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旧約聖書

喜びにも、悲しみにも(2009.5.10)

題   : 「喜びにも、悲しみにも」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  18章9節~15節
アブラハムとサラ夫妻は、神の召しを受けて、未見未知のカナンの地に旅立ちました(創世記12章1~5節)。その時から、妻サラは、呟くことなく、夫に従って行きました。この出発は、彼女の生涯にどのような信仰をもたらしたでしょうか。

1.神の真実への信仰
サラは、不妊の女でしたが(創世記11章30節)、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロ-マ4章⒘節)を信じる必要がありました。ところが、彼女は、神の時が待ちきれず、女奴隷ハガルを夫にすすめるという不信仰の行動を取ったのです。その実は、嫉妬と憎しみが渦巻く家庭のトラブルを刈り取ることとなりました(創世記16章)。
しかし、神は、約束どおりサラに祝福を与えられました。神は、ご自身の使者を通して彼女に懐妊したことを知らせ(同18章13~15節)、約束の子イサクを与えられたのです(同21章1~8節)。
こうして、信仰の弱いサラは、悔い改めて、神は約束されたことは必ず成し遂げられる「真実な方」であるとの信仰に飛躍したのです(ヘブライ11章11節)。神の真実が最大限に現されたのは、イエス・キリストの十字架です。私たちは、いかなる時にも十字架を仰ぎ、神の真実に対する信仰を貫くことが必要です。

2.従順の信仰
アブラハムとサラ夫妻の最大の試練は、最愛の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の命令でした(創世記22章)。アブラハムは、自らも納得できないことでしたし、他者に説明することはとうていできないことでした。しかし、彼は、神の命じられることに従ったのです。また、「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3章6節)。
彼女は、喜びにも、悲しみにも、神に従順な夫の行く所どこまでも従ったのです。このサラの強い感化が、神を畏れ、父母に仕える従順の子イサクを生み出したと言えるでしょう。
主イエスは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5章8節)。まして私たちが従順を学び続けることは、当然のことなのです。

リバイバルへの期待(2009.1.1)

題   : 「リバイバルへの期待」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ハバクク  3章1節~2節
この年、主なる神がご自身の御業を活き働かせてくださり、私たちの信仰が覚醒されるように祈りたいものです。このようなリバイバル(信仰復興)は、どのようにして起こるのでしょうか。

1.神の必然として起こる
預言者ハバククは、国家的危機を嘆きつつ神に訴え、それに対する神からの答えを告げられています(1~2章)。そこには、神が何を語られ、何と答えられるかを聴こうとするハバククの姿勢が伺えます。結論として彼は、「神に従う人は信仰によって生きる」と神から告げられました(2章4節)。その信仰をいただいて祈ったのです(3章2節)。
私たちが危機に直面した時は、神の前に根源的なものを取り上げさせていただく絶好の時です。それは、個人のことだけでなく、家庭においても、教会においても、時に国家的なことにおいても言えることです。その時、「あなた(主なる神)の御業」によって再びいのちと活力を与えていただくのです。これは、ある日の偶然の出来事として起こるのではなく、神の必然として起こります。人間の失望は、神の希望の時なのです。

2.私たちの日々の備えを通して起こる
ハバククは、信仰に生き希望に生きる者に変えられ、もはや見える所によって歩みませんでした。環境を見て失望したり、人生の暗黒面を見て疑問を抱いたりすることはなくなりました。主なる神への信仰が転機となったのです。神に聴こうとする信仰のない所に、神の大きな御業は起こりません。
ハバククは、「数年のうちにも、それを生き返らせ・・・それを示してください」と祈り続けています。これこそが、リバイバルの祈りです。今日までの目を見張るような神の御業の背後にある、積み重ねられた、見えない黙々と祈り続けられた日々のあることを忘れてはなりません。「リバイバルは、私から」と祈りたいものです。
私たちは、リバイバルを必要とし、またそれを期待します。それは、多くの備えられた日々の、ある時にもたらされる神の必然なのです。

慰めの源(2008.11.9)

題   : 「慰めの源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  5章28節~32節
私たちは、神に愛されて、かけがえのない価値ある一人ひとりとして造られました。それゆえに、私たちは神からの慰めをいただき続けています。
さて、神と共に歩み続けたエノクから三代目のノアは、慰めの子でした。彼の生涯から語られる神のメッセ-ジを、私たちは開かれた心をもって聴きたいものです。

