メニュー 閉じる

旧約聖書

神こそ我らの王(2008.1.27)

題   : 「神こそ我らの王」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  33章20節~24節
本章の始まりは、「災いだ」で始まっていますが、表題は「救いを求める祈り」となっています。つまり、ここで言う「災いだ」はわたしたちに対する警告であり、アッシリヤへの裁きの言葉でもあるのです。イスラエルの人格を踏みにじり、裏切りをもって約束を反故にしてしまうアッシリヤは必ず裁かれることになります。
わたしたちも、弱い立場にある人々のために祈り、裏切ることなく誠意をもって接することの大切さを教えられます。

1.祝祭の町
天幕で荒野の生活をしていたイスラエルの人々は、移動の度に天幕は移され、杭は抜かれ、綱も移動させられます。しかし、約束の地に定住した者たちは、天幕ではない建築の家に住み、安定した生活を送ることができるのです。
いつも、安定しない心の動きの中で生活していたわたしたちは、神の救いに与って、安定し、動くことの無い神の恵みの中で生かされるのです。

2.神が王となってくださる
安定した町に住む者にとって、神ご自身が王となってくださいます。大きな船に例えられる外からの力もわたしたちに及ばず、神がわたしたちの全てを知った上で導いてくださるのです。
神が王になってくださると、それまでわたしたちを脅かしていた敵(サタン)の力は、無力になり、この世において力の無い者も恵に与ることがゆるされるのです。わたしたちは毎日の生活の中で真に神様を王としてしたがっているでしょうか。

3.罪ゆるされた者の歩み
13~16節にも、神様の祝福のうちを歩む者のさいわいが記されています。罪から離れる者は、神によって高いところを歩ませていただき、堅固な岩である神に守られ、祝福の道を歩むことができるのです。
そして罪に病む心はいやされ、心健康に歩みを続けることができるのです。わたしたちの罪をゆるすために御子が十字架にかかり、死んで、三日目によみがえって下さった。この喜びと感謝を常に覚えつつ歩むことが大切なのです。

聖霊の注ぎ(2008.1.20)

題   : 「聖霊の注ぎ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  32章15節~20節
イザヤ書28、30、31、33章の冒頭は「災いだ」で始まっています。しかし、間に挟まれるようにして、本章は「見よ、正義によって一人の王が統治し、高官たちは、公平をもって支配する」(1)から始まっています。
ここで言われている「一人の王」は、9章5、6節で預言されている「ひとりのみどりご」であり「驚くべき指導者、力ある神」と呼ばれるお方であり、「正義をその腰の帯と」されるお方です。このお方の後に神の霊がおいでになります。

1.聖霊の注ぎ
神の霊は、天地創造のときに働かれた霊であり聖霊です。この聖霊なる神は正に三位一体の神、聖霊なる神であり、ヨハネ14:16、17でイエス様が約束され、使徒言行録2:1~4で弟子たちの上にお降りになったお方なのです。

2.聖霊に満たされた結果
聖霊がおいでになったところには公平と正義が住むようになります。この正義の源である聖霊の生み出すものは平和であり、安らかな信頼です。
憂いなき休息の場所にすむことができるというのです。つまり、聖霊は正義の神であり、平和の神であり、休息を与えられる神なのです。
わたしたちの心の中に、真の安らぎや平和が無いなら、そこに聖霊の働きを止めているものがないか、よく点検してみる必要があります。ここに言われる、聖霊に満たされ、支配されているときには、争ったり、傷付け合ったりするはずが無いからです。

3.災いの向うにある祝福
神に背き、聖霊を悲しませる歩みを続けるとき、神が乗り出して裁きを行われます。しかし、素直に悔い改め主に立ち返るとき、主は祝福をもって臨んでくださいます。種を蒔き、家畜を放牧するという表現は家庭生活が安定し、家族が安全に守られていることを指します。
聖霊に満たされた人々の家庭には安心と平和があるのです。神を中心にした交わりと祈りの家庭は、「わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう」のです。

