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旧約聖書

信仰による再出発(2017.4.2)

今日の宣教要旨
宣教題  「信仰による再出発」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  創世記22章1~14節 ヘブライ11章17節
アブラハムを祝福される神は(創世記12章2節)、全能の神(17章1節)であり、永遠の神(21章33節)であられます。ところが、それを覆すかのように、彼に信仰の試練を与えられました(ヘブライ11章17節)。彼にとっては、神が約束されたことと(17章19節)矛盾する要求をされたことが理解できなかったでしょう。

1.説明はできないが
アブラハムは、約束の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたことに対して、自らも納得できない、人にも説明して語る言葉を持たないままで「その場所」に来たのでした。これは、神を信じているのになぜ、神は約束されたのになぜ、といった信仰の土台が揺さぶられるようなことでした。
神の前に試され、扱われ、訓練されつつ前進できるのは、「信仰によって」です。人には説明出来ないことであっても神は何もかも分かっておられます。神はある必要からこのようにされるのです。神は必ず備えてくださるのです。神は後で、試練の中にある者にも他の人にも説明してくださるのです(ヨハネ13章7節参照)。

2.二人は一緒に
「二人一緒に歩いて行った」(22章6節、8節)とは、何と幸いな父と子でしょうか。試練の中で、二人が一緒でないことがあるからであり、一緒であっても前進しないことがあるからです。しかし、二人のうちどちらかが欠けても成り立たない中を歩き続けることができたのは、父の信仰に子が従い、子の信頼に父が励まされていたからです。神は、そのような二人を守り続け、導き、備えられたのです(11~14節)。
私たちは、信仰者としての様々な関わりの中で、アブラハムとイサクであることを知る必要があります。このような神の試みの中あって、なお神を信頼し、神に従うことを通して、神は祝福され、勝利を与えてくださるのです(22章16~18節)。

起きよ、光を放て(2017.3.19)

宣教題  「起きよ、光を放て」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ60章1~7節、19~22節 マタイ5章14節a

「あなたがたは、世の光です」。だから、「起きよ。光を放て」。聖書はそう招いている。世界や教会や自分が暗やみに包まれていても、いやそうだからこそ、「起きよ。光を放て」。

1. 主の栄光が輝いているから
私たちの光はどこから来るのだろうか。そして、捕囚からの回復にあってもいまだ苦しみもだえているシオンの光はどこから来るのだろうか。主の栄光がもうすでにあなたの上を照らしている(1~2節)。だから、主の光を映す鏡として、あなたは光を放つことができるのだ(19~20節)。事実、十字架で死なれたキリストが復活されたのだから、復活の光はもうすでに輝いている。

2. そうすればあなたの使命を果たせるから
シオンが主の光で輝く時、主に求められていた使命(2章1~5節)が実現する。失われていた者たちが戻り(4節)、これまで見向きもしなかった者が訪れ(3節)、豊かさと平和がもたらされ(5b~7節, 10~11節, 1節, 16節a, 17節, 18節)、シオン自身が喜びに満たされる(5節, 14~15節)。主のもとに人を導く使命が果すことができるようになったから喜ぶのだ。そして、主がそのあわれみによってこのことを実現してくださる。

3. 主を知り、強くされ、美しくされる
主の光に照らされて輝くとき、シオンも変えられる。救い主である主をさらに知り(16節)、主に従うゆえに強くされていく(21~22節)。そして、輝きに満ちた美しさが与えられ、その美しさがシオンを包む(7節, 9節, 13節, 19節, 21節)。主のあわれみが満ちるところこそ美しく輝くからだ(10節)。
だから、世の光よ、起きよ、光を放て。2000年前、時は来た。主はなしてくださった(22節)。十字架と復活の大きな恵みに押し出されて、あわれみの御手のうちに、復活のいのちによって歩み続けようではないか。

主はシオンに来られる(2017.2.12)

