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旧約聖書

間違いのない憐れみの主(2022.5.8)

聖 書

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない。(イザヤ49章15節)

礼拝音源(32.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ガラテヤ3章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編27編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ49章14〜16節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「間違いのない憐れみの主」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 11 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

母親は、自分の子どもを体をはって愛します(ルカ2章48節)。そこには、憐みの主の御心を思わせるものがあります。ところで、私たちは、憐れみの主がどのような方であり、その憐れみが今も変わらずに注がれていることを知ることが大切です。

1.決して忘れることのない方
70年のバビロン捕囚の経験をするイスラエルの民は、虚無的になりました(14節)。そこで、憐れみの主は、主に忘れられ捨てられたと思い込む彼らに、手を替え品を替えて励まされます。母親が忘れるようなことがあっても、主は決して忘れることはなさいません(15節)。主は御自身の手の中に御自身の民の名を刻み込むようにして、どこまでも守られます(16節)。
主イエスが「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14章18節)と語られたように、私たちは主の前で忘れられてはいないのです(ルカ12章6節)。

2.贖ってくださる方
主が御自身の民を決して忘れなさらないのは、主が「贖い主、聖なる方」(49章7節)だからです。贖いの主は、他者に渡ってしまっていたものを再び代価を払って買い戻して御自身のものとされるのです(イザヤ書43章1節)。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、永遠の滅びから永遠の救いにあずかった者です。ですから今、主イエスの十字架を仰ぎ見て立つのです。さらに今、主イエスの十字架の側近くに立って、母と子の関係のみか互いの新しい関係を造っていただくのです(ヨハネ19章26~27節)。そして、主の憐れみを受けつつ歩むのです。

歓喜、歓喜、歓喜(2022.1.2)

聖 書

そのように、私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない。
必ず、私の望むことをなし私が託したことを成し遂げる。(イザヤ55章11節)

礼拝音源(28.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ書43章18〜19節b 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編96編
会衆祈祷 一  同
聖  書 詩編100編1〜5節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「歓喜、歓喜、歓喜」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 17 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

神の民の礼拝において用いられてきたのが、詩編100編です。神が命じておられることは(1~2節、4節)、どこまでも神の恵みによるものでした(3節、5節)。それへの信仰の応答は、「喜び」と「感謝」が鍵語となって展開されています。

1.喜びと感謝をもって賛美をささげよ
神の民は、喜びと感謝をもって主を賛美し礼拝をささげています(1節、2節b、4節)。この喜びと感謝は、神の恵みとして与えられるものです。そして、その歓喜の極致が「主こそ神と知れ」とあるように、体験的に主を知ることです(3節a、詩編22編4節参照)。
主は、御自身の御心が現わされるように人を造られ、主のものとされ、主の民として導かれます(3節bcd、エフェソ2章8~10節参照)。そこから生まれる歓喜は、口先だけのものではなく、喜んでささげる感謝となって具体的に表されます(4節)。ここに、天の御国を味わうことのできる豊かな人生が展開されていくのです。

2.喜びながら主に仕えよ
詩編100編は、神の民がバビロン捕囚から解放され、神殿が再建され、礼拝が回復された歓喜を歌っています(詩編126編1~3節参照)。つまり彼らの歓喜の根拠が、神御自身とその救いのにあったのです。その応答としての生き方が、礼拝者として「喜びながら主に仕え」ることなのです(2節a)。
「喜びながら主に仕え」の後に続く何かは、私たち一人ひとりと教会が祈りつつ、創造的に考え、具体的に生み出されていくことが求められています。

 

神の言葉のすごみ(2021.12.26)

聖 書

そのように、私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない。
必ず、私の望むことをなし私が託したことを成し遂げる。(イザヤ55章11節)

礼拝音源(25.9MB)
※申し訳ございません。データが途中で終わっておりました。
修正分をアップしております。よろしくお願いいたします。

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ書60章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編103編1〜5節
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ55章8〜13節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「神の言葉のすごみ」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 54 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