万軍の主の保護(2008.1.13)

題   : 「万軍の主の保護」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  31章4節~9節
17日には13年目の震災記念日を迎えます。あの忌まわしい未曾有の大惨事は神戸周辺に住む者にとって忘れ難いものです。また、その後も続いた国内外の大災害によって、大きな被害に遭われた地域のためにもわたしたちは、祈り続けましょう。

さて、わたしたちは毎日神様を信じない人々の間に生活しています。そして、この世の人々は当然ですが、神様に従い、頼ることはせず、ひたすら唯物的な価値観の中にあります。
神に選ばれた者、選民と呼ばれたイスラエルの人々も富める国エジプトに頼りました。しかし、神様の前には弱い人間でしかありません。

1.万軍の主の保護
わたしたちが助けを求めるべきお方は、万軍の主であり、わたしたちの保護者なのです。時には獅子のように、あるいは空を飛びかける鳥のように守ってくださるのです。さらに、主の助けは、「守り」「救い出し」「助け」「解放」と言う四方からの守りなのです。

2.万軍の主に帰る
わたしたちの心は、一日のうちにも上がり下がりのあるものです。イスラエルは主に立ち帰ったとき、偶像を処分しました。
わたしたちも偶像の処分をしましょう。あなたが神よりも大事にしているものがあれば、それは偶像です。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)とイエス様も言っておられます。わたしたちの富や宝を一旦神様にお預けして、信仰第一の歩みをさせていただきましょう。

3.火によって聖潔(きよめ)られる神
神様は、火と炉をもってきよめてくださるのです。使徒言行録2章に於ける、炎は聖霊の炎でした。金が炉に入れられて、かなかすをを取り除かれてより純度の高い純金にさせられるように。火と炉をもたれたお方様に熱していただき、出てくる汚れを取り除いていただき、純粋に主に喜ばれる者にしていただきましょう。

涙の種まき、喜びの収穫(2008.1.1)

題   : 「涙の種まき、喜びの収穫」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : 詩編126編1節~6節
本編は「バビロン捕囚から帰国した時の歌である」とする学者が多くおられます。確かに、長い間外国に捕囚の民となっていた人々が解放されて祖国に帰ってきたとしたら、どんなに大きな喜びであったかを想像することが出来ます。

1.大きな業
70年間バビロンに捕囚となっていたユダの人々は、前538年ペルシャ王キュロスによって解放されました(エズラ1:1~4)。エズラは「「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシャの王キュロスの心を動かされた」(エズラ1:1)と明記しています。
異邦の王の心をも動かして神はユダの人々を解放されました。イエス・キリストのご降誕、十字架、復活もすべて神のご愛のゆえに行なわれた、人間すべてに提供された奇跡でもあります。

2.ネゲブの川の流れの回復
ネゲブは、年間雨量の少ない地域で、よく旱魃(かんばつ)がありました。詩編の記者は、このような涸れ果てた川を見ながら、今も尚バビロンから解放されないで残っている仲間を、川の流れのように帰らせてくださいと言っているのです。
雨が降ると一気に川の中に水が流れ込んで、汚れた物を洗い流します。さらに、流れが戻ると草や花の芽が一斉に吹き出します。これは神様の救いに与かった者の心の姿です。

3.種まく人
種をまく作業は、後の豊かな収穫を期待します。わたしたちは、神によって救われ、新しい命に生かされた者です。この新しい年、わたしたちがいただいた恵みを一人でも多くの方々に宣べ伝える者でありたいと思います。これこそ種蒔くことです。
時には恐れも感じるかも分かりません。今までの経験が、あまりにも収穫が少なかったために蒔く前から失望している人もおられるかも知れません。
しかし、パウロは言います「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには全てが可能です」(フィリピ4:13)と、ただ主にのみ期待して新しい一年間、種を蒔き、収穫の喜びを味わわせてもらう年としていただきましょう。

