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礼拝メッセージ

キリストへの畏れをもって(2020.6.14)

聖書

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェソ5章21節)

礼拝音源(32MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編100編1~2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 19編1~15節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章21~33節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 361 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストへの畏れをもって」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 505 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

愛の主キリストは、ご自身への「畏れ」をいだく者たちに、さまざまな「恐れ」から解き放って新しい生活へと歩み出させてくださいます。ここでは、キリストへの畏れをもって「互いに仕え合いなさい」と命じています(21節)。

1.妻も夫も互いに 

キリストにおいて一つの体とされたお互いは、キリストにあって兄弟姉妹です。それは、妻と夫の関係においても同様であり、互いに仕えることが求められます。

そこには、まずキリストが十字架の死に至るまで私たちを徹底して愛して、仕えてくださった事実があります。それゆえに、妻は「主に仕えるように」、夫に仕えるのです。夫はキリストが「教会のために御自分をお与えになったように」、妻を愛して仕えるのです(22~25節)。

こうして、妻と夫は、キリストの愛に対する深い感謝と信頼を抱きつつ、畏敬の念をもって互いに仕え合うのです(33節)。

2.キリストの体に連なる互いが 

このように、パウロは妻と夫が互いに仕え合うことを語りつつ、信仰者がキリストの体に連なることによって、互いが仕え合うことを通して教会が造り上げられていくことを勧めています(26~32節)。

エフェソにある教会が、初めの愛から離れてしまったために、悔い改めて初めの行いに立ち戻るように命じられています(ヨハネの黙示録2章1~7節)。これは、今の私たちへの問いかけでもあります。キリストへの畏れをもって応答していきましょう。

 

暗闇に立つキリスト(2020.06.07)

聖書

「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(ルカ22章53節b)

礼拝音源(37MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 使徒言行録1章8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 84編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章47~62節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 288 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「暗闇に立つキリスト」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 ローマ14章17節
賛  美 197 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、今は暗闇の支配する時であると語られました(53節b)。それは指導者たちだけのことでなく、イスカリオテのユダとペトロの内を暗闇が支配していることをも意味していました。そこに、主イエスは立ち続けておられたのです。

1.愛が崩される中に  47~53節
主イエスは、ユダが近づいてきたとき、深い悲しみをもって相対されました(47~48節)。彼の主イエスに対する裏切りには、愛を装って背き、友情を装って売り渡すという暗闇が支配していました。そのところに、サタンがつけ込んできました(1~6節)。
主イエスは、最後の晩餐に際しても(ヨハネ13章21~27節)、ユタが裏切る段に至っても「友よ」(マタイ26章50節)と呼びかけて、極みまで愛し抜かれました。
愛が崩れてしまっていく中にあっても、そこに主イエスは立ち続けておられます。

2.憐れみにすがる中に  54~62節
ペトロは、これまで懸命に主イエスに従い続けてきましたが、主イエスが捕らえられるや、「遠く離れて従った」のです(54節)。彼は、そこから道を踏み外しました(55~56節)。ついには、主イエスを三度まで否認する有様です(57~60節)。
この時ペトロは、変わらない主イエスのまなざしを思い起こします(61節、ヨハネ1章42節)。そして、悔いの涙を流します(62節)。憐れみに富んでおられる主イエスは、その悔いの涙に対して同情で終わることなく、十字架と復活、続くペンテコステの聖霊の恵みを通して、新しい任命と望みを与えられました(1ペトロ1章3~5節)。
主イエスは、ご自身の憐れみにすがり続ける者をこのように導かれるのです。

緊急の必要(2020.5.31)

聖書

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、(エフェソ5章18節)

礼拝音源(29.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編51章12~14節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 16編1~11節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章18~20節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 342 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「緊急の必要」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 529 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主の弟子たちが、主イエスの十字架と復活の期間また昇天と聖霊降臨の期間に不安と恐れを抱きました。それは、主の再臨待望信仰に生きる人たちでさえ、いろんな機会に同じような経験をするものです。そうした時、聖霊に満たされていることが、緊急の必要となります(18節、ヨハネ14章16~18節参照)。

