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イザヤ

確かな神のことばに立つ(2013.11.10)

宣教題  :「確かな神のことばに立つ」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 40章1~11節
神の言葉を聞く者が、それを語る者へと変えられる。そのきっかけはなんだろうか。

1.語られ、慰められ、招かれる(40:1−5)
バビロン捕囚という悲劇の中にいた人々に神が慰めを語っている(1)。苦しみからの救いという慰めが主の具体的行動によって彼らの上に実現する。捕囚はイスラエルの罪ゆえに受けた罰であったが、その期間の終わりが心優しく神から語りかけられている(2)。
「わたしたちの神」が栄光をもって現れることによって新しい事がはじまる(5)。それは王である神の自分の都へと入城である。この入城に備えるように、苦しみの中にある者に語られる(3)。なぜならば、慰めの言葉を聞いた者は神の働きの参加者になるように招かれているのだ。彼らだけではない、すべての被造物が神の栄光の現れの備えに招かれている(4)。そして、神が語られたからこそ、このことは起こる(5)。

2.神の言葉の力を聞き、神の姿を伝える(40:6−11)
招かれても、人はすぐには参加しない。神の言葉を信じることは簡単ではないからだ。神は説得を続ける。人の誠実さは確かなものではない。草のように、枯れ、しぼむ(6)。しかし私たちを選んで下さった神の語る言葉は「とこしえに立つ」(8)。誠実に、語られたことは必ず実現する。その言葉の確かさが、慰めと希望と喜びの到来の保証である。
神の言葉を聞き、招かれた者は、王である神の行列の先頭に立って、良い知らせを世界中に告げる(9)。神の御腕は、困難を打ち砕き、時代を切り拓いていくという知らせを告げる。出エジプト同様に、時代を造りかえる力がある(10)。さらに、神の御腕は、優しく包む、羊飼いの手として、弱り果てた者を包み、癒し、慰める(11)。このようなすばらしい神の到来が告げられる。
私たちは神の言葉の確かさをすぐに疑う。それは、「聖書も神の力も知らない」から思い違いをしているのだ(マタイ22:29)。だからこそ、神の言葉の確かさを信じる者へと回心させて頂きたい。そして、神の言葉を聞き、それゆえに語るものとされたい。

楽園を創造される主(2013.6.9)

宣教題  : 「楽園を創造される主」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ41章17~20節 エフェソ3章6節
講壇横に生けられている生け花は私たちに創造の神のすばらしさを思い起こさせる。しかし、種類の異なるこれだけの花が実際に群生している場所はない。イザヤ41:19には主が備える楽園(森林植物園)の姿が描かれているおり、そこには杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、糸杉、樅、つげが同時に群生している。そんな場所は実際には存在しない。なぜ、主はこのような楽園を創造されるのか。

1.気がついている必要を満たす主(41:17-18)
人が生きるのに水は必須である。苦しむ人、貧しい人はそれを自分たちで見出そうとするが、決して、見出すことができない。そんな私たちの必要を主はご存じであり、それを満たされる。弱者をあわれむ王として、当然のわざである。その際、主が下さるのは、コップ一杯の水ではない。荒野に大河と泉を起こし、そこに湖を生み出す。渇いている人が気がついている必要を満たし、さらには溢れるほどに主は与えて下さる。

2.使命が果たせるように整える主(41:19-20)
イスラエルの聖なる神は、人々の気がついている必要を満たせばそれで十分だ、と考えてはいない。溢れるばかりの水をもって、荒野に楽園を創造する。この楽園は、主が新しく創造する神の民を指し、三つの特徴を持つ。
(1)一つになりえないはずの人々が共に集められている。
(2)聖なる霊が臨在される神殿として組み立てられ、諸国の民に主の御手のわざのすばらしさを証しする神の家族となる。(エフェソ3:6)。
(3)その結果、主の偉大な力とそのわざに気づき、閉ざされていた目が開かれ(41:20)、主に与えられた使命を知り、それを果たしていく。
今、感じている必要を主が満たしてくれればいい、という小さなフラワーアレンジメントに留まっている限り、主の偉大なご計画になかなか気がつくことはできない。楽園を創造する主のわざに目を開かれ、この世界で私たちに与えられた使命へと進ませていただこう。

証人として生きる(2013.1.6)

