メニュー 閉じる

旧約聖書

あわれみの王である神(2014.11.30)

題   :「あわれみの王である神」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖書  : 出エジプト34章1~9節 ローマ5章8節

王である神が私たちのところに来られることを覚える季節がアドベントである。それでは、頑なな私たちのところに来て、共に歩まれる王とはどのような方なのだろうか。

1.力ある王
出エジプト記に登場するイスラエルの神である主は、巨大国エジプトの王であるファラオと戦われ、その軍隊に完全な勝利を取られた、力ある神である。しかし、頑ななイスラエルは、王である神が守るようにと伝えたことばに従わず、結果的に、神はイスラエルの敵となられた(32章)。イスラエルはかつてのエジプトの立場に置かれ、主はイスラエルと共に歩まないと言い切った(33:1?3)。しかし、モーセは、主が民と共に歩むことなしに、民はその使命を果たせないことを知っていたので、主がモーセ自身、そしてイスラエルの民と共に行くことを求め(33:15~16)、そのことの保証として、「あなたの栄光をお示しください」(33:18)、つまり神の本性を現してくださるように求めた。

2.あわれみの王
一人でシナイの山に上ったモーセ(34:1?4)に主は「主の御名」(34:5)を示された。イスラエルの信仰告白ともいえる34:6-7に主の姿が見事に描かれている。二つの特徴がある。まず、王である神はあわれみ深く、ゆるされる方。頑ななイスラエルに耐え忍び、彼らの罪と背きと過ちという重荷をすぐに罰することはない。むしろご自身がその重荷を負い、それをゆるす。もう一つの特徴は、王である神は罰すべき者を必ず罰する方。頑なであることが生む罪の責任を神は問われる。この二つの特徴のゆえに、あわれみと公平な神は信頼に足るお方である。そして、この神のゆえに、希望がなくなることはない。頑なな罪人、神の敵のためにも道を開いて下さったのがイスラエルの神であり、クリスマスにその誕生を祝うイエスである(ローマ5:8)。
イエスがあわれみの王であるからこそ、頑なな私たちも神の民として継続して歩むことができる。そして、頑なな私たちも変えられ、「主の嗣業」(34:9)となる使命を果たすようになる。他とは異なる、特別な存在として、あわれみの王イエスを証し続ける者へと変えられる。

神さまを知る(2014.11.16)

題   :「神さまを知る」   宣教:   河村 従彦 師
聖書  : イザヤ49章13~21節 ヨハネ20章24~29節

1.旧約聖書・預言書の意味
預言者たちは現代的テーマを語るコメンテーターです。預言者たちは現実の不条理を前にして悩みました。神さまは無力ではないのか。その問いに対して神さまは反論されました。確かに力を示す時代もあったかもしれない。しかしこの時代は預言者にみことばを託した。さらには、わたしたち人間は神さまにとって重要な存在、愛の対象である、これが神さまの反論でした。

2.人間が問い続けている問い
神さまはご自分の栄光のためにみわざを行われると書かれてあります(48:11)。しかしわたしたち問いかけます。私の人生は、神さまの栄光が表されればどうでもよいのですか。そして、最後にはこう尋ねます。あなたにとってわたしはどのような存在なのですか。

3.神さまの答え 49:15~16
神さまはそれに対して、あなたは手のひらに刻むほど大切な存在だと答えられました。この「刻む」ということばは、彫り込んでしまうというような強いことばです。わたしたちは神さまの手のひらに彫り込まれるような存在だということです。
ところが、もしわたしたちが神さまの手のひらに刻まれたら、わたしたちはイエスさまを道連れにして十字架に追いやってしまうような、罪深く、情けない存在です。復活の主が示してくださった手のひらは、わたしたちがイエスさまに何をしたかを思い起こさせます。そのような私であるにもかかわらず、神さまは私をご自分の手のひらに刻んでくださったということです。
わたしたちは、神さまが、「あなたは私を信じなさい、そうすれば私はあなたを祝福する」と言われるだろうと考えます。しかし神さまは、わたしたちが神さまを信じ、愛するために、まず神さまのほうがわたしたちを信じてくださった、だから、わたしたちが神さまを信じることができる可能性があるというのです。人間は、神さまから信頼してもらえるような人生を生きたら神さまに信じてもらえるのではありません。わたしたちは、今すでに、神さまから信頼されている神さまの愛する子です。そのような神さまであることを受け止めて行きたいと思います。