1.聖霊に満たされ続けよ  18節
私たちは、酒のみか、仕事、学び、遊びなどに酔わされて、自分を失ってはなりません。むしろ、今も常に聖霊に満たされ続けよと命じられています。それは、聖霊に支配され、聖霊に導かれていることです。
聖霊に満たされ続ける秘訣は、ペンテコステ後の主の弟子たちのように、一人ひとりが主イエスに主導権を明け渡し、主のものになることです。教会は、聖霊に満たされ続けることにより、主の恵みに満ちあふれ、主の命に活き活きと生きる聖徒の群れとなるのです。

2.キリストの支配に生きる  19~20節
聖霊によって「イエスは主である」(1コリント12章3節)と告白することは、心と人生の中心をキリストのご支配をいただいて生きることです。
そこから、信仰の仲間とともに、歌が語り合う言葉となり、「主に向かって心からほめ歌う」賛美が出てきます。そして、ついには「いつも、あらゆることについて」父である神に対して感謝が出てくるのです。
私たちは、日々の歩みの中で、聖霊に満たされ、キリストの支配に生きることに捉えられていることが大切です。その人生に区切りを与えるのが、聖日礼拝です。

 

キリストの従順のゆえに(2020.5.24)

聖書

キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。(ヘブライ5章8節)

礼拝音源(29.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ5章5節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 14編1~7節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章39~46節
ヘブライ5章7~9節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 280 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストの従順のゆえに」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 303 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、キリストでさえ「学ぶ」必要があったこと、それが「従順」であったこと、それを学ぶのに「多くの苦しみ」を通してであったことに、驚きを覚えます(ヘブライ5章8節)。
主イエスは、十字架を前にオリーブ山で祈られたことを通して、ご自身どういう者なのか、私たちとどのような関わりをもたれたのかを明らかされました。

1.苦しみを伴った祈り
この祈りは、苦しみを伴う壮絶なものでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)、神の裁きの杯を取り去ったくださいと祈られました(詩編73編7~8節参照)。そして、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と、死の恐ろしさのゆえに苦しみもだえて祈られました。主イエスは、立っていられないほど困惑し、恐れ、「ひざまずいて」祈られたのです(41節)。
なぜ、このように恐れられたのでしょうか。主イエスご自身が、全世界の罪を一身に負い、世の罪を取り除く神の小羊として十字架に架けられるからです。これまで、父なる神との交わりの断絶を経験したことのないお方が、その交わりを断たれるという「苦しみ」だからです。主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)との十字架上の叫びこそ、その苦しみの極致でした。ここに、キリストの孤独があります。
主イエスは、今の私たち一人ひとりに代わって、この苦しみを伴う祈りをされたのです。

2.父なる神への服従の祈り
主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と願い祈りながらも、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました(42節)。父なる神の御心とは、御子イエスが全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。主イエスはそれに従い通されたのです。
そして、このように主イエスは祈りながら、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と二度にわたって言われました(40節、46節)。誘惑に陥るとは、神への信頼を失うことであり、失わせようとすることです。ですから、父なる神に信頼することに無感覚になって、信頼できなくなることのないように祈るのです。

主イエスの従順が、私たちの永遠の救いの源となりました(ヘブライ5章9節)。ですから私たちは、人となられた活ける神である主イエスを信じ仰ぎ見るのみです(讃美歌21 280番「この人を見よ」参照)。そして、「御心のままになさってください」と祈られた主イエスの祈りに支えられて、神の御心がこの私と私の人生の歩みに行われますようにと祈り、歩み出すのです。

新しい酒は新しい革袋に(2020.5.17)

聖書

また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコ2章22節)