宣教題  : 「証人として生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : イザヤ書 43章8~15節
イザヤ書に見る神の民イスラエルの姿は、新しいイスラエルと言われる神の教会の姿でもあります。そこには、神の民がどういう人たちの群れで、どういう使命を託されていたかが明らかにされています。その使命は、主の証人として生きることです。

1.どういう資格が必要か
主の証人は、主ご自身が選ばれた、主の僕です(10節a)。従って、主に忠実に仕え、主が崇められることを願う人々です。私たちは、主イエスによって選ばれ、任命された主の証人であることを忘れずにいる必要があります(ヨハネ15章16節)。
そのような資格が与えられるためには、主によって贖われている必要があります(1節、14節)。
私たちは、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、すでに罪と死の奴隷状態から贖われているのです(テトス2章14節)。

2.どういう資質を備えておくのか
主の証人は、主御自身を体験的に知り続け、主御自身との親しい交わりを通して信じ続け、自分のものとして身につけるほどに主御自身を理解し続けていくことによって備えられるのです(10節b)。
このように、主の証人としての資質を備え続けていただくことによって、私たちは、謙遜になり、主とその救いの恵みを忘れないでいることができるのです。

3.どういうメッセージを届けるのか
主の証人は、神が唯一であり、この神こそが救い主であるというメッセ-ジを人々に届けるのです。主イエスは、ゲラサで悪霊に取りつかれていた人をいやされましたが、そのことを身内の人に知らせるように言われました(マルコ5章1~20節)。このように、主の証人が語るメッセ-ジは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」ということなのです。

主の証人は、決してあきらめずに、繰り返しキリストを証し続けるのです。そうすることによって、繰り返しキリストによって救われた自分を見つめ、救ってくださったキリストを「折りが良くても悪くても」紹介できるのです(2テモテ4章2節)。

ひとりの誕生が世界を変える(2012.12.16)

宣教題  : 「ひとりの誕生が世界を変える」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 7章1節~17節
クリスマスは、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と呼ばれる男の子の誕生を祝う日である。そこで述べられているイエスの誕生の預言は、イザヤ書7章をその背景としている。

1.戦いに巻き込まれるダビデの家の王
紀元前8世紀、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは同盟関係を結び、大国アッシリアに対抗しようとした。ユダの王アハズはこの同盟に加わらなかったため、二人の王の軍隊からの攻撃を受け、ユダの民はそれゆえに動揺した(1−2)。
主は預言者イザヤを通して、彼らの計画は実現しないと断言した。主がダビデと結んだ契約のゆえに、「タベアルの子を王としよう」とする計画を挫くからである(7)。だから、主を信じて、堅く立つために(9)、イザヤはアハズにしるしを求めよ、と勧めた(11)。しかし、アッシリアの軍隊という目に見える武力こそがユダの安泰のしるしだと考えるアハズは、主からのしるしを求めなかった(12)。

2.ひとりの誕生というしるし
アハズの思惑を見透かした主は、自ら彼にしるしを与えた。それは、妊娠しているひとりの若い女性が男の子を産むこと、彼女が彼をインマヌエル(神が我々と共におられる)と呼ぶことであった。この子どもが三歳になる頃までに、ふたりの王とその国は滅ばされると主は約束された。主が与えたこのしるしそのものは、小さく、普通の出来事である。しかし、それが、神は世界を動かし、変え、ダビデとの契約を守ることを表している。
イエスの誕生は、ベツレヘムという小さな町でひっそりと起こった。しかし、神はそこに共にいて、働かれていた。だから、イエスの誕生は、神が驚くべきことを世界中になされることを表すしるしとなった。このように、小さいことと思える出来事も、神の大きな計画の欠くことのできない一部を担っている。どのような状況下でも動揺することなく、むしろ「神が共におられる」という信仰に立ってなされる小さな愛のわざは、同様に神が世界を変え、ご計画を進めておられる、という驚くべき事実を指し示すしるしである。

神に遣わされる民(2012.8.12)

宣教題  : 「神に遣わされる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 6章1~13節  マルコ 3章14~15節

キリスト教会を「使徒的教会」と呼ぶことがあります。イエスが十二人の使徒を遣わされたように、教会もキリストによって遣わされているからです(マルコ3:14−15)。

1.謙遜な民
イザヤはその幻の中で、エルサレムの神殿をその足台としている主を見ました(イザヤ6:1)。この方は、「主の栄光は、すべての地を覆う」(6:3)とあるように、全世界をその活動の舞台としています。この聖なる方を見た時、自分がこれまで叱責してきた汚れた民と何ら変わらないことに気がつきます(6:5)。それは、彼が王である主を見たからです。神を見ることなしに遣わされることはありません。しかし、神を見るとは自分の本当の姿を見ます。だから、謙遜にそれを認めることこそ大切です。