雪のように白く(2007.1.21)

題  : 「雪のように白く」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : イザヤ書 1章16節~20節
  今年は「臨在信仰に立つ」が教会のテーマになっています。そこで、旧約聖書の預言者を代表するイザヤ書を通して、神様のご臨在を実感し、この信仰にしっかり立つことを学びたいと思います。
 さて、イザヤという預言者は、一般によく言われる予言者(予め未来のことを語る人)というよりも、神様からお言葉を預かって人々に伝える、福音の伝道者であったとも言えるでしょう。イザヤが活躍した年代としては、当時の王様の名前から紀元前700年代半ばと推測できます。

1.背きの民
 当時のイスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダに二分され、しかも両国共に神に背き、偶像礼拝に走り、敵国シリヤによって苦しめられていました。しかし彼らは悔い改めることもしないで、罪の道を進んでいました。
 神に創られ、神に愛されているはずの選民イスラエルが、神に背いていたのです。その有様は、家畜にも劣るものだと言っています。

2.偽善の民
 神にそむくイスラエルの民ですが、形だけは宗教儀式を行っていました。いけにえをささげ、香をたき、手を広げて祈りの姿勢をしていました。ちょうどルカ18章のファリサイ派の人と徴税人のたとえにあるように、神はその心を見られていることが教えられます。
神は偽善を退けられます。北イスラエルも南ユダもこの偽善のために神に裁かれることになったのです。

3.神の本心
 しかし神に背き、偽善的宗教儀式を繰り返すイスラエルに、神はなお赦しの道、憐れみの道を開いてくださるというのです。イザヤの「お前たちが進んで従うなら」の言葉があることで、この段落は神の赦しの希望を示してくれているところだと言うことができます。この赦しの道を残してくださることこそ神の本心なのです。
 こんな真っ黒い罪そのものが、雪のように白くしていただけるのです。そして新約のわたしたちは、キリストの十字架の血潮で、白く清めていただけるのです。

臨在信仰に立つ(2007.1.1)

題  : 「臨在信仰に立つ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : 出エジプト記  33章12節~17節

  主の年の2007年1月1日を迎えました。天地創造以来歴史は積み重ねられ、継承されてきました。しかし2007年という年はまだだれも歩いたものはいません。
 あなたはこの年、この2007年という真っ白なキャンバスにどのような絵、あるいはどのような文字を書こうとしておられますか?
1890年、日本に来られたB・Fバックストン先生が提唱され、1951年7月この神戸中央教会を会場にして開催された日本イエス・キリスト教団創立総会において、初代教団委員長となられた小島伊助先生が引用された「我親ら汝らと偕に往くべし」(出エジプト33:14文語訳)が今年の教会標語として与えられています。
 新しい年、この臨在信仰を確認し、確立させていただきたいと願わされています。

1.道を示される
 モーセは神に、この民を導き上るために道を示してください、と祈りました。わたしたちも信仰生活をするために道を明らかにしてほしいと願います。
 その道とは、イエス・キリストご自身です。今年もまず、わたしたちのために十字架にかかり、罪をゆるし、三日目によみがえって永遠の命を与えてくださったお方様をしっかりと見上げましょう。

2.最高の同行者
 神はモーセに、「わたし自ら同行する」と約束して下さいました。この年、わたしたちは神戸中央教会と共に歩んでくださるお方、また、わたし自身と共に歩んでくださるお方、つまり、いつでも、どこでも共にいてくださる臨在の主を見上げて従いつつ歩ませていただきましょう。

3.選んでくださったお方
 モーセが選ばれたように、わたしたちも神様によって選ばれました。しかもここでは名指しで選んだといっておられます。
 そして臨在してくださるお方が、わたしたちを特別な者としてくださるのです。なんという恵み、なんという感謝ではありませんか。個人において、家庭において、教会のすべての集いにおいて臨在信仰に立ち、臨在信仰で進む一年でありましょう。