礼拝音源(23.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エゼキエル36章26節a,28節b 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 15編1~5節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ2章18~22節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 56 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「新しい酒は新しい革袋に」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 403 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ファリサイ派の人々は、習慣に従って断食をしていた。当時の信仰心の表明として、ごく普通のことでした。洗礼者ヨハネの弟子たちは、師が捕らえられた(1:14)ことを悲しみ、断食をしていました。それなのに、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」というのが、イエスに向けられた質問でした。

1.花婿のたとえ
批判に対して、主は今の状況を結婚の祝いの宴にたとえられました。イエス自身を花婿とし、花婿が共にいる喜びの席で、悲しみを表明する断食を行うのはふさわしくないとされました。表面的な行為としての断食を嫌われました。
花婿であるイエスが取り去られ時が来るとして、十字架に架けられる時が来ることを暗に預言され、その時には、イエスの弟子たちも断食をすると言われました。

2.布と革袋のたとえ
イエスは続けて、新しい時代が来ていることを、たとえを通して伝えられました。
新しい布は、洗うと縮んでしまう(最近の布はそうでもないようですが)。新しい布を、縮み切っている古い服に継ぎ当てると、新しい布が縮んで裂けてしまう。
新しい酒(ぶどう酒)は、発酵が進むとガスが出てくるため、伸びきった古い革袋に入れると、ガスによる膨張に耐えられず、袋が裂けてしまう。そうすれば、酒も袋もだめになってしまう。
この2つのたとえを通して、イエスのもたらした新しい教えと救いは、従来のファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちの生き方には収まらないと言われました。

3.従来の価値観との対立
上の三つ目のたとえは、当時のことわざとして使用され、私たちのまわりでも使用されることがあります。しかし、その中心にイエスがいるのといないのでは、全く違う意味になります。イエスのもたらした救いは、旧約聖書の時代から神によって計画され、約束されていたものでした。しかし、神の御心を知り、従うところから離れてしまっていた人々には、異質で新しいものとして捉えられました。そのため、イエスの教えは、彼らの教えと対立しました。それは、ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちだけでなく、世界中の全ての宗教や文化と対立し、今も続いています。
私たちは、この地上で生きる限りは多かれ少なかれ、息苦しさを覚えます。それは、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12:51)ともあるように、イエスの教えと社会の価値観が対立し、私たちの中にある、この世に造られた価値観とも対立するからです。しかし同時に、イエスに従うとき、この世の価値観から解放されます。
息苦しさを感じた時こそ、神に近づくチャンスです。ありのままの本音を神にぶつけ、表面的ではなく御心を知り、あわれみと愛を受けていることを知り、日々の生活を喜ぶものと、ならせていただこうではありませんか。

悪い時代をどう生きるか(2020.5.10)

聖書

時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エフェソ5章16節)

礼拝音源(19MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨエル3章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 127編1~5節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章12~17節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 11 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「悪い時代をどう生きるか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
5月誕生者祝福 イザヤ書40章11節
賛  美 531 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

パウロは、先に「光の子として歩みなさい」(8節)と勧め、「暗闇の業に加わらないで」(11節)と語りました。その暗闇の業は、私たちが以前は普通に口にしていたこと、普通に行っていたことです(4章31節、5章3~5節)。これらは主に喜ばれる実を結ばないものでした(5章10~11節)。このような暗闇の業が作り出す「今は悪い時代」です(16節)。この時代に、私たちは、どのように歩めばよいのでしょうか。

1.目覚めて生きる  12~14節
暗闇の業が光であるキリストによって明らかにされることによって、今やキリストに信仰によって結ばれた者は光の中にある者とされました(13~14節a)。
そのように光とされた者は、キリストへの信仰の告白となり賛美となります(14節b)。これは、初代教会の洗礼式で歌われた賛美と言われており、キリストを通して神を信じるとはどういうことなのか、洗礼を受ける前と後ではどう異なるのかとの内容です。
詳しく味わってみます。自分について、世界について、神について知ろうとしないで漫然と生きているのが「眠りについている者」です。神を信じるということは、そのような眠りから目覚めていることであり、「死者の中から立ち上が」ることです。そうすることによって、自分が何者なのかを自覚し、この世界が何であるかを意識して、神に心を向けるようになるのです。そして、暗闇の中にまどろんでいた者が、「起きよ」と光へと呼び出され、キリストに照らされて生きるのです。
洗礼にあずかっている者は、いかなる時であっても「目覚めて生きよ」とのこの賛美の呼びかけを聞き続けて歩むのです。