2.罪赦された民
イザヤの罪を主は赦されます(6:6)。しかし、主が直接に赦しを宣告するのではなく、主が遣わしたセラフィムによってそのことが宣告されます。私たちが遣わされるために、他の人をまず私たちのために主が遣わして下さいます。そして、主が遣わされた者を通してなされる主のわざを経験させてくださるのです。神の恵みを受けずして、神の恵みの宣教者として遣わされることはできません。

3.神を中心とする民
イザヤは神の声を聞きます(6:8)。「わたしがここにおります」は「どうぞ用いてください」、招きに対するイザヤの自発的応答を表しています。主は強いてことをなさいません。しかし、遣わされる者にご自身のメッセージを語るように命じます(6:9-10)。遣わす方がなせと命じることに服従するのが遣わされた者の働きです。遣わされる者は、もはや自分が世界の中心ではありません。遣わす主こそがその人の中心なのです。
イザヤも使徒たちも、圧倒的な神のわざを体験し、神のわざのために遣わされていきました。私たちはもうすでに遣わされるべきところに遣わされています。しかし、「私をどうぞ用いてください」と主の前に出ているでしょうか。自発的に主の前に出てはじめて、主のわざに参加する神に遣わされた民としてその使命に生きることができます。

福音を宣べ伝える民(2012.7.29)

宣教題  : 「福音を宣べ伝える民」   宣教:   鎌野 直人協力牧師
聖    書  : イザヤ 52章7節~10節  マルコ 1章15節

すべてが順調に行っている時に福音は必要ないかもしれません。しかし、最悪としか思えない現実の直面している時、良い知らせは必要です。

1.神は王になった
歴史の中でも最悪の状況に陥っていたイスラエルが聞いたのは、「シオンよ、あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)という知らせでした。すべてを分裂と争いへと仕向ける存在が支配していた世界に、主が王として即位されました。勝利をとられた主を中心に据えて、世界が再編成されるのです。そして主はシオンへと帰還されます(52:8)。
主によって救いと平和が、イスラエルを奴隷から解放し、ひずみ、破れ、とげとげしくなったあらゆる関係の修復がもたらされました(52:7)。ご自身が特別に選んだ民に対して果たすべき責任であったわざを主が実行されたからです(52:9)。そして、イスラエルに主がなされたわざとそのインパクトをすべての民は目の当たりにします(52:10)。

2.福音を宣べ伝える
「神は王となった」という福音を宣べ伝える召命を私たちはいただいています。福音とは、徹頭徹尾、神のわざについての良い知らせです。イスラエルの神である主が世界の王となったのも、目で見ず、耳で聞くことができなかった民が福音を知ることができようになったのも、すべて神がなされたからです。さらに、私たちだけが福音の宣教者ではありません。様々な方法を用いて、神ご自身がこの福音を宣べ伝えておられます。主の恵みのわざのゆえに新たに造り変えられた者として、どのような状況の中にあっても喜びの賛美の声を世界中にあげることこそわたしたちがもっと励むべきことではないでしょうか(52:9)。
イエスご自身、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とこの福音を宣べ伝えました。イエスのわざを通して、神は王となり、シオンに帰り、世界は再編成されたのです。ですから、わたしたちがおかれている現実が最悪であったとしても、「神は王」です。そのことを確信しつつ、どのような中でも、喜びの讃美の声をあげましょう。神のすばらしいわざの知らせを世界は心待ちにしているのですから。

主の証人である民(2012.6.17)

宣教題  : 「主の証人である民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ  43章8節~13節

捕らえられていくイエスを置いて逃げ去っていく時ほど、イエスの弟子たちが自らの失敗者であることを味わった時はなかったでしょう。旧約聖書のイスラエルが自らの失敗者であることを痛感したのは、ユダ王国が滅び、エルサレムの神殿が崩壊し、王位に就くものがいなくなったバビロン捕囚の時代でした。自らが見えず、聞くことができなかったことに気がつき、主を知らず、偶像を神とする諸国の中に散らされたのですから。

