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旧約聖書

祝福を祈る(2010.9.12)

題   : 「祝福を祈る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  48章1節~4節 15節~19節
長生きは、神の祝福です。喜び、人生の厚み、神の恵みといったことは、長生きする中から深く分からさせていただけるからです。
ヤコブは、147歳まで長生きし(創世記47章28節)、その晩年において子どもたちや孫たちに祝福の祈りをしています(ヘブライ11章21節)。

1.牧者なる神への祈り
ヤコブは、エジプト王の前に立たされたとき、自分の生涯を振り返って「苦しみ多く」と語っています(創世記47章9節)。彼の一生は、時に禍に振り回され、人の策略に苦しみ、子どもたちの勝手な生き方の犠牲となり、生きた年数を重ねた分だけ苦しみました。
ヤコブは、そのような背後に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」(48章15節)と告白できる神を体験的に知っていました。このお方は、アブラハムやイサクが信頼して「その御前を歩んだ神」(同15節)であり、ヤコブを「あらゆる苦しみから贖われた」お方でした(同16節)。
私たちは、今日まで導かれた牧者なる神を証しし続けたいものです。

2.最大のとりなしの祈り
ヤコブは、その生涯を閉じるに当たり、人生最後の仕事をしました。彼は、全能の神によって自分が祝福されただけではなく、自分が祝福の源となって、「力を奮い起して」息子ヨセフと孫たちを祝福したのでした(48章1~4節)。その行為は、神の約束に堅く立って神を礼拝し、後に続く者に神の祝福を祈るということでした。
ヤコブは、財産や何らかの教えを残したのではなく、自分が信じてきた神の恵みと神への信仰を残したのでした(1コリント15章10節)。以前は利己的なヤコブでしたが、今や祝福の器として召されていったのです。
私たちは、神の祝福を祈り、神の恵みを証しし続ける父親また母親、祖父母でありたいものです。

神が願っておられること(2010.8.15)

宣教題  : 「神が願っておられること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 32章23節~33節
ここには、かつて弟ヤコブの偽りと裏切りを恨んで殺意を抱いた兄エサウと、それを恐れて不安の日々を送った弟ヤコブが登場します。このような戦いや争いは、人の内にある欲望から生まれるものです(ヤコブ4章1~2節)。
神は、ヤコブのような性質を持つ私たちに何を願っておられるのでしょうか。

1.人の顔を恐れないで
ヤコブは、かつて神の祝福の約束をいただいて信仰の歩みを始めましたが(28章15節)、その時から20年過ぎたこの時に至るまで、大きな悩みと恐れの中を歩んでいました。成功をおさめたヤコブの記憶の底にあったものは、エサウの怒りに満ちた顔でした。それを思い出すたびごとに、彼はエソウをだまして長子の権利を奪った自分の醜さに気づかされたのでした。
ヤコブ一行が渡った「ヤボク」とは、格闘という意味があります。彼はエサウの怒りをなだめるために、多くの人間的策略をしつつ、自らはヤボクの渡しに残って祈りの格闘をしたのでした(23~25節)。
私たちは、人の顔を恐れて様々な策略をめぐらしますが、根本的な解決にはならないことを知る必要があります(箴言29章25~26節)。

2.神の顔を仰ぎ見よ
神は、ご自身と祈りの格闘をするヤコブを愛されました。神は、ヤコブの求めに対して屈してくださるお方でした(26~27節、ルカ24章29節参照)。ここに、求める者に対する神の謙遜があり、神の愛があります。
続いて神が「お前の名は何というのか」とヤコブに尋ねられたのは、彼が自分の本当の姿を直視できるようにするためでした。そして、神によって新しく変えられる恵みへと彼を導かれたのです(28~29節)。ヤコブは、神の顔を仰ぎ見て、そのご支配に自らを委ねたのでした(30~31節)。
神が最も願っておられることは、祈りの格闘ができるほどの情熱ある信仰と、あるがままの真の自分を認めて十字架の主にすがりつく砕かれた心です。

祈りと涙(2010.6.13)

宣教題  : 「祈りと涙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 21章9節~21節
ハガルが「声をあげて泣いた」(16節)とあることに代表されるように、涙を流したことがないという人はいないのではないでしょうか。そのような中で、人が神の御前で涙を流すときには、それが祈りとなる経験をします。それはまた、神がどういうお方であるかを知る経験ともなるのです。