福音から生まれるもの(2014.9.22)

宣教題 「福音から生まれるもの」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 ヨシュア2章1~24節 ローマ1章5節

よい知らせは人を動かし、人を変える。聖書が語る福音は、神がなされた素晴らしいわざの知らせである。そして、このよい知らせから生まれるものがある。

1. 神の素晴らしいわざ
荒野を放浪していたイスラエルの民は、約束の地に入ろうとしていた。新しい地に進む前に、ヨシュアは二人の斥候をヨルダン川の向こうにあるエリコに送った。最初に攻めるであろう町と周辺の様子を探るためであった。斥候たちはエリコに侵入するが、捕らえられそうになる。しかし、遊女ラハブの機転により追っ手から守られる(1~7)。その後、ラハブは、彼らに自分たちが聞いたこと、そしてそれに対する人々とラハブ自身の反応を話す(8~11)。ラハブは、神が葦の海でエジプトの王ファラオを打ち破ったことと、その神の働きをイスラエルの民がヨルダン川の向こう側で行ってきたことを知っていた(10)。イスラエルの民がエリコに到着する以前に、神とイスラエルのうわさはエリコに届いていたのだ。彼女は福音をもうすでに聞いていた。

2. 福音から生まれるもの
神の素晴らしいわざの知らせを聞いたエリコの人々はどう反応したのだろうか。彼らは恐怖におびえており(9)、イスラエルに立ち向かおうとする意志さえももっていなかった。世界を支配しているのは、イスラエルの神である主であることに気がついたからである(11)。本当の神を神とする思いが、ある者たちのうちに生まれた。だから、ラハブ自身は、二人の斥候に助けを求めたのだ(12~13)。福音を聞いても、それを拒絶するエリコの王のような者たちもいる。しかし、主を神とする者たちも誕生している。福音は神に信頼する神の民を生み出す。二人の斥候はラハブにどうすべきかの指示を与えたあと(17~21)、彼女の知恵に助けられて、無事にエリコを脱出し、ヨシュアのもとに戻る(22~24)。そして、イスラエルの民は神の素晴らしいわざが、自分たちを通して続いて行われることへの自信を深めていった。

十字架と復活によって神の民が誕生した。そして、神の素晴らしいわざの知らせである福音は、世界中に響いている。福音に反発する者たちの中にさえも、まことの王である主を恐れ、神の民に加わり、主に従う者はおこされている(ローマ1:5)。このように、福音は新しい神の民を生み出す神の力である。この力にもっと自信をもって、神の素晴らしいわざの知らせを語ろうではないか。

主のことばに従う勇気(2014.8.17)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書: ヨシュア1章1~18節   ヨハネ16章33節

偉大なリーダーの死を迎えた時、どのような組織も危機を迎える。出エジプトを導いてきたモーセの死を迎えたイスラエルもそうであった(1~2)。モーセが 民とともにいたからこそ、主は民とともにおられ、荒野放浪の40年は導かれてきたからだ。しかし、モーセが死んだ今、約束の地を征服するという主の約束は 継続されるのだろうか。モーセの後継者として指名されたヨシュアはその働きを全うできるのだろうか。

1.イスラエルは前に進む
主はヨシュアに、モーセが死んだ今だからこそ、ヨルダン川を渡り、約束の地へ進むように命じた(2)。その際に、ヨシュアには、約束の地は、神が与えて くださるものなのか、それともイスラエルが自分たちで占領するものなのか、という問いが投げ掛けられた。まず、その地は、主がイスラエルに与えようとして いる土地であり(2)、もう与えた、と主が約束されている土地である(3)。しかし、何もしなくても与えられるものではない。「あなたたちの足の裏が踏む 所を・・・与える」(3)とあるように、その土地を自分たちの足で踏む、つまり戦うことが求められている。与えられているという確信に立ちつつ、準備し、 行動するとき、主の約束は継続され、実現していく(10-11)。