最初のクリスマスを経験した人々は、神の言葉を聞いて受け入れ、その事実を担いました。それは、人が想像した以上のことが神によって成されるという、神のすごみとも言えることでした。私たちも同様に、その神の救いの御業に与る経験をするのです。

1.人の思いや道を超えて  8~9節

イザヤを通して、バビロン捕囚から解放される神の救いの預言がなされています。憐れみの神は、御自身の民を回復させるために、恵みの招きをされています(55章1~7節)。

この神は、御自身と思いや道と人の思いや道とを比較されながら、人がそれを簡単に把握したり、理解したり、納得したりできないほどのものであると語られます(8~9節)。

したがって、神が私たちを導いておられるとの畏敬の念を抱き、神への信頼へと堅く立たせていただくことが必要です。神の思い・御計画・みこころは、私たちには計り知れないものがあるのです。

2.神の言葉を成し遂げられる  10~11節

神は、御自身の思いや道を「私の口から出る私の言葉」とある神の言葉を通して明らかにされます。神の言葉には、御自身のお考えや御計画が込められており、それを人が受け入れるならば、御言葉が持つ救いと命と力がその人の現実となっていくのです。

イザヤ書には、イエス・キリストによって成し遂げられた救いの御業と人の真相が語られています。その御言葉を信じ受け入れ、信頼して歩み出すならば、私たちが祈り願った以上のことを実現させてくださる神のすごみを経験するのです。そこに、絶えることのない歓喜と祝福があるのです(12~13節)。

 

大いなる見もの(2021.11.14)

聖 書

すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。(出エジプト3章2節)

礼拝音源(41.6MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨエル3章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編16編
会衆祈祷 一  同
聖  書 出エジプト記3章1〜12節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「大いなる見もの―燃える柴―」 工藤弘雄師
祈  祷
賛  美 新聖歌409 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

燃える柴!何と大いなる光景でしょうか。もろく、燃えやすく、価値なき柴が燃え続けるとは!これこそ神の民の象徴、憧れ、幻です。モーセはこれに生きました。大いなる見もの!その燃える柴に見るクリスチャンとはどのようなキリスト者でしょうか。

1、火を受けたキリスト者
火がすべてを焼き尽くし、輝かせ、燃え上がらせるように、第1にすべての罪、汚れを十字架の祭壇で聖霊の火により焼き尽くされ、第2に焼き尽くされたゆえに聖霊の臨在に輝き、第3に聖霊により救霊と愛のわざに燃えるキリスト者と言えるでしょう。

2、履き物を脱いだキリスト者
靴を脱ぐ!それは何を意味するでしょうか。第1に権利の譲渡です。モーセもヨシュアも主の前で靴を脱ぎ、主に全権を明け渡しました。第2に主に下駄を預けるように主を全く信頼することです。第3に僕になりきり主を拝し、主に栄光を帰すことです。

3、神の重荷をわが重荷とするキリスト者
モーセはここで神のはらわた、重荷、痛みを知らされました。第1に同胞の苦しみをつぶさに見、第2に同胞の叫ぶ声を聞き、第3に同胞の痛みを確かに知りました。主はカルバリーまで降られました。行けモーセ!モーセはエジプトに遣わされたのです。

聖霊の火を受け、主の前に靴を脱ぎ、救われていない同胞への神の重荷を持っていますか。バックストン、ウィルクス、澤村、小島、本田先生方は燃える柴の存在でした。「バックストンの流れ」(別紙プリント参照)に生きる私たちも燃える柴となりましょう。

魂を生き返らせてくださる神(2021.11.7)

聖 書

主は私の魂を生き返らせ御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。(詩編23編3節)

礼拝音源(27.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 エフェソ5章14節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編121編
会衆祈祷 一  同
聖  書 詩編23編1~6節
1ペトロ2章24〜25節
使徒信条 93-4  1A 一  同
証し
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「魂を生き返らせてくださる神」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
11月誕生者祝福 1ペトロ1章3節b
賛  美 226 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

信仰の先輩たちは、何を信じ、どう歩んだかを知って、それに倣って生きることが大切です。その人たちに共通していることは、神に信頼する歩みをされたことでした。その神は、「魂を生き返らせ」てくださるお方です(詩編23編3節)。