宣教題  「主はシオンに来られる」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ59章15b~21節 マルコ1章14~15節
神はこの世界を見られたら、どのように判断されるのだろうか。
主は捕囚から帰還した民の姿を見、そこで正しいさばきが行われていないのを見た(15節)。流血、虚偽、不正が満ち、平和などない。社会の問題の原因は、神の民自身にある(1~8節)。民も、自分たちが暗やみの中を歩んでおり、正義も、救いも、まこともない世界を作りあげてしまったことを自覚している(9~15節)。そんな神の民が神のわざをなすことなど、不可能である。

1. 正しいさばきのために介入される主
世界の現実を見られた神は、それを放置なさることはされない。主は、戦いに長けた勇士として、その世界に介入されて、そこに正しいさばきをもたらす。正義も救いもないところに、それをもたらす勇士として介入され、それぞれにそれぞれのわざにふさわしい報いをもたらすのである(16~18節)。世界を破壊するためではなく、修復するためにそれを行われる。そして、主の霊の働きのゆえに、世界中の者たちは、主の介入を認めるに至る(19節)。

2. 主はシオンに来られる
そして、主はシオンに来られる。問題だらけのシオンに、エジプトからイスラエルを救い出した「贖う者」(20節)として来られる。背く者には、それにふさわしい報復が与えられる。しかし、かたくなな心を解き、罪を悔いる者、つまり、主に立ち帰る者には、救いと再生を与えられる(20節)。シオンは造り変えられ、契約は更新され、神のなさる正しいさばきという介入を証しする者として世界へ遣わされる。神の聖霊とみことばが共に働いて、世界は彼らを通して修復されていくのである。
この世界を見られた主は、イエスを通してこの世界に介入され、世界を修復し、修復のわざを行う民を生み出された。イエスはイスラエルに来られ、シオンに来られ、私たちのところに来られた。罪を悔い、主に立ち帰るところから私たちのこの世界における働きは始まる。

神の臨在に触れて(2017.1.8)

宣教題  「神の臨在に触れて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ6章1~13節

ここには、神の臨在に触れたイザヤが、預言者として立ち上がるに至った恵みと召命の経験が語られています。人は、神とどういう関わり方をしたかによって、その人の神を見る見方、その人の信仰の在り方と生涯を決めると言えるでしょう。
1.聖なる神を見る経験  1~4節
ウジヤ王が死んだために、民は悲嘆にくれ、南ユダ王国全体が不安定になって激動の時代を迎えようとしていました(7章1~2節)。そのような時に、イザヤが民を祝福するために神殿を訪れ、神との出会いを経験したのです。
それは、イザヤが神を見るという出会いでした。そこには生きておられる神の臨在がみなぎっており(1節、4節)、イザヤは「栄光の主」を見ています(3節)。さらに、超越しておられる「聖なる神」を見ています(3節)。そして、「王なる万軍の主」を見ていました(5節)。このような神が、私たちが信じるイエス・キリストであり、この方に私たちの存在の根拠を置いて、信仰の歩みをしていくのです。

2.聖なる神の恵みの御業を見る経験  5~13節
こうした神との出会いの経験は、自分の真相を見る経験となります。聖なる神の御前に「ああ、わたしは、もうだめだ」(5節、新改訳聖書)と告白する者となるのです。神が分かるということは、自分の罪と汚れが分かるということです。そのようなイザヤに、神は恵みによって「汚れた唇」がもたす罪と汚れをきよめられたのです(6~7節)。それは、罪と汚れの中にある者を主イエス・キリスト十字架の血と聖霊によって罪を赦しきよめてくださる恵みの御業を表しています。
続けて神は、罪と汚れのゆえに苦しみ、御言葉に聴き従おうとしない頑固な人たちに(9~13節)、イザヤと同様な神の恵みに与った者を遣わして用いてくださいます(8節)。「わたしを遣わしてください」との召しに応答する者とされましょう。

主がおられる所へ行く(2016.11.20)

宣教題  「主がおられる所へ行く」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ58章1~14節 マタイ25章40節