2.主のことばに従う勇気
ヨシュアは明らかにモーセとは違う。しかし、主は、モーセに約束されたように(出エジプト33:14)ヨシュアにも「あなたと共にいる」(ヨシュア 1:5)と語る。主がヨシュアとともにいるからこそ、主は民とともにいる。モーセの時と何一つ変わらない。ヨシュアはその使命を果たすことができる。この ときに、ヨシュアに求められていることは、モーセを通して主が命じられ律法を日々味わい、それを実行する勇気である(7?9)。モーセのような偉大な指導 者にならなくても、主のことばを味わい、それに生きるヨシュアとイスラエルの民を通して、神は世界に働き続けられる。モーセの時代になされたことと同じこ とを、ヨシュアの時代にも主はなさろうとしている(12~18)。

 教会はキリストのからだである。イスラエルの民と同じように、主が約束し、与えてくださっていることが、私たちのわざを通してこの世界で実現していく。 それは、すでに十字架と復活において勝利を取られたキリストが、私たちと共におられるからである。だからこそ、みことばを口ずさみ、整えられ、それに生き る勇気をもって、困難が多くあるこの時代に主に従っていこう。

主のもとへ立ち返れ(2014.6.15)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: ホセア14章2~10節 ルカ15章22~24節

父親と子どもとの関係は、結構難しい。その関係が崩れてしまったとき、その回復には非常に時間がかかる。ルカによる福音書15章に登場する弟息子とその父 との関係もそうだった。父の財産を生前に受け取り、自分の村から都会へ出た息子は、父を裏切ったという思いを持ちながら生きていただろう。父は自分に対し て憤っていると考えたに違いない。息子は落ちぶれて、間違いに気付いたが、父のもとにすぐに帰ろうとはしなかった。父は自分など受け入れてくれない、と 思っていたからだ。この息子と同じような状況にあったのが、ホセアの預言のことばを聞いたイスラエルである。そして、彼らにとっての父とは、イスラエルの 神であった。

1.もう憤ってはいない(ホセア14章5~9節)
神はイスラエルになんと語るのだろうか。「わたしの怒りは彼らを離れさった」(5節)。神がもう憤ってはいない。裏切り、背いたイスラエルを神はいや す。憤りではなく、喜んで愛し、関わる。神の癒しは、「露のようにわたしはイスラエルに臨」(6節)む。真夏の夜に降りる露によって、雨など一滴も降らな い地にも命を保持されるように、主はイスラエルの命を回復し、その美を回復する。そこは麗しい楽園となる(6~8節)。命が回復されたイスラエルが神に求 める時、神は彼らに答え、彼らを見守る(9節)。イスラエルは確かに裏切ったが、彼らへの神の憤りは終わっている。

2. 生きるために帰る(14章2~4節)
息子が父のところに帰るように、イスラエルは自分の神である主のもとへ帰れ、と預言者は招いている(2節)。もうゆるされているから、他の神のもとでは なく、自分が帰るべき神のもとに帰るのだ。元気になったから帰るのではない。つまずき、倒れているそのままで帰るのだ(2節)。彼らが神のもとに帰ったな ら、神の癒しがそこで現実となる。ゆるされ、よいものが与えられ(3節)、新しい生活、神のあわれみに満ちた生活がそこで始まる(4節)。
放蕩息子は、勇気を出して父の家に帰った。父は憤ってはいなかった。むしろ、走り寄り、最大の祝いの場を準備した(ルカ15章22~24節)。イエスが 十字架に掛かられたゆえに、父である神はもう憤ってはいない。むしろ、最大の祝宴を準備して待っていて待って折られる。父である神のもとに帰る父親にも、 子どもにも、神は新しい生涯、新しい関係を備えておられる。

心を激しく動かす方(2014.5.18)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア11章1~11節  ヨハネ11章35節

ラザロの死に直面した時、イエスはどのように泣かれたのだろうか(ヨハネ11:35)。単に涙が流れたのではなかっただろう。イエスがそうであるように、 聖書が証ししている神は、遠くにいて、冷静に物事を見つめているだけの方ではない。心を激しく動かす情熱的な方である。