1.顧みられる神
これより先にアブラハムは、妻サラとの間に子が与えられなかったために、女奴隷ハガルとの間に子をもうけることになりました。
その結果、この家族は複雑な関係となりました。神が荒野に逃亡するハガルに、歩むべき道と息子イシュマエルの将来を予告された時、ハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」と告白しました(16章1~13節)。このように体験的に神を知ったハガルは、その後の彼女の生涯に多大の影響を与えたのです。
やがて、イシュマエルが誕生し、またイサクが誕生すると、状況は悪化しました。ハガルとイシュマエルは追い出され、彼らはあてどもなく荒野をさまようことになりました。彼女は、人生の理不尽さや無情そして自らの無力さを悲しみ、「声をあげて泣いた」のでした(21章9~16節)。
しかし、こうした涙を顧みられる神は、その涙を貴いものとして蓄え、記録しておかれるのです(詩編56編9節)。
2.祈りを聞かれる神
息子イシュマエルは、泣いている母ハガルを見て、代わりに祈っています。神は、その祈りを聞かれたのです(17節)。神は、祈っているイシュマエルと、祈られているハガルの間に立っておられたのです。
ところで、主イエスは、私たちの人生の悲しみ、痛み、罪の苦悩を、涙を流しながら受けとめ、その祈りを聞いてくださるお方です(ヨハネ11章35節、ヘブライ5章7節)。
泣く者がいて、共に涙する者がいます。祈る者がいて、祈られる者がいます。その間に主イエスが立っていてくださるのです。これが、教会の家族なのです。

女性の感化(2010.5.9)

宣教題  : 「女性の感化」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 27章1節~17節
神の歴史が展開されるところには、連綿として後を絶たない聖徒の姿があり、その多くは母や妻といった女性の感化を受けています。
ヤコブがリベカから受けた感化も例外ではありません。彼らの功罪を直視しつつ、今日の私たちへの語りかけを聴くことが大切です。

1.神の約束を待ち望む信仰の感化
イサクとリベカ夫婦には、委ねられた双子の兄エサウと弟ヤコブに対してお互いの偏愛がありました。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛し、二人の兄弟の違いが増幅され、その関係は複雑なものになっていったのです(25章28節)。ヤコブは、エサウから長子の権利を奪っただけでなく(25章29~34節)、母リベカから命じられるままに、偽ってエサウから神の祝福を奪いました(27章)。
ところで神は、リベカの胎に双子が宿ったときに「兄は弟に仕えるようになる」との約束をされていました(25章23節)。にもかかわらず、リベカはこの神の約束を認め、信じ、待ち望むことができなかったのです。神は、このような人間的な失敗も御手の中にあって用いられ、約束どおりに最善へと導かれます(ロ-マ9章10節)。神の約束に信頼して歩む信仰のゆとりをいただきたいものです。

2.惜しみない犠牲を注ぐ愛の感化
ヤコブは長子の特権と祝福を受けましたが、家におられなくなり、相続人でありながら家出人となりました。そして、20年後にヤコブが故郷に帰ったときには、リベカはすでに召されていました。つまり、リベカにとってこの事件は、最愛のヤコブとの生き別れであったのです。
さて、リベカが「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます」(13節)と言った盲目的ともいえる母性愛の中に、犠牲的な愛、贖罪愛の一断片を見ることができます。人は神の愛に触れてこそ、その愛に生き、その愛を注ぐことができるのです。
リベカの神は、私の神であり、私たちの神であり、あなたの神なのです。

信仰の目覚め(2010.2.14)

宣教題  : 「信仰の目覚め」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記  28章10節~22節
ヤコブが、旅の途中の荒野で過ごした夜の出来事です。彼は父との死別の悲しみ、兄を裏切った心の痛み、いつも傍にいて守ってくれた母との別れの悲しみ、旅そのものの恐怖、見知らぬ土地への不安を秘めながら、石を枕にしての野宿をしました。
そのような中で、ヤコブは神と出会い、信仰に目覚めさせられるのです。