1.慰めの源となってこそ
人間の苦しい労苦に対して、ノアは慰めを与える者となっています。時代が堕落し、不法に満ちていましたが(6章11~12節)、ノアは神に従う正しい人であって、神と共に歩んでいました(同9節)。
そして、すべて神に命じられることに、信仰によって従いました。その結果、彼とその家族が洪水の中から救われたのです(6~8章)。こうした神のみわざとノア自身の信仰は、人々の大きな慰めとなったのです。
苦労の多い中で、神に祝福され、救われ、それが受け継がれていくこと、そしてこの救いの祝福が広がり、世界の果てまで広がっていくことほど、私たちにとって慰めはありません。
確信に満ちたパウロのことばに、「・・・あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1章4節)とありますが、素直に苦しみを分かち合うときに、真に慰め合うことができるのです(同6~7節)。互いに、慰めの源とならせていただきましょう。

2.主なる神に慰められてこそ
旧約聖書全体を通して用いられる「慰める」ということばは、様々の意味に用いられています。単に、悲しみが慰められたという意味ではなく、「悲しむ」「悔いる」という内容をもっています。すなわち、自分の罪深さに悲しみ、その罪を悔い改めたときに、その人の内に神が与えてくださるのが慰めです。
主イエスご自身は、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)と語られました。一人ひとりが主イエスの十字架に直面することによって、真の慰めに与ることができるのです。それによって、キリストの復活の力が内に湧いてくるのです。こうして、今日の私たちも、「この子は慰めてくれるであろう」との祝福を受け継いでいるのです。

すばらしい老後(2008.9.14)

題   : 「すばらしい老後」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 詩編 71編9節~19節
多くの人々が、「老い」ということについて明確な解答を持っていないために、深い悩みの中にいるように思われます。しかし、私たちは、老いることのすばらしさを知っています。
この詩編が語っているように、老いることの中に、神の救いの計画の遠大さがあるからです。

1.「老い」の現実を知る
初老の詩人は、自らが衰えていく力を嘆き(9節)、多くの災いと悩みを訴え(20節)、白髪になっても見捨てないでくださいと神に訴えています(18節)。彼は、肉体的に、精神的に、社会的に、以前には軽くこなせたことが難儀になり、周囲の評価や見方も昔のようでなくなったことを自覚しています。
そして、こうした現実に目をつぶるのではなく、意地を張ったり背伸びしたりするのでもなく、老いることは衰えることであると、謙虚に認めています。
この詩編には、こうした現実を知って、どんな時にも主なる神を信頼して生きることが歌われています(1節、5~6節)。大切なことは、「恵みの御業」を成し遂げてくださった主なる神が、絶えず担い、背負い、救い出してくださることに信頼し、任せていくことなのです(イザヤ46章4節)。

2.「老い」の使命を知る
年老いた人は、より積極的に、神の救いの恵みの偉大さを知り、神を崇めて賛美し(8節)、神に望みをおいて、後に続く人々に「絶えることなく」語り伝えています(15節)。このような生涯を送り続けるところに、老いた人の生き生きした使命があります。私たちに主の使命がある限り、私たちが地上で生きることを主が支え、主が守ってくださいます。
この使命に生きるに際しては、私たちは過去と現在だけを見ているのではなく、将来の確かな希望を仰いで生きる必要があります(20節)。永遠の今を導かれる神を信頼するのみです。
老いの現実を知り、老いの使命を知る生き方をすることによって、老いることもすばらしいことなのだということを、証ししていきたいものです。

これで充分です(2008.8.24)

題   : 「これで充分です」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 5章21節~24節、ヘブライ11章5~6節
「アダムの系図」は、神によって創造され、罪を犯して堕落したアダムとその子孫がどのようになっていったかを示す記録です。そして、罪のゆえの死の現実に直面しつつも、神の祝福を受けながら、神と共に歩むことで充分であることを証しているのが「エノク」です。