1.主が選んだ主の僕
主はイスラエルを捨てたのでしょうか。そうではありません。「わたしが選んだわたしの僕だ」(43:10)と主はイスラエルを呼んでいます。主の声を聞くことができなかったために失敗者となったイスラエルさえも主は捨てず、むしろ彼らを捕囚から救い出そうとしておられます。そして、捕囚から救いのわざを通して、神は彼らの耳を開き、「聞こえぬ民」(43:8)にこの方こそが神であることを知らせます。彼らは主を知り、信じ、理解するようになります(43:10)。恵みによってイスラエルを選んだからこそ、主は彼らを造りかえ、再び用いようとしておられるのです。

2.諸国のための主の証人
主の救いのわざゆえに、イスラエルは主を知り、信じるようになり、この方以外に神は、救い主はないことを経験し、理解します(43:11)。そして、イスラエルは諸国に主を示す証人となります(43:10)。失敗者である自分たちをあえて選び、造りかえてくださった神を、その恵みの証拠である自らの姿をもって指し示すのです。その結果、諸国はイスラエルを通して主のような神は他にはいないことに気がつきます(43:9)。
失敗者であったイエスの弟子たちも、十字架と復活という神の偉大なわざによって、その目と耳が開かれ、イエスを通してなされた神のわざを示す証人となりました。立派な自分を指し示す証人ではありません。失敗者であった者をも造りかえてくださる神とそのわざを指し示すことこそ、主の証人として人々に仕える道なのです。

暗闇に輝く光(2011.12.25)

宣教題  : 「暗闇に輝く光」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書   9章1節~6節

1.死の陰、暗闇
クリスマスには「暗やみ」が強調される。人々は暗やみの中を歩き、死の陰の地を歩んでいる(9:1)。国家的、宗教的、戦争による暗やみが国を覆っていた。心の奥に潜む暗やみ、自分の歩みの中にある暗やみがある。そして、私たちはその奴隷となっている。暗やみは表には出てこず、むしろ私たちのうちで増殖する。

2.暗闇に届く光
しかし、クリスマスには「暗闇に届く光」も強調されている。「大きな光」の到来というよい知らせが語られるからだ(9:1)。光が一切届かない場所にさえ届く光が到来する。光の到来は、当初、驚きと痛みを伴う。しかし、しばらくの後、喜びの宴がはじまる(9:2)。

3.王の誕生による解放と戦いの終わり
暗闇に光が届くきっかけとは何だろうか。天地創造の神が与えられた神の働きを代行する子どもの誕生である。彼は人知を越えた知恵で世界を治め、敵を打ち負かし、民が安心する統治を行い、戦いを終わらせ、国々に平和をもたらす(9:5~6)。あらゆる重荷と苦しみからの解放が到来し(9:3)、あらゆる戦いが終わりを告げる(9:4)。
クリスマスにその誕生を喜び祝うイエスこそ、暗闇に届く光をもたらす平和の王である。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。しかし、イエスの誕生だけですべての問題が解決したわけではない。イエスご自身が最も深い暗闇をその生涯と働きの中で通られた。世の暗闇が最も明らかとなる十字架で、憎しみ、苦しみ、暴力、痛みをご自身の身に負われた。だからこそ、暗闇の中にある私たちにイエスの光は届く。
イエスの再臨という夜明けが近いことをクリスマスは私たちに告げている。だからこそ、万軍の主の熱意によってもたらされた(9:6)光を覚え、感謝と賛美をささげつつ、主の再臨を待ち望もう。

平和の王イエス(2011.11.27)

宣教題  : 「平和の王イエス」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書  11章1節~9節
「地には平和」とクリスマスによく語られるのはイエスが平和の王だからである。

1.平和をもたらす王
大国が支配を広げ、小国は絶望せざるをえない時代。「私たちは切り倒された切り株に過ぎない」とユダの民は思った。しかし、ダビデの父であるエッサイにたとえられる切り株から若芽が伸びるとイザヤは語る。ダビデの子孫の王が誕生する(11:1)。主の霊によってその務めを全うする王には、善悪を判断し、国と民を導く知恵、主を畏れ敬うことに基づく知恵が溢れている(11:2)。正当なさばきと公平と真実をもって国を治める(11:4~5)。主のみこころにかなう統治をする王が誕生する。