1.見上げよ!  10~15節
ヤコブは、この時まで神の話しは聞かされ、神の祝福に与かることに憧れていましたが、神ご自身を個人的に知ることはありませんでした。そんな彼が、神の御名を呼んで助けを求めて眠りについたのではないでしょうか。その夜彼は夢を見て、神を見上げる時を与えられたのです。
まず神ご自身が、ヤコブの暗い孤独な現実へ下ってこられたことを見ました(12節)。また、神ご自身がヤコブの傍らに立っておられるのを見ました(13節)。そして、神ご自身がヤコブと共にいてくださり、守り、見捨てることはないとの力強い約束を見聞きしました(15節)。
私たちは、いかなる時であっても、この神を見上げることを忘れてはなりません。

2.目覚めよ!  16~22節
ヤコブは、夜の眠りからの目覚めと同時に、信仰の目覚めを経験しました(16~17節)。そして、その場所を聖別し、信仰の記念としました(18節)。さらに、神のヤコブに対する約束に対して(20~21節)、ヤコブは神に誓願しています(22節)。その誓願は、神が約束されていることが実現すると堅く信じつつも、不安な気持ちの入れ混じったものでした。
ところでヤコブは、信仰を目覚めさせられた場所を「ベテル(神の家)」と名付けています(19節)。そこから信仰の歩みが始まったヤコブは、そこに戻ってきて礼拝をしました(35章3節)。このベテルこそ、今日の教会です。そしてイエス・キリストが、天に通じる唯一の階段となってくださいました(ヨハネ1章51節)。私たちは、神の臨在とその守りの中を御国を目指して歩んでいるのです。

神の祝福に与かる(2009.11.8)

題   : 「神の祝福に与かる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 27章18節~29節

イサクの生涯の最大の出来事は、モリヤの事件でもなければ結婚のことでもありません。彼が信仰によって二人の子を祝福したことです(ヘブライ11章20節)。今日の私たちは、イエス・キリストの救いの恵みを体験した者として、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の愛と、聖霊の交わりの確かな祝福に与かっています。

1.霊的な祝福である
イサク家の家族画を見ていくと、夫婦・親子・子どもたちは、神の御心に適わないことをしました(25~27章)。アブラハムが神から与えられた祝福は、その子イサクに受け継がれましたが(26章2~5節)、イサクは自分の身を守るために妻リベカを犠牲にしようとする失敗がありました(同6~11節)。彼らの間に与えられた双子のエサウとヤコブには、神の祝福を奪い合うということが起こりました。兄のエサウが長子の権利を弟ヤコブに譲り渡したことを皮切りに(25章27~34節)、ヤコブは母リベカの欺きの手段を用いた策略によって、イサクから神の祝福に与かりました(27章1~29節)。
ともかくヤコブは、神の祝福に与かりたいとの切なる願望がありました。それに対して、イサクは「どうか神が」(27章28~29節)と、神からの霊的な祝福をヤコブに受け継がせたのです。

2.永遠に至る祝福である
神の祝福は、単なる一時的なこの世にある間だけのものではなく、「将来のこと」も含む永遠に至る祝福でした。この祝福が本当に分かると、私たちの人生の用い方、価値判断の基準が変わってきます。
このことは、私たちにとって大いなる福音です。神は、どんなに陰険で罪深く、失敗の多い者であっても、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、それを赦し、きよめてくださり、神の祝福に与からせてくださるからです。
私たちが知ってほしいと願うものは、イエス・キリストの救いに現わされた神の愛であり、受け継いでほしいと願うものは、その神の祝福に与かる信仰です。

冒険する心(2009.9.13)

題   : 「冒険する心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 25章7~10節  ヘブライ 11章8~16節
私たちは、その信仰の旅路において新しいものに触れ、新しくされることに踏み込んでいくことを神から期待されています。こうした冒険をしたのが、信仰の父と言われたアブラハムです。信仰の冒険は、どこから生まれてくるのでしょうか。

1.全能の神への信頼から
アブラハムは、神からの未見の呼び声と挑戦を受けました(ヘブライ11章8節)。彼は、その召しに「信仰によって」従っていきます。それは、次から次へと放棄していく生活、一つ一つの執念を断ち切っていく生活でした。
私たちは、こうした信仰の危機に直面すると、疲れたり、弱ったり、確信が揺らいだり、信仰の活力を失ったりします。そうした時こそ、私たちは、全能の神に信頼し、「信仰によって」冒険する心を回復していただく必要があるのです。
礼拝は、自らの損得勘定や人生設計をカッコに入れて、神の御前に立つときです。そして、神に信頼しているゆえに、神の御言葉に従うときです。そこから、神の招きに踏み出し、信仰の力に溢れさせていただき、信仰の冒険へと駆り立てていただくのです。

