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礼拝メッセージ

すべてに時がある(2022.7.24)

聖 書

そこで、イエスは言われた。「私の時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。 (ヨハネ7章6節)

礼拝音源(32.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ11章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編50編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ7章1~13節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「すべてに時がある」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 403 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イザヤ書が開示する信仰は、臨在信仰に生きることについて大きな示唆を与えます。聖なる主は(15節)、私たちを恵もうと待ち、憐れもうと立ち上がられる公正の神です(18節)。私たちは、いかなる時にもこの主に対する生きた信仰を抱きつつ歩むのです。
私たちは時間を等しく与えられているので、それをどのように使うかが問われます。
主イエスは、父なる神が定められた時を絶好の時とされました。私たちもその時を人生の絶好の時としたいものです。

1.キリストの時
この時人々は、かつて神の民が神の救いを経験し、その後も神の導きをいただき養われたことを感謝する仮庵祭を祝っていました。ガリラヤからエルサレムに向かわれる主イエスに対して、ユダヤ人は敵対感情を持ち、群衆は傍観者のようになり、イエスの兄弟たちは評論家のようになって、主イエスに対する信仰は生まれませんでした。
主イエスを憎み、殺そうとする「世」の罪に対して(7節)、神の審きの極まる時、神の愛の極まる時となったのが、主イエスの十字架の事実でした。この時に、主イエスによる救いが現されたのです(6節)。

2.一人ひとりに備えられた時
主イエスに神の時があったように、私たちにも時があります。それは、一人ひとりが「私が救い主イエスを十字架に架けた」ことの罪を認め、主イエスに対する信仰の応答をする時です。 そして、主イエスを信頼して歩んでいく時、神はすべてを絶好の時としてくださり、神の最善へと導かれます(コへレトの言葉3章1~11節)。私たちは、自分で設定した時でなく、神に設定していただいた好機を知って、主イエスと共に「時」を過ごすのです(2テモテ4章6節、8節)。

生きた信仰(2022.7.17)

聖 書

主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある。」(イザヤ30章15節abc)

礼拝音源(32.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編46編11節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編65編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ書30章15~22節
使徒信条 93-4  1A 一  同
教団信仰告白 (別 紙) 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「生きた信仰」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
入会式
賛  美 510 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イザヤ書が開示する信仰は、臨在信仰に生きることについて大きな示唆を与えます。聖なる主は(15節)、私たちを恵もうと待ち、憐れもうと立ち上がられる公正の神です(18節)。私たちは、いかなる時にもこの主に対する生きた信仰を抱きつつ歩むのです。

1.静かにして信頼する  15節
南ユダ国は、二度の国家的な危機に見舞われました。最初は、アラムとエフライム同盟が攻撃してきた時です。主は、イザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」(イザヤ7章4節)と告げられ、臨在の主に信頼するように勧められました(同9節、14節)。次は、アッシリア帝国が攻撃してきた時です。主は、「静かにして信頼していることにこそ」(30章15節)と語られ、信仰に立つように勧められました。
「静かにして」とは、主の中に身を沈めるようにして信頼することです(出エジプト14章13~14節、詩編46編9~10節)。そこには、人の信仰の備え(イザヤ37章14~15節、列王記下20章20節)と主の最善の御業がありました(イザヤ37章36~38節)。

2.敏感に応答する  18~21節
それゆえに、信仰者は「主を待ち望む者」(18節)であり、主に「叫ぶ」(19節)者であり、主を「見る」(20節)者であり、主が「語る言葉を聞く」(21節)者となるのです。とりわけ、主に導かれて右に行こうが左に行こうが、「これが道だ、ここに行け」と羊飼いである主の「背後から」の声に敏感に聞き従って行くのです(21節、詩編23編4節)。
私たちは、特別な選択を迫られる時だけでなく、日常生活のあらゆる場面において、主が語られる御言葉に敏感に応答していく生きた信仰者であらせていただきましょう

勝利への道(2022.7.10)

聖 書

主はヨシュアに言われた。「今日、イスラエルのすべての人々の目の前で、あなたを大いなる者とする。私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである。(ヨシュア記3章7節)

礼拝音源(33.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編29編2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編46編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨシュア記3章1~17節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「勝利への道」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 507 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

大いなる救いの計画をお持ちの主は、主の民を出エジプトからヨルダン渡河そして約束の地への旅を導かれました。臨在の主に導かれて、一つになって進みました(民数記9章18節)。その勝利の道を可能にしたのは、主の恵みと民の信仰によりました。