2.知恵ある者として歩む  15~17節
悪い時代のただ中を生きるからこそ、「賢い者として、細かく気を配って歩」むのです(15節)。賢い者とは、「知恵」ある者であり、神から与えられた永遠の救いに関わる知恵を与えられている者です。そのように歩む秘訣は、こうです。
まず、「時をよく用いなさい」(16節)とあるように、単なる時間ではなく、機会あるいは時期や好機をわきまえて十分に生かすことです。自分たちが生きている世界がどのようなものであるかを自覚して、今の機会を逃さずに最善に用いるのです。
そして、「主の御心が何であるかを悟りなさい」(17節)とあるように、キリストの御心を悟って歩むことが、知恵をいただいていることです。その主の御心を悟って生きてこそ、今の機会が用いられるのです。そのためには、主の御心に生きたいと願うことです。主ご自身と親しく交わることです。
「今は悪い時代なのです」と言われる「今」は、パウロの時代のみでなく、代々の信仰者にとっても、私たちにとっても、私たちの子どもたちにとっても、常に「今」です。「今の悪い時代」のただ中を生きる者は、目を覚まし、主の御心を悟り、知恵ある者として歩み続けるのです。

 

変わる環境でどう生きるか(2020.5.3)

聖書

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4章13節)

礼拝音源(23.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ16章13節a 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 91編1~16節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章35~38節、フィリピ4章13節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 148 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「変わる環境でどう生きるか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 456 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、私たちの過去、現在、将来に解決と導きを与えてくださり、永遠に変わることのないお方です(ヘブライ13章8節)。ところで私たちの人生は、さまざまに変わりゆく環境と状況下に置かれます。

1.変わりゆく環境 

主イエスは、十字架にお架かりになられる前夜、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」(37節、イザヤ書53章12節参照)と言われました。このようにして、主イエスは、私たちに代わって神から捨てられてくださったのです。神の愛の中を歩まれた主イエスのご生涯において、これほど大きく重大な変化はありません。

この時、主の弟子たちにも大きな変化が起こりました。彼らが主イエスに従うようになった頃と(35節、ルカ9章1~6節及び10章1~12節参照)、主イエスが十字架を前にされた時とは、逆のことが指示されたからです(36節)。しかも、危機が来るから、自らの身を守る態勢を取るように話されました(38節)。

このような環境の変化は、私たちにも訪れます。平穏であった日々が、突如苦難と言われる経験をするからです。

2.変わることのない主 

主イエスは、「わたしの身に必ず実現する」(37節)と言われたことを父なる神の御心とされ(ルカ22章42節)、それを「成し遂げられ」(ヨハネ19章30節)、父なる神に「ゆだね」切られました(ルカ23章46節)。その救いの事実は変わりません。

弟子たちは、この主イエスの配慮の行き届いた恵みを数えることができ(35節)、主イエスのとりなしの祈りの恵みに与ることになりました(ルカ22章32節)。

私たちは、パウロ同様に、さまざまな変わりゆく環境(境遇)に置かれますが、それに対処する秘訣を授かっています(フィリピ4章10~12節)。主イエスが願われるその御旨を知って仕えさせていだたく時に、それを可能にしてくださるのが主イエスだからです(同13節)。主イエスは、今も変わることなくとりなし祈り、備え、助け、力づけていてくださいます。ですから私たちは、このお方に堅く信頼を置くのです。

 

光の子として歩みなさい (2020.4.26)

聖書

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5章8節)