2.永遠の栄光への望みから
信仰の冒険は、病に倒れて再起は難しく、死を待つばかりというときでも、なお新しくされることに踏み込んでいくことです。それは、アブラハムたちのように、「喜びの声をあげ」、神が準備してくださっている「天の故郷を熱望」することです(ヘブライ11章13節、16節)。
アブラハムが死を迎えたときの記述には、明るい信仰的な響きと揺るぎない望みがあります(創世記25章8節)。それは、神が計画し定められた信仰の歩みを走り抜き、永遠の栄光への新しい出発があることを言い表しています。
神は、自ら人となって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちは、この神の冒険に対して、信仰をもって応答し、神の都を目指して歩む信仰の冒険者なのです。

受け継がれる祝福(2009.8.16)

題   : 「受け継がれる祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 26章15節~25節
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3章6節)と表現されていることは、神と人との関わりは代々続いていくことを証言しています。神の祝福は一代限りではなく、引き継がれ、受け継がれていくものなのです。

1.神の祝福は受け継がれていく
イサクは、敵意に囲まれた危険な地で神の祝福を受けましたが、その地のぺリシテ人に妬まれ、迫害されました(12~16節)。柔和で謙遜なイサクは、彼らと争うことをしないで、父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り返しては手放すことを繰り返しました(17~21節)。そして、平安が支配する広い場所を得ることとなったのです(22節)。
このようにイサクは、与えつつ獲得し、退きつつ前進していったのです。柔和は報われ、謙遜は価値あることを教えています。
そのイサクが、最終的に行き着いた地は「ベエル・シェバ」でした。その地は、父アブラハムが神に守られたことを感謝して礼拝を献げた意義深い場所でした(21章25~34節)。イサクは、感謝を込めてその地に上り、臨在の主と出会いました。そして、父アブラハムのゆえに、神の祝福を受け継いだのです(23~24節)。

2.神の祝福は機械的に受け継ぐのではない
イサクは、礼拝を献げ、家庭と生活を整えて、受け継いだ神の祝福を自分のものにしていきます(25節)。
ところで、父アブラハムの死後塞がれていた井戸が、イサクによって再び掘られていきました。それらの井戸の地下水の水脈は、変わらずに流れていたからです。同じように、私たちが受け継ぐ神の祝福は、塞がれたままにしておいてはいけないのです。自らの信仰と祈りで掘り起こし、自分の手で開拓し、新しい意味づけをしていくことが必要です(33節)。
私たち一人ひとりは、アブラハムであり、またイサクでもあります。そのためには、自分の信仰に目覚め、自分の信仰の手を差し伸ばして、神の救いと祝福を受け継いでいくことが求められているのです。

二人は一緒に(2009.6.21)

題   : 「二人は一緒に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  22章1節~14節
アブラハムは、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と神から命じられました。これは、アブラハムにとって大きな信仰の危機でしたが、そこから逃げることなく、命じられた場所に向かって「二人は一緒に歩いて行った」(6節、8節)のです。

1.試みの中において
アブラハムにとっては、全てが順調にいっている時に与えられた試みでした。それは、「全能の神」であり(17章1節)、「永遠の神」(21章33節)がなされることとは思えなかったので、彼の信仰は揺さぶられました。また、アブラハムとイサクは、説明がつかない、納得できないことに逃げ出したいとの思いをもって、「その場所」(4節、9節)に立ったのです。二人のうちどちらが欠けても成り立たない神の計画の中で、二人は一緒に歩き続けたのです。
聖書は、神を信じていても試みに出会うことを否定していません。むしろ、そうした経験の必要と尊さを明らかにしています。試みは、「いろいろな試練」とあるように、その種類は一様ではありませんし、それを通して信仰が本物とされ、忍耐という品性が与えられ、成長させてくださる大きな喜びなのです(ヤコブ1章2~4節)。