1.神が心を激しく動かされる理由(11:1~7)
神が心を激しく動かされる理由がホセア書に書かれている。神は父、イスラエル(エフライム)はその子であった(1)。出エジプトというその誕生から神は 関わりを初め、与えられた地に住み、そこで神の栄光を示す使命を与えられた。愛することで自らのすべてを与え、呼び出すことで世界のすべての民のなかから 選び出された。ところが、エフライムは神を裏切り、他の神々を慕う(2)。それでも神は、彼らに歩くことを教え、癒し、救った(3)。選びと愛のゆえに、 絆は切れない(4)。しかし、エフライムは諸国を王とし、自己破壊の道を歩み続ける。そのかたくなな心のゆえに。この長い歴史があるからこそ、神は、わが 子エフライムに心を激しく動かされる。

2.ほとばしる情熱的なことば(11:8~11)
神はその心を情熱的なことばをもって表される(8)。「見捨てることなどできない、引き渡すことなどできない」。憐れみに胸を焼かれる神はそう叫ぶ。人 はあきらめる。しかし神は、あきらめはしない。人は罰を与える。しかし、神は裏切るエフライムに罰を与えず、それを滅ぼさない(9)。人はどこかに捨て置 くだろう。しかし、神はエフライムを集め、帰るべき地に連れ帰る(10−11)。情熱的なことばは、自らが呼び出し、愛しているエフライムにすべてを神が 献げられている証拠である。
エフライムがそのままでいていいはずがない。自らの感情をあらわにされる神の情熱に押し出される。このことばを語ったホセアも、ラザロの死を見て泣いた イエスも、神の情熱の現れであった。人がその使命を果たすことができるようにと、すべてのすべてをかける情熱の神の現れである。そして、私たちに与えられ た使命は、神と同じ情熱で世界に対する神の愛を表すことではないだろうか。

栄光の王の入城(2014.4.13)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: 詩編24編1~10節 ヨハネによる福音書1章11~12節

パームサンデーはイエスがエルサレムに入城されたことを記念する主日である。あえてエルサレムに上っていかれたのは、そこに神殿があったからだ。

1.エルサレムの神殿
「主の家」(詩編23:6)とはエルサレムに建てられた神殿のことである。この神殿を主が特別に選ばれた(聖別)(24:3)。だから、イスラエルの民 は、神に会い、ささげものをし、礼拝するために神殿に上っていった。そして、この神殿を、世界の所有者であり(1)、世界の創造者であり(2)、それを確 かに支えておられる神、天と海と地の王である方が自らの住まいとされた。

2.エルサレムに住むべき人
世界の王である主が住んでおられるエルサレムの神殿に上り、この方に会うことができるのは、どのような人だろうか。人の血を流すことのない「潔白な手と 清い心」をもつ人であり、人を欺く、むなしい偶像を慕わない人である(4)。むしろ、この神殿を住まいとされる主にだけあらゆる求めを祈り求め(6)、力 に満ちた、雄々しい主を自分の王として喜んで迎え入れる人(7−10)こそ、エルサレムの神殿に上るにふさわしい。栄光の王のそばにいて、その祝福と恵み を一杯に受けることができる(5)。

3.イエスが向かわれたエルサレム
イエスはエルサレムに入城され、人々はイエスを王として歓迎した。ところが、エルサレムはいまや流血の町であり、ローマ兵、さらにはユダヤ人によっても 偶像崇拝が行われている町であり、イエスを喜んで迎え入れず、いつ殺そうかと企てていた町であった。そして、イエスを王として迎え入れず、彼を十字架に架 けた。自分の民の所に来たのに、民はこの方を拒絶した(ヨハネ1:11)。王であるイエスはそのような場所に進んでいかれた。
しかし、王であり、主である方を拒絶したエルサレムが栄光に輝く場所となった。拒絶の象徴である十字架が、栄光の王の王座となったからである。だからこ そ、この受難週、私たちが拒絶しても、そこでイエスが神の栄光を表されることを覚え、十字架を通して、神の祝福が神を拒絶する私たちの真ん中に差し込んで いることを覚えたい。この神の恵みがあるからこそ、イエスを王として受け入れるという応答が生まれてくるのだから(1:12)。

神を知る者の愛(2014.3.30)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア5章6節~6章6節 1ヨハネ4章20節