1.勝利の保証
水量が増し、流れの速度が速くなる時期のヨルダン渡河でした。主は、恵みをもってこの道を導かれたのです。祭司が担ぐ「主の契約の箱」は主の臨在のしるしであり、彼らが民を先導して足が水につかるや川の流れがせき止められ、川の真ん中に立ちとまっている間中民たちは渡河したのです。
このように、臨在の主は御自身の民を導かれ、途中でその導きを放棄される方ではありません。しかも、「今までに一度も通ったことがない」(4節)未知の道を進む時にも、思いがけない方法を用いて道を開かれるのです(マタイ28章20節)。

2.勝利の条件
ですから、この臨在の主に従えばよいのです。ヨシュアを通して祭司たちに命じられ(3節、8~14節)、それに民が従ったのでした(14~17節)。奇跡が起きたから渡河したのではなく、主とその御言葉に対する信仰に伴う従順によりました。

さらに、「身を清めなさい」(5節)とあり、生活上の外的な清めという以上に、内的な清めが求められます。すなわち、罪と汚れから清められ続け(1ヨハネ1章7~9節)、主の前に謙って、主に全く信頼し続けることです(ヘブライ12章1~2節)。
臨在の主は、常に先頭に立って、道を示し、切り開いてくださるお方です。

信仰によって(2022.7.3)

聖 書

信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た者たちを穏やかに迎え入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びることはありませんでした。(ヘブライ11章31節)

礼拝音源(34.9MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編100編1〜2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編42編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨシュア記2章1~24、
ヘブライ11章31節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「信仰によって」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
7月誕生者祝福 箴言3章5~6節
賛  美 458 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブライ11章6節)。主なる神への信仰を持って、信仰によって生きることは、何にもまして大切なことです。「信仰によって、遊女ラハブは」、どのような信仰を抱いていたのでしょうか(同11章31節)。

1.聴従する信仰
ヨシュア記は、主の約束に立って、主の恵みにより、信仰をもって従っていく者たちの信仰の戦いの歩みを証言しています。
ラハブは、二人の偵察者をエリコの追っ手から逃れさせようとしました(1~7節)。彼女は、目撃者ではありませんが、神の民の出エジプト以来の神による勝利を聞いていましたし、カナンの地を主が与えておられることを知っていました(8~11節)。
ラハブの信仰は、主とその御言葉を聞いて、自らの全存在をかけてそれに従ったのでした(詩編40編7~8節)。そこに、異邦人のラハブに、救いの道が開かれたのです。

2.踏み込む信仰
主とその御言葉に聴従したラハブは、主の中に踏み込んでいく行動となった信仰でした。それは、ヨシュアたちが「足の裏で踏む」ことと同じ信仰に基づいた行動でした。ラハブは、瀬戸際に立たされたところで、大胆に信仰に立って行動したのです(4~7節、12~16節)。こうして、ラハブの信仰は生きたものとなりました(ヤコブ2章25~26節)。
なおラハブは、深紅のひもを約束として、その約束をしてくださった主を信じて救いに与りました(17~21節)。私たちは、主イエスが十字架を通して救いを成就してくださったことを信じ、主の中に踏み込む信仰の歩みをするのです。

 

一つになって(2022.6.26)

聖 書

主があなたがたと同様に、同胞にも安息を与え、あなたがたの神、主が与える地を彼らに継がせるためである。(ヨシュア1章15節a)

礼拝音源(30.6MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨエル3章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編96編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨシュア1章10〜18節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「一つになって」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 411 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主から委ねられた使命は、モーセからヨシュアと神の民へと展開されていっています(1章1~9節)。このように、主は今日にいたるまで、またこれからも、主の使命を神の人また神の民を信頼して委ねられるのです。

1.主とその御言葉に信頼する
ヨシュアが主とその御言葉の約束を信頼して従ったところに、主の臨在の確かさがありました(7~9節)。そして、神の民たちも「皆立ち上がり」(2節)、主とその御言葉に信頼して従ったときに、主の臨在の確かさがありました(16~17節)。
この後、ヨシュアと神の民が御言葉から離れずに御言葉に従っていったところに、ヨルダン川があり、山地があり、エリコがありましたが、主は道を開かれ、勝利を与え、祝福をもたらされました(11章15節)。
主は、福音宣教において同じようにして展開されていきます。