2.神を信じる信仰をもって
アブラハムは全能の神を信じ信頼していました(5節、8節、9~10節)。神の呼びかけに「はい」と答えて、神の御手の中に留まり続けました(1節、11節)。
イサクは、この父と同じ信仰に立っていました。二人を結びつけていたものは、全てを備えてくださる神を信じる信仰であり、父の信仰に子が従い、この信仰に父が励まされています。そんな彼らを神は見守り、導き備えられたのです(14節)。
私たちは、互いが神を信頼しながら(イザヤ30章15節)、親子、夫婦、兄弟、そして教会員のお互い、また伝道者と信徒などの関わりの中で、「二人は一緒に歩いて行った」との歩みを続けることが求められています。そこにこそ、神の祝福の御業がなされていくのです(16~18節)。

喜びにも、悲しみにも(2009.5.10)

題   : 「喜びにも、悲しみにも」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  18章9節~15節
アブラハムとサラ夫妻は、神の召しを受けて、未見未知のカナンの地に旅立ちました(創世記12章1~5節)。その時から、妻サラは、呟くことなく、夫に従って行きました。この出発は、彼女の生涯にどのような信仰をもたらしたでしょうか。

1.神の真実への信仰
サラは、不妊の女でしたが(創世記11章30節)、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロ-マ4章⒘節)を信じる必要がありました。ところが、彼女は、神の時が待ちきれず、女奴隷ハガルを夫にすすめるという不信仰の行動を取ったのです。その実は、嫉妬と憎しみが渦巻く家庭のトラブルを刈り取ることとなりました(創世記16章)。
しかし、神は、約束どおりサラに祝福を与えられました。神は、ご自身の使者を通して彼女に懐妊したことを知らせ(同18章13~15節)、約束の子イサクを与えられたのです(同21章1~8節)。
こうして、信仰の弱いサラは、悔い改めて、神は約束されたことは必ず成し遂げられる「真実な方」であるとの信仰に飛躍したのです(ヘブライ11章11節)。神の真実が最大限に現されたのは、イエス・キリストの十字架です。私たちは、いかなる時にも十字架を仰ぎ、神の真実に対する信仰を貫くことが必要です。

2.従順の信仰
アブラハムとサラ夫妻の最大の試練は、最愛の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の命令でした(創世記22章)。アブラハムは、自らも納得できないことでしたし、他者に説明することはとうていできないことでした。しかし、彼は、神の命じられることに従ったのです。また、「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3章6節)。
彼女は、喜びにも、悲しみにも、神に従順な夫の行く所どこまでも従ったのです。このサラの強い感化が、神を畏れ、父母に仕える従順の子イサクを生み出したと言えるでしょう。
主イエスは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5章8節)。まして私たちが従順を学び続けることは、当然のことなのです。

リバイバルへの期待(2009.1.1)

題   : 「リバイバルへの期待」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ハバクク  3章1節~2節
この年、主なる神がご自身の御業を活き働かせてくださり、私たちの信仰が覚醒されるように祈りたいものです。このようなリバイバル(信仰復興)は、どのようにして起こるのでしょうか。

1.神の必然として起こる
預言者ハバククは、国家的危機を嘆きつつ神に訴え、それに対する神からの答えを告げられています(1~2章)。そこには、神が何を語られ、何と答えられるかを聴こうとするハバククの姿勢が伺えます。結論として彼は、「神に従う人は信仰によって生きる」と神から告げられました(2章4節)。その信仰をいただいて祈ったのです(3章2節)。
私たちが危機に直面した時は、神の前に根源的なものを取り上げさせていただく絶好の時です。それは、個人のことだけでなく、家庭においても、教会においても、時に国家的なことにおいても言えることです。その時、「あなた(主なる神)の御業」によって再びいのちと活力を与えていただくのです。これは、ある日の偶然の出来事として起こるのではなく、神の必然として起こります。人間の失望は、神の希望の時なのです。