旧約聖書に登場する北王国(エフライム)と南王国(ユダ)は本来、一つの王国であった。ところが、分裂し、神から与えられた使命を果たすことができなくなった。

1.兄弟国の間の争い(5:8-15)
分裂から200年後、二国の間で争いが生じた。アッシリアという強国に対抗するか、属国となるか、という路線の違いから生まれたこの争いは、北王国から 南王国への攻撃で始まったが、アッシリアの助けを得た南王国による北王国への侵攻と進んで行った(5:8)。北王国は廃虚と化し、南王国は主からの相続地 を奪い取ろうとした。主は両者に対して激しい審判をもたらす(5:12, 14)。互いに攻撃しあい、主を求めなかったからである(5:13)。主はイスラエルから去ることを決意された(5:14)。

2.深みのない祈り(6:1-5)
このことを聞いた時、人々は祈った(6:1-3)美しい悔い改めの祈りである。しかし、人々にとっての「主のもとに帰ろう」「主を知ろう」はホセアが 語っているのと同じ意味なのだろうか(12:7や2:22)。そうではない。自分たちの都合が悪くなり、「わたしを尋ね求めよ」(5:15)と言われたか ら、いつもの祈りをより丁寧に行ったにすぎない。主は、祈りに深みのないことを見抜き、「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」(6:4) と切り返し、裁きを宣告する(6:5)。

3.神を知る者の愛(6:6)
普段から献げている献げ物をより増やすことなど主は求めておられない。普段より美しい祈りをすることを主は求めておられない。ホセアが語っている意味 で、「主を知り、愛すること」である(6:6)。危機において主が開かれる道をベストと信じ、自分の計画に固執しないこと。さらに、本来一つであるべき 人々との関係を時間をかけて整えること。北王国と南王国の関係改善に取り組むことなしには、すべては不十分である。
神を愛する愛は、隣人を愛する愛という形で必ず現れる(1ヨハネ4:20)。配偶者、親や子、隣近所、同僚、クラスメートとの関わりの中に神への表され る。美しい祈りのことばでもなく、より熱心な教会生活でもない。ひとつであるべき夫婦が、家族が、職場が、学校が、私たちを通してひとつになっていく時、 神への愛が表され、私たちの使命が果たされていく。

人知を越えた神の導き(2014.3.2)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録23章12~35節 イザヤ書55章11節

私たちは、主イエスとその御言葉に信頼し続けることにより、神の導きの中を歩ませていただくのです。ここでは、パウロ殺害の陰謀と露見とカイサリアへの護送という出来事の中に、人知を越えたとしか言いようのない神の導きを証言しています。

1.神の導きの不思議さ
ユダヤ人によるパウロの暗殺計画が実行されようとしました(12~15節)。これがそのまま放っておかれたなら、パウロによるローマでの伝道ができなく なるという危機を迎えたのです。「しかし」、そのことを聞きこんだパウロの甥によって、その情報がパウロに伝えられ、そのことがローマの千人隊長にも知ら されることとなったのです。千人隊長には、ローマの市民権を有するパウロの権利を守り保護する義務がありました(17~22節)。すかさず、千人隊長は、 万全の策を講じてパウロをローマ総督のもとに護送するようにしたのでした(23~35節)。こうした中にも、パウロは切迫した情況の中で、冷静な信仰的総 合判断をしたのでした。
神の救いの歴史を導いておられる神が、ご自身の計画を実現するために、パウロの甥や千人隊長を用いられたことに、不思議さを覚えます。神の時に、神の方法で、神の人を用いられるのです。私たち一人一人も、そうした神の人なのです。

2.神の導きの確かさ
こうした神の導きの背後には、先にパウロに語られた復活の主イエスの御言葉が゜働いていました(11節)。その導きは、復活された主イエスが共におられるという確かさであり、導きの時は確かであり、導きそのものに誤りはないという確かさです。
このことは、イザヤ書に語られている神の約束の御言葉にあるように(55章11節)、神は、苦難の中にあっては特別の支えをもって、試練の中にあっては希望を与えて導き、その使命を果たさせてくださるのです。
私たちの中に、神の導きを必要としない人は、一人もありません。また、教会も世界の全体も、神の導きを必要としています。神は、人知を越えた不思議な導きを、御言葉に立った確かな導きを与えてくださいます。皆が、それに従えますように。