2.主の民と協同する
神の民が、主の約束の地に入っていくために食料の準備をするように命じられました(10~11節)。主は整えられた民の行動を通して、その地を得させなさいます。また、ヨルダン川の東側に住む二部族半の勇士も結束してヨルダン川を渡って他の部族の人を助け、共に安息のともなった祝福を受けることが命じられています(12~15節)。そこには、民全体の承認と同意と服従の表明がありました(16~17節)。
主の群れを通して主の使命が遂行されていくとき、主の僕と協同する信仰の仲間を用いられます。福音は、このように一つになって宣証されていくのです。

 

唯一の希望(2022.6.19)

聖 書

シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。(ヨハネ6章68節)

礼拝音源(30.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ5章5節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編34編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ6章60〜71節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「唯一の希望」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 522 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちには、主イエスを信じる信仰によって希望のある人生へと導かれます。その希望は、聖霊によって神の愛が心に注がれ、決して失われることのない永遠の命を得ていることから生まれます(ヨハネ3章16節、ローマ5章5節)。

1.失望したままで終わりません
主イエスから離れ去り、共に歩まなかった人たちがいました(66節)。彼らがそのようにした理由は、自分たちが考えていたような主イエスではなかったからです(41節、60~62節、64節、67節、70~71節)。当てがはずれて、失望したからです。後のペトロも一時そのようになりました。
しかし、主なる神は、イスカリオテのユダに対してそうであったように、決して御自身の方から私たちを捨てられることはありません。ですから、聖霊が御言葉を用いて語りかけてくださることを信じることが必要です(63節、65節)。

2.いつまでも続く希望をいただいています
それでは、彼らが主イエスから離れ去って救いに与らないとするなら、誰のところに行けばよいのでしょうか(68節a)。主イエスのところに踏みとどまり、すがるほかありません。
キリスト信仰のメッセージの中心には、十字架とともに復活があります。主イエスが死を打ち破られて復活されたので、私たちには絶望はありません。ですから、一人ひとりが主イエスを個人的に、主体的に信じて、体験的に主イエスを知ることが必要です(68節b~69節)。そこから、いつまでも続く希望があふれるのです(ローマ4章17~18節)

 

命あふれて(2022.6.12)

聖 書

これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。(ヨハネ6章58節

礼拝音源(30.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ16章13節a 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編33編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ6章52〜59節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「命あふれて」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 56 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスを個人的な救い主また主として信じ受け入れるまでは、永遠の命に生きることができません。それは、一度限りのものではなく、繰り返し信じ受け入れ続けていくことによって、永遠の命にあふれる歩みとなるのです。

1.主イエスと一体となって生き続ける  55~56節
主イエスを食べるとは、主イエスを信じて一体となることであり、その血を飲むとは、主イエスの命にあずかることです(53~54節)。主イエスに一人ひとりが「とどまる」すなわち一体となるとは、主イエスと人との区別がなくなることではなく、主イエスにある命と恵みの祝福が、その人のものになることです(56節)。
主の聖餐によって明らかにされたように(1コリント11章26節)、私たちは主イエスを信じる信仰によって、いつも主イエスと結ばれ続け、豊かな祝福に与り続けるのです(ヨハネ15章5節)。

2.キリストのために生き続ける  57~58節
主イエスが父なる神から遣わされ、父なる神のために御生涯を生きられたように、私たちが命の源である主イエスによって、主イエスのために充実した歩みをすることが、「永遠に生きる」ことです(57~58節)。
ところで、「食べる」(54~58節)とは、むさぼり食うという意味があります。それは、その人に代わって他の人が食べるのではありません。そのように私たちは、主体的な信仰の貪欲をもって、主イエスと一体とされ、主イエスのために「永遠に生きる」という視点で生き続ける一人ひとりであり、群れであるように招かれているのです。

 

 

聖霊による祝福(2022.6.5)

聖 書

私はあなたの子孫に私の霊を あなたの末裔に私の祝福を注ぐ。(イザヤ書44章3節b)

礼拝音源(25.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 使徒言行録1章8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編84編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ書44章1〜5節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聖霊による祝福」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 ガラテヤ5章25節
賛  美 343 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イザヤ書は、神の民がバビロン捕囚から解放されて、神の救いの慰めに与ることが語られています。そこには、やがてイエス・キリストの初臨から再臨に至る救いの全貌が預言されており、永遠の聖霊がどのように臨まれるかを明らかにしています。