主が共におられることを私たちは求める。自分の祈りを主が聞き、それに応えて「共にいてくださる」と語って下さることを求める(4, 9節)。どうすればそのことが実現するのだろうか。捕囚後のエルサレムに住むユダヤ人たちは、断食によって自らを苦しめることを通してそれが実現すると考えた(5節)。ところが、主は彼らの断食を顧みず、祈りに応えてくださらなかった(3節)。

1. 断食か、社会生活か
なぜ断食を主は顧みてくださらないのだろうか。主がその人の宗教的な部分だけではなく、全生活を見ておられるからである。本当に主を尋ね求め、主を知ろうとしているのか(2節)、主は問われた。断食をしている人々の生活は、主が願っているものからはほど遠いものであったからだ。労働者を追い使い、争いをおこし、暴力を平気に用い、人々を束縛し、貧しい者にあわれみを施さず、安息日に休みをとらずに、人々をこきつかった(3, 4, 6~7, 9~10, 13節)。民の生活は、彼らと関わりを持っている諸国民の生活と変わらなかった。だからであろうか、宗教的に生きようと彼らは断食をした。しかし、神は、宗教的な自分と世に生きる自分を使い分けている者に厳しく対応された。

2. 全生活を見られる主
全生活を見直しなさい、と主は語りかけた。人々を解放し、貧者を顧み、安息日を守って、他者を休ませなさい、と命じた(6~7, 9~10, 13節)。断食をする宗教的な人であるか、ではなく、生活の現場でどう生きるか、が問われていた。自分よりも立場の弱い人々への解放と思いやりに生きるとき、そこに主が共におられて、祈りに応え、導き、満たし、いのちをあたえ、再建を果たしてくださる。そして、そのような人と共に主がおられることをまわりの人々も見るのだ。
イエスご自身もこのことをご存知だった。そして、羊と山羊の物語を語られた(マタイ25章31~46節)。自分よりも立場の弱い人々を解き放ち、思いやりを示す生きる場所にこそ、主が共におられる所であると述べられた。われらも主がおられる所へ行こうではないか。

低いところに来られる神(2016.10.23)

宣教題  「低いところに来られる神」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ57章14~21節 フィリピ2章8節

教会に来ると「すばらしい信仰者になるように」というプレッシャーを感じる。いつも神に従順で、なにごとがあっても神に信頼し、揺れることがない人を神は祝福し、つまずきとなるものを取りのけてくださる、と考える。

1. 低くされるべき民
神が祝福される人々は思っているほど信仰的ではない。むしろ、「貪欲」(57章17節)で、「強欲で飽くことを知らない」(56章10節)人々だ。その罪のゆえに、主は怒り、その人を打ち、自らを隠す。それでも、彼らは背き続けた(57章17節)。この後、彼らは打ち砕かれ、へりくだらさざるをえない状況に追い込まれた。それでも、主は彼らを「わたしの民」(57章14節)と呼ばれている。

2. 低いところに来られる神
神は「高く、あがめられ」(57章15節)る方である。イザヤ書6章においてイザヤと出会い、預言者自身が自らの汚れたことを認めざるを得ないほどの方である。この神にふさわしい者とならねばならない、と常識は語る。ところが、この方は「打ち砕かれ、へりくだる霊の人と共に」住む(57章15節)神である。へりくだらざるを得ない者が弱り果てていることを知り、むしろ彼らを生かし、いやすために、神は低いところに来られる。砕くことではなく、「わたしの民」を造り変え、生かし、働きへと備えることがその目的だ。

3.平和の到来
神は平和の到来を語る。くちびるの汚れた者にさえ、くちびるの果実を創造される。砕かれた者をいやし、導き、回復し、平和を与える(57章19節)。ただし、神は拒み続けるかたくなささえも、許容される。
この神の姿を、高い方であったのに、十字架の死に至るまで低くなられたキリスト(ピリピ2章8節)に見出す。取税人や罪人たちのところに行き、砕かれた彼らと共に食事をされた方だ。この方を拒絶し続けた者たちもいた。しかし、低くなられたキリストを喜んで迎え入れる者を、神は信仰者と呼び、そのような者のところまで来てくださる。