畏れを抱いて(2014.2.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 詩編111編1~10節

主イエスは、迷信からくる恐れに対して励ましを(マタイ14章27節)、良心の呵責からくる罪の畏れに対して赦しを(マタイ9章2節)、死への恐れに対して勝利を(ヨハネ20章19節)与えられました。しかし、こうした恐怖の恐れではなくて、私たちが畏敬の畏れを抱くならば、活きた信仰の歩み、活きた教会の歩みとなります。

1.活きた信仰の歩み
詩編111編は、主への賛美で始まり、主に感謝をささげ、主の御業を喜ぶ中から、「主を畏れる」ことを歌っています(5節、10節)。恵み深く憐れみに 富んでおられる主であるからこそ、人は主に深い畏敬の念を抱くのです(4節)。主を畏れるとは、主なる神の救いに対して、自分の心と思いと生活を傾けるこ とであって、信仰者の財産です。
主を畏れることは、私たちの信仰生活を息苦しくしたり、力を失わせたりするものではありません。逆に、私たちがますます主なる神に引き寄せられて、私た ちに豊かな心と力と真剣さとを与えるのです(ローマ8章15節、11章20節)。主を畏れる心に生きることは、主への信仰を活き活きと生きることなので す。

2.活きた教会の歩み
さらに、神を畏れ敬う聖徒の群れこそが教会です(使徒言行録2章41~47節)。そこには、福音の教えに聴従し、聖徒の交わりをなし、聖餐に与り、祈る ことに「熱心であった」教会の姿があります(42節)。これは、時代や場所や状況が変わっても、変わらない教会の活きた歩みであり、主を畏れることを知る 教会であることを証ししています(43節)。
主を畏れる教会の礼拝、祈祷会、奉仕、交わりは、必然的に伝道する教会となるのです(44~47節)。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一 つにされたのである」と、伝道の主体は、いつも主イエス・キリストであることを証言しています。主を畏れつつ歩む日々が、活き活きと生きる信仰者の歩み、 教会の歩みとなっていくのです。

神を知る者の歩み(2014.1.12)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書:ホセア4章1~3節 申命記5章7節

新しい年を迎えるにあたり、幸運が来るように、と願う心情を私たちは持っている。

1.蒔いた種を刈り取る(4:3)
しかし、幸運ではなく、問題が襲いかかることがある。その時、「運が悪かった」とか「他の人が悪い」と考えがちである。預言者ホセアの時代、飢饉が訪れ た時、人々は同じように考え、神を責め、他の人を裁いた。しかし、ホセアは、イスラエルの人々の行動(4:1−2)に続いて、「それゆえ」(4:3)と述 べることによって、イスラエルが直面している問題の原因はその民自身にあると指摘した。自分の蒔いた種を刈り取るべき世界に私たちは生きている。そのこと に気づかせようとしている。

2.十戒:賜物としてのガイドライン(4:2)
それでは、問題が襲いかかった時、すべてが自分の責任なのだろうか。ホセアは、「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫・・・流血」が原因だと訴えた。これら は、十戒(申命記5:16−21)で禁じられている歩みである。ただし、十戒は人々に負わせられた戒律ではない。この世界で、うるわしく、調和をもって生 きていくためのガイドラインである。問題を自分から生み出さすことなく、この世界の歩むために、神は十戒をプレゼントとして与えられた。

3.神の土地に住む(4:1)
なぜ、十戒にはそんな力があるのだろうか。十戒を与えてくださった神がこの世界の主人、所有者であるからだ。その神の土地(世界)を借りて生きているの が人間である。所有者が与えてくれたガイドラインに従って生きるなら、当然、その土地でうるわしく、調和をもって生きることができる。「誠実、慈しみ、神 を知ること」が私たちをよい借地人にする。主だけを自分の主人とする歩みが幸福の秘訣である(申命記5:7)。
だからこそ、問題が降りかかってきたとき、ほんとうの主人を主人としているだろうか、と問いかける必要がある。そして、世界の所有者が与えてくれったガ イドラインに則って生きようと歩みを変えることである。その時、問題を生み出してきた「それゆえ」が、幸福を生み出す「それゆえ」に変わる。