礼拝音源(21.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エフェソ5章14節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 8編1~10節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章6~11節
使徒信条 93-4 1 A 一同起立
賛  美 484 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「光の子として歩みなさい」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 503 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

物事には、天地創造の時から神による区別がありました(創世記1章4節)。ところが、私たちの世界には、多くの分野で物事の区別がつきにくくなっています。憂えることは、神と人、善と悪、聖と俗といったことが曖昧になり、信仰の世界での区別がつきにくくなることです。

ここに、暗闇と光が明確にされています(8節)。これをどう聞くのでしょうか。

1.今や、光となっている

私たちは、暗い事件、おぞましい犯罪、自然災害また疫病などの恐ろしい出来事が続くことに不安を覚え、心に恐れが広がっていきます。このような暗闇に取り囲まれることは過去にも繰り返してきましたし、初代教会も経験したことでした。

暗闇は、このような外側からのものだけではなく、人々の内側に広がり取り囲こまれることによって経験します。それは、「あなたがたは、以前には暗闇でした」とあるように、私たちの姿でした(6節~8節)。そして、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり、悪意、いろいろな汚れたこと、貪欲といった(4章31節、5章3節)「実を結ばない暗闇の業に加わらない」ように警告しています(11節a)。

しかし、今はそうではありません。暗闇の業は斥けられました。「今は主に結ばれて、光となっています」と明言しています(8節)。ダビデが「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」(詩編27編1節)と語ったことが、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)とあるように、今やキリストに信仰によって結ばれた者の内に成し遂げられたのです。

2.だから、光の子として歩みなさい

キリストに結ばれた者は、「光の子として歩み」、光に属する者として暗闇の中で輝くのです(8節)。それは、神の光を輝かせて歩むことであり、その生き方と関係してきます。「善意」という親切さや憐れみの行い、「正義」という神の目に正しいとされる歩み、「真実」で誠実な信頼するに足る歩みという実を結ぶのです(9節)。

このような生き方は、「何が主に喜ばれるか吟味」することによって整えられます(10節)。すなわち、信仰とその言動が試されることを通して、何が主に喜ばれるかをわきまえ知ることができるのです(ローマ12章2節参照)。さらに、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出」すという大胆な証しをすることによって確かなものとされます(11節)。このように、光であられるキリストに向かい合って生きることなのです。

「主はわたしの光」と証しし続けたダビデは、一時的であるにせよ、自分の欲望と自分の安泰を優先させて罪を犯し、失敗した人でした。彼の信仰は試され、徹底して砕かれ悔いる心とされて、回復の恵みに与りました。その苦い経験から、遺言のような意味合いで、光とされた幸いを証ししています(サムエル記下23章3~4節参照)。

私たちは、ささやかであったとしても、光に属する者として歩み続けるのです。

招かれる罪人 (2020.4.19)

聖書

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)

礼拝音源(17.6MB)
※奏楽の音が小さくなっています。申し訳ございません。

礼拝順序

前  奏
招  詞 1コリント15章54b~55節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 6編1~11節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ2章13~17節
使徒信条 93-4 1 A 一同起立
賛  美 4 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「招かれる罪人」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 507 一同起立
感謝献金
奏  楽 305
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.罪人を招くイエス

前回までに、イエスは福音を宣べ伝え、弟子を造り、病を癒し、罪を赦す権威を持つ救い主であることを証明された。その対象は信仰を持つユダヤ人であった。

イエスの宣教は次の段階へと進み、その対象に罪人が含まれるようになった。それが徴税人や罪人である。徴税人は、イスラエルを属国としていたローマのために税を集めていた。そして、余分に集めた分を自分の収入としていた。敵国の手先となり、不当に私腹を肥やしていたため、ユダヤ人の間では罪人と同様に見なされていた。