2.来るべき平和の希望
弱肉強食の世界に平和の王国が誕生する(11:6~9)。喰う者が喰われるべき者を喰わず、毒をもって相手を傷つけるものがそれを行わず、異なるものが共に住むのにお互いを傷つけない。平和の王が国を治め、その統治によって「水が海を覆っているように大地が主を知る知識で満たされる」(11:9)からだ。世界は根本的に変わる。民も平和の民へと変えられる。

3.平和の希望に支えられて
平和の王イエスは二千年前に生まれた。しかし、平和はいまだに到来しておらず、弱肉強食の世界に私たちは生きている。平和の王国は単なる幻に過ぎないのか。ちがう。「希望の源である神が・・・聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださる」(ローマ15:13)。イエスが平和を実現してくださるという希望に満たされ、主を畏れることを教える聖霊によって生きていく時、神は私たちを通して平和の王国を少しずつ実現していってくださる。イエスの再臨の時に平和の王国は実現する。人と人、国と国、そしてすべての被造物の間の平和がやがて世界に訪れる。だから、希望に生き、聖霊に押し出されて、私たちにできる平和のわざに参与しよう。

起きよ、光を放て(2010.12.26)

宣教題  : 「起きよ、光を放て」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : イザヤ  59章21節~60章3節
私たちは、イエス・キリストの救いの恵みに対して、いつも信仰によって応答していくことが求められています。それは、「起きよ、光を放て」と立ち上がらせていだくことであり、まことの光であるキリストをこの世に持ち運ぶ者に造り変えていただくことです。

1.光である主に引き寄せられている 
主なる神は、罪ゆえに神の恵みを受けられないでいる者に対して(59章1~2節)、執り成し、燃えるような情熱をもって、ご自身の方から救いの手を差し伸べられました(59章16~17節)。ここに、初臨のキリストが預言されています。また、全世界を支配される栄光の輝きをもって「贖う者」として来られます(59章18~20節)。ここに、再臨のキリストが預言されています(60章19~20節)。
私たちは、自ら輝くことはできませんが、主に引き寄せられ、主の栄光に照らされて輝く者となるならば(60章1~2節)、他者もその感化を受けて光なる主に引き寄せられていくのです(60章3節)。闇の中から起き上がり、主なる神の光を放つ者となりましょう。

2.御言葉の光に照らされ続けている 
主なる神は、人が持っている力によってではなく、神の霊が伴う神の御言葉の力によって、ご自身の光を放ち続けられます。そのためには、人は自らの不信仰と不従順の罪を悔い改めることが大切です(59章20~21節)。
いつの時代であっても、聖霊が働かれるところには、御言葉が語られ、それが聴かれ、その実が結ばれていきます。御言葉に聴従しているならば、そこには聖霊が働いておられるのです。
神の子とされた私たちは、御言葉の光に照らされ続けて、「起きよ、光を放て」との主なる神の招きに、信仰による応答をしていきましょう。

イエスの受けた傷(2008.3.16)

題   : 「イエスの受けた傷」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 53章1節~12節
今日はパームサンデーと呼ばれる日です。イエス・キリストが子ロバの背中に乗って、エルサレムの町に入場してこられたとき、エルサレムの人々は「ホサナ、ホサナ」と言って、パームツリー(棕櫚の木)の枝を振り、パームツリーの枝や着ていた上着を脱いで道に敷いてイエスを迎えました。
ところが、今週の木曜日、金曜日になると人々は手のひらを返すようにしてイエスを苦しめはじめ、ついには十字架につけることになるのです 。

1.軽蔑された神の子  1~4
大工の子として育てられ、貧しい寒村に住まわれたイエスは神の独り子であるとわたしたちは知っています。しかし、当時の人々からは無視され、軽蔑されました。
当時の人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い伝えられていたほどに、軽蔑のまなざしで見られるような中に育たれたのです。

2.苦しみの神の子  5~10
人となってくださった神の子は、弱さを知り、経験し、人々の苦しみを理解し、ついに囚われの身となって肉体において極限の苦しみを負ってくださいました。
さらに、ご自分が愛して止まない弟子たちに裏切られるという苦しみを味わい、さらに、父なる神にまで捨てられてくださったのです。
イエス様にとって、父なる神様に顔を背けられ、捨てられることほど大きな苦しみはありませんでした。しかしこの苦しみは全てわたしが救われるためのものでした。