1.空しさを克服されているゆえに
アダムから始まる系図は、アダムの生涯のパタ-ンである「もうけた、生き、死んだ」を繰り返しています。アダムが神のことばに背いた結果、死が人類を支配するようになりました。死とは、もともと分離を意味しており、それには神との交わりからの分離(霊的死)、人間の交わりからの分離(肉体の死)、神の国からの分離(永遠の)があります。
しかし、エノクは、「神がとられたのでいなくなった」(創世記5章24節)、「死を経験しないように、天に移されました」(ヘブライ11章5節)という、死という空しさを克服していただいた充足ある歩みをしました。
これは、キリストの救いのゆえに、神のものとされた者の充分さでもあります。

2.主の臨在を自覚しているゆえに
なぜ、エノクは、65歳になったときに「神と共に歩み」だしたのでしょうか。その時から、彼には、来るべき神の裁きが見えていたからです(ユダの手紙14~15節)。
「こうして彼の目は不朽の国に向かい、彼の歩みは地を離れて引き上げられ、地にあって天の生活を営む三百年、神と共に歩む生涯に入れられた」(澤村五郎)のです。何かと言えば、口実を設けて神から遠ざかるのが人間の常である中で、いかなる時も神の臨在の中を歩むことが、人間の積極的な生き方です。
このように「信仰によって」生きたエノクを、神はどれほど「喜ばれ」たことでしょう(ヘブライ11章5~6節)。この先将来、どのように導かれるか分からなくても、どなたがご一緒であるかを知る信仰者は、それだけで充分です。
「共にいるのは、わたしだ」と言われる主は、「それを自分のものにするのは、あなただ」と招いておられます。

礼拝の回復(2008.7.27)

題   : 「礼拝の回復」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記4章1~16節
聖書全体は、礼拝をささげる願望で貫かれています。したがって、今日の私たちにとっては、礼拝を中心とした信仰者生活の確立こそが急務です。
ただし、本日の聖書箇所にあるように、問題は礼拝の破れにあり、真の礼拝の再建こそが神の民の根本課題です。

1.礼拝の破れはどこから  1~8節
カインもアベルも共に神を知り、神に礼拝をささげる生活をしていました。両者のささげ物の種類に問題があったのではなくて、「信仰によって」ささげられているかを神は見ておられます(ヘブライ11章4節)。
目を留められたアベルに対して、目を留められなかったカインは妬み、それが原因で神に反発して怒りを起こしています。それは罪の支配に服従することとなり、兄が弟を殺すという悲劇を生んだのです。
人々が主イエスを十字架に引き渡したのは、妬みからでした(マタイ27章18節)。妬みは、人間の罪の核心部分にあり、共に祈り合い、愛し合い、助け合い、建て上げ合うことをさせません。それが、共に神の前に礼拝をささげることを妨げるものなのです(ガラテヤ5章26節)。

2.礼拝の再建は誰によって  9~16節
主なる神は、カインを見捨てることなく、なおも彼が悔い改めに至り、自分から罪を告白するように促しておられます。それに応答しないカインに対し審きを語られる神は、それでもカインを顧み、どこまでも立ち返る道備えをしておられます。それはまるで、裏切ったイスカリオテのユダに悔い改めと神の救いに招かれる主イエスが、「友よ」と呼びかけておられることに通じます(マタイ26章50節)。
私たちは、主なる神の「どこにいるのか」との問いかけに応答する礼拝者とされ(3章8節)、さらに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」との問いかけに応答して、隣人を顧みる礼拝者となるよう招かれています。主イエス・キリストの十字架による神との関係の回復が与えられ、あわせて人との関係の回復が与えられる礼拝者となりましょう。

「なぜ」を大切に

題   : 「なぜ」を大切に               宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 3章1節~15節
人間は、「なぜ、人は死を恐れるのか」とか「どうして人は、こうも残酷になれるのか」と、様々に「なぜ」を問い続けることにより成長します。
そうした中で、誰もが神の前に、真剣に「なぜ」と問いかけなければならないものがあり、それは人類の最初からの問いかけでした。

1.なぜ、人間は罪人なのか  1~7節
神によって造られた人間は、神が命じられたことに従う中に本当の自由があり、祝福があることをすでに知っていました(2章16~17節)。
ところが、狡猾なサタンは、神のことばを歪めて疑わせ(1節)、神のことばを全面的に否定しました(4節)。そのようにして、神の愛と真実を疑わせて、自分の奴隷・罪の奴隷にしようとしたのです(5節)。それに対して人間は、神のことばを曖昧にし、付け加え、割り引きして誘惑に陥ったのでした(3、6節)。
その結果、人間は、自分中心の見方をするようになり、自分をそのまま受け入れることができないものとなり、神に対しても、人に対しても、自分自身に対しても取り繕い、罪を隠そうとして、自分で正当化するようになったのです(7節)。
人間は、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。

