、日常のすべての場において御霊に導かれ、主の臨在のうちに歩む者とされているのである。

2.感謝の祈り(3~8節)
パウロはフィリピの人たちの「存在」を喜び、共に福音にあずかっていることを感謝している。神様は良い業を成し遂げてくださるという確信があった。そして「愛の心」をいだいていた。これは「かわいそうに思う」「深くあわれむ」という表現に通じる、熱い思いをあらわす言葉である。

3.愛する者のための祈り(9~11節)
パウロは、フィリピの人たちの愛が豊かになり、本当に重要なことを見分けられるようにと祈った。また彼らが清いものとなり、義の実を受ける者となるようにとも祈った。一人一人の神様との関係が豊かにされ、愛が増して実が結ばれることを切に願い、熱心に祈ったのである。私たちも兄弟姉妹同士、このように祈り合う関係に招かれている。お互いが神様をさらに知る者とされて、置かれているすべての場所でキリスト・イエスにあって生き、共に主の働きをさせていただけるように祈っていきたい。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(15MB)

ついて来なさい(2019.10.13)

宣教題 「ついて来なさい」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章16~20節

イエスは福音を宣べ伝えている地で、漁師たちに声を掛けられた。

1.主は御覧になっている 16,19節
 神である主は、弟子にする前、信仰を持つ前の漁師たちを御覧になっていた。神は全ての人を御覧になっている。そこから漏れる人は一人もいない。

2.主は招いておられる  17,20a節
 主は宣教されている地で、人を招かれた。ガリラヤからはじまった宣教は、日本の私達のところにまで来た。今や私達のいる所も宣教の地となっている。主は宣教の地で人を呼ばれ、「わたしについて来なさい。」と言って招いておられる。それに従う者には、「人間をとる漁師にしよう」と約束されている。

3.主の後について行った 18,20b節
 呼ばれた四人の漁師は、仕事を残してイエスに従った。私達もまた、主に、ついて来なさいと呼ばれている。あなたはそれを聞いて、どうされるだろうか。
 主は従うものを、人間をとる漁師にされる。人間をとる漁師となり、主の弟子となるのに必要なことは、主に従う事だけである。従う人を、主は責任をもって弟子とされる。私達は主と出会ったとき、漁がうまく行くように、天候が守られ、たくさん収穫があるようにして下さいと願う。しかしそれは、主に従うのではなく、主を従わせる事になっている。主に従うとは、私の目的を主に達成させることではなく、主の目的を私が達成することに他ならない。

 主に従った4人の漁師は、段階を経て成長し、使徒となり、イエスの目的である宣教を受け継ぎ、私達のところまで福音を届けた。今主は、あなたにどのように従うように、呼びかけられているでしょうか。

聖書朗読(0.3MG)

メッセージ(10MB)

何のために祈るのか(2019.10.6)

宣教題 「何のために祈るのか」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章14~21節

 パウロは、心を込めて、思いの限りを尽くして「ひざまずいて」父なる神に祈っています(14~15節)。その祈りは、さながら聖餐式に臨む者のような祈りです(1コリント11章24~25節、10章16節)。何を祈り求めているのでしょうか。

1.内なる人を強めてくださることを  16~17節
 悪の力・世の力・肉の思い・誘惑が、信仰者の「内なる人」を弱らせます。
その「内なる人」を強めてくださるのは、父なる神が、聖霊によって、信仰者の「内にキリストを住まわせ」て全てを支配し、キリストの愛に根を張り、その愛にしっかりと基礎づけられ、その愛で満ちあふれさせいただくことによります。このように神の恵みによって、内なる人を強めていただくことを祈るのです。

2.キリストの愛を知ることができることを  18~19節
 キリストの愛は、その愛の中に飛び込んでいくことによって知ることができます。そして、「すべての聖なる者たちと共に」キリストの体である教会に加えられてこそ、本当にキリストの愛の豊かさを知ることができるのです。
 そうすることによって「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり」、神の恵みに満たされることを祈るのです。