1.魂を癒やしてくださる
羊飼いにたとえられている主なる神は、不安・疑い・恐れ・疲れを経験する私たちに、必要なものを備えて与え、共に歩み、危険から守り、勝利を与え、憩わせてくださるお方です(詩編23編1~4節)。そして、豊かに溢れるほどの恵みと慈しみをもって、喜ばせてくださるお方です(同5~6節)。
そのために、「魂の牧者であり監督者(見守る方)」である主イエスは、私たちの魂を最も傷つけている罪を十字架によって赦し、魂を癒やし、主のもとに立ち返らせてくださったのです(1ペトロ2章24~25節)。私たちは、十字架の主に信頼するのみです。

2.絶えず主のそばに導いてくださる
「私は乏しいことがない」とは、万事が思うように都合よくいくといった時ばかりではありません(詩編23編1~2節)。時には「死の陰」と思われる恐れを経験したり、「苦しみ」に出会ったりします(同4~5節)。
しかし、主はいつもご自身の面子にかけて、必ず「正しい道」そして勝利の道へと導いてくださいます(同3節)。「あなたは私と共におられる」と、主の臨在こそが私たちの救いです(同4節)。主イエスがいつまでもそばにいて寄り添い、その恵みと慈しみの確かさ、深さ、強さをもって導いてくださるからです。

黙示録とデジタル世代(2021.3.14)

聖書

見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を荒れ地に川を置く。(イザヤ43章19節)

礼拝音源(27.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編51編19節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編29編
会衆祈祷 一  同
聖  書 黙示録11章7~13節
イザヤ43章19節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 579 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「黙示録とデジタル世代」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 463 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.ヨハネの黙示録と掛けてデジタル世代と解きます
言葉には、使う人の地域性、考え方、価値観等が表れます。生まれた時からインターネットが普及していた世代は、デジタルネイティブやZ世代と呼ばれています。便利だけど不景気の中に育った、最新の世代です。私達は世代が異なると文化の違いから、理解できず、戸惑い、批判する事が多くなります。
信仰継承から、現代用語を使ったメッセージをしてきましたが、その用語を使っていると思っていた方から、意味を知らないと言われた事がありました。予想外に世代が短く分かれていることに驚きました。新しい言葉が次々と出て来る様に、新世代も次々と現れ、お互いの理解と伝えることが難しくなっています。
黙示録は難解だと言われ続け、以前は11章9節を見て、世界中の人が同時に見るということを理解されず、あり得ない事だと言われていました。

2.その心は
理解が難しいかもしれませんが、聞けばきっと解かるでしょう。
黙示録は研究が進み、良書も増えているようです。信仰を持って神の言葉に耳を傾けるとき、聖霊によって教えられます。デジタル世代や異なる世代の人は、生きて目の前にいます。聞く耳さえあれば、解らない事は聞く事ができます。そして、解りあえたとき、共に信仰に生きる事ができるのではないでしょうか。
私たちには不可能と思えることを、神は新しい事として実現します(イザヤ43:19)。神の言葉にも、人の言葉にも、耳を傾ける事が大切です。

すべての人の避けどころ(2020.9.20)

聖書

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
(詩編46編2節)

礼拝音源(25.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編68編20~21 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 121編1~8節
会衆祈祷 一  同
聖  書 詩編46編1~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 57 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「すべての人の避けどころ」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 484 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

神は、天地を創造され、人を救い、歴史の中で力を示し続けてこられました。そして、人が苦しみ悩む中において逃れ場のようになってくださり、必ずそこにおられて助けてくださいます(1節)。それが、イエス・キリストにおいて明らかにされました。

1.恐れを経験する中での逃れ場
人は、危険から身を避けて、安心して身を寄せることのできる逃れ場を必要としています。人生や世界の危機によって、揺れ動き混乱し不安に陥るとき、神がわたしたちの避けどころとなってくださるので、「わたしは決して恐れない」者としてくださいます(3~4節、7節)。
人生の嵐に遭遇するときの恐れのとき、罪の力と罪がもたらす良心の呵責からくる恐れのとき、死と死後の審きに対する恐れのときの逃れ場は、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた救いにあります。