2.なぜ、神は罪人を招かれるのか  8~15節
神は、そんな人間に対して、「何をしたか」ではなく「どこにいるか」と語りかけられました(9節)。その招きに対して、人間はどこまでも身を隠し、さばきを恐れて逃げようとしました(10節)。悔い改めを促される神に対して(11節)、男は女に責任転嫁し、あげくは神に責任転嫁しています(12節)。そして、女はサタンに責任転嫁をする始末でした(13節)。
神は、人類が神に背いた直後から、救いの道を備えられました(15節)。その救いの極みとして、主イエスが十字架上で叫ばれた祈りがあります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)であり、ここに、本来捨てられて当然の私たちに代わって、本来捨てられる必要のない主イエスが捨てられてくださったという救いがあります。この招きに真実に応答するのみです。

人間になる(2008.5.18)

題   : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 2章1節~25節
ここでは、「神にかたどって創造された」(1章27節)人間について、別の視点から描いています。主なる神の方からの愛と真実をもっての語りかけや働きかけに対して、人間の側からは信頼と服従をもって応答していくことが強調されています。
単に人間であること以上に、本来の人間になることの大切さを教えているのです。

1.主なる神に向かって生きるようになる  4~17節
人間は、もともと顔を上に向けて生きるように造られました。すなわち、神に向かって生きる者なのです。
主なる神は、朽ちていく土の塵で形づくられた人間を、神の霊を吹き入れていのちある尊いものとされました。そして、楽しみと喜びに溢れた「エデンの園」を備えてくださり、そこを正しく治めるように人間に託され、その祝福が世界中に及ぶようにされたのです。ただし、何が善で何が悪かとの基準を決めることができるのは神のみであり、それに人間が従って生きることが永遠の祝福となるのです。
私たちは、この神に向かって生きる人間になるように、主なる神から招かれているのです。

2.愛が分かち合えるようになる  18~25節
人間が人間らしくなるのは、人と人の間を大切にして生きることです。そこで主なる神は、お互いに神に向かい合い、お互いが向かい合い、お互いが同じ方向に向かって使命に生きることのできる「彼に合う」ふさわしい者を造られました。
そこには、主なる神の愛の配慮がありました。一つには、神の被造物に人が名をつけるという作業を通して、人を助ける者を見い出すことができるようにしておられます。もう一つには、神は人を助ける者を造られるのに、愛の源である人の「あばら骨」を取り出して造られました。互いに愛を分かち合うことができるためでした。こうして、父母を離れて男女が結ばれるのは、互いに自立した者として、互いに自分自身を相手に与えていくことにあったのです。
愛が分かち合える人間になれるように、その原点に立ち返らせてくださるのがイエス・キリストであり、その救いのみわざです。

初めに神が(2008.4.20)

題   : 「初めに神が」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 1章1節~31節
神のことばである聖書は、壮大な創造の記事が最初に記され、その創造は『初めに、神は』という力強いことばをもって始まっています。そこには、「どなたが」創造されたかを宣言し、「どのように」創造がなされたかについては多くを語っていません。

1.愛によって創造された  1~26節
『神は創造された』『神は言われた』『神は良しとされた』『神は呼ばれた』『神は造られた』とあるように、全ての存在と出来事の源は、創造主である神ご自身です。そして、神が言われたとおりに事がドラマの展開を見るように成し遂げられています。そこでは、神の霊が闇に光を与え、形のないところに命を与えています。
神の創造のみわざは、秩序正しく神の愛によってなされ、最後に創造の冠である人間を創造されました。ここから私たちの一日を、一週を、人生の様々な事柄をスタ―トさせるなら、私たちは神中心の在り方や生き方をすることができるのです。そして、私たちが神の意志にもとづいて生きることによってのみ、自らの人生の意味を見いだすことができるのです。