3.神をたたえることができることを  20~21節
 その祈りは、神をたたえる賛美へと拡がっていきます。それは、神が、私たちに働きかける神の御力により、私たちが願い思うことをはるかに超えてかなえてくださるゆえに、教会において、キリストによって神に栄光を帰することです。

 こうした祈りは、今日まで多くの人たちを通して証しされてきました(コロサイ4章12節)。これこそ、私たちの教会の大切な究極の祈りです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(10MB)

安らぎをあなたに(2019.9.29)

宣教題 「安らぎをあなたに」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ14章27~31節

 主イエスは「わたしの平和(平安)を与える」(27節)と言われました。主イエスがお持ちであった平安とは、どのようなものだったのでしょうか。それを私たちひとり一人は、どのように受け取るのでしょうか。

1.生き方に確信がありますか  31節
 主イエスは、父なる神のみ心にかなった生き方をしているとの強い確信をもっておられました。それゆえにもっておられた平安だったのです。
 私たちは、この主イエスを知ることによって、生きることの意味や将来について知ることのできる確信ある生き方をするのです。そこに、主イエスから与えられる平安があります。

2.暗い陰が心によぎりませんか  30節
 主イエスは、神の真実な愛をもって生きられました。そこには、罪と悪の支配の及ばない平安があったのです。
 その主イエスが、私たちの罪と悪の支配から解き放つために、十字架の身代わりの死を遂げてくださいました。罪を赦し、新たに生まれ変わらせてくださる主イエスの愛の招きに応えるときに、主イエスから与えられる平安があります。

3.いつでも信頼できる主イエスを知っていますか  28節
 主イエスは、「父のもとに行く」と言われたように、十字架に死んで復活されました。この父なる神に信頼し切っておられたゆえにお持ちの平安でした。
 私たちは、苦難や問題に直面したときの不安、死に際して抱く恐れを経験します。そのような時にも、復活され今も生きておられる主イエスに信頼して永遠の今を生きるところに、主イエスから与えられる平安があるのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.0MB)

ノアの箱舟と大洪水(2019.9.22)

宣教題 「ノアの箱舟と大洪水」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 創世記7章1~5節

 洪水物語は世界中にあり、誰でも絵本や物語を聞いた事、見た事があると思います。聖書には、ノアの洪水のことについて、創世記6章から8章に書かれています。

1.洪水はなぜ起こったか
 神様は天地を創造されたとき、できたものを見て、「良かった」と言われ、満足されました。そして、地を人の管理に任せました。しかし、人は常に悪いことばかり思い計るようになり、神様は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。そこで、地にいるすべてのものを洪水によってぬぐいさる事にされました。(創世記6章6節、7節、14節)

2.ノアとその家族はなぜ救われたのか
 そのような中にで、ノアだけは神様に良い人だと認められます。(創世記7章1節) そして、洪水が起こる前に箱舟を造り、動物や食料、家族をその中に入れ、洪水から逃れるように命じられます。ノアは神様に従い、その通りに行います。ノアの家族は、ノアの言う事を聞いて一緒に箱舟に乗り込み、救われました。

3.大洪水はもう起きないのか
 神様は洪水の後、水によってすべて滅ぼすことは決してない。虹がその約束だと言われました。(創世記6章16節)
 世界が滅びるほどの大洪水は起こさないと神様は約束されました。しかし、地に不法が満ちたとき、火で焼き尽くされると聖書は警告しています。逃れられるのは、神様の言われたことを聞く人だけです。今、イエス・キリストを救い主として信じるように神様は言われています。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11.1MB)

いつまでも残るもの(2019.9.15)

宣教題 「いつまでも残るもの」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 1コリント13章13節

 愛の神は、人間として大切なものを見失いつつある私たちに、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と語られて、この大切なものを受け取ってほしいと願っておられます。