3.執り成して下さった神の子  11~12
イザヤは、イエスの苦しみはわたしたち罪人の裁きの身代わりであり、贖いであり、執り成しの結果であると言います。
このお方を信じるわたしたちは、このお方の負ってくださった苦しみによってつみ許され、このお方の戦利品として数えていただくことができるのです。
そしてこのお方は、十字架で贖い主として死なれただけでなく、三日目によみがえって、信じ、罪赦された者に永遠の命を与えてくださるのです。

受難週であるこの一週間、神様の前に十字架を偲びつつ過ごしましょう。

高価で貴い人(2008.3.9)

題   : 「高価で貴い人」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 43章1節~7節
今年も2週間後にイースターを迎えようとしています。この時期にもう一度神様の御愛とその現れである十字架を深く思う時としましょう 。

1.神の栄光のために創られた私たち  1~7
イザヤはわたしたちが神によって創造された者であると言っています。ところが、直後に「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と言っておられます。
神に創られ、神のものであった私たちでありながら、罪を犯し神から離れ、サタンの手の中に捕われている私たちでした。
この、愚かな私たちのために、神はかけがえのない神の独り子を十字架にかけるという代価を払って私たちを買い戻してくださったのです。これこそ、史上最大の贖い金でしょう。神様は、わたしたちをそこまで高価で貴いものと見ていてくださるのです。しかも、わたしたちが生かされている理由は「神の栄光のために」とイザヤは言います。

2.神に選ばれた証人  8~15
イザヤは「わたしの証人はあなたたち」と言います。わたしたちは、神様とは唯一のお方であり、この世界にただひとりのお方であることを証しするために選ばれたお互いです。
そして、このお方こそ、聖なるお方であり、全世界の創造者であり、わたしたちのすべてを知っておられるお方であることを教え、最終的に神に逆らう全ての者は裁かれることを語っておられことの証人でもあるのです。

3.新しいことをなさるお方 16~28
イスラエルを救われ、わたしたちを罪の滅びの中から救い出してくださったお方は、ただ救い出しただけでなく新しいことをしてくださるのです。砂漠のような人生を歩んでいた者も、神の恵みによって潤されます。すなわち救われた者は、聖霊の豊かな注ぎと流れの中に導いていただいて、新しい道を歩み、荒野から湧き出る水、砂漠に流れる川から水を飲むことができるのです。
神は、ご自身の口でわたしたちに「あなたは価高く、貴く」と言ってくださいます。このお方がわたしたちに、最大の恵みである聖霊なる神様をわたしたちの内に住ませて、潤して、すばらしい神の証し人に仕立ててくださるのです。

草は枯れ、花はしぼむ(2008.3.2)

題   : 「草は枯れ、花はしぼむ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 40章6節~9節
イザヤは、神のさばきを語ってきました。もちろん、神様の恵みの預言、救い主の預言も語っています。
しかし、ここからは将来に向かっての神の救いの預言が語られます。しかも、神様の回復と慰めは限定された民族だけではなく全世界に対するメッセージなのです。

1.慰めのメッセージ  1~11
本章は「慰めよ」から始まっています。この慰めの内容は「苦役の時は今や満ち」「咎は償われた」「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」と語られています。
これは、バビロン捕囚からの解放だけではなく全人類に対する、神のさばきからの解放、永遠の救いのメッセージであり慰めのメッセージなのです。

2.偉大なる創造の主  12~26
神は、全能の英知をもって計画を立て、偉大な計量器(手のひら、手の幅、枡、秤、天秤)をもって天地を計り、天地創造をされたのです。神はさらに創造された世界を、偉大な知恵をもって支配しておられます。

3.新しく与えられる命  27~31
この偉大な神は、わたしたちのような小さく、疲れた者に力を与え、守ってくださいます。これらの力をいただくことのできる人は、「主に望みをおく人」と言っていますが、口語訳聖書では「主を待ち望む者は」と訳しています。新しい力を得るためにはまず「主を待つ」のです。この「待つ」とは「忍耐する」との意味もあります。しかも望むのです。「望み」とは信頼することでもあります。
神に絶対信頼をして待ち望む時、神はすばらしい祝福を与えてくださいます。昔のイスラエルの民がメシアの到来を待ち望んで、イエス・キリストが来られ、その十字架と復活によってわたしたちの罪がゆるされ、このキリストの復活の命によって、永遠の新しい命が与えられたようにです。
そしてさらに、わたしたちは永遠の救いである、新天新地を待ち望んでいます。主を信頼して待つのです。その保証は、神の言葉以外にありません。草は枯れ、花はしぼみます。しかし神の言葉は永遠に残るのです。丸ごと神の言葉を信じましょう。