2.愛の交わりに生きるように創造された  26~31節
神は威厳と無限の力をお持ちで、私たちが畏れかしこむべきお方です。私たちは、この神との愛の交わりがもてる人格あるものとして、さらに責任をもって神に正しく応答できるものとして造られました。同時に、神は私たちを祝福して、この世界を正しく管理し指導する権限を私たちに委託されました。
そして、全ての創造が終ったとき、神は『見よ、それは極めて良かった』と、造られた私たち一人ひとりに名指しで語っておられます。どんなに憂い、つまずき、痛み、ほころび、罪と汚れがあっても、救い主イエス・キリストによる救いの道が開かれているゆえに、私たちを根底から支えていてくださるのです。
創造主である神は、愛ゆえに造り変え、愛の交わりの中に生かし続けてくださいます。それに対して、私たちが心からの感謝を言い表すことを、神は最高の喜びとされるのです。

わたし自身が一緒に行く(2008.3.30)

題   : 「わたし自身が一緒に行く」   宣教:   川原崎 晃  牧師
聖書  : 出エジプト記 33章12節~16節
神のものとされた聖徒たちの神に対する積極的な求めであり、人間の魂の最深の要求を満たすものは、主なる神が私たちと共におられて同行されるということです。『わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう』(14節)とは、一人ひとりにとっても、教会にとっても、絶えず立ち続ける信仰の原点です。

1.一緒に行ってくださるお方
この時モ-セは、担い切れない重荷を背負って苦しんでいました。そして、信仰が浅薄で不誠実であった神の民と、その民を審こうとされる神との破れの狭間に立って執り成しています(32章31~32節)。不安と心配で心が押しつぶされそうなモ-セに対して、神が語られたご自身の臨在の約束は、この後控えている荒野での内外の課題や問題に対して、「どなたがご一緒であるか」を確かにしてくださる時でした。
いつも神の御声の聴こえるところ、いつも神の御顔を拝することのできるところ、いつも神の御導きを確信できるところに居り続けたいものです。

2.一緒に行ってくださるなら
『あなたに安息を与えよう』と約束していてくださいます。この安息は、単に心身の疲れをいやすというものではありません。戦いの嵐や悲しみや問題の真っただ中にあっても持ち続けている安息です。
それはちょうど、十字架を前にしたキリストが持っておられた平安です(ヨハネ14章25~31節)。このキリストの平安が与えられることが、キリスト者にとってのかけがえのない遺産です。安息のない臨在信仰はないのです。

3.一緒に行ってくださるために
この主なる神の臨在に対して、私たちの側に一つの条件を求めておられます。『もし、あなたご自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください』(15節)と、神が主権をもって導かれることを第一とすることです。
どんなにすばらしい神からの祝福、成果、幸せをいただいたとしても、私たちの人生に神ご自身がご一緒であり続けてくださることを優先させることです。主の臨在こそ、私たちの人生にとって最も尊いことなのです。

イエスの受けた傷(2008.3.16)

題   : 「イエスの受けた傷」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 53章1節~12節
今日はパームサンデーと呼ばれる日です。イエス・キリストが子ロバの背中に乗って、エルサレムの町に入場してこられたとき、エルサレムの人々は「ホサナ、ホサナ」と言って、パームツリー(棕櫚の木)の枝を振り、パームツリーの枝や着ていた上着を脱いで道に敷いてイエスを迎えました。
ところが、今週の木曜日、金曜日になると人々は手のひらを返すようにしてイエスを苦しめはじめ、ついには十字架につけることになるのです 。

1.軽蔑された神の子  1~4
大工の子として育てられ、貧しい寒村に住まわれたイエスは神の独り子であるとわたしたちは知っています。しかし、当時の人々からは無視され、軽蔑されました。
当時の人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い伝えられていたほどに、軽蔑のまなざしで見られるような中に育たれたのです。

2.苦しみの神の子  5~10
人となってくださった神の子は、弱さを知り、経験し、人々の苦しみを理解し、ついに囚われの身となって肉体において極限の苦しみを負ってくださいました。
さらに、ご自分が愛して止まない弟子たちに裏切られるという苦しみを味わい、さらに、父なる神にまで捨てられてくださったのです。
イエス様にとって、父なる神様に顔を背けられ、捨てられることほど大きな苦しみはありませんでした。しかしこの苦しみは全てわたしが救われるためのものでした。

3.執り成して下さった神の子  11~12
イザヤは、イエスの苦しみはわたしたち罪人の裁きの身代わりであり、贖いであり、執り成しの結果であると言います。
このお方を信じるわたしたちは、このお方の負ってくださった苦しみによってつみ許され、このお方の戦利品として数えていただくことができるのです。
そしてこのお方は、十字架で贖い主として死なれただけでなく、三日目によみがえって、信じ、罪赦された者に永遠の命を与えてくださるのです。