あらゆる問題の根(2016.9.18)

宣教題  「あらゆる問題の根」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章9節~57章13節 ローマ1章23節

山積みの問題に直面すると、素早く一度に全部解決できる方法に私たちは探す。しかし現実は、問題の根が深いため、簡単に解決できる方法などない。聖書は、あらゆる問題の根は、神が造られたものを神として重んじること、すなわち偶像崇拝だと言っている(ローマ1:23)。本来あるべき位置を逸脱するならば、すばらしいものも問題を引き起こしていくのだ。

1.なすべき働きをとどめる偶像崇拝
神の義のわざである「バビロン捕囚からの帰還」をイスラエルは経験したにもかかわらず、当初思っていたような変化が起こらない。むしろ、国や社会の現状を見張るべき人が、その働きを怠っている。危険の到来を警告すべき人が、その仕事をなまけている(イザヤ56:10)。指導者たちは民を導く知恵を持たず、自分勝手に歩んでいる。誰一人として本来なすべきわざを行えないでいる。自分が得をすることだけを求め、足る事を知らないからであ(56:11)。これも一種の偶像崇拝だ。

2. 偽りの希望に生きるようにさせる偶像崇拝
偶像崇拝をしている人々もいた(57:3)。彼らは、主に対して真実に歩むことによって平和をもたらそうとしていた人をあざけった(57:1~2, 4)。偽りの神々のために自分の子どものいのちさえも犠牲とした(57:5)。「高い山」(57:7)すなわちエルサレムの神殿に上り、そこで自分が選んだ神を礼拝した(57:7~9)。驚く事に、偶像崇拝によって力を得たのだ(57:10)。しかし、いざという時、彼らが拝んでいる存在は彼らの叫びを聞く事はない。むしろ風の一息で失せてしまう(57:13)。彼らは偽りの希望に生きている。その希望は必ず失望に終わる。
あらゆる問題の根に取り組むために大切なのは、主に「身を寄せる」(避け所とする)という応答をもって、神に問題を地道に解決していただくことである。解決のための手段を自分で集めてなんとかすることをあきらめて、神にそれを集めて頂くのだ(56:8)。そのとき、私たちが義と誠実と真実をもって神に対して答えることができるように、問題の根に向き合うことができるように、神は私たちを押し出してくださる。

神様の切なる願い、それはリバイバル(2016.8.28)

宣教題  「神様の切なる願い、それはリバイバル」   宣教 犬塚直樹師
聖 書  創世記35章1~15節

神様の御思い、願いは何でしょうか。それは、リバイバルです。リバイバルとは神様があなたを訪ねて下さること。ご自分の民に出会ってくださり、死んでいた魂を甦らせてくださることです。なぜなら私たちの魂は何度も死んでしまうことがあるからです。創世記35章はヤコブの生涯の集大成で、リバイバルが訪れると、どのように目に見える祝福があるか分かります。

1.肉の人ヤコブ
家族さえも陥れ自我丸出し、自分さえよければという人でした。信仰者家庭に生まれましたが、自分で神様に出会った体験がなかったので、自己中心のところがありました。あなたは神様に出会いましたか。あなたは救われましたか。

2.ヤコブの転機
第1のリバイバルはベテル(28章)です。お兄さんに追われ、孤独で危機的な状況で神様に出会いました。神様の方から近づいて下さいました。今までアブラハムの神、イサクの神でした。しかし、ヤコブは主が私の神であることを体験しました。そして3つの請願をするのです。①主を私の神とします②宮を建てます③十分の一をささげますと。けれども彼の信仰は順調ではなく、3つの請願は忘れてしまい、魂は死んでいくのです。
第2のリバイバルはヤボクの渡し(32章)です。再び兄エソウに会うという不安と恐怖に満ちた時も、神様は彼を訪ねてくださいました。ヤコブの家庭を祝福しようと主自ら来られたのです。御使いとの格闘で、もものつがいがはずれ砕かれました。神様が求めておられることは「砕かれた魂。砕かれた、悔いた心」です。