2.私たちの日々の備えを通して起こる
ハバククは、信仰に生き希望に生きる者に変えられ、もはや見える所によって歩みませんでした。環境を見て失望したり、人生の暗黒面を見て疑問を抱いたりすることはなくなりました。主なる神への信仰が転機となったのです。神に聴こうとする信仰のない所に、神の大きな御業は起こりません。
ハバククは、「数年のうちにも、それを生き返らせ・・・それを示してください」と祈り続けています。これこそが、リバイバルの祈りです。今日までの目を見張るような神の御業の背後にある、積み重ねられた、見えない黙々と祈り続けられた日々のあることを忘れてはなりません。「リバイバルは、私から」と祈りたいものです。
私たちは、リバイバルを必要とし、またそれを期待します。それは、多くの備えられた日々の、ある時にもたらされる神の必然なのです。

慰めの源(2008.11.9)

題   : 「慰めの源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  5章28節~32節
私たちは、神に愛されて、かけがえのない価値ある一人ひとりとして造られました。それゆえに、私たちは神からの慰めをいただき続けています。
さて、神と共に歩み続けたエノクから三代目のノアは、慰めの子でした。彼の生涯から語られる神のメッセ-ジを、私たちは開かれた心をもって聴きたいものです。

1.慰めの源となってこそ
人間の苦しい労苦に対して、ノアは慰めを与える者となっています。時代が堕落し、不法に満ちていましたが(6章11~12節)、ノアは神に従う正しい人であって、神と共に歩んでいました(同9節)。
そして、すべて神に命じられることに、信仰によって従いました。その結果、彼とその家族が洪水の中から救われたのです(6~8章)。こうした神のみわざとノア自身の信仰は、人々の大きな慰めとなったのです。
苦労の多い中で、神に祝福され、救われ、それが受け継がれていくこと、そしてこの救いの祝福が広がり、世界の果てまで広がっていくことほど、私たちにとって慰めはありません。
確信に満ちたパウロのことばに、「・・・あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1章4節)とありますが、素直に苦しみを分かち合うときに、真に慰め合うことができるのです(同6~7節)。互いに、慰めの源とならせていただきましょう。

2.主なる神に慰められてこそ
旧約聖書全体を通して用いられる「慰める」ということばは、様々の意味に用いられています。単に、悲しみが慰められたという意味ではなく、「悲しむ」「悔いる」という内容をもっています。すなわち、自分の罪深さに悲しみ、その罪を悔い改めたときに、その人の内に神が与えてくださるのが慰めです。
主イエスご自身は、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)と語られました。一人ひとりが主イエスの十字架に直面することによって、真の慰めに与ることができるのです。それによって、キリストの復活の力が内に湧いてくるのです。こうして、今日の私たちも、「この子は慰めてくれるであろう」との祝福を受け継いでいるのです。

すばらしい老後(2008.9.14)

題   : 「すばらしい老後」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 詩編 71編9節~19節
多くの人々が、「老い」ということについて明確な解答を持っていないために、深い悩みの中にいるように思われます。しかし、私たちは、老いることのすばらしさを知っています。
この詩編が語っているように、老いることの中に、神の救いの計画の遠大さがあるからです。

1.「老い」の現実を知る
初老の詩人は、自らが衰えていく力を嘆き(9節)、多くの災いと悩みを訴え(20節)、白髪になっても見捨てないでくださいと神に訴えています(18節)。彼は、肉体的に、精神的に、社会的に、以前には軽くこなせたことが難儀になり、周囲の評価や見方も昔のようでなくなったことを自覚しています。
そして、こうした現実に目をつぶるのではなく、意地を張ったり背伸びしたりするのでもなく、老いることは衰えることであると、謙虚に認めています。
この詩編には、こうした現実を知って、どんな時にも主なる神を信頼して生きることが歌われています(1節、5~6節)。大切なことは、「恵みの御業」を成し遂げてくださった主なる神が、絶えず担い、背負い、救い出してくださることに信頼し、任せていくことなのです(イザヤ46章4節)。

2.「老い」の使命を知る
年老いた人は、より積極的に、神の救いの恵みの偉大さを知り、神を崇めて賛美し(8節)、神に望みをおいて、後に続く人々に「絶えることなく」語り伝えています(15節)。このような生涯を送り続けるところに、老いた人の生き生きした使命があります。私たちに主の使命がある限り、私たちが地上で生きることを主が支え、主が守ってくださいます。
この使命に生きるに際しては、私たちは過去と現在だけを見ているのではなく、将来の確かな希望を仰いで生きる必要があります(20節)。永遠の今を導かれる神を信頼するのみです。
老いの現実を知り、老いの使命を知る生き方をすることによって、老いることもすばらしいことなのだということを、証ししていきたいものです。