1.主の御業を成し遂げられる
主は、御自身が選び、造られた民の罪を消し去り、罪を想い起すことなく、罪を消し去り贖われます(43章25節、44章1~2節、22節)。そして、聖霊を子孫にまで注いで祝福され(44章3節)、新しい命を生みだし(同4節)、「主のもの」とされます(同5節)。この聖霊による御業は、出エジプトを通しての神の救いと約束の地に導かれるときにも成し遂げられたことでした(63章10~14節)。

私たちが主イエスによる永遠の救いに与らせていただいているのは、聖霊によってです。今も間断なく注がれている聖霊に私たちが満たされることにより、私たちは活性化され、主の御業は進められていきます(32章15節)。

2. 主の御言葉と一体となって働かれる
聖霊は、聖書の御言葉を用いて、御言葉と結びついて一体となって語りかけてくださいます(59章21節)。御言葉が働くときには、聖霊がその人のなかに働くのです。聖霊が一人ひとりに注がれ、一同が聖霊に満たされたとき、主イエスの福音が語られました。そして、主の救いの御業と教会の歩みが展開されて行きました(使徒言行録2章)。

私たちが聖霊と御言葉によって生かされ続け、聖霊と御言葉の器として生き続けているところに、教会が造られていくのです。

 

 

永遠の命を生きる(2022.5.29)

聖 書

よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。(ヨハネ6章47節)

礼拝音源(37.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編32編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ6章41〜51節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「永遠の命を生きる」 川原﨑晃主管牧師
聖 餐 式 新49
祈  祷
賛  美 120 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、「私は命のパンである」(48節、ヨハネ14章6節)と語られる主イエスに招かれています。主イエスは、その招きに一人ひとりが応答することにより、永遠の命を生きるようにされるのです。

1.永遠の愛に引き寄せられて  41~46節
「私は天から降って来たパンである」(41節)との主イエスの発言が、ユダヤ人にとってはつぶやきの種となり躓きともなりました。主イエス御自身が神であることを明らかにされたからです。それは、主イエスが十字架に架かられたことに対して、自分たちとは関係のないこととした人たちの躓きと相通じます(1コリント1章18節)。
このように神との関係がズレてしまった罪人を、神は永遠の愛をもって「引き寄せ」てくださいます(44節、エレミヤ31章3節)。そして、主イエスのもとに来て、神が語られることを聞いて従うように招いておられます(44~45節)。

2.永遠の命を得て  47~51節
私たちが「永遠の命を得て」生きるために、十字架と復活を通して御自分の命を「与え」てくださった主イエスを「信じ」受け入れることが必要です(47節)。「私は命のパンである」(48節)と言われる主イエスは、私たちのこの世における日々の生活を新たに造り生かされるだけでなく、死にも勝利して「永遠に生きる」ようにされるからです(50~51節)。
永遠の命を生きる人生は、常に望みに満ちた新しさ、前進する力、死への勝利をいただいたねばり強さがみなぎっています。永遠の命を生きるのは「あなた」自身です。

 

強く、雄々しくあれ(2022.5.22)

聖 書

強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ。(ヨシュア1章9節)

礼拝音源(25.6MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エフェソ5章8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編100編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨシュア1章6〜9節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「強く、雄々しくあれ」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 新聖歌486 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主は、ヨシュアと共に歩んでくださる支えと導きの中で、「強く、雄々しくあれ」(6節、7節、9)と励ましておられます。主は、ヨシュアが弱さを感じ、おびえていたことを見通しておられたからです。

1.主が導かれるから
主が与えていてくださる約束の地に導かれることは、かつてモーセを通して語られていたことでした(申命記31章7~8節)。モーセと共に歩まれた主の導きは、絶えることがなく、誤りはありませんでした。神の民の弱さを見抜いておられた主は、回り道と思われる中を通されました(出エジプト13章17~22節、民数記9章15~23節)。それは、ヨシュアに対しても同様で、主が共に歩まれる導きは確かなことだったのです(5節、9節)。
主が共におられる導きを必要としない人は、ひとりもいません。教会も主の導きを必要としています。皆が、それに従えるように招かれているのです。

2.主の導きに従えるように
それゆえに、導き主がモーセを通して命じられた「律法」の教えや戒めを守り行い、それからそれることなく歩み続けることが祝福を受けるために大切なことでした(7節)。それは、御言葉を蓄え続け、思い巡らし、喜んで従っていくことでした(8節、申命記6章6~7節)。
ヨシュアは、主の導きに従うことができるように主が共におられたので、「成功をおさめ」祝福されたのです(8~9節)。同様に私たちは、世に勝利されている主が共にいてくださるので、主によって勝利者とされるのです(ヨハネ16章33節)。