ユダヤ人は罪人や異邦人と同じ食卓に着く事はなかった。共に食事をすることは仲間であることを表すからだ。律法学者は、イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、神から遣わされた救い主だと言っているイエスが、なぜ罪人の仲間になっているのかと非難し、仲間に加わる事はなかった。律法学者は、律法と照らし合わせて正しいか正しくないかを判断していた。ファリサイ派とはユダヤ教の中の一派で、特に律法違反を厳しく取り締まり、罪から分離して決別しようとしていた。そのような背景で出て来たのが、彼らの質問とも避難とも言えるものであった。

律法学者は罪人に注目し、イエスが罪人の仲間(=罪人)になっていると言ったが、イエスには罪を赦す権威があったので、それは当てはまらない。むしろ、罪人たちは神の子と共に食卓に着き、神の子の仲間になっている。イエスは罪人を招いて罪を赦し、神の子とするために来られた。

2.身代わりとなったイエス

イエスは、同席していた大勢の人が、罪を犯していないとは言っていない。彼らが罪を犯した事実は消えないし、罪のための裁きも無くなる事はない。しかし、イエス身代わりとなり、十字架で裁きを受けることで、罪を犯した本人は裁きからまぬかれる。イエスの罪の赦しの権威は、それが前提となっている。

3.招かれる人

聖書は、すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)と言っている。誰一人として、律法学者のように、人の罪を探して裁いている場合ではない。罪人を招くイエスは、今もすべての人を招いている。そこには、私もあなたも含まれている。

律法学者の罪は、徴税人や罪人に比べれば小さいものであったのかもしれない。しかし、その為に自らの罪に気付く事なく、イエスのしている事を理解できず、救い主の仲間になることを拒んでしまった。その様になる事は避けたい。

この地上で生きている限り、困難な事は必ず起こる。そのとき、不平や不満、憎しみや裁く思いが沸いて来ることを避けられる人はいない。その結果、してはいけない事を、してしまう事もある。そのような“私”だからこそ、イエスは招いて下さる。辛い事、不満な事を神に向って言うとき、それは祈りとなる。神の食卓にありのままで着き、癒しと赦しのめぐみを受け取り、主に従って行こうではありませんか。

イースター感謝礼拝「大いなる逆転」(2020.4.12)

聖書

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(1コリント15章58節)

礼拝音源(18.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編68編20~21節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 111編1~10節
会衆祈祷 一  同
聖  書 1コリント15章50~58節
使徒信条 93-4 1A 一同起立
賛  美 327 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「大いなる逆転」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
洗 礼 式 67 ※2部のみ実施。
録音されていません。
賛  美 528 一同起立
感謝献金
奏  楽 305
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリストの十字架と復活に現された救いの福音は、過去の歴史ではなく、生きて働いている最新のニュースです。このキリストの復活にすべての拠り所を置く私たちは、死者の復活の希望に満ち、生きた信仰をもって生きるのです。

Ⅰ.主の勝利にあずかる(50~57節)

死の現実は、不可解ゆえに、最も恐れられているものです。聖書は、死が恐怖であるのは、「死のとげは罪」であると語ります。つまり、死は人間の罪の結果であり、その罪に対する神の審きが「死」であるから恐ろしいのです。

しかし、感謝すべきことは、罪のないキリストの十字架の死のゆえに「死は勝利にのみ込まれた」のです。罪は、キリストの死によって完全に滅ぼされたのです。そして、キリストが死から復活されたことにより、死からの勝利を勝ち取ってくださったのです。このように救いを与えてくださった神に、感謝あるのみです(57節)。

Ⅱ.主の業にあふれる(58節)

このように感謝する生活をする私たちに、パウロは「わたしの愛する兄弟たち」と親しく呼びかけ、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と励まし勧めています。それは、キリストによって成し遂げられた救いの福音をこの世界にあふれさせなさい、ということです。

主の恵みを「無駄」にしたくないとの切なる願いをもって主の業にあふれることは(1コリント15章10節、使徒言行録9章31節)、それがどれほどの労苦であっても、「決して無駄にならない」で神の栄光に行き着くのです(51~53節)。キリストの十字架から復活への大逆転の恵みにあずかっているからです。