これで充分です(2008.8.24)

題   : 「これで充分です」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 5章21節~24節、ヘブライ11章5~6節
「アダムの系図」は、神によって創造され、罪を犯して堕落したアダムとその子孫がどのようになっていったかを示す記録です。そして、罪のゆえの死の現実に直面しつつも、神の祝福を受けながら、神と共に歩むことで充分であることを証しているのが「エノク」です。

1.空しさを克服されているゆえに
アダムから始まる系図は、アダムの生涯のパタ-ンである「もうけた、生き、死んだ」を繰り返しています。アダムが神のことばに背いた結果、死が人類を支配するようになりました。死とは、もともと分離を意味しており、それには神との交わりからの分離(霊的死)、人間の交わりからの分離(肉体の死)、神の国からの分離(永遠の)があります。
しかし、エノクは、「神がとられたのでいなくなった」(創世記5章24節)、「死を経験しないように、天に移されました」(ヘブライ11章5節)という、死という空しさを克服していただいた充足ある歩みをしました。
これは、キリストの救いのゆえに、神のものとされた者の充分さでもあります。

2.主の臨在を自覚しているゆえに
なぜ、エノクは、65歳になったときに「神と共に歩み」だしたのでしょうか。その時から、彼には、来るべき神の裁きが見えていたからです(ユダの手紙14~15節)。
「こうして彼の目は不朽の国に向かい、彼の歩みは地を離れて引き上げられ、地にあって天の生活を営む三百年、神と共に歩む生涯に入れられた」(澤村五郎)のです。何かと言えば、口実を設けて神から遠ざかるのが人間の常である中で、いかなる時も神の臨在の中を歩むことが、人間の積極的な生き方です。
このように「信仰によって」生きたエノクを、神はどれほど「喜ばれ」たことでしょう(ヘブライ11章5~6節)。この先将来、どのように導かれるか分からなくても、どなたがご一緒であるかを知る信仰者は、それだけで充分です。
「共にいるのは、わたしだ」と言われる主は、「それを自分のものにするのは、あなただ」と招いておられます。

礼拝の回復(2008.7.27)

題   : 「礼拝の回復」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記4章1~16節
聖書全体は、礼拝をささげる願望で貫かれています。したがって、今日の私たちにとっては、礼拝を中心とした信仰者生活の確立こそが急務です。
ただし、本日の聖書箇所にあるように、問題は礼拝の破れにあり、真の礼拝の再建こそが神の民の根本課題です。

1.礼拝の破れはどこから  1~8節
カインもアベルも共に神を知り、神に礼拝をささげる生活をしていました。両者のささげ物の種類に問題があったのではなくて、「信仰によって」ささげられているかを神は見ておられます(ヘブライ11章4節)。
目を留められたアベルに対して、目を留められなかったカインは妬み、それが原因で神に反発して怒りを起こしています。それは罪の支配に服従することとなり、兄が弟を殺すという悲劇を生んだのです。
人々が主イエスを十字架に引き渡したのは、妬みからでした(マタイ27章18節)。妬みは、人間の罪の核心部分にあり、共に祈り合い、愛し合い、助け合い、建て上げ合うことをさせません。それが、共に神の前に礼拝をささげることを妨げるものなのです(ガラテヤ5章26節)。

2.礼拝の再建は誰によって  9~16節
主なる神は、カインを見捨てることなく、なおも彼が悔い改めに至り、自分から罪を告白するように促しておられます。それに応答しないカインに対し審きを語られる神は、それでもカインを顧み、どこまでも立ち返る道備えをしておられます。それはまるで、裏切ったイスカリオテのユダに悔い改めと神の救いに招かれる主イエスが、「友よ」と呼びかけておられることに通じます(マタイ26章50節)。
私たちは、主なる神の「どこにいるのか」との問いかけに応答する礼拝者とされ(3章8節)、さらに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」との問いかけに応答して、隣人を顧みる礼拝者となるよう招かれています。主イエス・キリストの十字架による神との関係の回復が与えられ、あわせて人との関係の回復が与えられる礼拝者となりましょう。