祝福の庭(2008.2.17)

題   : 「祝福の庭」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 35章1節~10節
預言者イザヤは、前章で神に従わない者に対する徹底した神のさばきを語っていますが、一転本章では、神に従う者に対する祝福のすばらしさを語っています。
先の章では、悲しみと苦しみうめきが聞こえるような悲惨さが描かれていますが、ここでは、はじめから美しい花が咲き乱れる祝福一杯の庭を見せられるようです。

1.砂漠に花が咲く
神から離れ、潤いのない砂漠のような心にも神様の恵みと哀れみが戻ってくる時、まるで砂漠に花が咲くように、乾いた土地に雨が降り植物が一斉に芽を出し花を咲かせるように神様を喜びたたえるのです。
ここにある「野ばらの花」とは、口語訳聖書ではサフランとなっています。別名「秋咲きのクロッカス」とも呼ばれ、一般的にクロッカスは春に咲き、白、黄色、ピンク、青など様々な色を持ちますが、サフランは秋に咲く花で、青紫が多いようです。この花からすばらしい香料も採取でき、多くの人々に愛されていました。
砂漠のような荒れた土地から、葉より先に花を咲かせるサフランは神様の恵みをあらわすようです。

2.雄々しくあれ
様々な困難が次々と襲い、不安や恐れをもっていた人々に、人間の常識や力ではなく神様の祝福が働かれると、病のいやしも起こり、神様の奇跡的な働きが展開されます。
日本の歴史の中でも、ながい、ながい鎖国の時代にはクリスチャンはものすごい迫害がありました。しかし、江戸時代が終わり、自由な国家が誕生した時、冬が終わると、一番に咲くクロッカス(春サフラン)のように見事に花が咲いたのです。

3.祝福の庭に帰る
神様の裁きの業が終了すると、そこには大きな道が設けられます。この道は神の都に通じていて、主に贖われ、聖なる者とされた人だけが通ることができるので「聖なる道」と呼ばれています。
わたしたちは本来そこに入ることのできない者でしたが、イエス様の十字架と復活の贖いによって神の子供として、帰って来ることを許されているのです。

聖書に聞け(2008.2.10)

題   : 「聖書に聞け」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  34章16節~17節
わたしたちは神様を信じて救いを受け、恵みに満たされていることを感謝します。メッセージもできるだけ神様の恵みと愛について聞きたいと思います。さばきや滅びには向き合いたくないものです。しかし、聖書の現実は神の愛と共に神の厳しい裁きも語られている事実は避けることはできません。本日の34章は正に裁きの書です。

1.世界の審判  1~4
天地創造の神が、全世界の全被造物まで支配される主権者であることを前提にしたさばきの語られている壮大な宣言です。
神に創造され、守られ、恵みの支配を受けながら、神に反逆し、無視し、高慢に振舞う者は必ずさばかれるのです。そしてこのさばきは宇宙的な規模で行なわれます。このさばきの様子は、2ペトロ3:8~13に記されている通りです。

2.エドムの審判  5~15
エドムという国は、元々エサウ(エドム)とヤコブ(イスラエル)の兄弟の子孫からの分かれですから、いわば親戚筋にあたるわけです。しかし、先祖からこの両者の間には常に戦いがありました。イザヤの活躍したアハズ王の時代にも、ユダの国がエドムに侵略されたことがありました。神の民にエドム人が行ったことが、終わりの日に取り上げられ、主が正しい報いを与えられます。イザヤは、終末の時代に全世界に実際に行なわれる神の徹底した裁きの恐ろしさを語っています。わたしたちは、この預言に向き合い、悔い改め、主を知らない方々にこの事実を伝えましょう。

3.聖書に聞け  16~17
あまりに現実離れしたようなさばきの内容に、多くの人はこの言葉を単なる比喩的なこととして見てしまいます。しかし、聖書の預言は今日まで確実に実現していることを見なければいけません。
わたしたちが、旧約聖書、新約聖書を通して語られる主の救いと恵みを読んで恵まれ、感謝を捧げると共に、さばきの記事から目をそらさず、公平にこの現実も受け止めるべきなのです。
御子イエス・キリストの十字架と復活の奇跡によってわたしたちが救いの恵みに与ったように、最後の審判は必ずやってきます。