仕える者(2020.4.5)

宣教題 「仕える者」           宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章24~34節

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10MB)

 主イエスが十字架に架かられる前日まで、弟子たちは誰が一番偉いと思われているかと議論してきました(マタイ18章1~4節、同20章20~28節、ルカ22章24~27節)。それに対して主イエスは、十字架の救いの恵みに生かされて、「仕える者」に造られていくようにと語られます(26節)。

1. 試練によって  28~31節
 弟子たちは、主イエスがこれまで遭われた試練のときと同様に、この後の受難に対しても、一緒に踏みとどまって従い続けるように求められています(28節)。ところが、シモン・ペトロがそうであったように、このような試練のときにサタンによってその信仰がふるわれることがあります(31節)。
 主イエスは、そのような試練を通して、私たちを「仕える者」として造りあげていってくださいます。そして、天の御国における栄光の恵みに与らせてくださるのです(29~30節)。

2.主イエスによって 32~34節
 私たち自身の決心は、ペトロのようにしばしばつまずくことがあります(33~34節)。主イエスは、そのような者たちのために、「信仰が無くならないように」とりなし祈られます。後にペトロは、復活された主イエスによって信仰が回復され、その恵みを宣証していきました(32節)。
 主イエスが今も生きて私たちをとりなし続けていてくださることに、大きな驚きを覚えます(ヘブライ7章25節)。そのような恵みに与る私たちは、「仕える者」として造り変えられていくのです。

聖なる者にふさわしく(2020.3.29)

宣教題 「聖なる者にふさわしく」      宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ5章1~5節

 初代教会は、迫害や自然災害や疫病といった問題のみか、不道徳や不一致や異端といった問題に遭っていました。そうした中にあって、すでに主イエスによって聖なる者にさているのですから、それにふさわしく歩むように命じています(3節)。

1.神の愛によって生かされるように  1~2節
 神に倣う者とは、神に愛されている神の子として、その愛によって生かされ、その愛を手本として愛することです(1節)。そして、主イエスが、ご自身を「いけにえ」として神に献げてくださるまでに私たちを愛してくださった、その愛に生かされて愛のうちを歩むのです(2節)。
 教会は、今日に至るまで、永遠の命が与えられているという確信のともなった希望をいだいて、信仰に基づく愛の共同体としての歩みをしてきました。いつまでも残るものは、この信仰と希望と愛に生きることです(1コリント13章13節)。

2.神を感謝して生きるように  3~5節
 続いて、聖なる者にふさわしくない言葉を口にしないことを命じています。それは、人を卑しめたり、自分をおとしめたりする不品行な言葉、神の不名誉となるような言葉を口に出してはいけないということです(3へ4節a)。そうでないと、偶像礼拝者となり、キリストと神の国を継ぐことができないからです(5節)。
 そこで積極的に口にする言葉は、神が備えて与えてくださるすべてのことに対して、神を感謝することです(4節b)。神が生きて働いておられることを信じて感謝し、神は変わることのないお方であることに望みをおいて感謝し、神が愛していてくださることを感謝するのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11MB)

新しい救い(2020.3.22)

宣教題 「新しい救い」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章14~23節

 救いという言葉は、思想的な意味で、経済的な意味で、道徳的な意味で、病のいやしといった意味などに用いられます。ところで聖書は、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いについて語ります。それは、全て人に必要な新しい救いです。

1.その救いに招かれているのは、あなた! 
 主イエスは、十字架に架かられる前日に、使徒(弟子)たちを食事に招きたいと「切に願って」準備してくださり、主イエスを中心にして弟子たちも周りに座りました。それは、かつてイスラエルの民が、神の救いを経験したことを記念しての「過越の食事」でした(14~15節)。この「出エジプト」の出来事は、神の審きが過ぎ越すということを意味する救いであり、囚われているところから解放されて新しく出発することを意味する救いでした(出エジプト12章)。
 主イエスは、罪人に対する神の審きを十字架上で身代わりに受けてくださり、新しい歩みをスタートする救いに招いていてくださいます。