3.ヤコブへの祝福
(1) 神様に出会う、これ以上の祝福はありません。神様は不信仰や失敗を繰り返してきて、もう投げ出されてもいいような彼を愛し彼に出会って下さいました。(2)祝福の約束を受けるのです。主は御言葉を実現するために来られます。問題の解決がそこにあるのです。(3)ヤコブが祝福されたばかりか、その子ヨセフが幻を受けて、やがてイスラエルの民を救いました。こんな祝福が自分や家族、孫にまで広がるのです。
では、リバイバルはどんな人に与えられるのでしょうか。神様を慕い求める人です。

義をもって義に応える(2016.8.21)

宣教題  「義をもって義に応える」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章1~8節  マルコ1章15節

聖書が語る神は、すべての民がご自身ところに集められることを願っておられる。だからこそ、見捨てられたかと思える人々の所に主は人を遣わされた。

1. 集めようとしておられる主
神の民に加わることができない人々がいた。王宮に仕えるために去勢した宦官たちは、子孫など残しえない枯れ木だ(56:3)と考えられていた。しかし、その名は永遠に覚えられると主は約束される(56:5)。主のもとに来たとしても、異邦人は一段低く見られると考えられていた(56:3)。しかし、神殿でささげものをささげる祭司とする、と主は言われている。神の民に入れないはずの人々を、主は新たに集めよう願っておられる。

2. 義をもって義に応える民
「恵みの業」(56:1)は「義」と一般的に訳される。イスラエルと契約を結ばれた主は、契約に則ったわざ、すなわち義をなされ、民を敵の手から救われた。一方的な神の恵みのわざ、義のゆえに、イスラエルも神との契約にふさわしい形で応えるように招かれている。律法にふさわしい歩み、義こそその応答である(56:1-2)。感謝と喜びのゆえに、心を込めてひとつひとつの正しいわざをなす。このようなイスラエルの義を用いて、主は更に多くの民を自らのところに集めようとしておられる。

3. 集められる者はすでに集められた者のように
さまざまな人が主のもとに集められる。しかし、彼らには一つだけ共通点がある。神の契約を固く守ることが求められている点である(54:2, 4, 6)。つまり、イスラエルのみならず、すべての人に義をもって義に応えることが求められている。そのような意味で、主が新たに集める人は、すでに集められた人々に似た者となる。
イエスのわざによって、神の国は到来した(マルコ1:15)。さらに多くの人を集めようとしておられる神の意図、義をもって神の義に応える私たちという神の手段、私たちの影響力の三つを知ることは大切である。更に多くをご自身のところに集めようとする神は、私たちを通してその義のわざをなされるのだから。

神のあわれみを知る(2016.6.19)

宣教題  「神のあわれみを知る」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ4章1~11節、マタイ20章15節

自分以外のだれかを、それも自分に敵対するようなだれかにあわれみを示される神をあなたはどう思うか。

1. ヨナの怒り(1~4節)
神がニネベを滅ぼすことを思い直したのを知って、ヨナは不愉快に思い、怒った。当初、ニネベに行こうとはせずタルシシュへ逃げたのは、ニネベに行って語ったならばきっと神は思い直すと知っていたからだ。さらに、神が思い直したら、偽りを預言した者として、自分が恥を被ることも知っていた。思ったとおりになったので、ヨナは死ぬ方がましだ、とつぶやいた。

2. 惜しむヨナ(5~9節)
不機嫌なヨナは、熱さの中、ニネベがどうなるのか、見届けようとしていた。小屋を建て、日差しを避けた。主はとうごまの木を準備し、それはすぐに成長して、陰をつくり、ヨナを暑さから守った。不機嫌だったヨナが喜んだのもつかの間、翌日、神は虫を備えて、この木を枯れさせた。頭上から照りつける太陽と焼けつく東風のために、ヨナは苦しみ、再度、不機嫌になり、「死ぬ方がましです」(8節)と言いきり、「怒りのあまり死にたい」(9節)とさえ語るようになった。とうごまの木を惜しんだヨナは、それが奪われた時、不機嫌になり、怒った。