家族を越えて(2014.1.5)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:マルコ3章31~35節 創世記26章23~25節

祝福の源である家族となるためには、イエス・キリストを家族の主としてお迎えすることが大切です。ここでは、主イエスとその家族との間に溝が生まれていることが語られていますが、何が真に祝福された家族であるかを問いかけているのです。

1.家族には限界がある
主イエスの母と兄弟たち家族は、「外に立」っています(31節、32節)。それに対して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(34節)とある 「ここに」とは、「イエスの周りに座っている」人々です(32節、34節)。「座っている」とは、そうすることで主イエスの御言葉に耳を傾けていたのです (ルカ10章42節参照)。ここに、主イエスは、深くて高い新しい家族の交わりがつくられているのを見ておられました(34~35節)。
このようにして、主イエスは、人がつくりだしている家族は究極的なものではないことを明らかにされたのでした。そうすることによって、家族には限界があることを教えておられるのです。

2.神の家族となる
それでは、私たちは、限界ある家族を越えてどこに向かっていけばよいのでしょうか。そこで主イエスは、神の御心を行う家族となることを勧めておられます (34~35節)。神の御心とは、家族の限界を知りつつ、神のあわれみ、神の赦しをいただいて、神のものとされていくことです。具体的には、親の立場、子 の立場、祖父母の立場、嫁や姑の立場で、家族を絶対化しないことです。また、家族に破れがあったとしても、主イエスとの絆で結ばれることの大切さを示し続 けることです。
そのことを証しした聖書人物の一人が、アブラハムの子イサクでした(創世記26章23~25節)。イサクは、アブラハムに示された神の祝福の約束を再確 認して、まず祭壇を築いて礼拝し、次に天幕を張って家族の生活を整え、そして井戸を掘って生活の糧を得たのです。この順序は、神の祝福を受け継いでいくた めに大切な信仰の応答です。神の御心を行う神の家族は、今も変わらずに私たちに求められています。

確かな神のことばに立つ(2013.11.10)

宣教題  :「確かな神のことばに立つ」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 40章1~11節
神の言葉を聞く者が、それを語る者へと変えられる。そのきっかけはなんだろうか。

1.語られ、慰められ、招かれる(40:1−5)
バビロン捕囚という悲劇の中にいた人々に神が慰めを語っている(1)。苦しみからの救いという慰めが主の具体的行動によって彼らの上に実現する。捕囚はイスラエルの罪ゆえに受けた罰であったが、その期間の終わりが心優しく神から語りかけられている(2)。
「わたしたちの神」が栄光をもって現れることによって新しい事がはじまる(5)。それは王である神の自分の都へと入城である。この入城に備えるように、苦しみの中にある者に語られる(3)。なぜならば、慰めの言葉を聞いた者は神の働きの参加者になるように招かれているのだ。彼らだけではない、すべての被造物が神の栄光の現れの備えに招かれている(4)。そして、神が語られたからこそ、このことは起こる(5)。

2.神の言葉の力を聞き、神の姿を伝える(40:6−11)
招かれても、人はすぐには参加しない。神の言葉を信じることは簡単ではないからだ。神は説得を続ける。人の誠実さは確かなものではない。草のように、枯れ、しぼむ(6)。しかし私たちを選んで下さった神の語る言葉は「とこしえに立つ」(8)。誠実に、語られたことは必ず実現する。その言葉の確かさが、慰めと希望と喜びの到来の保証である。
神の言葉を聞き、招かれた者は、王である神の行列の先頭に立って、良い知らせを世界中に告げる(9)。神の御腕は、困難を打ち砕き、時代を切り拓いていくという知らせを告げる。出エジプト同様に、時代を造りかえる力がある(10)。さらに、神の御腕は、優しく包む、羊飼いの手として、弱り果てた者を包み、癒し、慰める(11)。このようなすばらしい神の到来が告げられる。
私たちは神の言葉の確かさをすぐに疑う。それは、「聖書も神の力も知らない」から思い違いをしているのだ(マタイ22:29)。だからこそ、神の言葉の確かさを信じる者へと回心させて頂きたい。そして、神の言葉を聞き、それゆえに語るものとされたい。