2.信頼を置くべき神
私たちは、そうした恐れの中にあっても、神がおられるので動揺することがないのです(5~6節)。そして、力に満ちた主が私たちと共におられるので(8節、12節)、神にしがみつき、信頼を置くのです。十字架に死んで復活してくださったイエス・キリストが共に歩み続けてくださいます。
ですから、私たちは、自分の思いや考えや生き方を貫くことを捨てて、イエス・キリストが自分自身の救い主であることを知ることです(11節)。そのイエス・キリストを信じるとは、主が成し遂げてくださった救いの御業を仰ぎ見ることです(9節a)。

 

 

 

主に望みをおく年(2020.1.5)

宣教題 「主に望みをおく年」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 イザヤ40章27~31節

 「主に望みをおく人」は、神の摂理の導きの中にあって、主を待ち望む人のことです。神の民イスラエル同様に、なぜ今日の私たちが、主を忍耐をもって待ち望み、主に信頼をおいて待ち望むことが大切なのでしょうか。

1.主は慰めの神であるから 
 イザヤは、神の御言葉を取り次いでいます。神の民の神への不信仰と不従順のゆえに、バビロン捕囚を経験させることと、その後70年を経過して神の民を回復させ、神の救いを経験させることとを語られました。この間、神の民は、神に疑念を抱き、虚無的になっていくのです。それに対して神は、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を慰めよ」とのメッセージを告げられたのです(1節)。
 神は、解放者である慰めの神(2~5節)、羊飼いのような慰めの神(6~11節)、創造者である慰めの神(12~26節)、永遠者である慰めの神(27~31節)です。そのことは、イエス・キリストを通して今日の私たちにも明らかにしておられます。

2.再創造してくださる神であるから 
 神の民が、自分たちは神に顧みられていない、忘れられていると嘆くことに対して、神は永遠まで全部見通しておられることを明らかにされています(27~28節)。
 そして、若者が倦み疲れ、勇士がつまずき倒れるような状況におかれても、神は彼らを造り変え、再創造してくださるのです(29~31節)。
 罪と汚れと死の恐れから解き放ち、御言葉をもって懇ろに導き、永遠から永遠までおられて造り変えてくださる創造主こそが、イエス・キリストです。この方に望みをおき、任せて従っていくことが、最も恵まれた信仰の経験となるのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(11.7MB)

ノアの箱舟と大洪水(2019.9.22)

宣教題 「ノアの箱舟と大洪水」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 創世記7章1~5節

 洪水物語は世界中にあり、誰でも絵本や物語を聞いた事、見た事があると思います。聖書には、ノアの洪水のことについて、創世記6章から8章に書かれています。

1.洪水はなぜ起こったか
 神様は天地を創造されたとき、できたものを見て、「良かった」と言われ、満足されました。そして、地を人の管理に任せました。しかし、人は常に悪いことばかり思い計るようになり、神様は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。そこで、地にいるすべてのものを洪水によってぬぐいさる事にされました。(創世記6章6節、7節、14節)

2.ノアとその家族はなぜ救われたのか
 そのような中にで、ノアだけは神様に良い人だと認められます。(創世記7章1節) そして、洪水が起こる前に箱舟を造り、動物や食料、家族をその中に入れ、洪水から逃れるように命じられます。ノアは神様に従い、その通りに行います。ノアの家族は、ノアの言う事を聞いて一緒に箱舟に乗り込み、救われました。

3.大洪水はもう起きないのか
 神様は洪水の後、水によってすべて滅ぼすことは決してない。虹がその約束だと言われました。(創世記6章16節)
 世界が滅びるほどの大洪水は起こさないと神様は約束されました。しかし、地に不法が満ちたとき、火で焼き尽くされると聖書は警告しています。逃れられるのは、神様の言われたことを聞く人だけです。今、イエス・キリストを救い主として信じるように神様は言われています。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11.1MB)

主こそ救い(2019.8.25)