3. 惜しむ神(10~11節)
とうごまの木の件で怒っているヨナに主は、「お前はとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)と語った。自分が育てたわけでもないし、成長するのに時間がかかるわけでもないものが奪われて、怒っている、と諭した。そして、ヨナに主のニネベに対する思いを想像するように求めた(11節)。大いなる都、十二万以上の人、無数の家畜がいるこの地が滅びたとしたら、この町を育ててきた主はどれほど不機嫌になるだろうか。神はニネベを惜しんでいる。だから、すぐに怒らず、わざわいをくださず、むしろそれを思い直した。
私たちは、自分に敵対する者に対して神が気前よく振る舞う時、それをねたむ(マタイ20章15節)。自分の都合のいいように神を用いたいからである。しかし、神があわれんだのは、ニネベだけではない。理解しようとしないヨナさえもあわれみ、とうごまの木を備えられた。私たちの敵をあわれむ方だからこそ、私たちをあわれんでくださるのだ。

思い直される神(2016.5.22)

宣教題  「思い直される神」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ書3章1~10節 ルカ18章14節b

キリスト教の確かさは、その神の確かさに依存する。
1. 変わらない神と思い直すヨナ
主はヨナをニネベに送ろうとした。ところが、ヨナはそれを拒絶し、逆方向のタルシシュへと逃げようとした。しかし、主はヨナを捕らえた上で、魚を用いて海へほうり込まれたヨナを救い出した。そして、ヨナを再度、陸地へと送られた(1〜2章)。主は、前回同様、ヨナをニネベに送る。思い直したヨナは、今回は主の命令どおりニネベへ行き、語るべきことばを一日だけ語った(4節)。神はご自身の計画を変えない一方で、ヨナは思い直してニネベで務めを果たした。

2. 思い直すニネベと思い直す神
ヨナのことばは大きな影響をニネベに与えた。あらゆる階層の人々が、警告を与えた神のことばを信じ、来たるべき災厄を覚えて悲しんだ。その知らせは王にまで届き、王も悲しんだ(6節)。そして、家畜を含めたすべての民に、断食して悲しみ、神へと祈願の声をあげ、あらゆる悪と暴力から離れるように訴えた(8節)。ニネベは悪から離れ、立ち返った。滅ぼすことを決めた神であっても、万が一つの可能性でも、自らの決定を思い直すかもしれない、とニネベの民は信じ、自らの過ちを認め、へりくだった(9節)。すると、神は立ち返った彼らの姿を見て、思い直し(悔い改め)、災いを下すのをやめた(10節)。

3. 変わらない神
神は一度決めたことでもそれを変えられる。そんな神は確かな方だろうか。気まぐれな方では、と疑う。そうではない。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18章14節)という原則に従って、神は思い直す。神が善い方であるという可能性に賭けている人々がご自身に立ち返るのを見、ご自身に叫ぶ声を聞いて、必要ならば思い直される。たとえそれが長く神に敵対していた人であってもである。人に最善をもたらすために、神は思い直す。「へりくだる者」に対して神は思い直す。善い方であるという点において、神は変わらない方、確かな方である。

主を賛美するのはだれか(2016.2.28)

宣教題  「主を賛美するのはだれか」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ2章1~11節 ローマ15章9節a

1.ヨナの祈りと賛美
ヤッファへ、船へ、船底へ下って入ったヨナは、ついに海へと下っていった。そのまま海の藻くずとなるのかと思った時、主は魚を備えてヨナを救われた(1節)。ヨナはこれこそ自分の叫びへの主の答えであると思った(3節)。なぜなら、海の中、地の底まで下ったために、神に追放されたと思ったヨナは(4~7節a)、主を覚えて祈ったところ、主はその祈りに対して、聖なる神殿で聞き、答えられたからだ(7b~8節)。それゆえ、ヨナは感謝の声をあげ、いけにえをささげ、誓いを果たすと語る(9~10節)。主に頼る素晴らしい祈り、救いの主にふさわしい賛美である。