1.人生は「信仰」から始めよう 
 聖書の「信仰」という言葉には「真実」との意味が込められています。人としての真の道は、すべてを創造された唯一の神を信じる人生にあります。
私たちが、この宇宙や大自然界の神秘を、人間の存在の不思議さを目の当たりにし、その背後におられる創造主の神の存在を認めて信じることにより、人として真の道を歩みだすことができるのです(イザヤ書40章26節)。

2.信仰は「希望」につながる 
 神を信じる人生には、不思議な希望が伴います。それは、困難に囲まれながらも、輝きを発して生かされるところから生まれる希望です(ローマ5章3~5節)。   
また、死に直面してもなお揺るがない、死をも超えた希望です。
真実な神は、死を乗り越え、突き抜け、永遠の世界にしっかり結びついてこそ得られる本物の希望を備えていてくださるのです。

3.「神の愛」こそが希望を与える 
 困難の壁を崩して進み、死の暗闇を打ち破るために必要なのは、「その中で最も大いなるものは、愛である」と言われる神の愛です。
 神の愛は、独り子イエス・キリストを通して現わされました。私たち罪人のために十字架で身代わりに死んでくださり、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。ここに、神の愛があります。この神の愛を「私のため」と受け取るだけです。

聖書朗読(0.1MB)

メッセージ(12MB)

祝福の根源(2019.9.8)

宣教題 「祝福の根源」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章28~48節 1コリント6章19~20節

 本箇所は、主イエスが平和の王として来られてエルサレムに入城され、この後十字架のご受難の道に向かわれた危機的な場面です。この時、人々は主イエスをお迎えしましたが、それが必ずしも主の御心に沿うものではありませんでした。

1.救い主の訪れを見過ごさないように  28~44節
 主イエスを迎えるに際して、二つのグループがありました。一つは、イスラエルの王として迎え入れた弟子たちや多くの群衆です(36~38節)。もう一つは、主イエスを拒絶したユダヤの宗教家たちで、主イエスを妬み、亡き者にしようとしていた者たちです(39~40節)。それに対して、主イエスは、ご自身を通してもたらされる神による平和の道を見失い、ご自身を通して神が訪れておられることを見過ごしている者たちへ、泣いて審きを予告されました(41~44節)。
 さて、私たちは、救い主イエスが私たちを訪れて良心に語りかけておられる御声を退けないで、「主よ」とお迎えして応答することが肝要です。

2.永遠の救いを失わないように  45~48節
 主イエスは、神を礼拝すべき神殿が強盗の巣となっており、そこにあった多くの罪のゆえに怒られました(45~46節)。それに対して、宗教家や指導者たちの主イエスに対する殺意はますますエスカレートしていきました(47節)。彼らは、本来の礼拝をする場所に戻そうとされた主イエスを無視して、自分たちの一時的な満足のために永遠の救いを失ったのです。
 さて、私たちは、主イエスが血をもって買い取られた神殿であり、神のものとされたのですから、そこを主イエスに明け渡すことが祝福の根源です(1コリント6章19~20節)。この恵みに生きるなら、霊的に老いることはありません。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(8.0MB)

恵みの賜物(2019.9.1)

宣教題 「恵みの賜物」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ3章1~13節

 この手紙は、教会とは何なのか、教会に生きることと教会に仕えることとはどういうことなのかを中心に語ります。本箇所では、話題を転じて挿入するようにして、神の恵みを賜わっている者の生き様を伝えています。

1.ひとり一人の生涯が変えられる  1~9節
 神の救いの「計画」の全貌は、キリストによって、聖霊の御働きによって「啓示」され開かれました(3節、4節、5節、9節)。そのご計画は、ユダヤ人も異邦人も皆等しく、神の民としての約束と救いに与ることを定められ、それをキリストによって実現されました(6節)。この福音こそが、神の恵みの賜物であり(7節a)、それを受け入れた者の生涯を変えるのです。
 さらに、「この福音に仕える者」とする恵みの賜物でもあります(7節b)。この恵みの生涯を歩み続けるならば、恵みにより謙遜にされ続け、深められていく歩みとなります(8節、1テモテ1章15節)。