2.その救いを受け取るのは、あなた! 
 主イエスが与えてくださるパンを食することは、主イエスと一つになることであり、ぶどう汁を飲むことは、十字架で流してくださった罪の赦しの恵みに与ることを意味しています(19~20節)。
 この主イエスが差し出された救いは、一人ひとりが自分で受け取ることによってのみ、自分のものとすることができるのです(17節、1テモテ1章15~16節)。「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16章16節)と招かれる主イエスの救いを受け取って歩み出すのは、あなたです。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11MB)

罪を赦される方(2020.3.15)

宣教題 「罪を赦される方」        宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ2章1~12節

イエスは再び、カファルナウムのペトロとアンデレの家に帰って来られた。イエスは救いを求める人がいるところに来て下さる。

1.イエスの元に集まる人々
 イエスのところへは、群衆、中風(麻痺)の人一行、律法学者たちが集まって来た。群衆は言い広まったイエスの評判を聞き、見に来た。中風の人一行は癒しを求めて。律法学者たちは偵察のため。それぞれの目的があった。

2.中風(麻痺)の人の罪の赦し
 当時は、体が麻痺して動かない人は、汚れた者として神の前に出ることができなかった。そうなった原因は、罪を犯したためと言われていた。(イエスは、それを否定していた[ヨハネ9:2,3])。イエスは病を癒すより、中風の人の罪を赦した。その人の本当の必要に応えられた。そこには、大きな喜びと平安があったであろう。
 罪が赦されたことは、外から見ていても分からない。律法学者たちはイエスが罪を赦す権威を持っている事が分からず、神を冒涜していると考えた。イエスは罪を赦す権威がある証明として、中風を癒した。難しい事を行うことが出来れば、より易しいことは当然行う事が出来るという証明方法であった。見ていた群衆は神を賛美した。

3.当事者になっているか
イエスは、日々私たちのところへも来てくださる。私たちは、群衆ではなく、律法学者でもなく、イエスの元に癒しを求めて来た中風の人のように、救い主イエスの前に出て、血潮による約束の赦しと、立ち上がる力を日々受け取ろう。そして、イエスの使者として喜びをもって遣わされる者とならせていただこう。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(14MB)

あなたは誰の使者(2020.3.8)

宣教題 「あなたは誰の使者」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章1~13節

 主イエスは、ご自分が十字架に向かって歩まれる道を備えておられました。それに対して、主イエスの弟子たちがそれぞれ誰の使者となって歩んだかを語っています。

1.その道を踏み外す使者  1~6節
 ここに、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが登場します。ユダは、ユダヤ地方出身ということからプライドを持っていました。主イエスは、そのユダを信頼して会計を任せられましたが、彼はその会計の中身をごまかしていたのです(ヨハネ12章6節)。そして、主イエスを敵対する指導者に引き渡すことを決めたのです(4~5節)。その結果、敵方と手を結び、その使者となったのです。そこに見るユダは、サタンに対して心を開いている状態です(ヨハネ13章27節)。
 私たちは、主イエスがすでに備えておられる十字架の救いの道を、私たちの方から踏み外すことのないようにしたいものです。

2.その道を歩んでいく使者  7~13節
 ここに、主イエスが備えられる最後の晩餐のために、ペトロとヨハネは主イエスの使いとしての働きを始めようとしています。それは、主イエスがこの二人を信頼されて、ご自身が計画しておられることに参加させ、その道を歩ませることでした(8~10節)。すべては、「イエスが言われたとおり」だったのです(13節)。
 私たちは、いつでも主イエスに従って、その道を歩んでいくことが大切です。その意味が十分分からないとしても、主イエスの使者として遣わされているという意識をもって、託されている務めを果たしていくのです。その時、「後で、分かるようになる」(ヨハネ13章7節)との主のご計画に生きる祝福を経験をするのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(10MB)