2. ヨナにふさわしくない賛美
けれども、ヨナの祈りと賛美は実に歯が浮くようなものだ。彼は追放されたのではなく、逃げた者である。聖なる神殿を見たい、と語りつつ、主から逃げようとした。主が聞かれたのは船乗りたちの祈りであり、いけにえをささげ、誓ったのも彼らだった。主への忠誠を捨てたのはヨナであり、主をおそれて賛美をささげたのは、偽りの神々に従っていた者たちだった。ヨナの賛美はどこかちぐはぐな印象を与える。ここまでのヨナの姿がこの賛美と調和していないからである。

3.主のあわれみ
ヨナは、異邦人の船乗りたちが歌うべき賛美を歌っていた。そして、愚かにも、自分の本当の姿のみならず、主をおそれるようになった異邦人たちの姿にも気づかなかった。しかし、船乗りたちのように、主のあわれみに気がついた異邦人たちは主を賛美するようになる(ローマ15章9節a)。主はそのことを願い、ヨナの気づかない所であらゆる民にあわれみを施し続けられた。
異邦人の祈りにさえ答えられる主は、いつくしみ(忠誠)に富んだ方であり、ご自身のあわれみに気がついたものを救出される方である。さらに、ヨナのように心かたくなで、悟らない者にさえ、そのあわれみのゆえにチャンスを与えられる(11節)。心が頑固な者にさえ忍耐強く関わり続けられる神こそが、私たちの唯一の希望である。

この日を正月としなさい(2016.1.24)

宣教題  「この日を正月としなさい」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  出エジプト12章1~14節 2コリント5章17節

聖書に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)とありますが、この時はイスラエルの民の歴史にとって、転機的な時であり、新たな歩みが始まった時でした。
それは、私たちが神の子として自覚的な誕生をし、そこから新たな歩みをすることがいかに大切であるかを語っています。

1.イスラエルの正月とは
イスラエルにとってこの転機的な出来事は、二つの意味がありました。一つは、エジプトに住む家畜をも含むあらゆる初子を撃つという神の審きがなされるに際して、屠った小羊の血を取って家の柱と鴨居に塗っておけば審きが過ぎ越すということでした(6~7節)。もう一つは、酵母を入れないパンと苦菜を添えて屠られた小羊の肉を食べたイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から解放され、身軽になってそこから旅人として新たな出発したことでした(11~12節)。このようにして、新生イスラエルの歴史が始まったのです。
この神の御業には、大切なメッセージが語られています。神が血を見られられたことにより、神は過ぎ越されるという救いをなされたことです(13節)。

2.あなたの正月は
すべての人は罪を犯しているので、神の審きを受けなければならなくなりました(ローマ3章23節)。そこから逃れる道は、ただ一つです。私たちの身代わりとして十字架に血を流して死んでくださった神の小羊であるキリストを信じることです(ローマ3章24~25節)。神は、このキリストの血を見られ、神の前に悔い改めてキリストご自身を信じる者を救われるのです。ここから神が備えていてくださる新しい歩みが始めまるのです。
キリストを信じるとは、「キリストと結ばれる人はだれでも」とあるように(2コリント5章17節)、キリストを信頼し、キリストと命の結びつきをもつことです。それによって初めて、新しく造り変えられた人生の正月がおとずれるのです。私たち一人ひとりは、それを「この日」にさせていただきましょう。

本物の礼拝者(2016.1.10)

本物の礼拝者          宣教 鎌野 直人協力牧師
聖 書  ヨナ1章1~16節 フィリピ3章3節

1.主のことばから逃げる
ヨナはヤロブアム二世の時代(紀元前8世紀)、イスラエルの拡張を預言した。そして、そのことばのとおり、北王国は繁栄した(2列王14章25節)。ニネベを都とするアッシリア帝国が弱体化していたからである。主は、そのヨナに、立ち、ニネベへ行き、そこで呼びかけよ、と命じた(2節)。ヨナは立ち上がったが、ニネベとは逆方向のヤッファに下り、さらに西のタルシシュ行きの船に乗り込んだ(3節)。主とそのことばから逃れようとした。