宣教題 「主こそ救い」       宣 教  宮澤 清志師
聖 書 エレミヤ17章1~14節

 私たちは、「祝福される」すなわち「幸いな人」とは、周りの環境に恵まれ、何の苦労もなく生きている人であると考えます。しかし、この箇所においては、祝福された人にも暑さや干ばつが襲うとあります(8)。一見、呪われた人(5)と同じ境遇のように感じられます。
では「呪われた人」と「祝福された人」とは、いったい何が違うというのでしょう。

1.罪の中の人間の姿
 まず、ここでは神を失った人間の姿は、「人間」に信頼する生き方であると語ります(5)。自分を信頼し、自分が築き上げた「富」(11)を信頼し、結果、その人は「神を失った者」(11)となるというのです。
 また、そのような人は「荒れ地の裸の木」(6)にたとえられています。からからに乾ききった不毛の地、炎暑の地を住まいとする人のようだとこの箇所は語ります。
 そして聖書はそのような人の心を「とらえ難く病んでいる」(9)と語るのです。そのような心の現実に振り回され、心に傷を負い、自らを傷つけているのが人間の姿であるような気がします。

2.人間に対する神の愛
 そのような罪の中にいる人間に対して、預言者エレミヤは神に嘆きます。エレミヤは、人間の現実の姿にただ涙し、嘆いているのではなく、救われる道があると説くのです。それが、救い主である主のもとに帰ることなのです。

 「癒し主」であり「救い主」であるお方のもとに帰ることができますように。

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(12.3MB)

神が召すとき(2019.6.30)

宣教題 「神が召すとき」          宣 教  大嶋重徳師 
聖 書 イザヤ書6章1~13節

ウジヤ王の死んだ年にイザヤは神殿で幻を見ます。神の為さることの全てに神のご計画があるのであれば、この時、イザヤに神は語らなければならないことがありました。イザヤの住む南ユダ王国は偶像礼拝、姦淫、不品行が満ち、形だけの礼拝をする民が多く居ました。すでに預言者の働きを始めていたイザヤにとって、ユダの状況は怒りと裁きの預言を語るしかなかったのです。

しかし神はご自身をイザヤにあらわされ、イザヤに「わたしは汚れた唇の者」さらに「汚れた唇の民の中に住む者」(5節)と自らの罪とユダ王国の罪人の繋がりの中にいる自らの存在の告白に導かれます。そして「すると」(6節)という言葉と共に、神の側の一方的な救いの業が起こり、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)という赦しの宣言がイザヤに聞こえてくるのです。

キリスト者は、自らの罪深さを深く知りつつ、尚、礼拝の只中で神の圧倒的な赦しに身を置いていることを深く知らされていく者とされているのです。そしてさらにイザヤは驚くべき神の声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(8節)。この驚くべき神の召命の実際を聞いたイザヤは「主よ、いつまででしょうか」(11節)と自らが受けた救いをあのイスラエルの民の中でいつ実現するのでしょうか?という祈りをささげ、キリスト預言に生涯をささげました。

私たちは今日、自分に与えられた救いの事実からどのように主の召しに生きるように導かれているでしょうか。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(15.7MB)

数えてみよ 主の恵み(2018.12.30)

宣教題  「数えてみよ 主の恵み」       宣 教  今田好一牧師
聖 書  詩編103編1~5節

主の2018年最後の礼拝を迎え、この一年をふり返って、主が与えてくださった恵みの数々を思い起こし、主に感謝を献げさせていただきましょう。

1.わがたましいよ、主をほめよ
全身全霊をもって主をほめたたえなければ、神への感謝を忘れてしまうほど、わたしたちは愚かで鈍い者です。神の恵みは湧き溢れる泉から、わたしたちに注がれ、潤され続けているのだから、そのことを忘れないようにしたい。わたしたちが、神の恵みを何一つ忘れないためには、ひとり静かに神の恵みを思い巡らすことが大切です。その時、感謝と賛美が終わることはないのです。

2.すべての不義を赦された者として
すべての不義を赦された者の神への感謝の理由を以下に六つ記します。
(1)わたしのすべての不義を赦してくださった。(2)わたしの家族のすべての病を癒してくださった。(3)死と滅びからの贖いを成し遂げてくださった。(4)恵みとあわれみとの冠を与えてくださった。

