聖 書
私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。(ガラテヤ2章20節c)
礼拝音源(29.1MB)
礼拝順序
前 奏 | ||
招 詞 | 詩編100編1~2節 | 司 会 者 |
頌 栄 | 29 | 一同起立 |
祈 祷 | 司 会 者 | |
主 祷 | 93-5 A | 一 同 |
交 読 | 詩編67編 | |
会衆祈祷 | 一 同 | |
聖 書 | ガラテヤ2章19節~3章5節 | |
使徒信条 | 93-4 1A | 一 同 |
牧会祈祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
宣 教 | 「神に生きる」 | 川原﨑晃主管牧師 |
祈 祷 | ||
賛 美 | 514 | 一 同 |
感謝献金 | ||
奏 楽 | ||
頌 栄 | 27 | 一同起立 |
祝 祷 | 川原﨑晃主管牧師 | |
後 奏 |
日本イエス・キリスト教団
信仰告白
わたしたちは信じて、告白します。
旧新約聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた、誤りのない神のことばであり、キリストをあかしし、福音の真理を示すもので、教会の拠(よ)って立つただ一つの聖典です。聖書は、わたしたちに、神と救いについての完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の基準です。
主イエス・キリストによって啓示され、聖書にあかしされた唯一の神は、父と子と聖霊の三位一体の神であり、その本質において同一です。
イエス・キリストは、神のひとり子であり、わたしたちを罪から救うために人となり、身代わりとなって十字架にかかり、ただ一度、ご自身を完全な犠牲(いけにえ)として神にささげ、あがないを成就されました。その復活は、永遠のいのちの保証です。天に昇られた主は、キリストの日に至るまで、わたしたちのためにとりなしておられます。
わたしたちは、神の恵みにより、ただキリストを信じる信仰によって義とされ、罪をゆるされ、神と和解し、新たに生まれて神の子とされます。わたしたちは、キリストの血によってすべての罪からきよめられ、神のものとされ、聖霊のバプテスマを受け、その内住による全き支配によって、主のかたちに変えられていきます。種は再び来られ、わたしたちを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて、永遠のみ国をつぐ者とされます。
教会は、キリストのからだであって、神に召された生徒の集まりです。教会は、公同の礼拝を守り、主の命にこたえて、福音を正しく宣べ伝え、聖礼典を行ない、聖徒をととのえ、主に仕えつつ愛のわざを励み、主が再び来られるのを待ち望みます。
わたしたちは、このように信じ、余世の聖徒と共に、使徒信条を告白します。
宣教要旨
私たちは、「何であるか」との問いを受け続けています(教団創立70周年記念誌P25参照)。何よりも「神に生きる」信仰は、律法ではなく、信仰によって生きることです(2章19~20節)。どのような信仰に生きることなのでしょうか。
- 十字架を仰ぎ見続ける 3章1節
ガラテヤの諸教会の信徒たちは、キリストの十字架を信じることによって救われました。ところが、信仰生活を行いによって整えようとしたために、十字架から目を離すような愚かな歩みを始めたのです。
このような律法主義的な心理は、自分を慢心したり、逆に足らなさばかりにとらわれたりするといった誘惑となって表れてきます。私たちは、公然と描き出された十字架の恵みに立ち続けるところに(2章20節c)、喜びと自由の恵みがあるのです(エフェソ2章8~10節)。そこから、十字架の恵みが、感謝となってほとばしり出るのです。
2. 聖霊の恵みにあずかり続ける 3章2~5節
パウロは、ガラテヤの諸教会の信徒たちが経験した聖霊の大いなる恵みを思い起こさせています。罪が赦され、義と認められ、キリストと共に十字架につけられ、キリストが内にいきてくださるのは、聖霊を受けたからでした(2節)。その時、福音を聞いて信じたのであり、信仰をもって聞いたのでした。そこから、聖霊によって歩み続け(3節)、力ある業をなされる聖霊の恵みにあずかる生活をしていくのでした(3節)。ところが、その「神の恵みを無駄」にしてしまっていたのです(2章21節、3章4節)。
「神に生きる」ことは、神のために生きるという広がりをもたらします。