受難週であるこの一週間、神様の前に十字架を偲びつつ過ごしましょう。

高価で貴い人(2008.3.9)

題   : 「高価で貴い人」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 43章1節~7節
今年も2週間後にイースターを迎えようとしています。この時期にもう一度神様の御愛とその現れである十字架を深く思う時としましょう 。

1.神の栄光のために創られた私たち  1~7
イザヤはわたしたちが神によって創造された者であると言っています。ところが、直後に「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と言っておられます。
神に創られ、神のものであった私たちでありながら、罪を犯し神から離れ、サタンの手の中に捕われている私たちでした。
この、愚かな私たちのために、神はかけがえのない神の独り子を十字架にかけるという代価を払って私たちを買い戻してくださったのです。これこそ、史上最大の贖い金でしょう。神様は、わたしたちをそこまで高価で貴いものと見ていてくださるのです。しかも、わたしたちが生かされている理由は「神の栄光のために」とイザヤは言います。

2.神に選ばれた証人  8~15
イザヤは「わたしの証人はあなたたち」と言います。わたしたちは、神様とは唯一のお方であり、この世界にただひとりのお方であることを証しするために選ばれたお互いです。
そして、このお方こそ、聖なるお方であり、全世界の創造者であり、わたしたちのすべてを知っておられるお方であることを教え、最終的に神に逆らう全ての者は裁かれることを語っておられことの証人でもあるのです。

3.新しいことをなさるお方 16~28
イスラエルを救われ、わたしたちを罪の滅びの中から救い出してくださったお方は、ただ救い出しただけでなく新しいことをしてくださるのです。砂漠のような人生を歩んでいた者も、神の恵みによって潤されます。すなわち救われた者は、聖霊の豊かな注ぎと流れの中に導いていただいて、新しい道を歩み、荒野から湧き出る水、砂漠に流れる川から水を飲むことができるのです。
神は、ご自身の口でわたしたちに「あなたは価高く、貴く」と言ってくださいます。このお方がわたしたちに、最大の恵みである聖霊なる神様をわたしたちの内に住ませて、潤して、すばらしい神の証し人に仕立ててくださるのです。

草は枯れ、花はしぼむ(2008.3.2)

題   : 「草は枯れ、花はしぼむ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 40章6節~9節
イザヤは、神のさばきを語ってきました。もちろん、神様の恵みの預言、救い主の預言も語っています。
しかし、ここからは将来に向かっての神の救いの預言が語られます。しかも、神様の回復と慰めは限定された民族だけではなく全世界に対するメッセージなのです。

1.慰めのメッセージ  1~11
本章は「慰めよ」から始まっています。この慰めの内容は「苦役の時は今や満ち」「咎は償われた」「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」と語られています。
これは、バビロン捕囚からの解放だけではなく全人類に対する、神のさばきからの解放、永遠の救いのメッセージであり慰めのメッセージなのです。

2.偉大なる創造の主  12~26
神は、全能の英知をもって計画を立て、偉大な計量器(手のひら、手の幅、枡、秤、天秤)をもって天地を計り、天地創造をされたのです。神はさらに創造された世界を、偉大な知恵をもって支配しておられます。

3.新しく与えられる命  27~31
この偉大な神は、わたしたちのような小さく、疲れた者に力を与え、守ってくださいます。これらの力をいただくことのできる人は、「主に望みをおく人」と言っていますが、口語訳聖書では「主を待ち望む者は」と訳しています。新しい力を得るためにはまず「主を待つ」のです。この「待つ」とは「忍耐する」との意味もあります。しかも望むのです。「望み」とは信頼することでもあります。
神に絶対信頼をして待ち望む時、神はすばらしい祝福を与えてくださいます。昔のイスラエルの民がメシアの到来を待ち望んで、イエス・キリストが来られ、その十字架と復活によってわたしたちの罪がゆるされ、このキリストの復活の命によって、永遠の新しい命が与えられたようにです。
そしてさらに、わたしたちは永遠の救いである、新天新地を待ち望んでいます。主を信頼して待つのです。その保証は、神の言葉以外にありません。草は枯れ、花はしぼみます。しかし神の言葉は永遠に残るのです。丸ごと神の言葉を信じましょう。