3.一生良いもので満たしてくださる
(5)神が創造主であり、養い主でもあられる。(6)わたしたちと教会を常に新しくしてくださる。わたしたちの肉体は衰えますが、永遠にきよめてくださる霊と共に、永遠の命を宿す栄光の体が与えられる日が来るのです。
わたしたちが、主の恵みを数え、主に栄光を帰し、今年一年の守りと励ましと、救いの恵みの確かさを喜び、新しい年に向かって若々しい命と力を更新していただき、御国を目指して歩みましょう。「数えてみよ 主の恵み」を!

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(10.3MB)

思いがけなく来られる神(2017.12.3)

宣教題 「思いがけなく来られる神」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 マラキ3章1~5節

 待降節(アドベント)は、クリスマスを迎える準備を日々に過ごすこととともに、再び来臨されるキリストを待望する備えをする時です。旧約の最後の預言者マラキは、そのことを語っています(1節)。「主は来られる」、それが私たちの信仰です。

1.不信仰が支配する中に 
 「主が来られる」ということが叫ばれる時は、いつも危機的な状況においてです。マラキが預言をした時は、神の民の信仰に深い失望感や無力感が支配していました(2章17 節、3章14~15節)。これは。今日の私たちを取り巻く状況と酷似しています。
 この時に、「主は突如、聖所に来られる」つまり思いがけなく主が来られる、それに先立って「道を備える」主の使者が送られてくると語ったのです(1節)。ここに、救い主イエス・キリストの来臨の事実と、その道備えをしたバプテスマのヨハネのことが預言されています。

2.信仰が回復されるために 
 このように主が来られるのは、主の審きの時でもありました(2節、5節)。この終わりの時が来たら、民は神の憐れみにより赦される以外に頼るものはないのです。そこでは、まず祭司たちが(2~4節)、続いてその民全体が聖別されるのです(5節)。
 今日の私たちに神の憐れみが現わされたのは、救い主イエス・キリストが来臨され、その十字架と復活によって救いの成し遂げられたことです。そして、再び来臨される主を待望しつつ歩んでいます。その間私たちは、主イエス・キリストによる救いの福音を、大胆にお伝えしていくことです(2テモテ4章1~2節)。
 クリスマスは、教会が、そして聖徒たちが新たに立ち上がる時です。

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

主との憩いの中で(2017.9.10)

宣教題 「主との憩いの中で」      宣教 今田好一牧師
聖 書 ゼカリヤ8章1~8節

わたしちがいくら歳を重ねても、その人の存在価値が変わることはありません。なぜならイエス・キリストの贖いによって私たちは神の子どもとされているからです。

1.神の恵みに満ちた平安
神は、ペルシアの王キュロスやダレイオスを用いてユダヤの人々に神殿を再建させます。神殿再建には若い人材が適しています。しかし、ゼカリヤは、「エルサレムの広場には再び老爺、老婆が座するようになる」と語ります。つまり、そこは人々の憩いの場であり、神の恵みに満ちた平安で覆われている場所だったのです。

2.憩いの場所としての教会
わたしたちの祈りの中に、子どもたちへの信仰継承があります。そして、家族や友人との憩いの場の提供の実現として、子どもからお年寄りの方々が集う教会という祈りも込められていると思います。まさにゼカリヤが語っていることです。子どもやお年寄りが神様からすっぽりと守られて生きている姿を通して、周囲の人々は自分のことのように心休まり、平安な気持ちになる。それが憩いの場所としての教会なのです。

3. キリスト者は生涯現役
歳を重ねるということは御国への引っ越しを始めることです。それが老いるということです。しかし、仕事を引退するということはあっても、人生を引退するということはありません。まして神の子どもであるわたしたちにとって、キリスト者を引退するということはないのです。だから、すべてのキリスト者は生涯現役だということなのです。
教会は、そこに集うすべての人々のエルサレムです。この神の恵みの中に生かされていることを覚え、主との憩いの中を歩ませて戴きましょう。