 

新しい時代の始まり(2022.5.15)

聖 書

あなたの命の続くかぎり、誰一人あなたの前に立ちはだかる者はいない。私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。(ヨシュア1章5節)

礼拝音源(29.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ4章23節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編29編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨシュア1章1〜5節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「新しい時代の始まり」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 467 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

「ヨシュア記」は、モーセからヨシュアに信仰とそのあり方が継承されていくことを語っています。「私の僕モーセは死んだ」(2節a)との書き出しは、新しい時代の転換点となったことと、信仰者とその群れがだれと共に歩むかを明らかにしています。

1.人と共に歩む  1~4節
「モーセの従者」ヨシュアは、モーセに仕えることを通して恵みの経験をし(出エジプト33章11節)、失敗の経験もしました(民数記11章28節)。このように、モーセと共にいたことで、単なる知識の受け継ぎでなく、人格的な信仰の交わりに与ったのです。それは、主イエスの弟子も同じ経験をしています(ルカ10章1節、ヨハネ13章34~35節)。
そして、ヨシュアは「あなたとこの民は皆立ち上がり」と語られたように、神が約束され与えていてくださる恵みの世界に進んで行きました(2節b~4節)。その信仰の一歩は、信仰の戦いを神の民と共にする歩みとなったのです。

2.主と共に歩む  5節
主はモーセと共におられたように、ヨシュアと共におられました。この主の臨在は、この後ヨシュアと神の民が山積みする困難や問題の中を通されても、恐れや不安が支配する中にあっても変わりませんでした。
「御顔(臨在)こそ、わが救い」(詩編42編6節)とあるように、主は御言葉に立って歩む信仰者の方を向いて、顧み、恵みを注ぎ続け、祝福と力の源となってくださいます。
私たちは、主イエスから使命を受け継いでいます(マタイ28章19~20節)。そこに立つ度に、「いつもあなたかだと共にいる」との主イエスの約束を喜び味わうのです。

 

間違いのない憐れみの主(2022.5.8)

聖 書

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない。(イザヤ49章15節)

礼拝音源(32.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ガラテヤ3章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編27編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ49章14〜16節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「間違いのない憐れみの主」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 11 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

母親は、自分の子どもを体をはって愛します(ルカ2章48節)。そこには、憐みの主の御心を思わせるものがあります。ところで、私たちは、憐れみの主がどのような方であり、その憐れみが今も変わらずに注がれていることを知ることが大切です。

1.決して忘れることのない方
70年のバビロン捕囚の経験をするイスラエルの民は、虚無的になりました(14節)。そこで、憐れみの主は、主に忘れられ捨てられたと思い込む彼らに、手を替え品を替えて励まされます。母親が忘れるようなことがあっても、主は決して忘れることはなさいません(15節)。主は御自身の手の中に御自身の民の名を刻み込むようにして、どこまでも守られます(16節)。
主イエスが「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14章18節)と語られたように、私たちは主の前で忘れられてはいないのです(ルカ12章6節)。

2.贖ってくださる方
主が御自身の民を決して忘れなさらないのは、主が「贖い主、聖なる方」(49章7節)だからです。贖いの主は、他者に渡ってしまっていたものを再び代価を払って買い戻して御自身のものとされるのです(イザヤ書43章1節)。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、永遠の滅びから永遠の救いにあずかった者です。ですから今、主イエスの十字架を仰ぎ見て立つのです。さらに今、主イエスの十字架の側近くに立って、母と子の関係のみか互いの新しい関係を造っていただくのです(ヨハネ19章26~27節)。そして、主の憐れみを受けつつ歩むのです。

主のものとされた恵み(2022.5.1)

聖 書

終わりに、誰も私を煩わさないでほしい。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです。(ガラテヤ6章17節)

礼拝音源(32.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編118編23〜24節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編24編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ6章17〜18節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「主のものとされた恵み」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
5月誕生者祝福 箴言3章5~6節
賛  美 529 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスの恵みは、過去と現在と将来にわたって変わることがありません(ヘブライ13章8節)。私たちは、この主イエスの救いの恵みに与って主のものとされ、パウロと同じように「イエスの焼き印を帯びて」歩む者にされているのです(17節)。