祝福の庭(2008.2.17)

題   : 「祝福の庭」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 35章1節~10節
預言者イザヤは、前章で神に従わない者に対する徹底した神のさばきを語っていますが、一転本章では、神に従う者に対する祝福のすばらしさを語っています。
先の章では、悲しみと苦しみうめきが聞こえるような悲惨さが描かれていますが、ここでは、はじめから美しい花が咲き乱れる祝福一杯の庭を見せられるようです。

1.砂漠に花が咲く
神から離れ、潤いのない砂漠のような心にも神様の恵みと哀れみが戻ってくる時、まるで砂漠に花が咲くように、乾いた土地に雨が降り植物が一斉に芽を出し花を咲かせるように神様を喜びたたえるのです。
ここにある「野ばらの花」とは、口語訳聖書ではサフランとなっています。別名「秋咲きのクロッカス」とも呼ばれ、一般的にクロッカスは春に咲き、白、黄色、ピンク、青など様々な色を持ちますが、サフランは秋に咲く花で、青紫が多いようです。この花からすばらしい香料も採取でき、多くの人々に愛されていました。
砂漠のような荒れた土地から、葉より先に花を咲かせるサフランは神様の恵みをあらわすようです。

2.雄々しくあれ
様々な困難が次々と襲い、不安や恐れをもっていた人々に、人間の常識や力ではなく神様の祝福が働かれると、病のいやしも起こり、神様の奇跡的な働きが展開されます。
日本の歴史の中でも、ながい、ながい鎖国の時代にはクリスチャンはものすごい迫害がありました。しかし、江戸時代が終わり、自由な国家が誕生した時、冬が終わると、一番に咲くクロッカス(春サフラン)のように見事に花が咲いたのです。

3.祝福の庭に帰る
神様の裁きの業が終了すると、そこには大きな道が設けられます。この道は神の都に通じていて、主に贖われ、聖なる者とされた人だけが通ることができるので「聖なる道」と呼ばれています。
わたしたちは本来そこに入ることのできない者でしたが、イエス様の十字架と復活の贖いによって神の子供として、帰って来ることを許されているのです。

聖書に聞け(2008.2.10)

題   : 「聖書に聞け」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  34章16節~17節
わたしたちは神様を信じて救いを受け、恵みに満たされていることを感謝します。メッセージもできるだけ神様の恵みと愛について聞きたいと思います。さばきや滅びには向き合いたくないものです。しかし、聖書の現実は神の愛と共に神の厳しい裁きも語られている事実は避けることはできません。本日の34章は正に裁きの書です。

1.世界の審判  1~4
天地創造の神が、全世界の全被造物まで支配される主権者であることを前提にしたさばきの語られている壮大な宣言です。
神に創造され、守られ、恵みの支配を受けながら、神に反逆し、無視し、高慢に振舞う者は必ずさばかれるのです。そしてこのさばきは宇宙的な規模で行なわれます。このさばきの様子は、2ペトロ3:8~13に記されている通りです。

2.エドムの審判  5~15
エドムという国は、元々エサウ(エドム)とヤコブ(イスラエル)の兄弟の子孫からの分かれですから、いわば親戚筋にあたるわけです。しかし、先祖からこの両者の間には常に戦いがありました。イザヤの活躍したアハズ王の時代にも、ユダの国がエドムに侵略されたことがありました。神の民にエドム人が行ったことが、終わりの日に取り上げられ、主が正しい報いを与えられます。イザヤは、終末の時代に全世界に実際に行なわれる神の徹底した裁きの恐ろしさを語っています。わたしたちは、この預言に向き合い、悔い改め、主を知らない方々にこの事実を伝えましょう。

3.聖書に聞け  16~17
あまりに現実離れしたようなさばきの内容に、多くの人はこの言葉を単なる比喩的なこととして見てしまいます。しかし、聖書の預言は今日まで確実に実現していることを見なければいけません。
わたしたちが、旧約聖書、新約聖書を通して語られる主の救いと恵みを読んで恵まれ、感謝を捧げると共に、さばきの記事から目をそらさず、公平にこの現実も受け止めるべきなのです。
御子イエス・キリストの十字架と復活の奇跡によってわたしたちが救いの恵みに与ったように、最後の審判は必ずやってきます。