2.主のわざへの二通りの応答
ところが、ヨナが逃げたところにも主はおられた。風を海に放たれ、大嵐が起こった(4節)。異邦人の船乗りたちは、おそれ、自分の神に叫び、積み荷を海に投げ捨てはじめた。ところが、ヨナは船底へと下り、寝ころび、夢の世界へと降っていった(5節)。船長は、立ち、自分の神に叫べ、と命ずるが、ヨナは聞こうとはしない。主のわざであると気がついているのに、平然としていた。一方で、船乗りたちは「神があるいは」(6節、口語訳)と神のあわれみに期待して、叫んでいる。本物の礼拝者はいったい、どちらだろうか。

3.主をおそれる
神の怒りの原因はだれか。人々はくじを引いて、御旨を求めた。くじは見事にヨナに当たる。「海と陸とを創造された天の神、主」(9節)をおそれる、と語る彼にはわかっていた。自分を海に投げ捨てれば、主は怒りをとどめ、海は凪ぐ(12節)。ヨナは冷静に語るが、人々はヨナが犠牲にならずにすむようにと努力する。それも限界。自分たちを滅ぼさないで、と叫びつつ、彼らはヨナを海に投げ捨てる(15節)。その瞬間、主は海を静める。船乗りたちは、あわれみの主をおそれ、礼拝をする(16節)。
主をおそれ、そのことばを守ったのは異邦人たちであった。主のあわれみに期待したのは彼らであった。選民であることに固執したヨナは偽物であることが暴露された。本物の礼拝者は、主のわざに気づき、主のあわれみにすがり、主をおそれる。あなたは、肉を頼みとするヨナか、それとも、キリスト・イエスを誇りとする船乗りたちか(フィリピ3章3節)。

御言葉は変わらない(2015.12.27)

宣教題  「御言葉は変わらない」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ55章8節~13節

神は、恵みをもってご自身の民を回復されるお方です。神のもとに来て、神を尋ね求めて立ち返るように招いておられます(55章1~3節、6~7節)。続いて、神はご自分と神に立ち帰った者とを対比させながら、ご自分が超越した絶対の存在であることを明らかにされ、どこまでも神の御言葉に信頼をおくことを勧めておられるのです。

1.神の思いと道を求める  8~9節
神の考えや計画という「思い」とそれを実行していく手段や方法という「道」は、人のそれらとは違うことが強調されています。ですから、人が神の思いと道を把握し、理解し、納得することは難しいのです。とは言え、神は、人の思いや考えを超えたところで、人を導いておられることも明らかにしようとしておられます。
不穏で心をかき乱すことの多い現実があると、人は神ご自身を求めるよりも、自分たちの困難や痛みだけにとらわれやすいものです。しかし、そのような時にこそ、神の思いと道は、人のそれらとは違うことを知って、生きておられる神に心を開いて神の思いと道に思いをはせるのです(ルカ2章19節参照)。

2.神の御言葉に生きる  10~11節
神は、「わたしの口から出るわたしの言葉」と言われる神の御言葉の特質を明らかにされています(イザヤ40章8節参照)。神の御言葉には、神ご自身のお考えやご意思やご計画が込められており、それが人に語られるならば、御言葉が持つ救いと命と力を現実に造り出していくのです。
イザヤ書には、イエス・キリストの初臨から十字架と復活そして再望に至るまで預言されており、そこに揺るぎない救いの完成を見ることができます。ですから、神に対する信頼をもって、神の御言葉に聴き従って生きるのです(ルカ1章37~38節参照)。
このようにして生きる者に神が用意されているものは、「とこしえに消し去られることがない」歓喜と祝福です(12~13節)。