1.恵みによって召し出された
パウロは、神の「恵みによって召し出」されて洗礼の恵みに与り、主のものとされました(ガラテヤ1章15節、使徒言行録9章1~18節)。さらに、この神の恵みによって福音宣教の使命のために召されて遣わされました(ガラテヤ1章16節)。こうした事実が、「イエスの焼き印を帯びている」と語る根底にありました。
同様に私たちは、主イエスの恵みによって救いに与り洗礼を受けて主のものとされ、一人ひとりに相応しい主からの使命を託されています。私たちは、達成感よりも使命感に生きるように召し出されている喜びに生きるのです。

2.主のために苦しむ恵みを与えられた
パウロは、主イエスの福音を宣べ伝えていく中で受けた苦難や試練と言う「イエスの焼き印を帯びて」いました(2コリント11章23~28節)。それは、彼が主の十字架を誇るゆえの受けたものであるとのあつい思いを込めて証ししています(ガラテヤ6章14節)。
同様に私たちは、主イエスの恵みを証しし、そのために仕えていくときに、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という経験をします(フィリピ1章29節)。この主の恵みの道を歩むことによって、主の祝福と励ましと慰めが豊かに注がれることを知るのです(18節)。

キリストの招きに限界はない(2022.4.24)

聖 書

イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6章35節)

礼拝音源(29.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編68編20〜21節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編23編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ6章22〜40節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストの招きには限界はない」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、父なる神と向き合って生きいくことが大切です。そのために、父なる神と私たちとの懸け橋となってくださったイエス・キリストが、どういう方かを知る必要があります。

1.もう一つの命を与える方  26~35節
主イエスは、「よくよく(アーメン アーメン)」(26節、32節)と語られて真実の限りを尽くしてくださいました。ですから、永遠から永遠までおられる神との交わりのうちにある命を得ることができるように懸け橋となってくださった主イエスを「信じること」です(27~29節)。そして、その命を与えるために、「私が命のパンである」と言われた主イエスの「もとに来る」ことです(32~35節)。
十字架に死んで復活された主イエスは、全世界よりも重いもう一つの命を分け隔てなく与えてくださる方です(マタイ16章26節)。

2.大地のような方  35~40節
ヨハネは、厳しい試練の中にあって、主イエスを次のように紹介しています。主イエスのもとに来る者は決して飢えることがなく、主イエスを信じる者は決して渇くことがなく(35節b)、主イエスのもとに来る者を決して追い出されず(37節b)、主イエスを信じる者が皆永遠の命を得て、終わりの日に復活するのです(39~40節)。
主イエスは、私たちが厳しい試練に遭っても、そこから回復させ、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださる大地のような方です(1ペトロ5章10節)。ですから私たちは、主イエスのもとに「来て」、横たわるようにして「信じ」お任せするのです。

人生は空しいものではない(2022.4.17)

聖 書

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。(ヨハネ21章12節)

礼拝音源(30.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エフェソ5章14節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編16編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ21章1〜14節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「人生は空しいものではない」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 352 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主の弟子たちは、主イエスから以前お聞きしていたように(マタイ26章32節)、ガリラヤで復活の主にお会いました。彼らは、空しさを覚えるような暮れていく道ではなく、しだいに明けていく光の道を歩いていきました。

1.復活の主はすぐそこに 1~5節
弟子たちは、何週間か前に復活の主とお会いして大喜びしたにもかかわらず(ヨハネ20章20節)、はや不安を覚えながら漁に出ました。彼らは、何の収穫もない状態で一夜を過ごし、空しさの中を信仰の後戻りしているありさまです。このように、復活の主を見失っていたのですが、復活の主がおられないというのではありませんでした。復活の主は、そこに立っておられたのです(4節)。
今日の私たちは、揺れ動く諸状況の中にあって不安を覚えますが、主イエス御自身(ヘブライ13章8節)と神の御言葉(マタイ24章35節)は変わることはありません。

2.復活の主との新たな交わりに 5~14節
この時復活の主は、愛に満ちた指示をされ、命の交わりを持とうとされました(5~6節)。復活の主が手ずから食事を整えてくださり、弟子たちの労苦も用いてくださったのです(8~13節)。このように主イエスが備えてくださった感謝の食卓は、これまでも新たな交わりを生みました(マタイ26章26~30節、ルカ24章30節)。
主イエスを信頼して歩む者は、いかなる時も主イエスの恵みと憐れみの交わりの人生が備えられています。それは、永遠の御国での永遠の主との交わりにもつながるのです(ヨハネ14章1~2節)。