祝福の本当の源泉(2013.10.20)

宣教題  : 「祝福の本当の源泉」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書2章4~25節
「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)に登場するのは、父から離れていって身を持ち崩した息子であった。ホセア書には「放蕩夫人」が登場する。イスラエルが、他の神々という愛人たちを恋い慕ったからである。

1.衣食住の祝福の源泉
紀元前8世紀のイスラエルではバアル崇拝が広がっていた。衣食住の必要は嵐と雨をもたらす肥沃の神バアルが備えると信じていたからである(7)。しかし、祝福を与えてくれるバアルを探し求めても、見つけ出すことはできない(9)。衣食住の祝福の源泉は、バアルではなくイスラエルの神である主だからだ(10)。主が祝福を惜しみなく与えられたからこそ、放蕩夫人は放蕩に身を持ち崩すことができた。しかし、彼女は知らなかった。

2.神を知る祝福の源泉
イスラエルは主を忘れ(15)、愛人バアルを求めた。しかし、彼らは主を知るようになる(22)。主がそのために働かれる。彼らがバアルの所へ行く道をふさぎ(8)、その衣食住を奪い取り(5、11)、世界にその恥をさらさせ(12)、季節の祭りの楽しみを奪い取り(13)、バアルの贈り物だと誤解していた楽園を荒らす(14)。主は彼らが蒔いた種を刈り取らせる。しかし、荒野へと彼らを導き、そこで懇ろに語り、祝福と苦悩の中の希望を与えるのも主である(16-17)。主に信頼する以外に道がない荒野で出エジプトの神を思い起こした彼らは、主の下に立ち返り(18)、主を知るようになる(22)。神を知る祝福の源泉も主である。

3.世界を治める祝福の源泉
イスラエルが祝福の本当の源泉を知る時、天と地は結び合わされ、天から与えられる祝福を、地は豊かに実らせる(23-24)。彼らがその使命を果たし、地を正しく治め、あらゆる被造物がお互いに呼応しあうからである。このようにして、彼らが地上で主のみこころを行い、その結果、被造物が生かされ、戦いが止められるために、彼らと契約を結ばれるのも主である(20-22)。放蕩夫人が主の下に立ち返り、その使命を果たすためのあらゆる必要は主が備えてくださる。祝福の源泉である方を覚えよう。

真の安息(2013.10.6)

宣教題  : 「真の安息」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ6章1節~11節
私たちは、旧約時代の土曜安息日ではなくて、主イエスが復活された「週の初めの日」(使徒言行録20章7節)とも呼ばれている「主の日(聖日)礼拝」を大切にしています。この日に、真の安息への道を開かれた主イエスの御心を知って、自らの信仰と生活を導いていただくのです。

1.神の恵みを喜ぶ
主なる神は、6日間で全てを創造され完成されたことに満足されて、7日目に安息され祝福されました(創世記2章1~3節)。従って、「安息日」は、造られた人間にとって神と共に安息することが当然の恵みなのです。私たちは、神が全てを良いものに造ってくださったことに、喜びと感謝をささげるのです。
さらに、出エジプトという神の救いの恵みに与かった神の民が、「安息日」の祝福に生きることを命じられています(出エジプト20章2節、8~11節)。私たちは、神の民がエジプトを脱出して約束の地へと導かれたように、主イエスの十字架と復活によって罪と汚れに満ちたこの世から脱出して、約束に御国へと導き入れられることを大いに喜ぶのです。

2.神の恵みを分かち合う
主イエスは、安息日に弟子たちの飢えを満たして生かし(1~5節)、また生活の糧を得るのに必要な右手が萎えている人をいやして生かされました(6~11節)。
安息日は、神とその恵みを忘れないことと、人々へのあわれみを忘れないことのためにあります。すなわち、安息日に神の救いの約束が変わらないことを思い起こし、永遠の救いの神を忘れないことです(出エジプト31章16節)。また、一人一人が神に分け隔てなく招かれていることを忘れないことです(申命記5章14節)。
私たちは、礼拝において深い安息を経験するのですが、それを自分だけのもので終わらせることなく、隣人のためにも与えられていることを覚えて、お互いの喜びとさせていただきましょう。