2.その苦難の中に栄光を見る  10~13節
 こうした神の恵みを賜わっている者の生涯は、苦難を経験しないとは限りません。むしろ、キリストのために、他者の救いのために受ける「苦難」の歩みでもあります(1節、13節)。それゆえに、パウロは、キリスト者とその教会に「落胆しないでください」と励ましているのです。そのことの中に神による「栄光」を見るからです(13節)。

 教会のための苦しみは、教会に生きる喜びと分かち難く結びついています(コロサイ1章24節)。それは、キリストが十字架と復活を通してたどられた価値ある歩みです。私たちも、この信仰の確信を高らかに宣言しましょう(12節)。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

主こそ救い(2019.8.25)

宣教題 「主こそ救い」       宣 教  宮澤 清志師
聖 書 エレミヤ17章1~14節

 私たちは、「祝福される」すなわち「幸いな人」とは、周りの環境に恵まれ、何の苦労もなく生きている人であると考えます。しかし、この箇所においては、祝福された人にも暑さや干ばつが襲うとあります(8)。一見、呪われた人(5)と同じ境遇のように感じられます。
では「呪われた人」と「祝福された人」とは、いったい何が違うというのでしょう。

1.罪の中の人間の姿
 まず、ここでは神を失った人間の姿は、「人間」に信頼する生き方であると語ります(5)。自分を信頼し、自分が築き上げた「富」(11)を信頼し、結果、その人は「神を失った者」(11)となるというのです。
 また、そのような人は「荒れ地の裸の木」(6)にたとえられています。からからに乾ききった不毛の地、炎暑の地を住まいとする人のようだとこの箇所は語ります。
 そして聖書はそのような人の心を「とらえ難く病んでいる」(9)と語るのです。そのような心の現実に振り回され、心に傷を負い、自らを傷つけているのが人間の姿であるような気がします。

2.人間に対する神の愛
 そのような罪の中にいる人間に対して、預言者エレミヤは神に嘆きます。エレミヤは、人間の現実の姿にただ涙し、嘆いているのではなく、救われる道があると説くのです。それが、救い主である主のもとに帰ることなのです。

 「癒し主」であり「救い主」であるお方のもとに帰ることができますように。

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(12.3MB)

キリストの期待(2019.8.18)

宣教題 「キリストの期待」     宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章11~27節

教会に連なるクリスチャンたちは、主イエスが再臨されることを待望しつつ、神の歴史を歩んでいます。このたとえ話では、その期間どのように過ごすのかを明らかにしています。そこには、キリストの期待があります。

1.主の福音を託された歩みをする
このたとえ話は、10人の人に1ムナずつ公平に託されています、主イエスから公平に託されているものとは、だけでもイエス・キリストを信じて悔い改めるなら、救われるという賜物です(エフェソ2章8~9節)。神から無代価でいただけるこの恵みに対して、本気で感謝しているか、そのことが小さなことに見えて、かすんでいることはないかと問われます。
キリストが期待されていることは、クリスチャンは主イエスが再臨されるその時まで、託された主の福音を生活の場で生かし(13節)、主の福音を忠実かつ熱心に宣証していくことです(17節)。

2.主との交わりが深められていく
10人に公平に託された1ムナでしたが、主人が帰って来た時に、3人の僕だけが主人の前に進み出ました。1ムナを10倍また5倍にした人は、主人をどこまでも信頼して、忠実に仕えたのでした。1ムナをそのまましまっておいた人は、主人に対する理解がなく信頼せずにいたために(21節)、主人は失望しました。

クリスチャンは、主イエスご自身とその救いに対していつも信頼しつつ、主の福音を宣証し続けるのです。そうすることによって、主イエスがどういうお方であるかを知り続け、その救いがますます深められて豊かにされていくのです。神の栄光が現わされ、主イエスが喜ばれる群れとさせていただきましょう。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(10.9MB)